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みーちゃん

流れ星

2019.09.04 15:48

南インド巡礼ツアーの中で、

わたしが毎年せっせと通っている、

ティルヴァンナマライも訪れることになっていた。


いつもひとりで自由に歩き回っているし、

静けさを大事にしたい場所なのに、

なぜわざわざたくさんの人と行くのだろう?

そんな疑問が、自分の中にあった。

でもなぜか、

みんなで行くことに「何か」があるんだよな、とも感じていた。


ツアー中、数日経ってから、

再びティルヴァンナマライに来れたのが、

たまらなくうれしくて。

12時頃寝たのに、3時半には目が覚めて、

そのまま瞑想とアーサナをしようとホテルの屋上に出たら、

満天の星空が待っていた。


ヨガマットの上にゴロリと寝転がって、星空を眺めていたら、

目の前に流れ星が現れて、

アルナーチャラの頂上に向かって、

一直線に流れて消えていった。

ほんとうに目の前ど真ん中だったので、

慌てることなく、くっきりと見え、

消えるまでがゆっくりに感じられた。


「なんて贈り物だろう!」と喜びに胸を膨らませながら、

ああ、あれは、アルナーチャラを恋しく思う、

わたし自身そのものだな、と思った。


ラマナ・マハルシが亡くなった時も、

アルナーチャラの頂上に流れていく星を、

たくさんの人たちが目撃している。

なんとなく気づいていたことだけれど、

わたし自身の体験なのに、

アルナーチャラでの出来事は、

ラマナの体験を追体験するような場面が多い。


はじめの頃、自分の内に深く入り過ぎて、

人と話せなくなったこと。

その頃は、食べものも飲み物も、

大していらなかったこと。

アルナーチャラの中にいるだけで幸せで、

道なき道を歩きまわり、

アルナーチャラに寝泊まりし、

ただただ、そこの空気に溶け込んでいたくて、

他に何もいらないと感じていたこと。

アルナーチャラに溢れている、

果てしない愛に浸って、

ひたすら感謝していたこと。


ラマナはわたしが生まれる25年前まで生きていて、

その体は、

みんなの集うサマディホールというホールに、今もある。

亡骸には、

聖なる灰を塗るなどヒンディー式の痛まない方法が施されて、

アルナーチャラの方を向いて、

結跏趺坐のポーズで、安置されているのだそう。


ラマナほどの人は千年はその意識が留まるよ、と聞いたけれど。

聖者の残した意識が留まっているから、

それを感じ取り、わたしも追体験するのだと思う。

なんてありがたいことなんだろう。

自分がこころの底から求めているから、

こころの扉が開かれて、

自然と流れ込んできたのだと。

振り返ってみると、そう思う。


熱心なラマナのディボーティー(帰依者)の人を見てきたから、

不勉強な自分がディボーティーと名乗るのは気が引ける、

と、今まで思ってきたけれど。

たくさんのディボーティーではない人たちと訪れてみて、

自分は明らかにディボーティーだと自覚した。

それは、観念した、に近い感覚でもある。

そう、今回の旅のテーマは、「自覚」だった。


みんなでお寺や聖山やアシュラムを訪れながら、

わたしの涙は出まくっていた。

自分の中に愛おしさが溢れて、

涙となって出てきてしまうのだ。


シヴァを奉ったお寺は、エネルギーが強くて、

貧血みたいに体が重い状態になり、

意識は、遠のくような、広がるような感じがした。

もうひとつ別の地で訪れた山でも、

同じ感じになったけれど、

破壊の神様であるシヴァのエネルギーを、

体感していたように思う。

(女神様の時には、こうならない)


そういう、目に見えないものを感じ取る、自分自身も自覚し。

そういう自分に、観念して。

なおかつそれを、隠すでもなく、特別視するわけでもなく、

人に、いつものトーンで話せている自分に、成長を感じた。


世界はひとつながりの意識(イーシュヴァラ)だから、

わたしとわたし以外という壁は、存在しない。

だとしたら、目に見えないことを感じ取るのは、

とても自然なことが起きているだけ。


ギリプラダクシナという、

アルナーチャラ山の周りを一周、

歩いて回る巡礼があり、

それもツアーのみんなで行った。

歩く速さは人それぞれなので、

14km歩けば差が出てきてしまう。

どうやって行うかを、

主催者の人たちが思案していた。


そこでするりと、

「わたしが最後を歩きます」という言葉が出てきた。

「すごく時間がかかっちゃうかもしれませんよ」と言われたけれど、

それがわたしのやるべきことだな、と、その時に直感した。


ただ最後を歩いただけだし、

途中道に迷う人もでてしまったけれど。

それでもあとで、

「安心して歩けたわ、ありがとう」

と言われたりして、うれしかった。


わたしは、

シヴァに、アルナーチャラに、ラマナに、

たくさんの恩寵をいただき続けているので、

どこかにそれを返したい気持ちが、

どんどん膨らんでいる。

それは別に、日本で、

ぜんぜん関係ない場面でもよいのだけれど。


自分の好みとしては、

ひっそり神様とだけ話していたいな、

と思うのに、

ついつい、いろんな人や出来事を受け入れてしまうのは、

恩寵へのお返しをしているのかも。

無意識に。


自覚を経たわたしは、

これから、今まで通りの生活をしながら、

大いなるものとの時間を意識的にもって、

その繋がりを濃くしていくのだろう。

そこに深い喜びがあるから。

今までもそうだったけれど、

さらに意識的に。


もちろん、それ以外にも、楽しいことはいろいろあるし、

喜んだり、悲しんだり、苦しんだりもするけれど。

そこに翻弄されてしまうことは、

減っていくのだろうな。


ただ通り過ぎてゆくものと、

ずっとあり続けるものと。

そのふたつともが、

わたしの世界をつくっている。

それがわたしをいちばん成長させてくれる道なんだよね、きっと。


「何であれ起こらない運命にあることは、

いかにあなたが試みても起こらないだろう。

何であれ起こる運命にあることは、

いかにあなたが避けようとしても起こるだろう。

これは確実である。

それゆえ、最善の策は沈黙にとどまることである。」


ラマナの言葉は、

その意識を体験した後に、

深く深く響いてくる。