『日本人の「戦争観」を問う』(保阪正康)から
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最近、重宝しているのは小学館が出している「P+D BOOKS」と名付けられる本である。これはペーパーバック書籍と電子書籍で、同時かつ同価格で発売・配信されるものだ。現在、入手困難な作品が安く手に入ることになっている。古本街で目につけばすぐに手にしてきたような作品である。僕はかつてむさぼり読んだ作品や読み過ごしてしまった作品を楽しんでいる。例えば小川国夫の『悲しみの港』(上・下)や福永武彦の『夜の三部作』などをあげられようか。丹羽文雄の『親鸞』や立原正秋の『残り雪』などもある。古い映画ならDVDで見られるが、入手困難な名作が手安くしかも安価で読めるのはいいことだ。最近は忘れられている小説(文芸作品)を読みたくなることが多く、また、読んでいる。古い歌や映画に魅かれることに似ているが、それらを紹介したいと思った。今の僕の重要な読書の一端でもあるからだが、それは今後に紹介することにして、今回は『日本人の「戦争観」を問う』に触れたい。相変わらず、僕の中では戦争をめぐる問題に関心が強いからだ。
1昨年の暮れに安倍首相が「真珠湾」を訪問し、戦死者などの慰霊を行った。そこで僕が感じた疑問はいったい安倍はどんな戦争観を持っているのか、ということだった。プーチン・ロシア大統領を招いての「北方領土交渉」が詐欺まがい前宣伝だけに終わったように、「真珠湾」訪問も何も残しはしなかった。というより空虚だった。これは誰もが思ったことだろう。側近の官僚の書いた文章を読み上げただけだろうが、実に空疎な不戦の誓いだった。いろいろの批判はあるだろうが、オバマの演説には彼の戦争観を読み取ることができた。その安倍首相だが、一方で、実に危うい南スーダンへ自衛隊を派遣しており、事の次第では戦争状態に入ることも考えられている。片方で戦争に足を突っ込み、他方で空疎な不戦の誓いをということを行っている。これは何だという思いがしてならないが、この安倍の行動はここ何年間の内に日本は「戦争のできる國」になったといわれていることを如実に示しているともいえる。「戦争のできる國」になったとは戦後の国是であった海外での日本の軍隊の戦争(戦闘)の禁止が解かれていることだが、これは戦後の日本人の戦争観(二度と戦争はしない)が崩されていることでもある。わけの分からないうちに戦争は始められる、それが戦争なのだろう、と思うことが多いが、日本人というか、僕らの戦争観って何なのかと自問することも多い。近現代史の見直しとして、あの戦争(太平洋戦争を含む15年戦争)の見直しの本は多い。こうした本は曖昧な戦争観のままに日本人は戦争をやってしまったのではという反省が強いが、この本もその一つだ。
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保阪には昭和期の事に言及した作品が多い。例えば『昭和史の大河を往く』(毎日新聞)『昭和史のかたち』(岩波新書)等である。この本は2014年の秋から一年間、朝日カルチャセンターの戦後70年の連続講座としてやった「太平洋戦争 最後の検証」をまとめてもので、書下ろしの作品ではないがそれだけ読みやすい。サブタイトルにあるような昭和史への遺言でもあり、「あんな戦争はやってはいけない」という私たちの世代の暗黙の了解が消えて行くという危機感がある。僕はそれに共感するところがある。
ここでいわれる昭和史というのは、正確には昭和前期というべきもので太平洋戦争までの時期をさしているが、そんな時期を生きた人が消えて行くことで戦争について考え(非戦とか反戦)ということが変わってしまうことに対する危機感は強い。作者と僕は根底的な戦争観では違いはあるのだろうが、あの戦争ついての認識では共感するところが多いのである。
この本は六つの部分で構成されている。冒頭をなすのが「日本人の「戦争観」を問う」であり、以下、「日本人「戦没者への補償と追悼」を問う」、「日本人の戦争責任を問う」、「日本人の「広島・長崎」を問う」、「日本人の「昭和天皇論」を問う」、「昭和の戦争に思想はあったか」となっている。この冒頭と最後が日本人の戦争観を直接に問うている部分であり、それ以下は戦争の提起した問題への言及であるが、全体が日本人の戦争観とは何かを問うている。
「私たちの国はあの時代、なぜ、あれほど無謀な戦争をやってしまったのか、原因は様々あるけれど、やはり根本的なところにあるのは、この国が独自の「軍事学」をつくりだせなかったところにあるのだろうなあと、しみじみ思われます」
「日本は明治以降、ヨーロッパ式の国軍を組織し、陸軍はフランスやドイツ、海軍はイギリスからそのシステムの導入を行います。ただ、これは軍事に限りませんが、日本は近代化をあまりにも急ぎすぎました。見かけの装備や組織はそれなりに真似ても、システムを動かすために必要な思想、即ち「軍事学」であり、僕の言う「戦争観」ですが、それは真似できなかった。」(『日本人の「戦争観」を問う』)。
作者は日本が独自の「軍事学」を持てなかった、軍事のシステムは真似たけど、それを動かす「軍事学」は持てないままに、従って未熟な戦争観を持って対外戦争にのりだすことになってしまった、という。それが、あの戦争の本質だろう、と語っている。僕はこの作者の認識に賛成であるが、ここは現在の問題としてもあるように思う。
世界史的には第一次世界大戦の後に戦争観の歴史的な転換がやってくる。第一次世界大戦は日本的にいえば、大正期にはじまり大正期に終わったのだが、昭和前期の戦争に決定的な影響を与えた。これは戦争観としてもいえるのであるが、日本はそれ以前の西欧の軍事学(戦争観)を学べばよかった時代から独自の戦争観を持つ必要に迫られた。ここには二つの事情があった。一つは日本が明治時代ならモデルにしていた西欧諸国そのものが「軍事学」(戦争観)の転換を迫られていたこと。第一次世界大戦を経て強国になった日本自身が明治・大正期を経て独自の戦争観を持つことを促されていた。ロシア革命を含む第一次世界大戦はそれを促したし、その契機を与えもしたのである。
日本はその契機を生かせないままに未熟な軍事学(戦争観)のまま戦争に入る。一般にはこれは中国大陸での侵略戦争ということになっているが、シベリア出兵はその始まりだった。1917年11月にロシア革命が勃発するが、1918年8月には反革命軍救出を名目にシベリアに派兵する。これは汚い、大義なき戦争と言われたが、独自の戦争観を持たないままの戦争の走りだった。100年後、今、南スーダンで同じことが行わるかもしれない。
第一次世界大戦の後に出て来た戦争観とは帝国主義戦争の否定だった。これは左のレーニンの帝国主義戦争批判と右のウィルソンの「民族自決論」であった。これは侵略戦争の否定でもあった。日本はパリ条約などに参加するが、ナチズムに基づくドイツなどと連盟し、いわゆるファシズム(全体主義)の側にあった。このことは第一次世界大戦の総括(反省)としての反帝国戦争という戦争観に立てなかったことを意味した。この問題は世界的な枠組みでの問題として日本が復活した帝国主義戦争の側にあったことであり、第一次世界大戦がもたらした戦争観の転換に至り得なかったということだ。
作者は政治が軍事をコントロールできなかったこと、そして、100%の死を要求した特攻や玉砕を行ったこと、20世紀の戦争における最低限の国際ルールを守らなかった三点を太平洋線戦争で犯した錯誤であり、この三点を総括し、その反省を国家としてフィードバックしない限り、この国で軍隊を保有してはいけないと思っている、と語る。ここで作者が取り上げている、政治が軍事をコントロールできなかったことはいわゆる統帥権の独立〈干犯〉のことだ。これが魔法の杖のごとく機能して軍部の独走による戦争を起こした。特攻作戦のことや玉砕のこと、これに中国大陸での虐殺や慰安婦設置問題などを加えて日本人の戦争観の未熟さを示すことに異論はない。
第二次世界大戦にいたる時期、ここでいう昭和の前期に日本人の持っていた戦争観を未熟なものとして検証し、その反省の必要ということに同意する。その繰り返す反省こそが、あの戦争を遺産に転じることだというのも異論はない。ただ、独自の戦争観という意味では『国体の本義』として出て来た国体論を検証してみる必要があるように思う。これに言及することはタブーになっているが、ここは検討してみていいと思う。
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作者は「この国のあるべき国防の姿とは、僕が思うには専守防衛だと信じます」と述べている。そして、ただ、最後に「小言」を一つだけ言わせていただけるなら、繰り返しになるけれど自衛隊が戦場に送られる前に、この国が持つべき軍事学とは何か、そして日本人が持つべき戦争観とは何かもう一度皆さんで考えて欲しい。それがみえてこないなら時期尚早、まだこの国は戦争をする資格はない、ということだけは言い残しておきたいと思います。これから日本に向けたささやかな苦言として」。(あとがきにかえて)。
僕は作者のこの結語に賛成だ。以前に憲法9条の改正に反対だといったとき、憲法9条についての考えのどの範囲まで含めるべきかが提起された。その時に、専守号衛という考えも含むべきであり、そこが最小限綱領だと語ったことがある。戦後の日本人の戦争観は憲法9条に代表される。これは「あんな戦争はやってはいけない」という暗黙の了解(あの戦争への反省)を基盤にしているが、幅の広い考えがそこにはある。あらゆる戦争には反対であるという非戦論から自衛のための戦争は認めるという立場まで。僕はいかなる戦争にも反対であるという非戦を思想(戦争観)としているが、政治権力の戦争の動きに対抗するうえで最小限綱領的考えの部分まで含んでやるべきと考えている。
世界は第二次世界大戦後を枠づけてきた反帝国主義戦争という戦争観が力を失い混迷状態にある。第一次世界大戦の終結から100年近くになろうとしている今の状況である。こうした中で帝国主義戦争史観の復活もみられるように世界の戦争観は混迷している中で、戦争そのもの否定(断罪)を根底にした戦争観も出てきている。歴史的に言えばこれまでの戦争観は戦争の肯定を根底にして、条件によっては戦争を否定するという考えだった。反帝国主義戦争も革命戦争も条件によって戦争を肯定し、否定する考えであるといえようか。この最後の問題は自衛の戦争という概念と侵略などの抵抗とは区別ができるかということになる。そういう究極的な形での戦争に対する問いが、昭和史などを言及しても出てくるが、現実的には僕らは幅を持った対応が要求されるのだと思う。
作者の昭和史(とりわけ前期)の探索は多くの著作になっているし、多くの示唆を与えてくれる。この本もそうした一つだが、著者が自衛隊や自衛隊員の戦争観のことを気づかい、懸念していることには同感した。僕らの知らないところで自衛隊や自衛隊員は戦争を準備しているのだろうが、それを知る手がかりはないし、想像するだけしか許されていない状況だからである。自衛隊員に薦めたい本であるといえようか。