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やわい屋

8月:澄んだ眼

2019.08.31 05:53

両手でしっかりと抱きかかえると、彼はいつも斜め上を見上げる。

産まれてきて1ヶ月目の世界は、彼の眼に、心にはどう写っているのだろう。今しか見れないその世界を、ほんのすこしだけ覗き見したい。そんな気持ちになる。

そう言えば産まれてくる少し前に「鮑のつがいを食べると眼が綺麗になる」という話になって、必死になって鮑のつがいを探した時期があった。

結局食べられなかったけれど、手の中に収まる息子の眼は、深く深淵の美しさをたたえている。


ところで家族の「呼び名」について考えたことがあるだろうか?

今まで「旦那さん」だった人が「お父さん」になり、「妻」だった人が「お母さん」になる。

ごくごく当たり前に使い分けているけれど、これは長い歴史の中で培われた高度なコミュニケーションの方法で、考えるにつれ僕はいつも感心してしまう。

僕の「父」は、僕に息子が産まれて「おじいちゃん」になった。

その「息子」も、僕の父からしたら「孫」で、同時に僕らの「息子」で、今後もう一人子供を授かったら「お兄ちゃん」という呼び名に変わる。

本人の意思とは無関係に「関係性」の中でそれぞれの役割は変化していく、これは無意識に受け入れて生活している人間社会のコミュニティの仕組みの縮図のようにも思える。僕らはどれだけひとりで生きられるといきがっても、誰とも関わらずには生きていけない。家族の呼び名という小さなことを考えると「関係性」という構造にどれほど大きな意味があるのかがわかるような気がして面白い。

ちなみに、コミュニティー内における「呼び名」が、どのようなルールで変化しているかと言えば、単純な構造で、常に「一番新人から見た立場」が更新されるように出来ている。家系図においては一番下に来るのは常に「子供」つまり子供を中心にして呼び名が変化していく。

「お父さん・お母さん」も「お爺ちゃん・お婆ちゃん」も「お兄ちゃん・お姉ちゃん」「妹・弟」も、すべては新しく増えた家族を中心に更新され続けて行く、つまり家族はアメーバのように増殖し、変化し続ける不形態の繋がりということになる。そして、その中心は親の威厳とかそんなものじゃなくて、一番無力であるはずの「子供」の存在だというところに本質があるようにも思う。

子供は可愛く弱く守るべきものだ。

これまではそう思っていたけれど、今は違う感覚で息子のことを見ている。彼の存在はその愛おしさ、不快さを含めてただただ「尊い」今は心からそう思う。

子供のことだからなんでも許せる。僕はそんなに出来た人間ではない、腹も立てるし、もどかしいことだってある。でも、それを補うほどの尊さが彼には備わっている。

不思議なことだと思う。

なぜだろう眼が離せないのだ。