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城田実さんコラム 第45回 社会の変容とパンチャシラ(Vol.109 2019年7月23日号メルマガより転載 )

2019.07.23 00:35

 コンパス紙の世論調査によると、今年の大統領選挙は「前回よりもみにくい選挙戦だった」と答えた人が6割、選挙後に最も緊急に取り組むべき課題として8割以上の人が「選挙で分断された社会の修復」を挙げたそうである。ジャカルタ知事選挙の最中には、アホック候補を支持した人の葬儀が、反アホックの住民が圧倒的に多いモスクで拒否されたことがあった。冠婚葬祭を大事にするこの国では驚くばかりの出来事だったが、選挙の傷跡はいまどのような状態になっているのだろうか。


 インドネシアでは、コミュニティーは融和が第一、対人関係でも決して物事をあらげないことが最大の美徳だと教えられた。個人的な限られた経験ではあるが、実際に周りのインドネシア人が隣近所との付き合いを大事にしながら暮らしている様子を見てきたのを思い出すと、今年の大統領選挙の最大の被害者は一人ひとりの国民自身だったと思われてならない。この事態を招いたのは、政治エリートと称される人々が、選挙という当面の目的のために、人々の潜在的な不満や不安感をわざわざ引っ掻き出して、これに火を付けたのが大きな原因だったように思う。ふつうの人々にしてみれば、もうそろそろ昔からの落ち着いた雰囲気を取り戻したいが、そのために今度は火を付けた政治エリートがきちっとイニシアチブを取ってほしいというのが冒頭の世論調査結果なのだろう。


 ところが当の政治エリートや政党の関心の中心はもはやそこにはなく、第2期ジョコウィ政権の発足に備えて、どのようにして政治的に有利なポジションを占めることができるか、新政権でどのポストを獲得できるか、に移ってしまっている。社会に生まれた緊張を緩和する道を開くためには、できるだけ早い段階でジョコウィ氏とプラボウォ氏の二人が握手して和解の姿を国民に示すことが大事な第一歩だとみんなが声を上げているのに、その握手の段取りをつける過程が再び政治の駆け引きの材料になってしまった。ふたりが会ったのは、4月17日の投票日(同日中に選挙結果が事実上判明)からすでに3カ月も経過してからだった。

 当日の朝になって突然、開通したばかりのMRT鉄道の駅で朝10時に会合すると発表されたが、その意外さの演出効果は抜群だった。ある評論家はジョコウィ氏には知恵者がそろっていると感心していた。もっともプラボウォ陣営にとってはトップの決断で一気呵成(いっきかせい)に実行しないと実現できない事情もあったのかもしれない。陣営幹部の一部からは「相談どころか、聞いてすらいない」と反発が噴出し、ネット上では支持者から「裏切り者」「失望だ」といった厳しい書き込みも多かったと言う。この陣営の複雑さを垣間見たようでもある。


 テレビ中継などを見ていると、二人が握手し抱き合う場面では周囲から大きな歓声や拍手が上がっていた。多くの国民もこの光景を素朴に歓迎したのではないだろうか。この光景は選挙後の一つの大きな峠ではあったが、先行きにはまだ越えるべき峠がいくつか続いている。

 そんな中でテレビの政治談義を見ていたら、司会者が(国是5原則の)パンチャシラという言葉を使うと、それだけでもう、まともには話を聞いてもらえない人たちが増えてきた、と切り出すと、対談相手の人気の州知事(政府系)も我が意を得たりとばかりに、パンチャシラという言葉をあえて使わずにコミュニティーの融和の大切さや楽しさをさとすようにしていると話していた。民族の多様性を前提にした国造りの象徴であるパンチャシラに対する問題提起は前から存在はしていたが、選挙をめぐるゴタゴタがようやく収まりかけてふと周りを見回してみると、パンチャシラはもはや国民全員が当然に共有できる国家の出発点ではないと考える社会層が根を張る時代になっていたのかも知れない、と少しあ然とする思いだった。


 ジョコウィ大統領はプラボウォ氏と会った翌日の夜、再選確定後初めての政策スピーチを発表した。大統領は演説の最後に、全体の演説時間の3分の1ほどを使って、国家の一体性と国民の団結を訴えた。大統領は、政府批判と野党の存在を尊重すると述べる一方で、パンチャシラと民族の多様性を害する行動に対しては一片の妥協も容赦もないと声を張り上げた。

 プラボウォ陣営との和解協議の過程で、イスラム擁護戦線(FPI)のリジック・シハブ代表の「亡命先」とされるエジプトからの帰国が和解の大きな条件になったことも念頭にあったかもしれない。FPIは、一昨年に反パンチャシラ団体として解散させられたヒズブット・タフリル・インドネシア(HTI)の次の標的と言われているが、他方で全国の主要大学などではHTIやFPIに共鳴しやすい強硬なイスラム保守勢力が学生活動の主流になりつつあるという調査報告もある。大統領周辺にはパンチャシラに基づく国家の安定を強権的に維持しようという考えの人物も少なくないようなので、パンチャシラをめぐる見方の違いで力による対決姿勢が強く前面に出てしまうと、あまりパンチャシラ的ではないと心配する人も出始めているようだ。(了)