「ジャガイモと世界史」⑨塩漬け肉からの解放
長らくヨーロッパにおいては、はじめから食肉用と決めて飼育する大型の家畜は豚しかいなかった。馬は大切な交通手段であり、戦争時の戦力。牛は広い畑を鋤で耕すための労働力であり、貴重なたんぱく質源の牛乳を提供。羊も、羊毛は麻と並んで衣料品の大切な素材。だから、馬も牛も羊も食用にすることは考えられなかった。
しかし、豚は餌の面で問題がある。餌として牧草や干し草を与えればよい馬、牛、羊と違って、雑食性の豚の場合、餌が人間の食料と競合する部分が多い。農民自身の越冬用の食料を確保するのがやっとの状況下では、すべての豚を越冬させるだけの餌を備蓄することは極めて困難だった。そのため秋の終わりになると、翌年の繁殖用の種豚だけを残して、カシの森へ連れて行ってドングリを腹いっぱい食べさせて丸々と太らせ一斉に殺してしまう。そして塩漬けにした豚肉を翌年の秋まで食べ続ける。これが、長い間のヨーロッパの農民の基本的な食生活だった。中世ヨーロッパでは、自家製塩漬け肉用の大きな仕込み桶を持たない農家はなかった。
しかし、この塩漬け肉のまずさと言ったら、それはひどいものだったようだ。塩漬け肉はムギ粥やスープに入れて煮込んでから食べるのだが、煮込んだからと言って塩味や臭いが簡単に抜けるわけではない(「胃袋に押し込む」ためにニンニクや辛子【マスタード】は使われたが)。たんぱく質を摂取するためには、鼻をつまんで我慢しながら、臭くて塩辛いうえにまずい塩漬け肉を食べ続けなければならなかった。
塩漬け肉が臭いのは金持ちだって同じ。彼らは塩漬け肉の臭いを消すために胡椒などの香辛料(スパイス)を用いる。ところが東洋特産の香辛料は、当時はきわめて高価だった。欧州へ届けられるまでに何人もの商人の手から手へと渡るため、どんどん値段が上がり、欧州の市場に出るころには等量の銀と同じ値段になってしまう。16世紀の英国では、コショウが1粒単位で売買されたほどで、ロンドンの波止場では、倉庫の番人がコショウをくすねることのないように、衣服のポケットはすべて縫いつけさせていたという。そこで、海路により、産地直送の香辛料を安く大量に入手することが、当時の欧州の人々にとっての悲願となる。その切実な思いが、大航海時代の発端になったといってよい。ポルトガルはアフリカを廻って、後れを取ったスペインは大西洋を横断する西廻りで。
しかし、香辛料をいくら使おうと新鮮な肉が手に入らない限り問題の根本的解決には至らない。そしてこれを実現したのが実はジャガイモだったのだ。ジャガイモの栽培が広がるにつれて、余ったジャガイモは豚の餌として利用するようになる。それだけではない。ジャガイモの食料としての価値が高まるほど、小麦以外のムギ類は食卓から遠ざかる。麦芽(ビールやウィスキーの原料)を作るための大麦や、黒パン作りに使うライ麦などを除く小麦以外のムギもまた家畜の餌として使われるようになった。こうして、ふんだんにある餌のおかげで、冬の間でも豚を飼育できる環境が整い、季節を問わず必要に応じて食用に回すことが可能になった。ようやく、いつでも新鮮な肉が食べられるようになったのである。だから、ヨーロッパの食卓をまずくて臭い塩漬け肉から解放したのは、ヨーロッパが求め続けてきた香辛料ではなく、ジャガイモだったのである。
家畜の餌の量の飛躍的増大は、豚の飼育できる数を大幅に増やした。また、それまでは食肉用に飼うことなど考えられなかった(生体になるまで時間がかかるため)牛までも農民が肉を目的に飼うようになる。こうして家畜の飼育頭数は増え、肉の消費量は急増。ヨーロッパに本格的な肉食社会が到来した。不足しがちだったエネルギーはジャガイモによって完全に充足され、年間を通じて新鮮なタンパク質も十分に供給されるようになり、国民の体位は向上し、人口は増え、国力は高まった。ヨーロッパ文明が世界に覇を唱える時代をもたらしたのは、ジャガイモであったと言っても過言ではない。
豚に与えるドングリを落としている男性
中世ヨーロッパの豚の飼育 ドングリを叩き落して豚に食べさせている(『ベリー公のいとも豪華なる時祷書 11月』15世紀)
コショウの収穫(『東方見聞録』フランス語版)
ジュール・バスティアン=ルパージュ「ジャガイモの収穫」メルボルン ヴィクトリア国立美術館 1879