江戸の名所「品川」⑧「真っ赤な嘘のつきどころ」
品川が北の吉原に匹敵するほどの賑わいを見せたのは、近くに多くの行楽の名所がありそれを口実に出かける男たちが多かったこともその原因である。
春から夏にかけて品川一帯(「袖が浦」)は潮干狩りの名所だった。『江戸名所図会』にこうある。
「この地は海岸にして佳景なり。殊更弥生の潮尽(しおひ)には、都下の貴賎袖を連ねて、真砂の文蛤(はまぐり)をさぐり又は楼船を浮かべて、妓婦の絃歌に興を催すもありて、尤も春色を添ふるの一奇観たり」
川柳にも多く詠まれている。
「袖が浦裾をかがめて潮干狩」
「うららかさ品川沖へ徒(かち)はだし」
品川妓楼を描いた浮世絵も、窓の外に広がる潮の引いた浜で潮干狩りに興じる人々がセットになって描いているものが多い。しかし、母親や女房にとっては心配の種にもなった。息子や夫が潮干狩りを口実に品川妓楼へ出かけたからだ。
「三階に居る潮干狩り母案じ」
潮干狩りに出かけて三階にいるとはどういうことか?東海道沿いの建物は道路の両側とも二階建て。しかし海側の建物は、中に入ると下の階があり、実は海から見れば三階建て。「三階」、つまり道路から見た二階は妓楼で、潮干狩りに行くといって妓楼にしけこむ息子を母が案じている句だ。
この句はどうだろう。
「御殿山こころは崖にころげ落ち」
御殿山と言えば、桜の名所。海を眺めながらの花見が楽しめ、房総半島から三浦半島までを一望できる絶景を誇った。ここの崖の下がちょうど品川宿。つまり、花見をしながらも心は品川女郎にいってしまっていることが詠われている。ところでこの「崖」は、幕末にある目的のために御殿山の南斜面が削り取られたことでできた。それは「お台場」建設。嘉永6年 (1853) 6月3日、ペリーが来航し、江戸幕府は長い「鎖国」の眠りから目を覚ます。ペリー退帆後、幕府はすぐさま江戸湾の海防強化の検討に入り江戸湾巡視の結果、 内海防備のための御台場築造を決定。 築造計画は、西洋の築城書・砲術書などを参考にして、南品川猟師町(品川洲崎)から深川洲崎にかけての海上に11基の御台場を築造しようとするものであった。そのため必要な土砂が、品川御殿山、高輪今治藩下屋敷、泉岳寺の山を切り崩して運びだされた。それが御殿山の崖誕生の理由である。
さらに品川通いの口実には、海晏寺の紅葉狩りも利用された。
「海晏寺真っ赤な嘘のつきどころ」
「紅葉踏みわけるを母は悲しがり」
「紅葉狩聟(むこ)やるまいぞやるまいぞ」
最初の句は説明するまでもない。「海晏寺」は「潮干狩り」「御殿山」に置き換えても使えるだろう。二番目は『古今集』の猿丸太夫の有名な和歌がベース。
「奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」
最後の句は、娘夫婦の仲を心配する母の痛々しいまでの親心。そりゃあ聟が品川女郎に入れあげるなんて姿は見たかないだろう。
ところで、面白い美人画がある。国貞「江戸名所百人美女 海晏寺」。花茣蓙の上には、風呂敷き包みと紅葉の一枝、そして手前には煙草盆と燗徳利。紅葉狩りの宴会が終わって手ぬぐいを姉さんかぶりにした内儀が「さあ、帰りましょう」とたちあがったところ。しかし、この美女は、おそらく目線の先にいるであろう一緒に来た旦那たちを睨んでいる様子。どうしてか?男たちはまだ立ち上がる気配を見せない。どうも、内儀を先に帰らせて自分たちは品川遊郭へしけこむ魂胆。内儀はそれを見抜いたようだ。今の人間には、それは深読みしすぎ、と思われるかもしれないが、当時の人々はこの絵を見てごく自然にそう感じ、にやりとしたように思う。
歌麿「品川の月」
歌川重宣「品川沖汐干狩の図」
鳥居清長 「美南見十二候 四月 品川沖の汐干」
広重「御殿山花見」
広重「名所江戸百景 品川ごてんやま」
広重「江戸名所」 「品川海晏寺紅葉見」
国貞「江戸名所百人美女 海晏寺」