平和思想は可能か 新たな戦争の世に
平和思想は可能か 新たな戦争の世に
ブラッセル市内東部にある王立軍事歴史博物館(軍事博物館)を訪ねました。この博物館は過去10世紀に渡る世界の戦争の記録や戦争技術の変化が、実際に使用された多様な武器の展示と合わせ、わかりやすく説明されています。20世紀の戦争は技術の発達によって殺戮能力を大きく飛躍させたことが一目でうかがえます。第一次大戦と第二次大戦の間にも兵器のレベルは大きな進化を遂げました。第二次大戦で使われた馬鹿馬鹿しいほどに巨大な戦車は、大きな鉄の要塞、鉄の山を思わせます。これが高速で突進しながら家々を踏み壊し、人々を蹂躙し続けたことを想像すると、人間の愚かさ、壮大な無駄を思わずにはいられません。「戦争」の定義は辞書によれば、「軍隊と軍隊とが兵器を用いて争うこと。特に国家が他国に対して自己の目的を達するために武力を行使する闘争状態」です。国と国とが兵器を使って闘争するという馬鹿げた行為を繰り返さないように、この博物館は人類の犯した愚の証拠を展示することで、訪れる人々に反戦を訴えている。
ポーランドのワルシャワでNATO(北大西洋条約機構)サミットが開催されました。ロシアの侵攻への抑止が一つの大きな議題になっていましたが、旧ソ連の支配下にあった北東欧の国々がロシアの軍事侵攻が今後も起こり得ると考えている(近年ロシア軍がウクライナのクリミア半島に侵攻して支配下に置いたことが危機感を高める要因となっています)。サミットでは対ロシア防衛のため、ポーランド及びバルト三国(エストニア、リトアニア、ラトビア)への部隊設置(米、英、加、独、仏が派兵に協力)、また機動的な先鋒部隊の設置も決定された。NATO事務総長は、あくまで抑止と防衛が目的であり新たな冷戦や軍拡を望まない、ロシアとは建設的な話し合いを続けるとは述べています。2014年のウエールズでのNATOサミット時には、軍事費削減に歯止めをかけ、対GDP比2%を防衛費に割り当てるとの合意がなされた。フランスの大手新聞(左系)の論説で、スウェーデンの軍事費削減に対して厳しい批判が述べられ、欧州の軍備に関する考え方に触れた。幾世紀にもわたる戦争の時期を経て、戦争を放棄した(はずの)欧州の国々ですが、軍備の充実は不可欠という考え方は強く残っています。
一般的に、侵略と防衛は異なり、防衛のための交戦はやむを得ないという理屈はあるでしょう。国際紛争の解決にあたって、公正な解決の場であるべき国連が実際には役に立たないという実例を人々が見てきたことにも、武装へと向かう原因があると思います(例えば中東問題において常任理事国の米国が対イスラエル非難決議に対し常に拒否権を発動すること等)。国内の犯罪の取り締まりと抑止のために警察が必要なら、国際問題において軍隊と武装が同じように必要だという理屈もあります。真の平和のためには戦争はいかなる背景を持ったものであったとしても放棄すべきという主張はあくまで理想に過ぎない、現実的には国防のための軍備は必要、というのが世の中の多数の人の考え方になっているであろうと思います。
世界の各地で陰惨な暴力事件が急激に増えた。シリアやイラク、アフガニスタンといった混乱状態が続く国々の他、フランス、ドイツ、米国、そして日本でも無辜の市民を襲った事件が発生し、テロは、18世紀フランス革命後に成立した公安委員会が革命の理念を守るために敷いた政治体制(恐怖政治のTerreur恐怖)という言葉が元になっています。ここ数年の間に肥大化してきたのはイスラム国(IS)に代表されるイスラム過激主義で、多数の人を無差別に対象にし、より残酷な大きな恐怖を与え、その残忍性に惹かれる若者が増加しています。
フランソワ教皇が「世界は平和を失い、今は戦争状態にある」と発言し、世間の注目を集めました(彼の言う戦争とは金の戦争、資源の戦争、人を支配しようとする戦争などを指すと言われていますが、テロの頻発する世情に向けられていることは明らかです)。「テロとの戦争」という言葉は2003年3月に米国がイラクに侵攻する際にブッシュ大統領が使った言葉ですが、爾来、テロの取り締まりと抑止は「戦争」と表現されるようになり、この表現が定着しています。戦争は前述の辞書の定義(国家間の武力による闘争)を越え、新しい形態に変わったということになります。欧州の多くの都市では、人通りの多い商業地区や駅の構内、そして電車の中にも重武装の兵士が見回る風景が日常になりました。最近、私はパリ市内の壁にLe Monde a changé de peau(世界はすっかり変わっちまった)という大きな落書きを見ました。ブッシュが「テロとの戦争」という言葉を使った裏には政治的な野心と経済的な利得が存在し、それがイラク進攻を正当化するレトリックだったことは明らかですが、今や恒常的に使われるようになったテロとの戦争という物言いの中にも同様に権力側の意図が含まれています。国家権力にとっては治安維持を目的にあらゆる管理支配体制を強化し、他国への侵攻さえ正当化できる理屈がその言葉の内に潜んでいます。世界の変貌は国家がテロへの戦争に乗り出したときから始まっていたのです。
霊界物語第66巻、言霊別命の化身である梅公が、オーラ山を基地にして印度の支配を狙う悪辣な山賊のヨリコ姫、シーゴー、玄真坊を言向和 ( ことむけやわ )す物語です。出口王仁三郎は「無抵抗主義の三五教が軍事に関する行動を執るのは、少しく矛盾の様に考える人もあろうかと思ひますが、混沌たる社会に於いては、或場合には武力を用ふるの止むなき場合もあります。三千世界の父母ともいふべき阿弥陀如来でさえも、慈悲を以て本体とし乍ら、右の手にて折伏の剣を有ち、左手には摂受の玉を抱へて、衆生済度の本願を達せむとしてゐるのです。」と述べています。ところが物語本文で展開されるのは、照国別の一行による大足別将軍の武力討伐ではなく、あくまでも梅公の言霊の神気によってヨリコ姫やシーゴーが利欲を捨てついに改心する物語です。暴力に対して武力に訴えることなく悪を鎮める、徹底した平和主義の力が説かれています。この平和主義は霊界物語を貫く一つの柱だと思います。出口王仁三郎が言及している阿弥陀如来の右手に握られた折伏の剣とは、これを文字通り武器と解釈するのではなく、武器よりも強い言葉、言霊の力を隠喩的に表現したものと理解するべきだと考えます(「折伏」という仏教用語には、相手を執拗に説得して自分の意見に従わせる、という意味があります)。大足別の軍に娘スガコを拉致されたジャンクが国家のため一家一命を捨てて義勇軍に参加すると言うと。(第66巻第5章)。
梅公「…善言美詞の言霊を以て、あらゆる万民を言向和す無抵抗主義の三五教ではございませぬか。殺伐なる軍隊に参加し、砲煙弾雨の中に馳駆するのは決して宣伝使の本分じゃございますまい。三五教は決して軍国主義ではございませぬよ。」
照国別「ハヽヽヽヽ、吾々はお前の云う通り、決して敵を憎まない。また殺伐な人為的戦争はやり度くない。義勇軍に参加しようと云うのは傷病者を救ひ、敵味方の区別なく誠の道を説き諭し、平和に解決し、此トルマン国は申すに及ばず、印度七千余国の国民を神の慈恩に浴せしむる為だ。…」
テロが蔓延する現在の「戦争」の根源を絶つとの目的で、シリアでは米国やフランス、ロシアが軍事攻撃を展開しています。しかしながらシリア、イラクでのISの発生と跳梁は、もともとは米国がイラクで始めたテロとの戦争が原因でした。アフガニスタンの国内紛争も同様の原理から発生しています。日本においてもいずれ「テロとの戦争」へのより本格的な参画を請われ、これに傾いていく可能性がないわけではありません(集団的自衛権の行使が5年前に閣議決定され法制化されています)。現実の世界では、危機が迫り不安が嵩じるとき、むしろ狭隘なナショナリズムと強権的な行動への共感が高まります。霊界物語が示す言向和すことによる平和の構築とは違う方向であると言わざるをえないでしょう。戦争(武力行使)が最終的に平和を築かず、より根深い混沌を生み出すことは明らかで、霊界物語はそのことを繰り返し教え諭しているのですが、理想というものは実際には役に立たない空疎な念仏のようにみなされがちです。しかし戦争の風景が日常化しつつある現在、必要なのは∧遠い理想∨なのではないか。人類が愚かにも繰り返してきた究極の無駄の証拠としてブラッセルの軍事博物館に展示されている膨大な武器群の残骸もそのことを静かに物語っていると感じます。
霊界物語第66巻は実に含蓄の深い平和思想を、梅公や照国別の口を通じて説いています。上述の引用の照国別の言葉の内容(傍線部)は、今後の日本が国際社会で率先して採択し顕揚すべきスタンスではないかと思います。米国の顔色を窺って米国に気に入られるような選択をする従来の日本政府の卑小な魂胆とは全く次元の異なる、そして真に厳しい選択ではあります。
「戦争状態」にある今の世、王仁三郎聖師が残したこの平和思想を理解してぶれないこと、我々はその覚悟を求められていると考えます。