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大本柏分苑

三島由紀夫 豊饒の海 <Fartooantares>

2019.08.28 08:44

『豊饒の海』第一巻『春の雪』は日露戦争の話から始まります(日露戦役と書かれていますが)。松枝清顕が好きな写真として「得利寺附近の戦死者の弔祭」が解説されます。清顕と本多繁邦はその後もこの写真をしばしば思い出しました。この戦争では清顕の二人の叔父が戦死し(これは、乃木希典の二人の息子の戦死から三島由紀夫が設定したかもしれません)、祖母は遺族扶助料を使わず神棚に上げっぱなしにしていました。

第二巻『奔馬』の冒頭では昭和7年(1932年)、判事になった本多の暮らしぶりに続いて五・一五事件がごく簡単に触れられます。なぜ犬養首相は海軍将校たちに殺されたのでしょうか。

この間に東アジアは激変していました。大韓帝国は1910年に日本に併合されて植民地「朝鮮」となり、1911年の辛亥革命(辛は十干の8番目、亥は十二支の12番目。十干十二支は最小公倍数の60年で一周し、辛亥は48番目。1番目は「甲子」で、甲子の1924年に完成したのが甲子園球場です)で中国最後の満州人の王朝・清(しん)が滅亡し、孫文を臨時大総統とする中華民国が誕生しました。孫文の「中国革命同盟会」は1905年に東京で結成され、北一輝など日本人も参加しました。犬養毅や頭山満も孫文を援助しました。

しかし革命は不安定で、各地に軍閥が割拠する時代になります。満州の軍閥は馬賊出身の張作霖で、彼は1926年に北京で中国の支配者「大元帥」を名乗りますが、前年に亡くなった孫文の後を継いだ蒋介石に追われ、1928年6月4日に北京を脱出しました。その列車が爆破され、張作霖は死亡しました。首謀者は関東軍の河本大作大佐と言われます(異説もあります)。関東軍は満州を独立させ、日本の傀儡国家を作ろうとしていました。当時の総理大臣・田中義一は真相を隠したい軍部などに阻まれ、天皇に矛盾する報告をしました。即位したばかりの若い昭和天皇は「もう聞きたくない」と激怒し、内閣は総辞職しました。張作霖の後を継いだ息子の張学良は蒋介石に帰順し、中国は蒋介石の国民党に統一されました。しかし共産党と「合作」した孫文と異なり、蒋は共産党を厳しく弾圧したので不安定な状況は続きました。

傀儡国家の構想は3年後の1931年に実現します。日蓮宗信者でもあった石原莞爾中佐らの計画で、9月18日、柳条湖の満鉄の線路が爆破され、関東軍はこれを中国軍の仕業として満州占領に乗り出しました。朝鮮軍の林銑十郎司令官も独断で部隊を越境させ(天皇も政府も事後承認)、関東軍を助けました。張学良は北京におり、蒋介石も共産党との戦いに忙しく、日本軍の行動を黙認しました。1932年3月1日、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政とする「満州国」建国が宣言されましたが、もちろん日本の傀儡国家でした。

総理大臣の犬養毅は満州国を承認しませんでした。犬養は孫文の葬儀にも参列しており、国民党との話し合いを望んでいました。犬養は2年前のロンドン海軍軍縮会議で日本がアメリカ・イギリスより不利な条約を結んだときは海軍に味方して浜口雄幸内閣を攻めていたのですが(浜口首相も銃撃され死亡した)、1932年5月15日、政府に長年の不満を募らせた海軍と陸軍の軍人たちに殺されてしまいました。次の斎藤実内閣は満州国を承認し、日本は国際連盟を脱退して孤立を深めてゆきます。

しかし「日本の侵略」だけを責めるのも酷かもしれません。『奔馬』十五の晩餐会で松平子爵はこんな話をします。

「満洲へ小隊長で行っていた人の話ですが、こんな悲惨きわまる話はきいたことがないので、よく覚えています。部下の貧農出の兵卒の父親から、あるとき小隊長宛の手紙が来た。一家は貧に沈んで、飢えに泣いている。親孝行の息子に申訳がないが、どうか早く息子を戦死させてもらいたい。その遺族手当をあてにする他に、生活の保証はどこにもない、と書いてあったそうです。小隊長はさすがにこの手紙を兵卒に見せる勇気がなくて蔵っておいたが、間もなく息子は首尾よく名誉の戦死を遂げたそうです」

この話を聴いた蔵原武介は「難解な涙」を流します。もちろん蔵原は同じ晩餐会で「国民の究極の幸福は通貨の安定です」と言い放ち、最後で飯沼勲に暗殺される財界の大物です。