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粋なカエサル

「ジャガイモと世界史」⑤フランス2「アントワーヌ・パルマンティエ」(1)

2019.09.05 22:52

 遅くとも1600年までにはフランスにもジャガイモは伝わっていたが、農業国であるがゆえにムギ類への執着が強く、またジャガイモへの偏見もあって、ジャガイモの普及は遅々として進まなかった。そのような状況下のフランスで、ジャガイモを普及させるうえで多大な功績を残したのがアントワーヌ・パルマンティエ。彼にそれを可能にさせた背景には、「七年戦争」での捕虜体験があった。

 「七年戦争」は、1756年8月から 63年2月までの7年間,プロシアとオーストリア間に戦われた戦争。同期間に北アメリカ,インドの両植民地でイギリスとフランスの戦争 【フレンチ・アンド・インディアン戦争】も行われた。オーストリア継承戦争(1740年~48年)に敗北したオーストリアのマリア・テレジアは,シュレジエンの奪回を目指してザクセンなどのドイツ諸邦やロシアと防御同盟を結ぶほか,16世紀以来の宿敵フランスと防御同盟を結んだ (「外交革命」と呼ばれる。マリー・アントワネットとフランス王太子との結婚もその一環。当然フランス宮廷内にも昔ながらの反オーストリア勢力はいたわけで、マリー・アントワネットはそれらの勢力によって誹謗中傷を受けることになる) 。一方,フランスとの植民地争奪戦を激化させていたイギリスは,プロシアと防御同盟を結ぶ。8月プロシア王フリードリヒ2世は機先を制してザクセンに侵入,七年戦争の戦端を開いた。プロシアは包囲攻撃(オーストリアのマリア・テレジア、フランスのポンパドゥール夫人、ロシアのエリザヴェータ女帝による通称「三枚のペチコート作戦」)にあって、一時ベルリンを占領され国家瓦解の危機に瀕した。しかし1761年、ロシアの女帝エリザヴェータが急死。フリードリヒ2世を崇拝していたピョートル3世が皇帝となったために単独講和に応じ、並行して行われた英仏植民地戦争でフランスが敗れた事などから、プロイセンは戦争を耐え抜く。もちろん、ジャガイモの普及政策が大きく貢献したことは間違いない。

 この戦争で、パルマンティエはオーストリアと同盟を結んだフランス軍に従軍。しかしプロイセン軍の捕虜となり、三年間をプロイセンの収容所で過ごすことになる。食べさせられるのは来る日も来る日もジャガイモのスープ(ただしスープと言っても具が多くて汁が少ない食べる料理)。やがて、農学者であり科学者でもあったパルマンティエは、ジャガイモが優れた食料であることに気づく。パルマンティエは決意する。「自分はこのジャガイモのおかげで生き延びることができた。このジャガイモでフランスの危機を救おう」と。

 フランスは17世紀に11回、18世紀に16回の飢饉に見舞われた。とりわけ18世紀が過酷だった。この休みなく民衆を直撃した飢饉は、1789年に勃発するフランス革命の背景にもなっている。しかし戦争が終わって帰国したパルマンティエが見たのは、飢饉に苦しみながらも、百年一日のごとくムギ作りにこだわり、馴染みの薄いジャガイモの栽培には手を出そうとしない農民たちの姿であった。啓蒙活動は行われていた。1761年、リモージュ県の知事テュルゴー(後にルイ16世の財政立て直しのため財務総監に就任)は、傍らに農夫数人を座らせ、衆人環視の中でジャガイモを口に入れた。こうすればジャガイモが毒でないことを皆納得するはずだと。しかし、偏見は容易には揺るがない。1770年の段階でも、ピレネー地方のある聖職者はこう注意を喚起している。

「動物が食べていたものを人間が用いると、生活水準の低下という現象が起きる。動物でさえこれを食べる際はしり込みすると伝えられる。」

 1771年、パリ大学は「ジャガイモは無害、それどころか大いに有用」であることを証明する文書を発表。新聞での論争がきっかけだった。

「ノルマンディ地方のある男が怒ってこう言い立てた。ジャガイモパンをつくるため水を使うと、その水が直ちに黒っぽく変色した。腐ったものが入っている証拠だ。ジャガイモは危ない。まともな人間は誰もこんなもの食わない」

 しかしパリ大学の文書公表でも、まだ多くの人の疑いは解けない。パルマンティエは、40年にわたって「ジャガイモの福音」を説き続ける。それは人々の偏見と嘲笑に対する粘り強い挑戦だった。彼には信念があった。

       「生き抜く術こそ人間の最も真剣な仕事でなければならぬ」

メトロ「パルマンティエ駅」 パリ

デュモン「パルマンティエ」

ミレー「ジャガイモを植える人」ボストン美術館

マックス・リーバーマン「バルビゾンでのジャガイモの収穫」デュッセルドルフ クンストパラスト美術館