『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)を読む
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かつては散歩のコースに何軒かの古本屋があってそこに寄るのが楽しみだった。本屋のおやじと話すのも、顔見知りの常連と会うのもそうだった。夜になると自然に飲み屋に出掛けるのと似ていた。だが、いつの間にかほとんどの古本屋は姿を消し、今はコーヒー店のある本屋に足を運ぶことがとってかわっている。図書館は高齢者が多いがこちらは若い人も多いし、小さい子供に絵本を読んでいる母親も見受けられる。何となしにこころが和むのだが、今の若い人たちはどんな本を読んでいるのだろうかということが、時折頭をよぎる。
漫画の方が売れているらしいが、『君たちはどう生きるか』は若い人たちに読まれているのだろうか。噂では結構、年配の人が読んでいるらしいが、どうなのだろうか。僕は漫画の方ではなく、マガジンハウスから出た新装本と、岩波文庫本を読んだ。今年の年間ベストセラーは佐藤愛子の『90歳、何が目出度い』だが、こちらはどう生きたか(?) ということになるのだろうか。これに類似した佐藤愛子の本はいろいろと出ていてみんな売れているらしいが、手が向かない。彼女の本では『晩鐘』が好きで嫌いな作家ではないのだが…。いずれにしても、こういう本が売れるのは生きることに混迷感が深まっているためであろうか。選挙で圧勝した安倍政権の下でも、政治の混迷は深くなるばかりである。
僕が吉野源三郎のこの本が突然のごとく売れ出したのを見て思ったことは二つあった。一つはこの本が出たのが80年前の1937年だということだった。昭和初期でも1930年代の後半は、現在が戦前に回帰している面が意識されるときに多くの人が注目する時代である。だからそのこととつながっていることなのか、ということだった。この時代への関心がこんな形で出て来たのかという思いだった。もう一つは高校生のころから、この本のことは知っていて読みたいと思っていたことである。僕らの高校生の頃によく読まれていたのは『次郎物語』や『出家とその弟子』などだった。『次郎物語』は軍国主義に抵抗した物語であり、『君たちはどう生きるか』はそれと関連する本として意識され読みたいと思っていたものだった。僕はその内に読もうとしていたのだが、左翼思想にのめり込んでいくうちに関心は遠のき忘れられてしまっていたが、潜在的には関心は残っていたのである。大正教養主義というか、その影響下にあった本は僕等の高校時代に関心を持たれていたが、左翼思想に魅かれるにつれて読まなくなって行った。関心は続いていたのである。それがよみがえる素地はあるのだ。僕は以前に、この本を1930年代の戦争への時代に対する抵抗の書というイメージを抱いていたのだが、それが想い出されたのだ。
(2)
1935年(昭和10年)に山本有三編纂の『日本小国民文庫』が出され、この作品はその最後として1937年7月に刊行された。この時期は天皇機関説事件(1935年)が起こり、国体明徴運動が提唱されるなど軍国主義とファシズムの動きが強まっていた。1936年には2・26事件がある。そして、1937年には7月7日に盧溝橋での日本軍と中国軍の衝突があり、日本は中国大陸での泥沼の戦争に入っていく。南京虐殺事件が起こるのは1937年の暮れである。この時代は大正末から昭和の初め(1930年が全盛期)の左翼の抵抗運動は弾圧と転向の中で消滅していた。そして、国家権力の超権力化(ファシズム化)が進み、リベラル派にまで支配の手が及んできていた時代だった。天皇機関説事件や国体明徴運動はそれを象徴する事件だった。
「1935年と言えば、1931年のいわゆる満州事変で日本の軍部がいよいよアジア大陸に進行を開始してから四年、国内では軍国主義が日ごとにその勢力を強めていた時期です。そして1937年と言えば、ちょうど『君たちはどう生きるか』が出版され『日本国民文庫』が完結した7月に盧溝橋事件が起こり、みるみるうちに日中事変となって、以後8年間にわたる日中の戦争がはじまった年でした」(『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)吉野源三郎に収載の吉野の「作品について」)。
『日本少年国民文庫』は山本有三(『路傍の石』などの作家)の編纂になるものだが、山本は自由主義の立場にいた作家だった。この時代には彼も自由な執筆が困難になって来ており、少年や少女に偏狭な国粋主義を超えたヒューマニズムの精神を伝え、希望を時代に託そうとしていた。「甘たるいヒューマニズム」とか、「軽い理想主義」などとして批判され、無視されてきたのだが、自由主義なども含めて幅の広い見方をすれば、これはこれで時代に対する抵抗だったと思える。今、抵抗とは何か、その可能性はどこに在るかを自問するとき、これはよく分かる。僕が少年の日にこの本を抵抗の書という思いを抱いていたのは正解だった。ちなみに太平洋戦争(1941年12月)がはじまるとこの本も刊行できなくなった。戦後に復刊され何度か書き直されてきたが、基本的には1937年版からの変更があったということではない。戦前に刊行された本が戦後において重大な内容上の変更というべき改訂が施される、そういう類ではないと言えるだろう。この辺の事情は岩波文庫本に詳しい。岩波文庫には丸山真男の解説もあるが、これはこの本が出た当時のことも想起させるいい解説である。
(3)
『君たちはどう生きるか』という題名があわわしているようにこれは倫理的な書として書かれた。『日本小国民文庫』の倫理の項目のところに最初は山本有三が書く予定になっていたらしいが、山本が病気で吉野が書くことになった。これは人生読本といわれるが、人生論というのは懐かしい言葉である。学生時代にブンド(社学同)は理論ではなく人生論でオルグするとひやかされていた事を思い出す。どう生きるかとか、人生はいうのは、人間の自意識(自己意識)が成熟し始めると必然的にあわわれるものであって、自我が目覚めるといことに他ならない。意識に意識的になることだ。自分の身体の成長によって意識も成熟するのだが、その意識を意識することだ。人間は身体とは別に精神的な身体を生成し、それは生理的な身体とは別の生誕か死へという過程を持つものだが、その意識を意識し、それを方向づけようとする。青春葉期にそれは強く出てくるのであり、それはここでいうどう生きるか、という自問としてあるのだ。意識が嵐にあうような経験をするのである。
これにもう一つ近代自我ということがある。意識を意識する問いかけに対応するのは伝統的な意識の世界(文化)においてであり、伝統的な宗教や文学の中でその問いに対する解答を見出してきた。仏教や儒教を思い浮かべていいといえる。これに対して近代的自我とはそうした意識の様式とは違う形で意識に中身を与えようとすることであり、共同的な意識ではなく、そこから自立した形で自己の意識に根拠を与えよという動きであり欲求だった、自己があって世界があるという考えだが、これは我が国では大正期に本格化したものである。文学的には夏目漱石がその先駆的な場所にいるのだが、大正期に大衆化(知的大衆化)したのだ、共同的な意識において、意識の方向を与えようとする伝統的なあり方について、自己意識の存在ということから疑念や反抗が生まれたのである。意識の自己存在といこと、「我思うにわれあり」という考えは伝統的な共同的な意識に対する疑念や反抗となった。これは大正デモクラシーや文化的解放の基盤をなし、左翼(マルクス主義)から自由主義まで含む存在の基盤でもあった。時代は国家が、国家のために生きること、国家のために死ぬことという意識を強めていた。吉野のいかに生きるか、という問いはその意味で国家動向に対する異議申し立てであった。
自由に表現することが、困難になって行く時代の中で「君たちは©どう生きるか」という問いかけそのものが、そういう設定そのものが、時代の動向に対する批判だったのである、何故なら、国家のために生きること(死ぬこと)が生きることだという言説がある種の強制力を持って存在していたのだかである。現在はこの共同的意識が僕らに迫ってくるという状況にはない。国家の共同的意識を拡散していて、僕らがいかに生きるかとい問いは別種の困難性のなかにある。国家的な、あるいは共同的意識に対抗する形で己の意識に方向性を与えることが困難だからである、共同性を含む主体の意識の存在が問われているのだからだ。
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この本はコペル君と呼ばれる少年が主人公である。そして、その叔父がいて、叔父との手紙を含めた会話が重要な柱になっている。彼は旧制中学に通う少年だが、友人や家族を含めた交流がある。この中でいくつかのドラマがあるのだが、その最初はこれが自己の周辺から、世界の関係に気がついて行く意識の広がりのことがある。それは彼が人間は分子みたいなもので、網の目のような関係の中にあるという考えを得ることだ。これは自分中心に世界があるという考えから、世界の関係の中にある自分という考えへの転換であり、物の見方の転換だった。コペルニクスが天動説から地動説に転換したように、物の見方としての転換として語られている。そして自己中心のものの見方ということが、伝統的な物の見方であり、その転換であることが語られている。ここには科学的思考のことがさりげなくはめ込まれているのである。
僕らはお時間的にも空間的にも多くの関係の中で生きている。普通はそれを意識しない。僕らの意識は自己中心だ、伝統的に刷り込まれた意識からでない。これを考えるのは自己存在に危機を感じ、存在を変えようという欲求を持ったときだが、その時につながりとしての世界(社会)の意識(認識)は大事になる。それは社会の矛盾を考え、変える構想を持つことだかである。これはコペル君が「生産関係」ということを発見したことにつながるが、こういう科学的思考は当時の国家的、あるいは伝統的思考にぶつかることにほかならず、社会的な思想対立を暗示していた。叔父さんの言葉によってコペル君がこういう意識を獲得して行くことが語られているのだが、これは時代の中での抵抗をあわわしていた。
この本の中心をなすのはコペル君たちが上級生に立ち向かう場面である。コパル君と友人の三人(水谷君・浦川君・北見君)は上級生のいじめ(制裁という名のいじめ)に一致して対抗することを指切りして誓う。雪の日に、彼等は維持面に会うのだが、コペル君は身体が動かずに裏切ってしまう。彼は傍観者になってしまった。コペル君はこれを悔恨し、寝込んでしまう。彼のこころの葛藤と立ち直りが大きな主題となる。作者はこの問題での解決を人間は自分で自分を決定する力がある、だから今度は裏切らずに行為できるという風に持っていくが、僕は違うことを考えた。共同存在(約束事)をその構成の一員が叛いたり、裏切ったりすることがあるのだが、その場合に個人が心的な負荷を負う、そのことを僕は違った風に考えてきたからである。吉野源三郎の軍人としての体験がここにはあるのだろうが、ここでのことを僕はもう少し違って考える。ここには戦中派であった吉本隆明や三島由紀夫が特攻隊を含む同時代の戦死者との関係をどう考えてきたかが思い起こさせるところでもあったからだ。