深海5 (文
「香さん、またここに居たんですか?
もう日も暮れました。帰りましょう。」
呼ぶ声の方に視線を向けると、またゆっくりと広がる地平線に視線を移し、ぼんやりとした声で香が答える。
「海を、、見ていました。」
「、、何が見えますか?あなたの瞳には。」
ハッとした顔で弾けるように顔をあげ男を見る。
困ったように眉を寄せ、一瞬切なさを浮かべた表情を見せた男だが、そっと香の両手を包み込むように掬い上げ、
「こんなに冷たくなって、、送りますよ。さあ、風邪をひいてはいけない。」
そう言いながら、立ち上がった香の肩を抱き寄せ緩やかに歩き出していく。
夕暮れの朱が混ざった空の色はどこか別の世界に溶け込んでいきそうな錯覚を覚えて、
思わずぽつりと香の口から言葉が漏れる。
「日本海って、、まるで、、」
「まるで?」
「、、、、。」
元気だろうかーー
ご飯はちゃんと食べているんだろうかーー
隣に並ぶその人と幸せなんだろうかーー
みぞおちの辺りから、いつまでたっても折り合いがつかない想いがギュウギュウと香の全てを締め付けていく。
「香さん、どんなに時間をかけてもいいんです。あなたが心から笑える日が来るまで側に居ますよ。」
見上げた横顔は笑っているのにーー
ひんやりとした右手を男の頰に添え、
「どうしてあなたがそんな顔をするんですか?こんなに、、切なそうな顔、、」
指先に温もりが戻ってくるような感覚がした。
香の右手に手を添えその肩に頭を落として、聞き取れない呟きを男が漏らす。
この肩の重みや温もりは全てを包んでくれそうなほど広くて温かい。
けれど求める先はいつだってーー
「わかっているんです。いい加減にしなくちゃって。自分がこんなに弱い人間だなんて思いもしませんでした。」
「誰だって弱さがあります。それを見せるか見せないかだけですよ。」
頭を上げ、香を見つめる男に言葉を紡ごうとするが、そんなことは必要ないと伝えるかのように緩やかに頭を振り、肩を抱きまた歩みを進める。
夕焼けの色に照らされた日本海の向こう側にはきっと幸せな2人の世界が繋がっているようで。
そうだ。小さな瓶に手紙でも書いて流してみれば届くかな?
そんな限りなくゼロに近い可能性を思い浮かべてしまう自分が可笑しくて、ふっと口元が緩む。
生きていてくれればいいから
その想いはいつだって変わらない
寂しくなればまたここに来ればいい
「どうしてかな、獠みたいなんだよ。」
そう誰にも聞こえぬように、小さく囁くと
夕焼けを背に受けながら願いを重なる海へと託した。
スタジアムでの観戦の公務は粛々と予定通りに進み、プリンセス・ユキ・グレースは次の公務の会食への支度のために足早に獠の横を通り過ぎていく。
すれ違いざま、キュッとジャケットの袖を一瞬掴まれ、2人の視線が交差し、熱を帯びる。
xyz
そう声には出さずに呟きながら泣き出しそうに笑うユキの笑顔はひどく儚げで
らしくなく思考がうまく回らず、獠はただ立ち尽くしていた。
足先から何かに締め付けられる感覚に襲われ、
「くそっ!」
と半ば投げやりな気持ちになりながら、ネクタイに指をかけて乱暴に緩めていく。
香の腫れぼったくなった目元とその表情が気になり、ただでさえイラつく気持ちを抑えていた上に、ユキの気持ちがストレートに交差してきて受け止める余裕すらないことに、体に染み付いた野生的な勘が落ち着け。とシグナルを鳴らしている。
次の公務は過信は禁物だが、事が起こる可能性は極めて低いと頭の中で算段してみる。
皇室との会食を狙うというのは、全てを壊したい場合は有効な手段だが余りにリスクを伴いすぎる。
下手をすればかの大国を巻き込んでの争いになりかねない。
例えクーデターをこの場で成功させたとしても、実際の戦闘状態にならずとも、大国が動けば経済的な制裁だけでも小さな国1つなどいくらでも壊滅まで追い込めるだろう。
それだけ皇室との繋がりはあの大国は深いところで何かの楔で繋がっている。
それが単純に尊敬とか敬意などではなく、もっと不透明な明らかにできないものだということはこの世界では暗黙の了解のように流布していた。
「流石にあの国相手にやり合いたい程狂った相手だとは思えないしな。」
実際は今回の訪問では狙われる可能性は半々だと読んでいるが、即位後のまだ基盤が強固ではない時期を狙ってくる可能性も否めない。
思いのほか疲れを感じている体を休めるように、壁にもたれて小さく息を吐き天井を仰ぐ。
はらりとかかった前髪に、つい先日の香とのやり取りを思い出す。
夕食を済ませて一人愛読書にふける獠の側に、うーんと首を傾げながら難しい顔をした香が立ち、不意に獠の前髪を指で掬い上げた。
あまりに突然の接触に、普段はどうとでもコントロールできる気持ちが大きく振れる。
「な、なんだよ、急に。おれの至福の時間を邪魔するな!!」
「ねえ、これ、ちょっと伸びすぎてない?」
おい!俺の言葉はスルーかよ。と心の中で毒付いてみるが、間合いを至近距離まで詰められ、くるくると指で獠の髪を弄ぶ香の仕草に、ドキリと目を奪われ、反発の言葉は宙に消えていく。
奥多摩以降、香の何気ない仕草や声に体が自然反応しそうになり、素直になるって案外大変なんだな。と素直になり切れていない男が心の中で独りごちる。
「無防備すぎんだよ。」
壁に深くもたれながら視線を床に落とし、苦々しく獠が呟く。
赤い絨毯に視線を落とし、思考の波に揺られていると、馴染んだ気配がこちらに近づいてくるのを感じ、顔を上げて気配の先をじっと見つめる。
視界に飛び込んできたのは、ごく自然に肩を並べて歩く二人の姿で。
まとう空気の柔らかさが、今の二人の距離を示しているようで、まともに直視できず、獠はフイと視線を外した。
あんな風に誰かと並んで歩く香を
おれは望んでいたはずだっただろ?
「獠。ユキさんは?」
近づきながら香が問いかける。
「次の為に支度に行った。」
「そう。じゃああたし達もユキさんに合わせて次の場所に移動しなくちゃね。」
「だな。」
テンポよく進むやり取りを荒木が無言のまま見つめる。
「んじゃあ、行きますか。香、行くぞ。」
「え?ちょ、ちょっと待ってよ。あたしは今回は荒木さんと組んで、、」
香の言葉にイラつく気持ちを抑え込み、返答がわりにグイと無言で腕を掴み促す。
「うわっ。やめてよ!急になにすんのよ!」
掴まれた腕をブンブン振り払いながら、もう片方の手で獠の顔をぐいぐい押して離れようと本気でもがく香に、ピクピクと獠のこめかみの辺りがひくついていく。
「だーーっっ!!おとなしくしろっつーーの
このじゃじゃ馬が!」
「うるさい!離せっ!!」
「いいから来いって言っとるだろーが!」
「い、や、よっ!」
「おまえなあ!」
何故こんなにも頑なになるのか。
いつもなら、日々の日常での反発は度々あるが、仕事となると特殊な場面を除いては、最終的には獠の指示に従っていた香がここまで拒否しているのは、予定を変えることに対してなのか、獠自身になのかが判断がつかずに次第に言葉が怒気を含んでいく。
「オレはこんな奴と組むなんて言ってねーぞ。むしろ逆だろ。その男が生きてきた世界とおれ達の生きる世界は全く違うんだよ。」
少し離れた場所から二人を見つめている男に視線を移すことなく淡々とけれど有無を言わせない口調で獠が香に伝える。
少し夕焼けがかった空の色がガラス張りの窓から差し込み、香の顔に影を落としている。
差した影の色のその下で、薄茶色のまあるい瞳が真っ直ぐに獠の瞳を捉えて逸らすことなく見つめていた。
「、、何が違うの?獠、いつだって言うよね。住む世界が違うって。あたしにはわからないよ、そんなの。この人だって思える人がいるなら、どんな場所だって世界だってそんな事関係なく一緒にいたいって、それじゃあダメなの?」
香の言葉が切々と響き、心の奥で何度も上書きされたかさぶたを綺麗さっぱり剥ぎ取られていくようで落ち着かない。
「そんなの、、無理だろ。交わるべきじゃないんだ。」
「無理なんかじゃない!そうやってすぐに諦めないでよ。だってあんなに獠を必要としているひとがいるんだから。獠だってーー」
「待てよ、なんの話だ?おれは今はあいつの話をだなーー」
「荒木さん?だから、荒木さんもユキさんも同じだよ。住む世界とか裏とか表とかそんなのどうでもいい。」
「どうでもよくないだろ。」
「獠!」
「なんだよ!?」
あらぬ方向に進む会話に気づかぬフリをしながら、
「、、時間です。行きましょう、香さん。」
「まだ話は終わってない。あんたには関係ないはずだ。」
知らぬ間にまた間合いをいつの間にか詰め寄られ、気づくはずの気配の揺れを気付かぬ自身に、ある種の戦慄を覚える。
「香さんは答えを示していますよ。そしてあなたはいつもの冷静さを欠いている。頂いていた情報通りですね。今この場所であなたのそんな感情はいらないんですよ。私が受けた依頼はあなたのサポートもそうですが、彼女を守ることです。今のままでは共に倒れかねない、離れてみるのもお互いのためかと。」
「他人におれたちの事をとやかく言われたくないな。」
「私ではなく、あの方の言葉ですよ。」
やはりかーー
それが最善だと、ベストだと。
頭では分かっているが、槇村や香以外に唯一身を任せられる相手からの言葉はさらに現実を喉元まで突きつけてくる。
ーーーー潮時、、か
面倒なものは今まで全部捨ててきた
感情なんかに振り回される事を何より避けて
生きてきた
必要なものと必要でないものの振り分けはとてもシンプルで、先を望む女はとりわけ慎重に断ち切り遠ざけてきたはずだ。
獠と荒木から少し離れたところで、ガラス越しの景色を見つめる香の瞳のその先には、今とは違う景色が広がっていたのかと思うと、香と出会うまで感じたことのない感情が、またザワリと胸を撫でていく。
飛び込んできたのは香自身だが、選択が迫られる出来事がある度に、背を押すことはしてこなかったのは何故なのか気づかぬフリを長く過ごしてきた先に、ようやく二人の関係が変われるのかと思った矢先にこの出来事だ。
望むことは許されないんだと、今まで葬ってきた者たち全てに足元から絡め取られているようで、獠の思考に黒い影が差す。
ヤタガラスーー
非現実的な組織だが、今現在そこから離れ
与えられた名を持ち、新しい人生を生きている目の前の男は俺よりは幾分かマシなのか
「なあ、、おまえはなんのために生きてきた?」
自然、言葉が獠の口から紡がれる。
「守るためにです。そこにどうしてかなんて理由は必要なかった。生まれ落ちた時から決まっていた私の生きる意味でしたから。」
「日本の根底だからな。おれには関わりがない世界だが、それを守る奴らが日本の至る所に点在しているのはよく聞く話だ。まあ、どこまでが本当でどこからがフェイクかはわからんがな。」
「遥か昔、神話の世界から続く話ですから。それぞれが自分の役割を全うしています。与太話だと思って下さって結構ですが。」
「与太話、、か。神話といえば神武天皇の肩に描かれているのが八咫烏だよな。大和国へと導いたとも言われているな。導きの神だとシンボルマークにもよく使われていて、サッカーの日本代表のユニフォームなんかがいい例だよな。
京都の下鴨神社をはじめ、熊野三山の神社でも神として祀られていて、そしてヤタガラスの三本の足は三つの家系を表しているとも言われている。有名なところが京都、下鴨神社の加茂氏だ。
加茂氏の家系もヤタガラスだと噂には聞くが、陰陽にも通じていると聞いている。あんたはどうなんだ?」
淡々と話す獠を驚いたような表情で見つめながら、荒木が口を開く。
「驚きましたよ、冴羽さん。あなたは日本に来たのは10年程前だと聞いています。それなのにそこまで色々ご存知とは。」
「日本に渡ってきた当時は日本語がまだうまく話せなくて、情報を得るためと日本語の勉強を兼ねて文献を読みあさっていたからな。
とんでも話も含めて情報として頭に入っている。」
日本に来たばかりの頃の自身の姿が、ちらりと脳裏を掠める。
弱くなったのか?おれはーー
少なくとも誰かの存在でこんな風にミスを重ねることはなかったはずだ。
「束ねるものたちは陰陽にも通じていますが、私は一族でもそちら側の方ではありませんでしたから、幼き頃から戦術、戦闘のスキルなどを叩き込まれていました。いわゆる実働部隊です。」
「そうか、、ヤタガラスを離れた後はどうなる?その存在を好都合だと狙われることはないのか?」
「私たちは最低限の情報のみ与えられています。国体を揺るがすほどの機密事項はトップのみの共有です。任を解かれた者を捕らえたとしても、なんの得にもならないんですよ。
むしろ返り討ちにあうリスクの方が高い。」
荒木の言葉を頭の中で整理しながら、確認作業のように疑問を投げかけていた獠だが、これがやはり最善なのかと心の中で出した答えに思わず目を閉じ、ため息が漏れる。
先程から視覚の端でずっと捕らえている香の姿にいつまでたっても決断は揺れ、それでもまだと可能性を探るこんなおれはあの頃とは別人のようで。
「獠。」
おれの側にあったのはいつもこの声なんだと、ぎゅっと目を閉じ、喉元に熱いものが込み上げてくる。
「ごめん。獠がそう言うならそうした方がいいんだよね。あんた、仕事に関しては間違いないから。」
真っ直ぐに見つめる澄んだその瞳は、やはりこれから先もずっと黒で覆われている未来しかないおれには相応しくない。
おまえは自由になるべきなんだ
ただ単にあの頃に戻ると思えばいい
槇村や香に出会う前のあの頃に
不意に顔が近づいた。
背広の襟を握りくいっと引き寄せてきた香が心配そうに 獠の顔を覗き込んでいる。
鼻先が触れ合うまで五センチ。
本当にこいつは色々心臓に悪い。
「大丈夫?ねえ、獠、行かなきゃ。」
どこに?と一瞬間の抜けた返答が思い浮かび慌てて頭を振りながら香に向き合う。
「なんでもねーよ。行くぞ。」
くるりと背を向け歩き出そうとした獠の額に、ふわりと冷たいものが触れた。
「獠?うん?大丈夫?熱はないみたいね。」
右手を獠の額に当て、首を傾げながら香が伝える。吸い付いてくるような肌の感触の心地よさに、体の色々な部分が反応しそうで、悟られぬよう、
「大丈夫だっつーの!それより行くぞ!」
と憎まれ口を聞きながら、体を離し階下に止めている愛車の元へと歩き出す。
「待ってよ!もう、、獠ったら!
荒木さん、ごめんなさい。また現地で!」
申し訳なさそうにぺこりと一度頭を下げ、足早に香が去っていく。
あれはいつの頃だったのかーー
小さくなる香の背中を見つめながら、荒木の脳裏に幼き日に聞いた父の言葉が蘇っていく。
「ヤタガラスは日本の守り神だ。その名に恥じぬよう生きていけ。」
年端もいかない頃から名も何もかも捨て、
ただ守るためにだけ生きてきた。
そのことに不満などはない。
任を解かれた際も、戦いに支障が出るほどの後遺症を負ったからだと、自分の中での気持ちの折り合いをつけてきた。
日常生きていく分にはさほど妨げにならない事柄だったが、最前線で守り戦うには、リスクが大きすぎるハンデを背負った自身を、新しい生き方へと招き入れてくれたかの方の願いはなんとしてでも叶えたいという気持ちを糧に生きているつもりでいた。
「つもりでいたんだ、、、」
心に灯ったこの灯火は何故だかひどく甘く心地がいい。
こんな感情は初めてで、先程の閉ざされた時間がもう少し。とさえ思った自身に、自嘲気味の笑いが漏れる。
「冴羽の事は言えないな。」
不思議な女だと思う。
あまりに普通で、何故あの男と一緒にいるのか疑問にも思ったが、言葉のやり取りを重ねる度に、ああ、彼女が。ではなく、彼が。なんだなと理解した。
あの柔らかな光はこんな世界に身を置くものにはたまらなく切望する光だと、かの方が言っていた言葉の意味が当たり前のように胸に染み込んでいく。
「あやつが今のままで気づかないのなら、ダメになってしまうかもしれんのう。それほどにあの女王の件は香くんの心に深く根を張り癒されてはおらぬ。見せぬ感情をあやつが何処まで読めるかだが、読めたとしても非情にはなれない優しさが結局は更に深く根を張らせる事になり、香くんの優しさに甘えているままでは、いつかは結局は無理がくるという事じゃな。」
「離れるのもやむを得ない。と?私の最優先すべき事は槇村香さんを守る事でよろしいですか?」
綺麗に手入れが行き届いた日本庭園に控えめに咲く寒桜の花を見つめながら、白髪の老人が幾分か寂しそうに呟く。
「そうじゃ。心を乱しかねないあやつのサポートも頼むが、最優先はそんなあやつを庇って無茶をしかねないあの娘を守ってやって欲しい。今のままではダメなんじゃよ。今のままではな。今回を乗り切ったとしても、押さえ込んだ膿はどこかで溢れ出すじゃろう。
人の縁とは不思議なもので無理に繋ごうとせずとも、本当に結ばれる縁があるのなら、必ずまた巡り会うはずじゃ。離れるのもまたよしなんじゃよ。ただな、、」
「ただ?」
「あの娘は生きていくだろう。例えどんなに時間がかかってもな。問題はあやつじゃ。果たして耐えれるかのう、、」
今の今まで表情を変える事なく冷静さを保っていた荒木の瞳が僅かに揺れる。
「冴羽にとって彼女の存在はそれほどにですか?」
荒木の言葉に小さく頷きながら、白髪の男が答える。
「全てじゃよ。あやつの生きる意味そのものだ。もうとっくに気づいているはずだが、あの男もな。」
「槇村香という存在が何故そこまでなのか私には分かり兼ねますが。資料で拝見した以外にも何か特殊なスキルがあるのでしょうか?」
「ふぉっふぉっふぉっ。お主もまだまだじゃのう。」
肩を揺らせ愉快そうに老人が声を上げて笑う。
「、、どういう意味でしょうか?」
「せっかくのあやつにも負けないぐらいの色男ぶりをもっと発揮したらどうかということじゃよ。」
「、、さっぱりわかりませんが。」
目を細め、荒木を見つめ老人が言葉を続ける。
「せっかく新しい人生を歩き始めたんじゃ。もうそろそろおまえさんも大事なひととやらが現れるとよいのう。そうすれば自然わかるはずじゃ。青春じゃよ。青春。よいのう若いもんは。ふぉっふぉっふぉっ。」
再度楽しげに笑う老人をぴくりと眉を釣り上げ荒木が軽く睨む。
「光なんじゃよ。あの娘は。あやつにとってやっと見つけた光なんじゃ。
今更それを失くして生きていけるかのう、、、
だがそれも自身が蒔いた種のせいじゃ。誰にもどうすることもできんのう。」
ふうとため息を一つ吐き、言葉を続ける。
「どんな選択になろうともワシは二人を変わらず見守るつもりじゃよ。どうかあの娘を守って欲しい。あの男のためにもな。」
守りたいと思った。
それは任務だからではなく、自身の意思に変わっていることに気づき、戸惑いと共に先日聞いた言葉に思いを重ねる。
「大事なひと、、か。」
冴羽と彼女が並んで歩く姿にほんの少しだが、胸が痛んだのは何故か。
「槇村香、、」
そう呟くと二人の背を追うように荒木もまた
次の持ち場へと急ぎ立ち去って行った。
チカチカと左へのウインカーを点滅させながら、クーパーが都心へと経路をたどっていく。
次の会場は皇居内にあるため、そのセキュリティは何重にもなっており、戸籍を持たない獠は冴子の計らいでセキュリティ検査に必要な一式をあらかじめ渡されていた。
「こんなものが必要だなんて固っくるしいよな。」
そう口を尖らせて不平を漏らす獠に、冴子の冷えた声が飛んでくる。
「何言ってるの。当たり前のことでしょ。あなたが自由にいたいのは勝手だけど、まともに暮らしていたらいつかは必要になるものよ。」
「、、なんだよ、機嫌悪いな、おまえ。」
「、、ねえ、獠、いい加減にはっきりさせたら?香さんいつもと少し様子が違うわよ。気づいてるんでしょう?」
「そうかあ?」
視線を逸らし、それ以上話を繋げようとはしない獠をしばらく見つめていた冴子だが、無言のままドアに手をかけ、
「誰かの為に、ほんの少しの不自由さを増やしてみる、、なんて事、あなたには無理、、なのかしらね?」
そう突き放すように伝えて、ドアを閉じた。
「、、好き勝手言ってくれるよな。」
「獠?なに?」
「んー?ひとりご
「ふーん?そっか。」
車内に満ちる空気は穏やかだ。
香は窓際に頬杖をつきながら、流れていく景色をぼんやりと見つめている。
「次は格式高い場所なんだからね。普通とは違うんだから、いつもの悪い癖は絶対やめなさいよ。もし変なことしたらーー」
獠の方に振り向きながら、握りしめた香の両手に不穏な気配を感じ、
「わあってるよ!!おれはいつだって仕事はちゃんとしてるだろうが!」
「誰が?」
「おれが。」
「ちゃんとしてる?」
「してるだろ。」
「仕事を選り好みばっかりしてるくせに?」
「うぐっ!!?それとこれとは関係ないだろ!」
「ビラ配りも真面目にしないのに?」
「だあっ!!香っ!」
「あんたの日頃の行いが悪すぎるんでしょ。」
ぷうと膨れて助手席で腕組みをする姿は、幼く見えてそういえば出会ったあの頃もこんな季節だったなと、ハンドルを回しながら口角が緩やかに上がっていく。
シュガーボーイだったのにな。
「ねえ獠、次の場所って偉い人もたくさんくるんでしょ?大丈夫かな?そんな場所で銃撃戦なんか始まっちゃったら、万が一その人達を人質に取られりしたら大変だよね。」
僅かに緊張感を漂わせ、香が獠に問う。
「あー?まあ、その可能性は限りなく低いだろうな。連中も事を起こす場所ぐらい選ぶさ。一勢力が国相手に喧嘩を売るって事がどんな事かわかっているだろうからな。少なくとも今の段階ではそんな無茶はしないだろう。」
「だけど、じゃあそいつらをなんとかしないとずっとユキさんは狙われるってこと?」
「それはどうだろうな。今は即位後で基盤が脆いがいずれ落ち着いたら、不穏分子に対してもなんらかの対応をしていくはずだ。
どこの国にも、大なり小なり取って代わりたいと暗躍する奴らはいるさ。だからこそ周りに信頼できる優秀な人材が必要なのさ。
トップだけでは国は上手く機能しないからな。」
獠の言葉に考え込むようにしばらく黙っていた香だが、
「だから、、、だから獠が必要なんでしょう?」
そうぽつりと呟き、眉を寄せて獠をじっと見つめる。
「、、なんて顔してんだよ。」
「、、なによ。こんな顔だし。だってーー。」
「あのなあ、、俺じゃあ役不足だよ。もっといい奴がすぐ近くにいるさ。」
ポンポンと左手で香の頭を軽くノックしながらくしゃくしゃと頭を撫ぜていく。
絡みつく毛先が離れるには名残惜しく、指先で毛先を弄びながら、獠が答えた。
「だけど、ユキさんが望んでるのは獠なんだよ。獠じゃなきゃーー」
「香。その話はもういい。おまえは自分のことだけを考えろ。今の仕事の事とな。」
「なに、、それ?どういう意味?」
「俺なんかの側にいるのももうそろそろ潮時じゃないか、、ってな。」
言いながらどこか他人事のように現実味がない。おれは何を望んでいる?
「獠、、、」
香の瞳が大きく開かれる。薄茶色の瞳はゆらゆらと揺れ心の動揺を告げている。
それを隠すかのように、顔を伏せ、首元に手を添え、ぎゅうと何かを握りながら静かに香が口を開く。
「そっか、、そうだよね。今このタイミングでユキさんと再会したのもきっと獠にとって必要な事だからだよ。あたしはもう大丈夫だから、
獠は獠が思う通りに生きて。」
予想していたとはいえ、香の言葉に衝撃が走る。
「そうじゃなくて、おれは、、だな。」
何故だか上手く言葉が繋がらない。
今が背を押す時なんだと頭ではわかってはいるが、先程の言葉にすんなりと同意した香がまともに見れずに、左手で軽く眉間を押しながら荒波のように押し寄せる気持ちをやり過ごす。
おれは香が否定することをどこかで望んでいたのか
「獠!前!前見て!」
左側から香の鋭い声が飛ぶ。
「んあ?、、!おっと、あぶね。」
視界の先にいきなりコンクリートの壁が飛び込んできて慌てて獠がハンドルを切った。
「もう!!びっくりした!ちゃんと前見て運転して。もしかして獠、寝不足とか?大丈夫?」
「ああ、、?単なるよそ見運転。」
「ええ!?なにやってんのよ、もう!」
黄色い点滅が赤に変わり、クーパーを減速しながら停車線に止め、ギアをパーキングにカツンと押し込む。
「はい、これ飲んで。しっかりしなさいよ。」
「おわっ!つめてー」
頰に冷たい感触を感じて香の方に顔を向けると、呆れ顔でスポーツ飲料を獠の頰にグイと押し付けている。
「、、サンキュ。」
受け取りグイと喉に一飲み押し込むと、カラカラに乾いた全てに潤いが行き渡っていく。
こちらを覗き込んでいる香の真意が探りたくて、その瞳から逸らすことなく
「なあ、、、」
と獠が問いかけた。
「なに?」
「おまえさあ、、もしも、もしもさ、この仕事辞めたらどうするんだ?」
「、、、そうね、どうしようかな。まだわからないかな、、」
「そうか、、」
「うん。」
信号が青に変わり、ゆるやかにクーパーを発進させていく。車の流れはとても緩やかで、帰宅時の人波と同じ程度の速度で流れている。
「だいぶ混んでるね。間に合うといいんだけど。」
そう伝える香の様子はいつもと変わらぬ様子で獠の心にまた一つ闇が落ちる。
「なあ、、香。」
空いた左手を香のそれに重ねた。
ぴくりと少しの動揺が伝わるが、離れようとはしない事に内心安堵し、そっと指を絡ませる。
「どうしたの、、?」
左側から欲しかった全てが伝わる気がした。
この手も声もその全てが誰かのものになるかもしれないという現実に重ねた手が僅かに震え、あの時あの場所で同じように手を握り肩を抱いて送り出した気持ちの全てとは、まるで違うと伝えることができたなら、この手を離さずにいられるのかと、更に深く握りしめる。
「獠。」
いつも側にあったアルトがふわりと降りてくる。
「いつか、、また会えたらいいね。」
「、、なんの話だよ。」
香の覚悟にまだ向き合えず、受け入れられない自身が堪らなくて、こんな時の気持ちの行き場がわからない。
おまえはもう決めたんだな
覚悟が足らなかったのはいつだっておれの方だ
「あたしは大丈夫だから。」
「だから、おまえそんな事言ってんじゃーー」
「幸せに、、なってね。今まで守ってくれてありがとう。」
そんな言葉は聞きたくない
右手はハンドルを握りながら、肩を抱き寄せこの腕に閉じ込める。
ここから飛んでいくなとーー
「行く、、なよ。」
「獠?あたしはここにいるよ。獠がユキさん
と一緒になれるまでちゃんといるから。」
「、、ぜんっぜん、、わかってねーよ、おまえは。」
肩口に揺れる癖のある柔らかな香の髪に顔を埋めながら、絞り出すように獠が呟いた。
「、、わかんなくてもいいよ。あんたが幸せならそれで。」
「、、アホ、、」
「どうせアホですよーだ。」
獠の腕に体を預けながら、香が穏やかに笑う。
「なあ、香、、」
なあに?と見つめるその丸い瞳にずっと俺のすべてをうつしていたいんだ。
「香。」
「なに?」
「香。」
「、、へんな獠。」
そう呟くと目を閉じ、心地よい揺れにまた揺られていく。
決意と後悔と未練と覚悟と渇望とそんなぐちゃぐちゃになった全部を抱えながら、左手にある温もりの愛おしさに目眩さえ覚え、目的地へとクーパーを片手で緩やかに走らせていく。
きっとこの根は密やかに知らぬ間に、香の心に侵食していたのだろう。
親指でそっと撫でた香の首筋がふるりと揺れる。
引き寄せ、自身の左頭部を香の額に二度三度と擦り付ける。一瞬、息を飲むような緊張感が香の中に走るが、
「獠。」
と柔らかな光をまた落としてくる。
肩を抱くその手にそっと香が手を当て頰を寄せて、
「大切だったよ。あなたの全部が。」
そう言って花が咲くように笑うのを、ただただ抱き寄せる事しか出来なかった。
「ねえ、シンイチ、まだかしら?」
「、、誰がですか?」
ちらりとユキの方に視線を移し、素っ気なくシンイチが問いかけた。
「うん、もう!わかってるくせに!」
「もうすぐ時間です。最終確認までに到着しなければ先に行きますよ。」
「駄目よ。冴羽さんがいなきゃ私のガードは誰がするのよ。」
「日本の警察もとても優秀ですよ。冴羽さんはあくまでサポート的な立場です。あなたが優先すべきは今日の日程を時間通りにきちんとこなす事です。わかりましたか?」
シンイチのユキを諭すような言葉に、ユキが負けじと応戦していく。
「わかりましたか、、って。あなた私と同い年でしょう?どうして上からなのよ!」
「あなたが子供みたいなことばかり言うからですよ。」
「シンイチ!」
顔を真っ赤にして両手を握り、ユキが抗議の声を上げたのを横目に
「、、到着したようです。」
とシンイチが静かに告げる。
振り向いたユキの先には、香と並んで会場に入ってきた獠の姿があり、心臓が一つトクン。と跳ね上がった。
今すぐ触れたいと、はやる気持ちで駆け出すが、獠の視線の先を辿り先ほどとは違う胸の高鳴りで一瞬、ためらいが生まれる。
どうしてそんなに切なそうに香さんを見るの?
あなたはやっぱりーー
それでも。とためらう心を捨て
「冴羽さん!」
と香を横目に獠の胸の中に飛び込んでいく。
香の瞳が大きく開きそして揺れた。
ごめんなさい、香さん。
あなたを傷つけることになっても、それでも私はーー
「香さん、時間です。行きましょう。」
先に到着して、成り行きを見守っていた荒木が香を促し持ち場へと共に歩んでいく。
獠の視線の先の香と、香の視線の先の何かは
きっともう交わることはないのだろう。
諦めにも似た感情を抱え、胸にある重みを
引き離すこともできずに、混沌の中へと思考は沈み、そして願いを手放した。