【篆書の学習 泰山刻石・石鼓文】
1 【篆書とは】
篆書は漢字の中でも一番古い書体です。
亀の甲羅や動物の骨などに刻まれた甲骨文や青銅器に鋳込まれた金文といい、さらに、今から2200年ほど前に中国を初めて統一した秦の始皇帝が定めた小篆(しょうてん)などの古代文字をまとめて「篆書」とよびます。
・書道史年表
・篆書の部分 拡大
秦の始皇帝は自分の功績を「小篆」の書体で中国各地の山に刻ませました。
そのひとつが「泰山刻石(たいざんこくせき)」です。
「小篆」は正式な文書に使われた格式と威厳を持ち合わせた文字です。
現在でも日本のパスポートや印に使われています。
・パスポートの「日本国旅券」の文字は篆書(小篆)が使用されています
・志賀島 金印 魏志倭人伝
・書体の変遷
楷書では起筆から収筆へ向かって線の抑揚があります。それに対して、篆書では起筆は逆方向から入り、筆を包み込むようにして同じ太さで進み、収筆はそのまま離します。
(逆筆蔵鋒・等圧で同じ太さの線)
筆の穂先にだけ黒い墨をつけて、穂先がどこを通っているかに注目すると、楷書では穂先は線の上側を通っているのに対して、篆書では線の中心を通っています。
つまり「線の裏表」がありません。
横の線は水平に、縦の線は垂直に書くのがポイントです!
・ 書体の比較 1
・書体の比較 2
2 【後援会書道部での篆書の学習】
9月7日(土)後援会書道部の活動(9:30 - 11:40)では、篆書の学習の基礎知識として、「泰山刻石」「石鼓文」の理解と、篆書の基本用筆についての講座を行いました。
・本日の学習内容(スライドタイトル))
・取組みの様子です
・基本の線の練習を経て、泰山刻石の臨書へ
【 泰山刻石 】(たいざん こくせき)
◆ 篆書の特徴 基本用筆
・篆書の特徴
・拡大図版と用筆法
・基本用筆
東周は春秋・戦国時代ですが、各地に大小の国がおこり、周王朝の威信が衰えて、遂には秦大帝国の中国統一によって約850年続いた周王朝は滅亡します。
秦の始皇帝は偉大な皇帝で、万里の長城を築いたのはよく知られていますが、文化的にも大きな事績を残しています。
いまでいうなら文化革命をやったわけで、法律・文字・貨幣・度量衡などを画一しました。
やり過ぎたところもあって、焚書坑儒政策(儒者を生き埋めにして殺したり、思想書を焼き捨てたりした)など、後世暴君といわれたりするところがありますが、始阜帝の事績の中でも「文字の改革統一」はすばらしいことです。
その頃旧六力国はそれぞれの文字をもっていましたが、それを捨てさせて、李斯・趙高などの学者に命じて、いままで便っていた秦の文字を整理して、新しく小篆と秦篆を世に示しました。それかいまに伝えられている篆書の基であるわけです。
秦の始皇帝は天下を統一した後、晩年には各地を巡幸して、自らの功績を民衆に宣伝し、また後の世に残すため、各地に自分の頌徳碑を建てました。
それが秦の刻石といわれるもので、全部で七つあります、(注・六つという説もあります)それらのうち原石が残っているのは、泰山の刻石と瑯邪台(ろうやだい)の刻石の二つだけです。
泰山刻石は秦の始皇帝28年(前219年)の刻で、李斯が書いたものと伝えられています。
書体は整然としています。字体は細長く、左右がよくそろっています。当時は毛筆がまだ発達していなかったので、太筆がなく、何回もなぞって太さを出したものらしく、実に丹念に書かれています。
秦の時代というのは歴史的には特筆される時代ですが、ごく短いもので、秦が天下を統一した始皇帝26年(前221年)から二世皇帝3年(前107年)までのわずか足かけ十五年です。ところがそのわずかな期間に、偉大な始皇帝は絶対権力をもった独裁によって、数々の大きな改革を急速になしとげました。例を挙げてみます。
3【名品を訪ねて】
◆ 泰山刻石の名品を訪ねて 山東省泰安市へ
・泰安市から泰山を望む
・岱廟
・泰山刻石の案内板
・泰山刻石 拡大
・拓本
秦の始皇帝の改革
○文字の統一
各地によって書体が少しずつ異なっていたのを、秦の小篆の書体に統一することを強制しました。
○度量衡の統一
標準の量器がつくられ、それに合わせることが強制されました。
○車輪の幅を統一
そのころの道路は整備されていなかったので、轍が道に深くくいこんで、レールのようにくぼんだ線が走っていました。
車輪をその中にいれて、車を走らせるのですが、他国の車が入れないように、意識的に車輪の幅を違わせていました。
それが他国の侵攻を防ぐ一つの手段でもあったのです。
車輪の幅を統一したことを「同軌」といいますが、これは道路の統一で、同じ車で、全国のどこへでも行けるのですから、その果した役割は非常に大きかったと思われます。
○万里の長城
始皇帝というと万里の長城を連想されますが、万里の長城は始皇帝が造りあげたものではありません。戦国諸国がそれぞれ築いていた城を、始皇帝がつなぎ合わせて補強したものです。
【石鼓文 】(せっこぶん)
書道史の上で、石に刻った文字でもっとも古いものとされているのは「石鼓文」です。
◆ 石鼓文の原石を訪ねて
・中国陝西省へ
・ 陝西省西安市から西南の宝鶏市へ
・ 陝西省には書の名品が数多くあります 陝西省麟遊県には九成宮醴泉銘があります
・ まず 陝西省宝鶏市の青銅器博物館へ
・ 残念ながら石鼓文の陳列はありませんでした
・石鼓文が発見された「陳倉」周辺です
・ 開発が進む中で、宝鶏市滞在中には、訪中の目的で目的であった「青銅器の発掘」の作業を予定通り進めることとしました。
・建設ラッシュ
・遺跡の確認作業
・ 露天掘りで埋葬された場所を掘り進めました
・作業の様子です
・掘り続けます
・青銅器の副葬品のある場所まで掘り進めました
・この後移動し、 陝西省滞在中に埋蔵品を保存する公的な施設を訪ねました
・ 写真撮影が許されました
・青銅器と瓦当です
・瓦當の部分 その1
・瓦當の部分です その2
宝鶏市青銅器博物館で石鼓文にに出会うことはできませんでした。
翌週、北京故宮に向かいました
◆ 北京 故宮
・映画ラストエンペラーの溥儀が皇帝に即位した舞台を思い出します
◆ 石鼓文(原石)
石鼓文は高き50センチぐらいの太鼓のような形をした円い石に、文字が刻まれているもので、全部で10個あります。
文字の書体は大篆(だいてん)とか籀文(ちゅうぶん)とよばれている古いもので、専門家でないと読めませんが、それでも一つや二つ何とか読める字があるのが面白いと思います。
文字は全部で700字ほどあったものですが、はげ落ちたところが多く、いま読めるのはその半分くらいです。文の内容は狩猟のことが多く書いてありますが、この石が何のために刻されたものかわかっていません。
・撮影が許されました
・ 拡大
・ 授業で学ぶ「吾」「既」「同」「車」などがどこにあるか、写真に活字を置いてみます
・さらに拡大してみます
石鼓文がつくられた年代についても学者の研究にいろいろな説があってはっきりしないのですが、大体のところ春秋時代、つまり東周のころというのが定説になっているようです。
石鼓文は、北京の故宮博物院での管理下にありますが、長い歴史の間にあちらこちらと数奇な流転の運命をたどっています。
唐の初めに発見されるまでは、陝西省陳倉の田んぼの中にころがされていたということです。その一つなどは頭を切って臼に使われていたくらいで、全く誰もかえりみることなく長い歳月を経てきました。
その後あちこちへ移されて、宋の時代には都の大学に置かれていました。それから元の時代に北京の孔子廟に移されて、ずっとそこにあったのですが、日中戦争中に一時どこかへいってわからなかったこともあります。
石鼓文は、石に刻ったものではもっとも古いものですが、いつの時代に刻されたものかは、いろいろな説があってはっきりしていません。しかし大体のところ東周時代後半のものにまちがいないというのが定説です。
◆ 今回の「篆書の基本学習」第1回では、篆書の名跡の基礎知識をスライドや動画で紹介しながら、後半は以下の資料とテキストでで基本用筆の練習を行いました。
・テキスト 1
・テキスト 2
・臨書手本
・取組みの様子です
・範書の例と、篆書の文字の例文を学びましたました
・前半の書体の理解では、ICT機器を使用し、プロジェクターで動画を放映し、泰山刻石の舞台となる泰山や、石鼓文を見ることができた紫禁城・故宮の動画を視聴いただきました。