【北魏時代の造像記の表現学習】
現在、筆で角張った強い線を書く際には北魏時代の造像記の古典の書風を用いて表現します。
北魏時代の造像記は中国・河南省の龍門石窟に存在します。
龍門石窟は中国・河南省にある自然の崖の岩を掘って作られた寺院で、ユネスコの世界遺産にも登録されています。
◆ 龍門石窟
龍門石窟の仏像の傍らに刻まれた文字は「造像記」と呼ばれ、仏像の由来を伝えています。
高等学校の書道の授業では、角張った強い線を書く際には北魏時代の造像記の書風を用いて表現することを学んでいます。
◆教科書掲載例
◆牛橛造像記の臨書
1 【造像記とは】
造像記とは、中国で仏教が流行し始めた北魏の時代に造営された各地の石窟寺院に刻された仏像群に関して、その造仏の由来や発願者、 製作者や時期(年月)などを主に楷書体で刻したものです。
◆ 龍門石窟
龍門石窟の中で最も古い古陽洞で、この洞には多くの造像記が刻されています。
北魏(386-534)は鮮卑族の拓跋氏が建てました。漢人の正統な文化の南朝に対して北方中国を支配した諸王朝を北朝といい、そこに残された碑石を北碑といいます。
北魏の龍門に石窟が掘られたのが494年でその龍門にはおびただしい数の石碑が残されています。北魏時代は仏教の信仰が篤く石窟を開いて仏像の造営が盛んでした。
造像記は歴史学的に見ると記録としての資料価値がありますが、 一方で美術的観点からは、北魏時代の文字(楷書)の特徴を表現したものでもあります。
中でも美術的に優れた20の造像記を、 書道の愛好家達は『龍門二十品』(=造像記ベスト20のような感じ)と呼んで書の手本にしています。
◆ 龍門石窟 古陽洞 (仏像の左右、上に仏像製作の由来である造像記が彫られています)
2【造像記の美術的観点からの分析】
(1)龍門石窟造営の時代背景
龍門石窟にある造像記の中でも北魏時代に刻されたものは、当時の書風を現在に伝える貴重な手本で、特に優れた20作は『龍門二十品』と称されています。
南北朝時代を含む魏晋南北朝時代は、中国に仏教が広く伝播した時代でした。
特に西晋は仏教を積極的に取り入れ、五胡十六国の王朝もそれを受け継ぐ形となりました。
孝文帝は漢化政策を急速に推し進め、太和17年(493年)に漢民族王朝の伝統的首都である洛陽へ遷都するとともに、さらに仏教に深く帰依しました。
これに伴い国内の仏教信仰が極めて盛んになり、多数の寺院や仏像が造営されることになります。
この動きに連動して生まれたのが、五胡十六国の一つである前秦代から造営が始まった莫高窟などに見るような、崖地に石窟をうがって磨崖仏を彫り、石窟寺院を造営することでした。
異民族王朝であった十六国は遊牧民族の自民族を定住民族としてまとめるため、また漢民族の制度を取り入れ彼らと同等の政治体制・文化体制を布くため(漢化政策)に、漢民族の信仰している仏教を国教として採用しました。
さらに漢字や書道などの漢民族独特の文化をも取り入れていきました。
それは五胡十六国を制覇した北魏でも同じことでした。
(2)書道の表現おける北魏の造像記の書風の芸術性
これらの造像記が書道の芸術作品として注目されるようになったのは比較的後年のことで、中国の清時代の乾隆期(乾隆帝:在位1735~1795)以降です。
この時代の金石書家である黄易(1744~1802)が、龍門石窟の造像記のうち「始平公造像記」「孫秋生造像記」「魏霊蔵造像記」そして 「楊大眼造像記」を4つの白眉として『龍門四品』と呼んだのが始まりのようです。
この四品は、その後、清末~中華民国時代の書家である楊守敬(1839~1915)が駐日公使の随員として来日した際に、 『学書邇言』などにより日本に伝えられました。
1870年2月には河北・燕山出身の徳林(徳硯香)が、上述の『龍門四品』とは別に秀逸10作を選んで『龍門十品』を提唱しました。
そして、清末~中華民国の時代に当時の書道の研究家などにより、黄易の『龍門四品』と徳林(徳硯香)の『龍門十品』をベースに更に6つの造像記を加えたものが『龍門二十品』として命名され、現在まで高く評価されています。
北魏時代のこれらの文字は魏碑体や龍門体等と呼ばれ、書の道を志す人は文字の歴史や書法を身につけるために、必ずと言っていいほど龍門の造像記をお手本にして字の練習をします。
龍門石窟の古陽洞には『龍門二十品』のうち19作が存在しますが、ここに無い1作は「比丘尼慈香慧政造像記」で、古陽洞から300mほど北側の慈香洞に刻まれています。
これらの造像記には、石仏や石窟を造った寄進者の名前が並んでいます。 寄進者は王族や功臣、洛陽周辺の地方役職者、比丘(正式な男性の出家修行者、高僧。大僧という場合もある。)や比丘尼(女性の出家修行者)など、さまざまな人達がいました。
一般的な楷書体にも似ていますが、その書風は洗練されたものではなく、荒削りな部分も多く素朴・雄渾なものです。
用筆法は「方筆」を用います。
「方筆」とは、起筆や転折(おれ)を角張らせて力強く線を引き、石をごつごつと刻むように書く筆法で六朝楷書の主流の書き方です。自然な勢いに任せて大胆に書くものや、太ながら正方形の辞界に収まるように緊密な書き方をするものとがあります。
3【日本の文字文化への影響と現在の高等学校書道での学習】
日本での六朝楷書の受容は、中国の隋末から唐代初頭に当たる頃(日本では飛鳥時代から奈良時代のごく初期)に、一部で北碑のような実際の書蹟を経ない間接的な形で行われていたと考えられています。
「日本三大古碑」
「宇治橋断碑」 大化2年 (646年)
「那須国造碑」 文武天皇4年(700年)
「多胡碑」 和銅4年 (711年)
この3つの碑は六朝楷書に極めて近い雄渾な楷書の碑です。特に「多胡碑」は鄭道昭とよく似た円筆の書であったり。また推古天皇23年(615年)筆の「法華義疏」も行書ですが、六朝楷書の意が入っているといわれています。
このように六朝楷書の影響が見られるのは、大陸文化の伝達経路が長いこと朝鮮半島経由であったことが大きく関わっています。
流入して来たのは直接的には百済の書法でしたが、朝鮮半島は中国大陸の北側に接続しており、直接的に北朝との接触があったため、その文化は自然と北朝寄りとなっていました。つまり朝鮮半島を通じて、六朝楷書の書法が間接的に伝わってきたのです。
一方、この時代には遣隋使や遣唐使により大陸との直接的な文化交流も開始され、南朝の伝統を受け継いだ唐代の書法も流入していました。
そのためこの時期においては、六朝楷書と唐の書法=北朝系と南朝系両方の書法が並立していたと考えられています。
しかしこのような南北並立状態は、遣唐使が回数を重ねて唐の文化が移入され、日本文化が唐風に傾くうち、次第に南朝系の唐代書道の方が優勢となって自然消滅してしまいました。
その後、中国本土で無視されていたこともあって六朝楷書は忘れられたままでしたが、最初の伝来から1300年近くが経った明治13年(1880年)、清国公使に随行して来日した考証学者・楊守敬が、日本に流出した文献類を買収するための資金調達用として北碑の拓本を持参したことで再伝来することになりました。
◆ 楊守敬
これを見る機会に恵まれた日下部鳴鶴・中林梧竹・巌谷一六は大きな衝撃を受け、これを元に新たな書法を試み始めた。彼らの六朝楷書に対する評価や入れ込み方には根強い異論や反論もあり、「奇怪な書を書く妙な書家」などと陰口をたたかれることもあったようですが、結果的に彼らの活動は日本の書道界に新風を吹き込み、後世に大きな影響を与えることとなりました。
現在では臨書のみならず六朝楷書の筆法を用いた書も多く制作され、また楷書の学書においてもかなりの割合で一度は接することがあるというほどになじみの深い存在となっています。
◆ 北朝楷書の書風で書かれた 映画 影武者の題字
現在、高等学校書道の楷書の表現学習においては、下記のルーブリックを用い、北魏時代の造像記の書風を学んでいます。
◆ 北魏時代の楷書の学習ルーブリック
◆ 趙之謙の北朝書風