自分専用時間
唐突ですけど。
実は、「正確な」時間というものがあまり好きじゃない。
もう少し言うと、最近の「繋がる」ムーブメントが大嫌いだ。
色んなアカウントが繋がって、買い物履歴がサイト間で共有されて、書き込んでる内容とかもきっと見えないところで多分分析されて、趣味趣向を握られて、いよいよこれからは財布まで繋がる波に組み込まれそうだ。
正確な時間とともに、自分のことがどこかで一括管理されるなんて、ゾっとする。デジタルの家畜みたいな気すらしてくる。
まして、腕時計なんかまでデジタル化してしまって、スマホと繋がって、「電話デス」「メールキマシタ」「本日ノ消費カロリーハ。。。」なんてもうホント、まっぴら。
人と会うのでさえとても疲れるのに、もうこれ以上繋がりたくなんかない。
Don't care me.
Leave me alone,bye bye.
という訳で腕時計を買いました。
自分専用時間。
ノーデジタル。
なんと言っても手巻き式。
自分の時間をリューズを回すことで作れる喜び。
たまに時間が1~2分ズレていたりすると、嬉しくなってしまう。
どうやら私たち日本人は時間に正確で、勤勉な人たちらしいけど、それはソトヅラだけでいいじゃないか。
合理化とか、カイゼンとか、そんなのもまぁ大事かもしれないけど、せめて自分の手首には自分専用時間があったっていい。
電気を使わずに、マイペースでチクタクチクタクやってるのは、とてもほほえましい。
だって、周りを見渡せばインターネットに繋がった寸分たがわぬ正確な時計は山ほどあふれてるんだし。
見えない束縛に対するささやかな抵抗でしょうか。
ただ、この買った時計、そのまんまだと皮のベルトが付いていて、暑い時期には蒸れる。
なので、替ベルトを買いに以前から気になっていたショップに行きました。
開店直後。まだ看板も出ていないショップのドアを開ける。
お洒落だけど、どことなく雑然としていて、あの世田谷の釣り具店と同じようなにおいがする。
まだ若く、色白で背の高い、スラリとした風貌の店主がもう既に作業をしていた。
欲しいものはもう大体決まっていたので、ベルト交換のやり方を教わりながら四方山話を交わす。
店中あちこちにあるヴィンテージものの腕時計たちは、それぞれ穏やかだけど、ドッシリとした存在感のあるオーラを放っている。
それらはまるで落ち着いた紳士みたいなたたずまいだったり、ひと癖あるガンコ親父のようだったり、また優雅な淑女のようだったりもした。
店にいるときは店主との会話が盛り上がって、よく観察してなかったけど、帰って写真をまじまじと眺めていると、ふっと吸い込まれそうになった。
1つ1つの時計に、それぞれ違った時間が封じ込められている。
過ごしてきた場所、湿度、持ち主の体温、見てきた景色。
淡々と進んできたように見える時間の中で、一つ一つ別々の思い出が詰まっている。
そんな気がしてきた。
今まであんまり時計には頓着がなくて、ヴィンテージウォッチのことなんて釣り道具の1/100も知らないけど、ここに来たおかげでその豊かな香りをかぐことが出来た。
なかなか買えないだろうけど、眺めてるだけでもなかなか良い。
前から信じていることがある。
時間には速度の他に密度のようなものがあるということ。そして密度が違えば、速度だって違うということ。
つまり、時間は一定の速度で進むのではないということだ。
僕は理系じゃないので、アインシュタインの相対性理論とかの詳しい中身はチンプンカンプンで、今のところそれが人生に何か影響を与えてるという実感もない。
だけどそもそも、時間なんて一定なわけがない。
メモリアルフィッシュと出会えた数分間と全然釣れなくてボーっとすごす数分間。
夢のように楽しい1日と死ぬほど退屈な1日。
長さが同じなわけがない。スピードが変ってないって、なんか変じゃないか?
感覚の違いだろう、って言われるのはもちろん分かるけど、 人生で大事なのは客観的な時間の長さよりも体感的なもののような気がする。
自分がおかしいんじゃない。実際に時間のスピードが変わるんだよ。
なんてね。
こんなくだらないことを考える僕の思考回路をよそに、この店の時間は特に穏やかに、ゆっくり流れていたようだ。
不思議だな。時計屋さんなのに。
そうか。
きっとここは時間の隠れ家に違いない。
時間だってたまには進むのがめんどくさくなることもあるんだろう。
気がつくと小一時間も話していた。
彼一人で切り盛りしているお店。仕事の邪魔をしちゃいけない。
また遊びに来ます。
そう伝えて店を出た。
店を出て、街の雑踏を歩くと、時間はいつもと同じように、どことなくせわしく進んでいるような感じがした。
肝心の替ベルトは岡山デニムで作られたものを買いました。
とてもいい感じで気に入ってます。
ショップはこちら↓
良いお店です。