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Okinawa 沖縄の旅 Day 32 (2/09/19) Study 第一尚氏王統 (那覇図書館)

2019.09.03 03:47

Study 第一尚氏王統 (那覇図書館)

昨日は、察度王統についてまとめてみたが、今日からは第一尚氏王統について調べてみる。

Sho Hashi 尚巴志 (第一尚氏 第2代 1372-1439)

武寧の横暴が目立つ様になり、中山の諸按司が佐敷の按司であった尚巴志に武寧を討つことを要請。これを受け王位に就く事になる。尚巴志は1372年に佐敷間切佐敷村に尚思紹の子として誕生。村では評判が良く21才で佐敷按司となった。その後すぐに、巴志一族の大城按司 (うふぐすくあじ 大里村稲福に墓がある) を滅ぼした島添大里按司 (しまぞえうふざとう按司) を攻め1402年に落城させる。これにより、中山の諸按司からの人望が高まっていた。

1405年に尚巴志は諸按司の要請を受諾し、武寧征討軍を起こし、首里城を攻める。武寧は奮戦するも、臣下の離反もあり尚巴志軍に敗れ、二代56年の察度王統が滅びる。武寧は城から去って、その後の消息は不明。

1405年に尚巴志は父の思紹中山王に就け、第一尚氏王統が始まった。(ちなみに尚は後に明の皇帝から与えられた姓) ここで何故自分が即位せずわざわざ父親を即位させたのか? これはおいおい調べてみよう。明の成祖皇帝に冊封使派遣を要請。思紹を武寧の子として進貢使を遣わしているが、思紹は52才、武寧は50才で子の方が親より年上なのだが、成祖皇帝は特に事は荒だてず、冊封使を派遣して思紹の即位を正式に認めた。実を取った形だ。

巴志は大里城 (うふざとう)、大城城 (うふぐすく)、佐敷上城から石材を運ばせ首里城の拡大整備を始める。

北山平定  北山王 攀安知 (13??-1416)

北山の諸按司が巴志に横暴な北山城主 攀安知 (はんあんち) の討伐を要請。北山は14世紀に怕尼芝 (はにじ) に始まり、眠、攀安知と三代続いていた。北山の臣下の本部平原 (もとぶていはら) が攀安知に中山攻撃を進言。本部平原と反目していた周辺の北山諸按司 (国頭按司、羽地按司、名護按司など) が中山と内通しこれを伝え、1416年に北山諸按司と中山軍の連合軍が北山の都であった今帰仁城を攻めるも、今帰仁城の防備は固く苦戦を強いられる。力攻めから調略に切り替えて、護佐丸の計略で攀安知の副将の本部平原 (もとぶてーはら) の寝返らせる事に成功し、遂に攀安知を自決に追い込み北山を攻略。巴志は次男 尚忠を今帰仁城に置く。

(後北山王)

尚巴志と懐機

首里城の整備は続き、1427年には懐機を中心に龍潭 (8/23訪問) を造営し公園を整備、一般人にも解放した。1428年に中山門 (8/23訪問) を建築。この懐機も歴史上の重要な人物とされる。中国・明から派遣された懐機は、第一尚氏王統の始祖 尚思紹から五代尚金福に至り王に仕えた人物。二代国王・尚巴志王の代より、国王を補佐する国相に就き、三山統一や進貢貿易に尽力するほか、大工事の指揮も務め、尚巴志の右腕となって活躍。 尚巴志の息子・尚金福王の時代(1451年)には、那覇 (浮島) と陸を結ぶ、全長約1キロの長虹堤 (8/13訪問) を創建している。

明との交易も盛んになり、10年間で17回もの進貢船を出したと伝えられている。

1421年に父の思紹が死去、翌年に尚巴志が50才で王位に就いた。

攀安知 (左) 他魯毎 (右)

南山平定 琉球国統一 南山王 他魯毎 (15??-1429)

1429年、南山の諸按司の要請で南山王 他魯毎 (たろまい) を破り、4代104年続いた南山を滅ぼし、全琉球を統一。


この南山王国は大里王統とも呼ばれ、前期は島添大里 (大里城) に、後期は島尻大里 (南山高嶺城) を本拠としていた。初代 承察度が王統を開いた。

1439年に尚巴志が死去、天山陵に葬られる。(8/25 訪問) 第二尚氏の玉陵は在りし日の天山陵を真似たと伝えられている。

(尚巴志のサマリー)

Sho Chu 尚忠 (③ 1440-1444)、 Sho Shitatsu 尚思達 (④ 1445-1449)、Sho Kinpuku 尚金福 (⑤ 1450-1453)、 志魯-布里の乱

尚巴志の後は次男の尚忠であったが、在位5年で死に、その後の尚思達も5年で死去。思達には子が無く叔父の尚金福 (尚巴志の五男)が即位。明の冊封を受け、足利将軍にも進貢。この金福の側近の国相懐機 (こくしょうかいき) が長虹堤を建設。工事の無事を天照大神に祈願した事が沖縄での神社の始まりとされている。金福も4年で死去。尚金福の子の志魯と尚巴志の子の布里との王位争奪戦が始まり、その争いの中、両者ともに果てて首里城も灰になってしまった。伝承によると布里は城外に逃れたとも言われる。(志魯-布里の乱) 尚巴志の七男の越来按司であった尚泰久が王位に就く。

Sho Taikyu 尚泰久 (第一尚氏 第6代 1415-1460)

在位期間は僅か7年ではあるが、第一尚氏の中では、尚巴志に次いで存在感のある人物。王への即位前は越来按司であった。その地には読谷山 (座喜味城) には護佐丸、勝連城には阿摩和利がおり、まだ第一尚氏の力が弱く政治的に緊張していた。

即位しまず着手したのが首里城の再建であった。以前より格調高い首里城は王の権威の象徴にしたかったのだろう。経済に力を入れ、琉球では初めての貨幣である大世通宝を鋳造、貿易も最盛期となり、首里城にはその功績を記した万国津梁の鐘を鋳造し、掲げていた。

泰久は京の禅僧の芥隠承琥の影響で、仏教に帰依し、広厳寺・普門寺・天龍寺・円覚寺など7つの寺を建立し、23口の梵鐘を作らせた。仏教は庶民の為よりも日本との繋がりを重要視した政治的な要素が大きかったと思われる。

この様な施策を進めている最中、護佐丸 阿摩和利に乱が起きる。先に触れたこの二人の人物は中山で力を持っていた。阿摩和利に対しては娘の百度踏揚 (ももとふみあがり) を嫁がせ婚姻関係で関係を保とうとしていた。この阿摩和利が中城の護佐丸の謀反を讒言し、泰久は阿摩和利に護佐丸を攻めさせ自害させた。その後、百度踏揚の付け人として勝連城に遣わしていた大城賢雄 (うふぐすくけんゆう 鬼大城) が阿摩和利の策略であった事、阿摩和利が謀反を企てている事を察知し、百度踏揚と共に首里城に逃げ帰る。泰久は大城賢雄を大将として阿摩和利を攻め滅ぼした。大城賢雄はその後、百度踏揚と結婚し暮らしていた。このストーリーは勝者の資料なので、その信憑性には疑問がある。一説では王家の安定の為に全て泰久が仕組んだというものもある。

Shotoku 尚徳 (1441-1469)

第一尚氏王統最後の王となる尚徳は尚泰久の側室 (夫人) の子。一説では尚泰久の王妃は先に打ち果たした護佐丸の娘のであったことより、護佐丸の血を引く子への継承が躊躇われたとある。歴史上、尚徳は評価がかなり低くく、性格が横暴で徳が無かったとされているが、それは、彼を倒した第二尚氏の編纂したものだからだろう。実際には、それなりの功績をあげており、最近では評価する向きがある。世高通宝の発行、北の離島管理に為の泊地頭職設置、喜界島遠征、更なる交易の発展など。

この尚徳に仕えていた人物が金丸で後の尚円王である。金丸は尚泰久とは相性が良く信頼されていたが、尚徳との関係は、それ程良くは無く対立を繰り返していたという。想像だが、尚徳は若くやり手で年寄り となった金丸 (金丸は1415年生まれなので、52-54歳ぐらい) のアドバイスはいらなかったか、煙たかったか、意見が保守的すぎると感じたかも知れない。反対に金丸は尚泰久時代には自分のやりたいことがすんなりと出来たのが、尚徳の元では存在価値が脅かされている。焦りはどちらかというと金丸が持っていたかも知れない。1468年8月に金丸は職を辞して西原間切内間村に隠居する。この翌年の4月に尚徳が急死した。

尚徳は在位7年で27才で急死するのだがその死因については分かっておらず、自分が留守にしている首里での金丸即位を聞いての自害という説、金丸が毒殺したと言う説もある。尚徳の死後、家臣の間でクーデターが起き、尚徳の後継 (かなり幼い子であったろう) を排して、金丸を王位につけることになる。この世子の廃嫡の顛末についても言い伝えられているのは、尚徳の死後、世子を王へ任命の式典で、一人の老人 安里大親がそれに異を唱え、金丸の王位への即位を訴え、民衆がそれに賛同したとの事。この一連の出来事は第一尚氏王統設立時と重なる。まだまだ按司の力が強い時代だ。

これで第一尚氏王統をざっと見たので、明日からは第二尚氏王統に移る。