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富士の高嶺から見渡せば

中国とどう向き合うべきか⑤

2016.04.04 15:53

5)中国を相手に領土・領海問題に対するには?

・経済力と軍事力にモノを言わせ、自信をつけてきた中国が、周辺地域への領土的野心、覇権主義的な国家戦略を隠さなくなったなかで、尖閣諸島や南シナ海の領土・領海問題で、われわれは中国とどう向き合えばいいのか、を考える。

・まず、尖閣諸島や南シナ海について、中国側は、「中国」古来の固有の領土だと主張しているが、その「中国」とは何を指すのかが問題となる。以下は、歴史学者岡田英弘「歴史とはなにか」(文春新書)からの受け売りである。

そもそも19世紀末まで「中国」という国家も、「中国人」という国民も存在しなかった。そもそも中国語には「国家」、「国民」、「民族」などの近代的概念はなく、これらの言葉は、欧米の考え方を輸入した際、日本人が漢語を借りて作ったことばだった。さらに「中国」という国名が誕生した裏にも日本が深く関わっていた。

・日清戦争後に日本に大量にやって来た清国留学生たちは、自分たちが住む土地を日本人が「支那」と呼んでいることを知った。というより、自分たちが暮らす土地には、歴史を貫いて共有できる地名がないことを初めて知った。「支那」は、天竺(インド)などと並んで仏典に出てくることばだが、江戸時代、新井白石は宣教師たちを取調べるなかで、彼らが唐の国のことをチーナ、シノと言っているのを聞き、それに近い発音の「支那」を仏典から借りて使ったのが最初だという。清の留学生たちはこの「支那」を便利な言葉として清国に持ち帰った。しかし、「支那」はただ単に音訳に過ぎず、この漢字自体に意味があるわけではない。当時の支配階級である満州人は中国のことを満州語で「真ん中の国」と言っていた。「支那」という地理的概念に、満州語の意味だけを借り、漢字を当てたのが「中国」というわけである。

・彼らは、自分たちが暮らす土地の一般名詞さえ持っていなかった。ということは、王朝の変遷を経てなお、歴史・時代を超えて自分たちの国土を指す、共通の言葉・地理的概念さえ持っていなかったということでもある。もともと中国には領土・国土、国境という概念はなく、ただ「天下」という世界観があるだけだった。天下とは、すなわち「天子」(皇帝)の徳が及ぶ範囲ということであり、その徳に感化されない地域は「化外の地」と呼ばれた。(日清戦争による敗北で、台湾を日本に割譲した下関条約の交渉の際、全権代表の李鴻章は台湾を「化外の地」と呼んだ)。要するに「天下」の範囲といっても、明確な境界線があるわけではなく漠然とした辺境地帯があるだけだった。しかも、人が住んでいない無人島やサンゴ礁の島に天子様の徳が及ぶわけがない。尖閣諸島や南シナ海は、「中国」古来の固有の領土だと、いくら彼らが主張しても、その古来の「中国」自体が19世紀末まで存在しなかったのである。まして、「国家」や「国境」という概念さえ持っていなかった彼らに、そんな言い分を主張できる根拠、面子はないはずだ。

・沖縄(琉球)の帰属をめぐって「朝貢冊封体制」が取り上げられることがある。岡田英弘先生によると、この「朝貢冊封体制」はいわゆる「宗主国と保護国」といった外交関係、国際関係を指すものではないという。つまり朝貢とは、ときの皇帝個人に対して外国の君主や部族長が、個人的に敬意をあらわす手続きにすぎず、せいぜい「ご近所づきあい」として手土産を持って挨拶に行く、仁義を切る、といった意味合いに過ぎない。皇帝はむしろ自身の権威付けのための宣伝の場として朝貢の儀式を利用した。

冊封とは、朝貢を受けた皇帝が、相手に辞令(冊)とはんこ(印璽)を与えることで、琉球の国王が逝去し新国王に交代した際に、琉球側が冊封使の派遣を要請し、それに応じて皇帝の使いとしての琉球冊封使が派遣された。明・清500年余を通じて計23回の冊封使が沖縄に渡ったが、冊を封じるとは、親から子へ代替わりを認め、身分証明書と貿易特権の継承・引継ぎを認めることだった。本来、宗主国と保護国という外交関係にあるなら、もっと頻繁に保護国琉球を訪れ、管理監督すべきだが、実際には単に弔問外交のような儀礼的な交流しかなかった。

・ところで、中国は本来「大陸国家」であり、海を怖れた民族だった。明の時代には、沿岸を倭寇が襲い、倭寇対策に追われた。しばしば「海禁政策」が発令され、海に近い沿岸部で暮らす住民は海沿いでの居住・暮らしを禁止され、海岸から離れた内陸数キロまで強制的に移住させられることもあった。また明・清の時代を通じて密航・密貿易対策のため、同じく「海禁政策」が発動され、外洋航海や海上交易、沿岸漁業なども禁止されたこともあった。

・大陸から琉球への冊封使は、あわせて23回だったが、琉球側から大陸には記録に残っているだけで最初に入貢した1372年以来、合計490回もあった。平均して年に一度は中国に船を出していたことになる。国王逝去の知らせや冊封使の派遣要請の使いもあったが、そのほとんどは朝貢に名を借りた貿易目的の往来だった。要するに尖閣諸島を含めた東シナ海を活動の場とし、頻繁に行き来していたのは、沖縄の海人(ウミンチュ)たちであり、中国側はこの海域の地理はまったく理解していなかった。その証拠に、冊封使が琉球に渡るには、沖縄の海人が福建省まで出迎えに来て、水先案内人を務めなければ、沖縄までの航海もできなかった。冊封使の派遣には、船の建造から200人及ぶ随行員の編成まで準備に5年から10年の時間がかかった。冊封使に任命された役人にとって、東シナ海を渡るのはほとんど「死出の旅路」で、死を覚悟し、皆いやいやながら海を渡った。彼らが後に書いた旅行記「冊封使録」には、鯨の存在さえ知らず『大魚』とだけ記していた。また彼らは尖閣諸島の島の名前はしばしば記録に残したが、それはただ単に航海の目標となったからであり、沖縄の海人から聞いた名前だった。尖閣諸島のことは確かに記録に残したが、中国に尖閣諸島を軍事的あるいは経済的な活動の場として実効支配した証拠は何もない。そんな彼らに尖閣は「中国古来の領土」「核心的利益」などとは言わせない。

・中国は旧ソ連の崩壊過程をつぶさに学習している。そのロシアは、ソ連崩壊のあと周辺各民族の独立を許した。70%の領土と石油資源をロシアは占有し、少数民族地域を独立させるほうが経済的にも有利だったからだ。一方、中国は、少数民族地域の分離独立は中国自体の崩壊に繋がる。中国は、人口の9割は漢族だが、漢族本来の国土は40%しかない。鉱物資源のほとんどはウイグルやモンゴルなど人口8%の少数民族地域にあり、水資源の半分はチベットに頼っている。

・しかも、辺境・周縁部はどこも不安定で中国への不満を抱えている。その分離独立を許さないために締め付けは厳しくなり、中国はますます強権的になった。かつて天子の徳で「天下」を支配したという「華夷秩序」は崩壊し、もはや成り立たなくなっている。シルクロード経済圏やAIIBも、中国の思惑・理念に従って世界経済のルールを作ろうとする試みだが、唯我独尊、異質な中国には世界ルールを作らせないというのが、オバマのTPP戦略でもある。中国による南シナ海の軍事拠点化や中国の経済覇権に対してはASEAN諸国の反発が広がり、中国を東南アジア地域の盟主として仰ぐことの危険性は十分に意識されている。