「スーパー・プライベート」/2017
【制作年/2017.11】
【発表/ゲンロン・カオス*ラウンジ新芸術校第3期グループ展B「健康な街」/ゲンロン・カオス*ラウンジ五反田アトリエ】
【ステートメント】
私は現在、埼玉県所沢市に住んでいる。この街では、日本に飛行機が導入されて以来初めての死亡事故が起きている。
1913年3月28日、青山練兵場にて行われた飛行機・飛行船観覧会の帰路でのことだった。木村鈴四郎砲兵中尉と徳田金一歩兵中尉の搭乗したブレリオ式飛行機は所沢飛行場到着直前に突風を受け左翼を破損。そのまま機体は地上に向けて垂直に落下し、両中尉は共に即死した。
この事故は大戦前夜とも言える日本に少なからず衝撃を与えた。当時まだ20代だった2人の若き兵士の死を悼み、与謝野晶子ほか多くの文士たちが追悼の詩文を寄せている。集まった香典は当時の金額で4万円にも及んだ。また両中尉には正七位勲六等の勲章が贈られ、天皇からも金一封を受けている。
特に「やまと新聞社」の発議によって進められた銅像(記念塔)を立てる動きは国民的関心事となり、一周忌にあたる1914年3月28日には除幕式が行われた。
この銅像(記念塔)だが、当初は墜落地点に建てられたものの、交通不便という理由から駅前に移動し、その後も戦後の駅前開発などで各地を点々とし、1980年に両中尉が事故の朝飛び立った旧所沢飛行場(現・航空記念公園内)に落ち着いている。
銅像(記念塔)の移設に伴い、実際の墜落地点には、代わりに大きな石の「記念碑」が設置された。現在ではこの土地は所沢聖地霊園をはじめとした複数の霊園が広がっており、「記念碑」の立つ墜落地点もまた霊園の一角に位置している。
私は所沢市に引っ越してきて以来、この巨大な霊園を囲むような形で生活を営んでいる。
周囲を毎日自転車で走っていたため、霊園周辺に点在する墜落地点を示す案内板の存在を認識し、ある日「記念碑」を発見した。
歴史的な事故現場が霊園内にあることに、私は強く興味を持った。曰く付きの土地として霊園が広がったのではないか。もしくは「記念碑」が何らかの神聖な存在として霊園のシンボルになっているのではないか。霊園と「記念碑」に関し因果関係があれば面白いと、不謹慎ながらも史実にまつわるロマンを求め調査を進めていった。
しかし、この街には因果関係どころか「記念碑」が霊園内にあることや、墜落事故そのものを知っている人がほとんどいない。聞き込みは非常に難航した。
そしてわかったのは、墜落事故が起きる前から市営の斎場(焼き場)がすぐ近くにあったということだった。戦後、西武鉄道株式会社により宅地として造成が進められるも斎場(焼き場)が近いため買い手がつかず、霊園として事業化されたということらしい。
つまりは霊園と「記念碑」は何の関係もなく、この墜落事故はただ単に街から忘れ去られていただけだったのだ。
「記念碑」が存在するから霊園が広がったのではなく、「記念碑」が忘れられているから霊園が広がったのである。
忘却と反復。
日常はループである。
朝起きる。準備する。子どもを幼稚園へ送る。パート先へ向かう…
生活圏の中央に位置する広い霊園を支点に全てがまわる。
自転車で霊園を囲み走り続ける日々。
この街から出られない。
閉塞感に苛まれ、ループのように生活を営む自分の身体が、「記念碑」の埋もれた霊園の周りを走り続けていたことについて考えている。
忘れているから反復するのだとしたら、私も何かを忘れているのだ、この街のように。
私はループから抜け出すべく、霊園の中央から石を掘り出し、「忘れられた記念碑」の代わりに「新たな記念碑」を打ち立てることにした。
この石を媒介に、無関係だった霊園と「記念碑」を接続する。
自らの体感の延長に、届かない街への介入を試みる。
届かない街、それは今や忘れ去られた、かつて飛行機が墜落したはずの街である。
【作品プラン】
所沢市の墜落事故地点石碑のある霊園から巨石を移動、設置。
台座の上にプラレールを使用した八の字のレールを組み、そのレールの上を自転車を模した玩具がループしてはしり続けている。
レール中央の小石を外すとレールが崩壊、頭上の飛行機を模した十字が落下し、自転車が停止する。
台座後方のモニターには5分程度の映像。
作家の毎日の自転車のルーティンコース、そして近所の案内板を辿り、霊園内の墜落地点の石碑まで自転車を走らせる様子が独白と共に流れている。