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神仏習合

2023.12.25 02:33

山王鳥居の特徴は明神鳥居の上部に三角形の破風(屋根)が乗った形をしていて、仏教の胎臓界・金剛界と神道の合一を表しているとされます。山王信仰の象徴であるため、山王鳥居と呼ばれています。 山王信仰とは、最澄が比叡山に天台宗を開いた折、唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた日吉大神を「山王権現」と称する、神仏習合の信仰です。 独特の鳥居である事から、分霊社の中にはこの鳥居を模して建立する例も少なくありません。 (例)東京赤坂鎮座 日枝神社など  より


http://www.asahi.com/travel/hikyou/TKY201103270195.html  

【日本の伝統 神仏習合】より

ドンドコ! ドンドコ! ドンドコ! ドン!

「仏説摩訶般若波羅蜜多心経~!」

 2009年3月、伊勢の金剛証寺本堂には、恰幅の良い若い僧侶が打ち鳴らすビートの効いた太鼓の音と、力強く唱える般若心経が響き渡っていた。隣のお客様は、「ロック調で良いですね!」としきりに感心している。ご祈祷をお願いした私たちは、普段は入ることができないご内陣に正座して、真摯な気持ちで読経に聞き入っていた。

 「お伊勢参らば朝熊(あさま)をかけよ、朝熊かけねば片参り」

 古来、このように唄われてきた金剛証寺は、伊勢神宮内宮の北東約5キロメートルの朝熊山中腹にあり、「伊勢神宮内宮の奥の院」として、お伊勢参りでは必ず訪れる場所だった。しかし、「明治初年の神仏分離の際、お伊勢参りから外されてしまったのです」と、寺の僧侶は言う。

 ご内陣には数々の仏像が祀られているが、中央にはご本尊である、閉じられた厨子内に安置された秘仏の虚空蔵菩薩像(宇宙のように無量の福徳と智恵を蔵する菩薩)と、伊勢神宮内宮のご祭神・天照大神を現す大きな鏡が前後して祀られていた。

 脇侍として祀られているのは、雨宝童子(うほうどうじ)と言う聞き慣れない仏像である。調べてみると、雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに日本の日向に降臨されたときのお姿で、宇宙の真理を現す大日如来(別名:盧遮那仏、るしゃなぶつ)の化身として、弘法大師空海が朝熊山でのご修行中に感得され、彫られた尊像だという。つまり、神仏習合時代、雨宝童子は天照大神と一体と考えられていたのであり、神仏分離までは、全国から来たお伊勢参りの参拝者が、天照大神のご神体として、雨宝童子像を購入して故郷に持ち帰ることもあったのだ。

 伊勢神宮と金剛証寺を訪れた直後の2009年7月、私は、東京国立博物館で行われた「伊勢神宮と神々の美術展」を見に行った。そこでは、更に驚くべき「新事実」を知る事となった。

 伊勢神宮にも、飛鳥時代の698年には神宮寺ができて、仏教の影響が入り始めた。奈良時代の東大寺建立に際しては、伊勢神宮に祈願をしたところ、聖武天皇に「天照大神は大日如来であり、本地は盧遮那仏(=奈良・東大寺の大仏)である」とのご神託がくだったという。

 それが、平安時代になり、神仏習合思想の「本地垂迹(ほんじすいじゃくせつ)」が流布すると、天皇家の皇祖神である天照大神は、大宇宙の真理である盧遮那仏が、衆生を救済するために神の姿となって降臨したものと考えられるようになった。つまり、毘盧遮那仏と天照大神の関係を、「上司と部下」、または、「親子」のように捉えた。この考え方が、日本人の一般的な認識として神仏分離まで続くことになったのだ。

 その後、東大寺は、大仏再建の度に、大々的な伊勢参宮を執行して神前読経を行い、南都・奈良をはじめ全国の僧侶の参詣も時代を追って増加していった。その中には、鎌倉時代に法華神道を創唱することになる日蓮上人もいる。

 展示物には、伊勢神宮の内宮外宮の「御正体(みしょうたい)」として、密教の2つの仏の世界である金剛界と胎蔵界の大日如来を中心とする曼荼羅があった。内宮を胎蔵界、外宮を金剛界と同体と考えての曼荼羅である。

 一方、神宮に仕える神官にも仏教は浸透していった。神官の中から出家する者は跡を断たず、神官により建立された仏像が展示され、神官の葬儀は仏式で行われ、神官の極楽往生を願って写経された仏経典を経塚に埋めた際に使われた「経筒」も展示されていた。

 その様な伊勢神宮の神仏習合の終わりの始りが、江戸時代初期の幕府の政策だった。1669年の遷宮の際には、それまでの慣例を排して、寺院が勧進することを止めさせ、更に、伊勢神宮の仏教色を排除するようにと、伊勢神宮の実質的最高責任者である内宮長官に要請している。難色を示したのは内宮長官の方だった。しかし、幕府は将軍や老中の意を受けたものとして強く迫ったため、長官は誓約せざるを得なかったという。その神仏習合思想への最後のとどめが、明治初年の神仏分離政策だったのだ。

 私は、今回の記事執筆のため、滋賀県大津市の比叡山の麓にある日吉大社を訪れた。平安時代に天台宗を開いた伝教大師最澄により比叡山上に延暦寺が建立された後、天台宗の護法神や伽藍神として神仏習合が最も進んだ神社のひとつである。平安時代からは日吉大社の役職の任命権は延暦寺にあり、江戸時代には経済的にも延暦寺の管理下となった。その日吉大社が、公布されたばかりの神仏分離令を最初に実行に移す舞台となったのだ。

 1868年、明治新政府の神祇官事務局(祭祀・宣教をつかさどる政府の最高官庁)を中心とする人々は、日吉大社内の仏像、梵鐘、経典、掛け軸などを境内から放逐し、燃える物は火にくべ、金属は大砲や貨幣鋳造のために押収した。これが神仏分離の先例となり、廃仏毀釈の嵐が全国に吹き荒れることになった。

 劇的だったのは、寺院でありながら、中世に「守護大名」としての勢力を誇り、現在の奈良県を実質的に支配した興福寺だ。藤原家の氏寺である興福寺は、やはり藤原家の祖神を祀る春日大社を鎮守として管理下に置いていたが、廃仏毀釈で広大な寺領は没収され、百名以上の全ての僧侶は還俗か春日大社の神官にさせられた。興福寺は廃寺同様となり、奈良時代以降の多くの経典は商店の包み紙として使われ、千体以上の仏像は流失して破壊されたり薪として燃やされたりした。更に、今でこそ国宝の五重塔は、現在の2万円程度で売り飛ばされた。その結果、旧境内地の大半は、現在では、奈良県庁、県警本部、税務署、奈良公園などの公共施設の敷地になっている。更に、明治政府の廃寺政策は全国規模で展開され、特に富山藩では、それまで1675ヶ寺あった寺院が6ヶ寺にまで激減させられるなど、熾烈を極めた。

 私は、廃仏毀釈の発端となった日吉大社での出来事を、インタビューに応じてくださった2名の権禰宜に伺った。

 「神社側にとっては、持て余すものをお焚き上げしたに過ぎないのです。実は、江戸初期に、廃仏毀釈がすでに行われているのです。神主が、神仏習合を許せず、唯一神道にしたくて、僧形のご神体を勝手に持ち出して燃やしてしまったのです。すると、延暦寺が幕府に訴えて裁判となりました。その結果、日吉大社は負けてしまい、神主は島流しとなり、延暦寺の完全な管轄下に入ってしまいました。その後、延暦寺からは、『祭りと掃除だけしていれば良い、何かする場合は延暦寺の許可を得よ』という趣旨の掟が来ます。当時の神官たちの気持ちは、正に臥薪嘗胆だったと思います。社家のお家断絶もありました。

 それから200年ほど経って時来たりということで、廃仏毀釈が行われたのだと思います。仏像仏具を延暦寺に返せば、円満に解決したのでしょうが、裁判事件があったのであのような行動になったのでしょう。しかし、廃仏毀釈の際に、今まで崇敬していた物を破壊するのは忍びないと、仏像仏具などを隠したりかくまった神官や氏子も多くいるのです」。

 仏教では十界を説く。宇宙が十の心の世界に分かれているというのである。主な世界は、下から、地獄界、餓鬼界(欲しい惜しいの心が強い人々の世界)、畜生界(動物的な行動をする衆生の世界)、修羅界(戦いや争いを好む人々の世界)、人間界、天界(神々の世界)、菩薩界(悟りを求めて修行し、人間や神々を救う菩薩の世界で、観音菩薩、地蔵菩薩などが有名)、仏界(悟りを開いた如来の世界で、釈迦如来、薬師如来、大日如来、阿弥陀如来などが有名)である。しかし、地獄界から天界までは、「六道輪廻」と言って苦しみの世界であり、これらを超越した菩薩や如来などが輪廻の苦しみから解脱した存在である。

 仏教では、神々は、衆生を救済すると共に、如来や菩薩に仕え、守護し、如来や菩薩から救済される存在である。歴史的には、仏教が発祥し伝播した、インド、中国、チベット、日本などでは、元々存在した宗教の神々が仏教に摂受(慈悲を持って包み込むこと)され、仏教と共に共存共栄してきたのだ。それが、日本においては、聖武天皇以降、神仏分離まで、実に1119年の長きに亘って人々の間に浸透した神仏習合思想であった。

 私は、一神教の宗教間の対立が頻発する現代世界において、摂受や神仏習合をはじめとする諸宗教共存共栄の思想は、大きな意味を持っていると思っている。

 しかし、それは、あくまで、思想やイデオロギーだけで解決するものではなく、その思想を発信する人々の質が大きく問われていることを、日吉大社の方々に教えて頂いたと思った。私は、深い感謝の念を込めて、仏教と神道の合一を現す山王鳥居の前で深く頭を垂れ、日吉大社をあとにした。

その後の神仏習合:

 神仏分離令に端を発する熾烈な廃仏毀釈で壊滅的打撃を受けた神仏習合思想は、古都奈良など日本の一部で細々と命脈を保ってきたに過ぎなかった。それが、最近、復活の兆しが見えてきたのだ。

 昨年行われた平城遷都1300年祭では、平城宮跡で開催された記念祝典にご臨席された天皇・皇后両陛下の御前で、奈良諸寺の僧侶18名が般若心経を読誦した。これは、奈良時代に国家安泰を願って経典読誦が行われたことを再現したものだが、神仏分離で皇室から仏教色が排除された近代日本においては「初めてのこと」と考えられている。

 やはり昨年、三大八幡宮のひとつである石清水八幡宮で行われた鎮座1150年記念行事では、同宮の神職と清水寺の僧侶が神仏合同形式で法要を営んだ。同宮で僧侶による法要が行われたのは神仏分離以来、実に142年ぶりのことである。石清水八幡宮宮司は、感慨を込めて「神仏和合の姿がよみがえった。新たな歴史の1ページになります」と語ったという。


秋の燈や大黒天の笑ひたる  五島高資


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【神仏習合とは(=神仏混淆)|歴史・現在も影響の残る神社寺院の例をご紹介】 より

神仏習合とは|神道と仏教の習合の歴史と意味

神仏習合とは「日本に土着の神様を祀る神道」と、「インド発祥で中国/朝鮮半島を経由してやってきた仏教」が、互いに影響し融合したことを言います。

日本の宗教観に大きな影響を影響を与えた神仏習合というものについて、今回はご紹介いたします。

神仏習合をわかりやすく説明するため

神仏習合という概念は、1000年以上もかけて構築されたものであり様々な考え方が複雑に絡み合っています。

ここではなるべくわかりやすくご説明するために、歴史的な流れや現在でも神仏習合が見られる神社や寺院の例をご紹介します。

民俗学的な話や宗教学的な内容は神仏習合を解説した本を読むことをおすすめします。

神仏習合の話の前に|そもそも神道・仏教とは

神仏習合ということを説明する前に神道と仏教について簡単にご紹介します。

神道とは

私たちが現在神道と呼ぶ日本に土着の宗教は長い歴史の中で、様々な信仰・宗教を取り入れて現在に至ります。

日本列島に土着だった民族の自然崇拝

これが神道の最も源流と言えるでしょう。

しかしその自然崇拝は原始のままの姿は残しておらず、それらの古代祭祀場が残るような日本最古級の神社でも現在は大和朝廷が編纂した「古事記・日本書紀」という日本神話に出てくる神様が祀られています。

神道を神祇信仰(じんぎ)とも表現しますが、神様の坐す天界の高天原から来られた天津神(天神)と、日本の地に元々居られた神様の国津神(地祇)とを信仰します。

神道の元の姿は岩や海、大木、大岩など様々なところに宿る名前や姿などははっきりしない神様がいらっしゃって、その神様に豊作など人の力の及ばないことを祈りながら生きて来たと考えられています。(宇賀神や道祖神など名前のある土着の神様もいらっしゃいます)

そして「インド由来の仏教」や「中国由来の道教等」「陰陽五行説に基づく日本で独自に発達した陰陽道」などの影響を受けて明治時代に国家神道というものが生まれ、第二次世界大戦を経て国家神道は廃棄され、現在に至ります。

現在一般に言われる神道という宗教は、江戸時代から国学者たちによる研究から始まり、明治期に形成されたものだと言われます。

ちなみに古神道という言葉があり、これこそが神道の根本だと考える人もおられますが、古神道というものも江戸時代の国学者によって提唱された考えで比較的新しい概念です。

詳しくはこちらで解説しています。

古神道とは?神道との違いや祝詞・神社や起源など詳しく解説!

仏教とは

仏教はインドを起源に持つ宗教です。

紀元前5世紀頃に実在したゴータマ・シッダールタという人物が、悟りを開きました。悟りを得た人のことを仏陀・仏と言います。

この尊い悟りの境地に到達すること、「悟りを得ること・仏になること」を目的とするのが仏教の教えです。

仏教は世界に広がっていく中でいろんな宗派が生まれます。

現在の日本の仏教は大乗仏教というものの一つです。

東南アジア等で信仰されているのは上座部仏教と言われ、この2つは同じ仏教と言えども大きくその姿は違います。

今回神仏習合で話をする仏教は、インドで生まれた姿のままの仏教ではなく、中国や朝鮮半島を経て日本に輸入された大乗仏教です。

ちなみに、仏教の目的である「仏になること」って「死ぬこと」と同義ではないか?

と違和感を覚えた方もいると思います。

実はこの考え方はすでに神仏習合の影響であり、仏教が神道に影響を受けた例と言えます。

「神道とは・仏教とは」と簡単に説明しましたが、すでに互いに大きく影響をしあっていて、これらを分けて話をすることは大変難しいのです。

神仏習合と神仏混淆(しんぶつこんこう)は同意

「神仏習合」という言葉は「神仏混淆」と同じ意味です。

神仏混交や神仏混合は間違った表記ですのでご注意ください。

神仏習合の例

まず神仏習合の歴史を解説する前に、神仏習合の姿を現在に残す例をご紹介していきます。

神仏習合の姿が現存する神社・寺院

最近では日本人でも神社とお寺の区別がわからないという人もいますが、そもそも神仏習合の時代(明治期以前)には、それに近いものがあったと言えます。

現在では

神道の宗教施設→神社

仏教の宗教施設→寺院

と区別されていますが、江戸時代までははっきり区別されていませんでした。

神社の中に寺院はありますし、寺院も神道の神様を祀っていました。

そんな神仏習合の時代が今も残る神社や寺院を一部ご紹介していきます。

鳥居のあるお寺

鳥居は神社の敷地にあるものです。

ここから先は神域ですという意味を持つものですが、お寺に鳥居がついている例があります。

例えば、奈良県生駒市にあるお聖天様を祀る真言宗の仏教寺院として知られる宝山寺には鳥居があります。

お聖天様とは、大聖歓喜天(歓喜天)という仏教の神様(天部)のことで、神道の神様ではありません。

しかし宝山寺には現在でも、山門の前に立派な鳥居がありますし、ご本堂の前にも鳥居があり、さらに山を登り、奥の院本堂に向かう途中には五社明神という神様を祀る祠もあります。

ちなみに五社明神まで向かう道にも●●明神という神様を祀る祠があったりといたるところに神仏習合の時代の姿が見られます。

境内にお寺がある神社

神社の境内にお寺がある例は、世界遺産の日光東照宮が有名です。

日光東照宮自体が神仏習合の考え方を現す存在と言え、この記事を読んでいただいたらさらに理解が深まると思います。

日光東照宮という神社の中には本地堂(薬師堂)という建物があります。

この本地堂は薬師如来という仏像をお祀りしています。

最近ではこの本地堂の天井画である「鳴き龍」という龍神さんの絵が有名ですが、この本地堂は明治期の廃仏毀釈の流れを免れた大変珍しい建物なのです。

神仏習合の例となる代表的な神様

神仏習合の時代は神道で祀られる神様が、仏教の神様や仏様に置き換えられたり、同一視されることが往々にしてありました。

それらの神様は神仏分離の結果、また神道の神様に戻される例がほとんどなのですが、そんな神様を一部ご紹介します。

大黒様

大黒様と言うと、七福神でおなじみの神様ですが、この神様は

神道の神様の大国主命(オオクニヌシノミコト)

仏教の神様の天部である大黒天

が習合した神様です。

ちなみにそもそも仏教の大黒天という神様はインドのヒンドゥー教の「マハーカーラ」という神様が仏教に取り入れられた存在です。

大黒様は富貴栄達、縁結びなどで知られますが、そのご利益は仏教由来、神道由来の二つのご利益を受け継いでいます。

ちなみに、神社で大黒様を祀るところは、大国主命または別名の大己貴神(オオナムチノカミ)の名前で祀られ、寺院で大黒様を祀るところは大黒天という名前で祀られます。

大黒様がなぜ習合するようになったのかの理由や歴史についてはこちらで詳しくご紹介しています。

大黒様とは|ご利益や由来は何の神様か解説。祀り方や神社もご紹介

弁財天(弁才天)

弁財天も大黒様と同じく、七福神として知られ金運・財運を司る神様としても日本では人気の神様ですが、本来は仏教の神様であり源流をたどるとインドの神様です。

弁財天はとても人気の神様であったこともあり、今でも多くの神社で名前を見ることができます。

日本三大弁財天と言う「江ノ島神社・竹生島神社・厳島神社」の三社は神社でありながら、仏教の神様の弁財天さんのご利益に預かりたいという多くの参拝客が訪れます。

しかし、この三社のご祭神は弁財天ではないことをご存知でしょうか。

神仏分離令によって、同一視される宗像三女神・もしくは市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)をご祭神の名前のみ表記しています。

ちなみに弁財天と同一視される神様は複数いらっしゃいます。(例:瀬織津姫、宇賀神(日本に土着で謎の多い蛇神・水神様)等)

また別で日本三大弁財天と言われる、天河神社は天河大辯財天社と言い、神社の名前に弁財天(辯財天は旧字体)の名前があるなど神仏習合の姿を今に残しています。

弁財天と言う神様についてはこちらで詳しく解説しています。

弁財天(弁才天)とは|弁天様のご利益や信仰の歴史、祀られる神社をご紹介

お稲荷様

お稲荷様と言うと、日本で最も観光客が集まる伏見稲荷大社を総本宮とする、稲荷神社を想像すると思います。

しかし、お稲荷様と一言に言いますが、神道の神様と仏教の神様がいらっしゃいます。

神道のお稲荷様は宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)等

仏教のお稲荷様は荼枳尼天(ダキニ天)と言います。

伏見稲荷大社では明治までは、境内に宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)を含む稲荷神をお祀りし、さらに境内の寺院があって荼枳尼天(ダキニ天)もお祀りしていたのです。

お稲荷様についてはこちらで詳しくご紹介しています。

稲荷神社・お稲荷様(稲荷神)を解説|ご利益・狐の祟り等怖い話の由来とは

ここで上げたのは神仏習合の代表的な神様はほんの数例で、八坂神社の牛頭天王と素戔嗚尊(スサノオノミコト)などたくさんの神様が神仏習合の時代から、神仏分離の時代を経て信仰されています。

神仏習合によってできた神宮寺

日本全国に神宮寺という寺院はありますが、ここで意味する神宮寺とは「神社に祀る神様を仏様の力で救うという目的で、建てられた寺院」を言います。

この話を聞くと、日本の神様が仏様の下であるとなりますが、これにも歴史がありますので、神仏習合の歴史の段で詳しくご紹介しています。

神宮寺は日本の多くの神社で建立され、日本の最高神である天照大御神(アマテラスオオミカミ)をお祀りする伊勢神宮でも神宮寺はありました。

多くは廃寺になってしまうのですが、先ほど名前が挙がった、世界遺産の厳島神社では、今でも神宮寺であった大願寺が残っています。

神仏習合の歴史

さて、いつから日本は神仏習合という特殊な信仰形態を持ち、なぜそれらが起きたのか、歴史を簡単にご紹介します。

神仏習合以前|仏教の伝来のころ

神仏習合が起きる前は冒頭でもご紹介した通り、自然崇拝や日本神話に登場する神様の信仰がありました。

そして、538年の欽明天皇の御代に朝鮮半島の百済の国から仏教が公式にもたらされます。

もたらされた当初、仏教で祀る仏様や仏教の神様は蕃神(ばんしん)と言う外国の神様として祀るべきかどうかと考えられました。

仏教を日本で受け入れられるかどうかは、

「神道の神だけを信じ、仏教は排すべき」と言った物部守屋

vs

「仏教の力で国を治めるべき」と言った聖徳太子・蘇我馬子ら

の丁未の乱という戦いによって聖徳太子側の勝利により、決着がつきます。

聖徳太子はこの戦いの前に、四天王という仏教の神様に戦勝祈願をして勝利したあかつきには寺院を建立すると誓願を立てていました。

こうして日本で初めての勅願寺院の四天王寺が建立されます。

※勅願とは朝廷の命のこと

ちなみに、神道という言葉は、この仏教の伝来した直後の用明天皇の時代に初めて書物にも使用されるようになります。

いつから神仏習合が始まったのか

神仏習合という概念がいつから始まったのか、はっきりいつという区切りがあるわけではありません。

後程出てきますが、神仏習合の歴史上重要な神様である八幡神を祀る総本宮の宇佐八幡宮では526年(継体天皇20年)に猛覚魔ト仙という僧によって、求菩提山が開山されます。

宇佐神宮のあった九州北部のあたりでは、かなり古くから土着の信仰と仏教の信仰が混ざり合ったものがあったと考えられます。

神仏習合は奈良時代以降に神宮寺の建立や、八幡神を勧請した仏教の国家的大事業「大仏造営」などで日本各地で見られるようになり、平安時代に神仏習合を理論的に説かれるようになったとされます。

なぜ神仏習合が起きたのか

世界の歴史を見ると、宗教戦争の悲惨な事件が多いことから、神仏習合は珍しいと感じると思います。

実際は世界的にも他からやってきた宗教が現地の宗教と混ざりあって受容されるという例はありますがそのことは後述します。

日本の場合、なぜ土着の神道と、外来の仏教が融合することができたのか、ここに関しては諸説ありますが、次のような説があります。

仏教が他の宗教の神様や信仰と融合する柔軟性を持っていた

「民衆の願いを叶える救済や、民衆を救う救済」という大乗仏教の性格は日本の民間・朝廷で信仰されていた神様への信仰と合致した

先進的な文明を学んでいた朝鮮から持ち込まれた仏教の思想や文化を日本の朝廷が抵抗する力がなかった

など言われています。

3つ目の説に関しては、東南アジア地域で仏教は現地の宗教と融合をしていないこともあるので、議論の余地はあるかもしれませんがあくまで一説です。

神仏習合に影響を与える仏教の柔軟性|仏教の神様

仏教が日本で受け入れられた説の一つ目に挙げた、「仏教が他の宗教の神様や信仰と融合する柔軟性を持っていた」について簡単にご紹介します。

本記事の前半でも何度か出てきた、仏教の神様という存在は大黒天や弁財天に見られるように仏教の生まれたインドで信仰されていたバラモン教やヒンドゥー教の神様を取り入れています。

仏教の教えを説いた、お釈迦様は悟りによって得たものは人々を救うに足るものではあっても、伝えることはできないと考え布教はしないことを一度決心します。

しかし、その決心に気づいたヒンドゥー教/バラモン教の宇宙の創造神と言う最高位の神様のブラフマーが、お釈迦様に何とかその教えを民衆に伝えて救って欲しいと再三のお願いをしたと言われます。

後にこのインド神話の最高神のブラフマーは仏様を守護する護法善神の神様の梵天と呼ばれ、梵天がお釈迦様に布教をお願いしたことを梵天勧請と言います。

インドで生まれ、布教される時点で仏教は現地の神様とうまくやって来たのです。

それは中国に入っても同じで、中国では道教などと結び付きます。仏教伝来以前から世界で最も優れた文明を持っていた中国で受容されていますので、日本で受容されるのも難しくなかったのかもしれません。

神仏習合から生まれた思想|神仏の論理的解釈

神仏習合は奈良時代の間にどんどんと広がっていき、先ほど見たように神道の神を仏の教えによって救う神宮寺が建立されたり神仏習合が進んでいきます。

この神宮寺を建立するに至る、由来となる思想が「神身離脱説」と言います。

神身離脱説

これは、先ほど梵天勧請を解説しましたが、「仏教の神様=天部」という存在は仏様を守護し、仏教の教えを守護する護法善神の役割をします。

仏教の教えの六道においては、神様は人間よりも楽しく幸せな世界に存在しているのですが、寿命があったり、愛ゆえの苦しみなど苦しみを持つ存在とされます。

そのため、日本の神様も仏教の教えによって救われる必要があると考えられ、神宮寺が建立されていくのです。

多度大社というお伊勢参りをするなら一緒にお参りしないとと言われる由緒正しい神社では、神様が神様を止めたいとおっしゃったと言われます。

この頃は今では考えられませんが、神様の前で祝詞を奏上するのではなく、お経を唱える神前読経が行われたりします。

ちなみに仏教の神様の天部という存在についてはこちらで詳しくご紹介しています。

天部とは|仏教の守護神、天部衆の神様の種類や信仰,有名な仏像を紹介

鎮守神

神身離脱説はかなり極端な神仏習合思想の一つですが、その反対に神様がお寺を守護する鎮守神という思想も生まれます。

その先駆けともなるのが、八幡大菩薩とも言われる、宇佐神宮に祀られる八幡神です。

八幡神は奈良時代の仏教の国家プロジェクトである大仏造営の際に、その守護をする神様として勧請されます。

そして八幡大菩薩という神号が送られます。

他に奈良時代の神仏習合の一例に滋賀県の竹生島宝厳寺があります。

この竹生島宝厳寺は先に出てきた日本三大弁財天と知られる、竹生島神社の元となった寺院です。

宝厳寺の創建の由緒には、724年聖武天皇が夢の中にアマテラスオオミカミが現れ、「琵琶湖に浮かぶ小島(竹生島)に弁財天を祀る寺院を建立せよ」とのお告げを受け、大仏を建立した行基聖人に開基させたとされます。

このように今から1300年前には日本の神様か仏教の神様かなどあまり意識されていないように見受けられる時代もあったのです。

しかし、時代を経ると神仏習合を理論的に解釈するためにたくさんの説が生まれてきます。

その中で神仏習合を理解する上で重要になるのが「本地垂迹説」です。

この理論については後程ご紹介します。

本地垂迹説が生まれたとされる平安時代のころから、江戸時代にかけては神道の神様と、仏教の仏様・神様の関係性を体系的に説明するために神道側からや仏教側からからの研究が盛んに行われるようになりますが、世間では神様も仏様も生活を守護し、現世利益という生活に直結したお願いを聞いてくれる存在としてどちらも信仰されます。

一般人からすると、難しい理論はどうでもよくて、お願いを聞いてくれてご利益に預かれるのなら何でも良いですよね。

そんなこともあり神道と仏教と言う存在は、互いに影響を与え合いながら習合していくのです。

神仏習合と本地垂迹説等の思想

平安時代~鎌倉時代にかけて神仏習合を理論的に説明するようになります。

その中心となるのが仏教側から神仏習合を解説した「本地垂迹説」です。

本地垂迹説とは

簡単に言うと、

本地垂迹とは「仏様が本来の姿で日本の神様は化身(返信した後の姿)」

ということを意味します。

仏様は人々を救ってくださる存在ですが、救ってくださる時には、人に近い存在となって現れて救ってくださるとされます。

この人に近い存在と言うのが、日本の場合では神道の神様であったというのです。

本地と言うのが「本来の姿」で垂迹というのが「変化をした後の姿」とされます。

本地垂迹説は天台宗や真言宗という密教において体系化されたとされ、天台宗の山王神道、真言宗の両部神道(両部習合神道)などが有名です。

本地垂迹説の例を挙げると、

日本の太陽神であり、高天原の最高神アマテラスオオミカミは「大日如来」が本来の姿とされます。

その他の例として、先に上げた日光東照宮には「東照大権現」という神様が祀られます。

日光東照宮に祀られる神様の東照大権現とは江戸幕府を開いた徳川家康です。

徳川家康は死後に、戦国の乱世を終わらせ太平の世の礎を築いたことから神号の「東照大権現」の名を贈られます。

この「権現」という言葉は本地垂迹説に則ったもので、仏様が神様としてこの世にご利益を与える姿で現れたときに使われる言葉です。

徳川家康には天台宗の大僧正の天海というブレーンとも言うべき政治顧問がついていました。

天海大僧正は徳川家康をその両親の薬師如来への信仰の篤さ、衆生を救った功績から薬師如来の生まれ変わりだと言いました。

薬師如来という「本地」が、徳川家康という「垂迹」として現れ、「権現」という神道の神様として祀られるようになるのです。

しかし、この本地垂迹説という理論では神道が仏教の下位であるように捉えられることもあり、神道側から別の反論ともいえる神仏習合の思想が出てくることになります。

本地垂迹説への反論|伊勢神道や吉田神道

本地垂迹説は仏が本来の姿と主張することもあって、神道側の立場から反論ともいえる思想が生まれました。

それが伊勢神道や吉田神道と呼ばれるものです。

いずれも簡単に言えば、神様が最も重要ですという思想です。

本地垂迹説への反論として、「明神・大明神」という言葉が吉田神道などでは重要視されます。

権現という「仏様の仮の姿としての日本の神」に対して、優れた神様を表現する「明神」という言葉が使われるようになったと言われます。

ちなみに、豊臣秀吉は死後「豊国大明神」という神号を贈られます。

これは吉田神道側の働きかけによってと言われます。

ちなみに、豊臣秀吉・織田信長が活躍した時代は「天道思想」と言い、神も仏も一緒で、この世は天の下にあり、「天道」というこの世の道理にかなうことをするのが大事だと考える風潮が広まり、神道も仏教も多くの武将に信仰されています。

比叡山延暦寺を焼き討ちし、石山本願寺とも闘い神も仏も恐れなかったと描かれる織田信長は神仏への信仰が深かった面も見えます。

日本でも最大勢力であり信仰を集める延暦寺の焼き討ちも、仏法に帰依などせず修行を怠り私腹を肥やす僧兵を囲んでいた延暦寺は仏法に背いていると考え、天道に背いた罪として織田信長からの正義の鉄槌と考えられますね。

神仏習合による神道・仏教に見られる影響の例

神仏習合による影響は、日本人の多くが年中行事として行っていることや、冠婚葬祭のいたるところに見られます。

そもそも神道にはなかったのに仏教の影響で取り入れられたことや、仏教にはなかったのに神道の影響を受けたものの例をご紹介します。

神仏習合の神道への影響の例

古神道や教派神道等で見られる呪詛的な儀式

二十八宿などの暦で吉凶を見る

神様の偶像化

神道では呪詛と言い何かご利益を聞いていただくために必要な呪文や修法などは古来なかったのですが、密教の伝来によってそれらが神道に取り入れられます。

また、日本の神様は本来その姿が描かれるものではなかったのですが、仏教美術の影響もあり描かれるようになります。

この目に見える信仰対象がある分かりやすいという点は仏教が取り入れられやすかった原因の一つとされます。

神仏習合の仏教への影響の例

死ぬことを「仏になる」と考えること(成仏)

お盆やお彼岸など祖霊をお迎えすること

お葬式

仏教は最初にご紹介しましたが、本来「悟り」を得ることを目的とした宗教で、死後の世界を考えることを止め今に集中しろとお釈迦様は説いています。

しかし、日本に仏教が伝来すると、死んだ霊は山へといき、お正月や農耕にに関わる行事で村に返ってくるという神道の考え方が仏教に影響を与え、今ではお葬式や祖霊を祀る行事は仏教行事となっています。

神仏習合と神仏分離

神仏習合は上記で見たように私たちの気づかない生活レベルで影響を与え合って今に至りますので、今も生活や意識レベルでは習合していると考えてもおかしくありません。

しかし、神仏習合は明治時代に終焉を迎えます。

それは明治政府による国家神道の確立のための「神仏判然令」により終わりを迎えるのですが、神仏分離という思想自体は江戸時代にはありました。

神仏分離の思想

神仏分離は本居宣長が大成する国学や水戸藩にて興隆する水戸学と言う日本の本来の姿を研究する人達の中で醸成された考えとされます。

日本の本来の信仰の姿とは何だということを考えて行く中で、仏教の影響を受けていない日本の宗教の姿を考えたものです。

神仏分離令と廃仏毀釈運動

江戸時代に神仏分離の思想があったとは言っても、神道と仏教が完全に分けられることはありませんでした。

しかし、明治元年に布告された神仏判然令により、神社とお寺は完全に分かれる必要があると宣言されます。

悪名高いと批判されるようになるこの神仏分離令が世に出ると、当時はお寺やそこに安置される仏像を市民が破壊するという廃仏毀釈運動につながります。

原因は種々あるようですが、家計が苦しい中お布施などでさらに圧迫をしてきていたお寺などがあったことに腹を立てていた市民たちの負の感情がそうさせたとされます。

明治政府が神仏分離令を出した理由は、日本という国を中央集権化して、西洋の文明にすぐに追いつくための施策の一つで、国家神道が確立します。

神仏分離令についてはこちらで詳しくご紹介しています。

神仏分離令とは|神仏分離の目的や廃仏毀釈等への影響をわかりやすく解説

また廃仏毀釈については、こちらで詳しく解説しています。

廃仏毀釈とは|意味やなぜ起きたのか,原因/背景・京都の事例等を解説

神仏習合はのような神々の習合は海外でも

日本が宗教に寛容だとよく言われます。

神仏習合の歴史は確かにとても特殊ではありますが、同じように他の地域から新しい宗教が入ってきてそれが土着の神様とつながるということは世界の他の地域でも起きています。

特に中東のあたりでは古くから文明が開かれたこともあり、様々な神話が生まれていますが、その神話に出てくる神様はインドの神様と同一とされるものや、エジプトの神様にも影響を与えています。

ヨーロッパでもキリスト教が普及するまではギリシャ神話の神様はローマの神様に影響を与えています。