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粋なカエサル

「ジャガイモと世界史」⑥フランス3「アントワーヌ・パルマンティエ」(2)

2019.09.06 23:25

 パルマンティエにとって、待ちに待った機会が到来する。フランス・アカデミーが、打ち続く凶作、国家財政の窮乏という危機的状況を打破するため、1772年「食糧飢饉を緩和する食物」についての論文を募集したのだ。彼の論文は見事最優秀賞。その後も次々に研究成果を発表していく。『ジャガイモの化学分析』(1773年)、『小麦粉を混ぜないでジャガイモのパンを作る方法』(1779年)、『ジャガイモの播種についての研究報告』(1786年)、『ジャガイモ、バター、トピナンブール(菊芋)の栽培と用法についての概論』(1789年)等々。

 彼の活動は王室の関心を呼ぶところとなり、ルイ16世は、パリ郊外のレ・サブロンの原野25ヘクタール(約6万1000坪)ほどの土地をジャガイモ栽培用としてパルマンティエに提供。ジャガイモ普及のため彼は「奇策」も用いた。まずその試験農場を柵で囲い、「これはジャガイモといい、王侯貴族が食べるものであるから、盗んだ者は厳罰に処する」と書いた看板を立てる。そして昼間は銃を持った警備の兵に物々しく見張らせる。周囲の農民たちはささやきあう。「これほど厳重な警備をするからにはうまいものにちがいない」と。その一方で、夜になると監視の兵隊を引き上げさせた。農民たちにジャガイモを盗ませるためだ。ジャガイモを食べた農民からジャガイモの評判は広まっていった。

 パルマンティエは上流階級の理解者を増やす試みも行う。試験農場での収穫が終わると、ジャガイモ料理だけでの宴席を設けて、多数の著名人を招待。その中には、「近代科学の父」とも称されるラヴォアジェや、雷が電気であることを実証するとともにアメリカ独立宣言の起草委員の一人にもなったベンジャミン・フランクリンなども入っていた。料理の味と満足感はジャガイモの価値を実証することになり、多くの有名人をジャガイモの理解者に転向させた。

 さらに王室にも強く働きかけ、ルイ16世にボタン穴に挿せるように作ったジャガイモの花束を献上。マリー・アントワネットら貴婦人たちも、美しいジャガイモの花をその髪や胸に飾り、ジャガイモの花は夜会で大流行した。

 パルマンティエのジャガイモ普及作戦は図に当たり、18世紀の末ごろまでには、農民の間にジャガイモ栽培が普及するようになり、フランスの食料事情は大きく改善されることとなった。1799年、ブリュメール18日のクーデタで権力を握ったナポレオンもまた、パルマンティエと彼が提唱したプロジェクトに注目し、財政援助を行った。ナポレオンは軍事的見地から食料を自給できるフランスを目指していた。そして、ナポレオンの時代にフランスのジャガイモ生産量は急カーブで上昇。ほぼ15倍になったと推定される。

1813年に亡くなったパルマンティエの墓はペール・ラシェーズ墓地にあるが、近くにメトロの「パルマンティエ」駅がある。そして、そこには彼が農民にジャガイモを手渡している像も立っている。またパリ西部近郊のヌイイ・シュル・セーヌ市役所前に「パルマンティエ像」が立っている(レ・サブロンの試験農場はこの近くにあった)が、1888年の像の除幕式でA・F・ド・シルヴェストルは、パルマンティエについて次のように述べている。

「祖国のため、このような重要な貢献をなし、しかも幸せであった人はわずかしかいない。熱烈な人類愛がパルマンティエを鼓吹する原動力であった。彼は、いったん、人々のためになすべきこと、あるいは、解決しなければならない問題の所在を知ると、生き生きとして、次々に浮かぶアイデアを実行に移し、いわば、休息することもなかった。彼はその情熱を満たすため、すべてを犠牲にし、自分の一番好きな研究をも中断して、不幸な人々のために献身した」

 フランスにおけるジャガイモの栽培面積は、1789年には4500ヘクタールだったが、それから約100年後の1892年には151万2163ヘクタールにまで拡大した。なんと300倍以上!。こうしてジャガイモはフランス料理に欠かせない野菜になったのである。

ヌイイ・シュル・セーヌ市役所 前にパルマンティエの像

ヌイイ・シュル・セーヌ市役所前のパルマンティエの像

パリ メトロ「パルマンティエ」駅 農夫にジャガイモを渡すパルマンティエ

ルイ16世とマリー・アントワネットにジャガイモの花を渡すパルマンティエ

貧民を見舞うルイ16世