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Okinawa 沖縄の旅 Day 31 (1/09/19) Study 察度王統 (那覇図書館)

2019.09.02 03:47

Study 察度王統 (那覇図書館)

那覇市の史跡巡りも昨日で終了。今まで見学した物を頭の中で整理して、充分に消化する為に、ここ一週間は休養も兼ねて復習の時間を持つ事にした。首里城やそれに関わる琉球王朝の歴史についておさらいをしようと図書館で関連する書籍で調べる。歴史上の人物を通して首里城/琉球王朝を見てみる。

琉球に関しては基礎知識が乏しく。先ずは沖縄の人達が一般に教えられている所から頭に入れて、それから深く掘り下げていく。一番良いのは、小学生向けの歴史書だ。これが沖縄一般の人が抱いている歴史感だろう。これが事実であったかは疑問があるが、これが基礎知識になる。その上で専門書のいろいろな歴史解釈や説を見るのが一番良い。

以前は先ず色々調べてから、史跡を周った方が良いかと思っていたが、長く旅をしているうちに、先ずは史跡を周りながら、そこの説明板を見て、あとでそれを繋いでいく方が面白いと感じるようになった。はじめに調べても、イメージが無いので本当には理解出来ていない。後から調べると、見学した際の映像が出てくる。「そうだったのか」、「

なるほど」という事が多い。そうすると、バラバラになっていた訪問した史跡のイメージが不思議と繋がって来て頭がスッキリする。そして、そこから新たな疑問が湧いてくる。一般に考えられている事の非倫理性が見えてくるわけだ。

まずは察度王統について

Satto 察度 (察度王統 初代 1321 – 1395、75才)

察度 (左) と弟の泰期 (右)

まずは首里城の始まりだが、築城は浦添按司から中山王位についた察度 (さっと) と言われている。察度は1321年に三山時代の中山の奥間大親の息子として誕生。察度の誕生の逸話に羽衣伝説  (母親が天女という伝説) があり、金城朝薫がこれを題材に組踊を創作している。生まれた家は極めて貧しかったが、当時強勢を誇っていた勝連按司の娘を娶ったことにより家運を起こした。これは黄金伝説として伝えられている。(結婚後、宜野湾の大謝名に住んでおり、そこに金塊があり、そこに黄金宮を建てた) 察度はこの浦添の地で按司をやっていたが、民からの評判はすこぶる良かったと言われている。(牧港にて日本の商船より鉄塊を買い取り、農民に農具を与えて農民に助けたことから、浦添按司として人望を集めたという話は沖縄ではみんなが知っている) 周りの多くの按司からも一目置かれていた存在だった。

(勝連、奥間、大謝名、牧港、浦添の位置関係)

察度が30才の時に英祖王統5代目の西威が死去、中山の諸按司が幼い5才の世子を廃嫡し、察度に王位を継ぐ事を要請、察度はそれを受け王位に就く。ここから察度王統 (1350年 - 1405年) が二代 56年間続くことになる。この時代の按司 (本土で言えば、それぞれの地域の城主とか領主にあたる) の力は王にも影響を与えるほど強かった。いざ王位に就いたが、北山と南山に対抗して中山全土を治めるには浦添は狭く、湧き水にも恵まれず、牧港には大型船が入港出来ず貿易には不利と考え、数年をかけて首里に遷都を行った。この中でも貿易は重要な要素だった。南北の二山に対抗するには経済基盤の強化が必要と考え、那覇港と拠点に貿易館や公倉となる御物城を設置し、ルソン島、ジャワ島、スマトラなど東南アジアと貿易し、明や高麗とも交易を開始した。この様な決断が出来るのは、やはり察度は卓越した人物だった事の証と思う。先日訪れた首里城の京の内がこの時に遷都した場所にあたる。ここから首里城が始まった。この京の内には御嶽 (うたき) が多くあり、琉球王朝の全時代を通しての聖地とされてきた。為政者にとって琉球の伝統的な宗教は非常に重要な意味を持っていた。本土では大和朝廷が神を政治の柱に据えていた事とよく似ている。

1372年に明国の楊載が親書をたずさえ、来琉し、進貢貿易を要請。察度は弟の泰期 (たいちー) を明国に派遣、硫黄や馬を明国の太祖洪武帝に献上し、明との貿易が始まった。これが琉球の朝貢貿易の始まりだ。すぐ後には南山と北山も続いて朝貢する事になる。その後も泰期は何度も明に赴いている。察度にとってこの弟の泰期の存在は大きかった。明朝は1383年に国名を「琉球」と命名、和名の「おきなわ」より一般的な呼び名になった。ちなみに、この時代には、明国だけで無く、高麗へは1389年に玉之を朝貢の使者として送り、高麗に代わった李氏朝鮮へも同じく1392年から朝貢の使者を送っている。琉球のカメレオン的な対外的対応はこの時代に既に始まっていた事は興味深い。朝鮮も明国に朝貢をしていたが、朝鮮の歴史を見ると、琉球の明国への対応と朝鮮の明国への対応はかなり異なる様に思える。琉球は比較的平和な対応、朝鮮は絶えず緊張状態の中での朝貢の様な気がする。領土を接しているか否かで違うのだろう。

1390年には宮古八重山が中山に入貢。(この時に尽力した宮古の与那覇勢頭豊見親 [よなはせど とぅゆみゃ] が那覇の泊に逗留した碑がある白川宮を8/16に訪れた。) 宮古の内乱を収めるために与那覇勢頭豊見親が察度に支援を要請し、宮古は何とかおさまった。一般には宮古の横暴な種族を退けたと言われているが、多分、宮古島内での権力争いに乗じて、片方に加担し、朝貢という形で、徐々に琉球の支配を強めていったと思う。いつのまにか朝貢では無く、琉球の領土になっており、朝貢の形はいつのまにか消えてしまっている。

この頃に閩人36姓も久米村に住み始める。一般には明の皇帝が、好意にて移住させたとなっているが、一説には察度が技術者の派遣を明皇帝に要請したとしている。個人的には後者であったと思う。1392年 (察度が死去する3年前) には国子監へ留学生を派遣、同年には首里城の正殿の前身となる高世層理殿 (たかよそうりでん) を建造といった出来事があり、以後の琉球王朝の基盤となる体制がこの察度が生涯をかけて作り、彼により始まったと思う。ただ、察度の晩年は高慢になり、評判は芳しく無かったと言われている。

Bunei 武寧 (察度王統 二代 1356-1406 51才)

1395年に察度が75才で死去。1396年に子の武寧が41才の時に中山王に就く。明に冊封使の派遣を要請し、そのもてなしの場として、那覇港に天使館 (8/11に訪問) を1403年に造る。1404年に冊封使が来琉し武寧は正式に中山王と認められる。察度の死後10年目の事だ。冊封使が来るには時間が経過しすぎている。明と琉球での最初の冊封であったので時間がかかったのだろうか?何か理由があったのだろうか? 明との政治的つながりを強め、政治手腕を発揮して、南山王を追放などをしている。武寧は歴史上では傲慢で、暴君と言われている。写真の絵もそれらしく描かれている。これが沖縄での一般的なイメージ。武寧は1405年に尚巴志に、当時居た中山を攻められ、城を去った。その後、武寧がどうなったかは不明。新しい王統 (第一尚氏王統) にとっては、暴君とした方が都合が良かったのだろう。沖縄の人には尚巴志は最も人気の高い歴史上の人物なので武寧は悪役となってしまった。

明日は第一尚氏王統を調べる予定。この図書館は夜8時までやっていて、常時WiFi接続のサービスもあり重宝している。