Okinawa 沖縄の旅 Day 42 (12/09/19) Katsuren Gusuku Castle Ruins 勝連城跡
History Picture Scroll of Koza コザ十字路絵巻
Goeku Gusuku Castle Ruins 越来城跡
Chibana Gusuku Castle Ruins 知花城跡
Katsuren Gusuku Castle Ruins 勝連城跡
Mid-Sea Road 海中道路
Grave of Amamichu アマミチューの墓
今日は土肥さんが沖縄市の公証人役場に行くと言うので、レンタカーを借りる。それに便乗して、沖縄市近辺の城跡に連れて行ってもらう事にした。という事で今日は自転車ではなく自動車での移動。
沖縄市は沖縄で那覇市についで人口 (14万人) が多い第二の都市で、那覇の北東約20kmの所に位置する。沖縄市は琉球王国時代は越来 (ごえく) 間切であったが、美里 (みさと) 間切が分離し明治時代に入る。越来間切は名をコザ市と変え、1974年 (昭和49年) に、コザ市と美里村が合併して沖縄市誕生した。
History Picture Scroll of Koza コザ十字路絵巻
公証人役場は旧越来間切で、コザ十字路にある。ここは観光名所となっており、コザ十字路絵巻と言ってた建物の壁にコザの歴史を描いている。土肥さんが公証人役場で用を済ましている間にこの絵巻を見学。
商店街があるのだが、以前の活気は全くなく、閉まっている店が多い状況。訪れた時間がまだ昼前だったからかもしれない。この絵巻を見ると、米軍駐留によりコザが発展してきた事がわかる。特に黒人文化の影響が大きい。この文化に啓発された多くのミュージシャンがこの街から輩出されている。それと同時に米軍兵との問題も多く出ている。その後は、米軍も管理が厳しくなったのだろう。それと共に刺激も少なくなってしまったのかもしれない。
Goeku Gusuku Castle Ruins 越来城跡
公証人役場の道路の反対側が丁度越来城跡だった。用を済まして早速訪問。この城の歴史は、三山鼎立の時代に築城されたと推測されている。舜天王 (1166~1237年) の子に越来王子の名があり、舜天王統の三代目義本王 (1206~1259年) の子にも、越来王子の名がある。察度王 (1350~1395年) の時代にも、その子を越来按司に任じたと云う記録がある。舜天王の時代には存在していたと考えられる。越来は古い時代から、中部地域の要衝の地であったことが分かる。第一尚氏の尚巴志王は、越来間切を七男の尚泰久に与え、越来城に入った泰久は越来王子と称した。後に尚泰久王として1454年に第6代琉球国王となり首里城に移るまではここが居城だった。尚泰久の時代には沖縄の住民は殆どが知っている護佐丸/阿摩和利の乱が起こるが、尚泰久の家臣の鬼大城 (ウニウフグスク) と呼ばれた大城賢雄が謀反を起こした阿麻和利を討伐した功績により、越来親方として越来城主となり尚泰久の娘の百度踏揚 (ももとふみあがり、阿麻和利の妃であった) を妻に迎えた。その後、金丸 (尚円王) のクーデターにより、この城は攻め立てられ鬼大城は知花城に退却しそこで自害。第二尚氏王統時代には尚円が王に即位すると弟の尚宣威はこの城に入り越来王子と称し、後に第2代王として首里に移るが、6ヶ月で退位し、この城に戻り隠居生活をする事になる。琉球王朝の歴史では重要な役割を果たした越来城は沖縄戦で消失し、戦後は、米軍の資材置き場となっていた。現在は跡地が公園になっている。敷地内には城の守護神として、火ぬ神が祀られている。
Chibana Gusuku Castle Ruins 知花城跡
越来城から北西300m、標高87mのカルスト残丘地にこの知花城跡がある。築城年代は不明。前述の鬼大城が金丸のクーデターで越来城を追われ自害した場所で、城の一画に鬼大城の子孫が建てた彼の岩穴囲込み形式の墓があった。
城内には上之殿毛 (いーぬとぅぬもー) という拝所があるのだが、倒木で危険という事で立ち入りが禁止だった。
Tomb of Uni Ufugusuku 鬼大城の墓
Katsuren Gusuku Castle Ruins 勝連城跡
世界遺産に登録されているの勝連城に向かう。クルマでの移動なので快適。土肥さんは観光案内所の休憩室で仕事をするので、たっぷり時間を使って見学してきて良いと言ってくれた。お言葉に甘えて、じっくりと見て回る。ここにはWiFiが提供されていて、観光アプリも用意されて、親切な対応になっている。そのアプリの解説を見ながら散策。普通なら30分ぐらいでみて回れるのだろうが、1時間半使ってゆっくりとみた。
この勝連城は第一尚氏第6代王の尚泰久王時代には、越来城で触れた阿麻和利 (あまわり) の居城だった。阿摩和利はこの勝連半島を勢力下に置いていた有力な按司で、尚泰久に仕えていた。悪政を強いる前城主の茂知附按司を倒して10代目勝連城の按司となり、東アジアとの貿易を進め、大陸の技術などを積極的に取り入れた。勢いを増す阿麻和利に尚泰久王は娘である百度踏揚 (ももとふみあがり) を妻に娶らせ懐柔策を取り、同王の娘婿の立場になった。沖縄の歴史で教えられるのは、阿麻和利が尚泰久の伯父である中城のもう一人の有力按司であった尚泰久の義父である護佐丸に首里城攻略の謀反計画がある事を事前に報告して、王の命令で護佐丸の中城を攻めた。しかしこれは阿麻和利の陰謀で、護佐丸には謀反の意思はなかったが、忠誠を表すために中城で自害したと言う。その阿麻和利自身が首里城攻略の野望を抱き、その計画は阿麻和利の妃である百度踏揚の知るところとなり、付き人であった鬼大城と共に勝連城を脱出し、尚泰久王に報告、王命で越来賢雄 (鬼大城) が勝連城を攻め、阿麻和利は滅ぼされたとされている。歴史城は阿麻和利が極悪人に描かれているが、最近の研究では阿麻和利は名城主であり、貼られているレッテルとはかなり異なる人物と再評価されている。護佐丸の乱と阿麻和利の乱共に尚泰久が仕組んだ陰謀ではなかったかの有力説も浮上している。金丸の陰謀説もある。この根拠として、おもろさうしには阿麻和利をたたえた歌が多くあると言う。勝連町とうるま市の協力で、この阿麻和利英雄説をベースにした組踊の「肝高の阿麻和利(きむたかのあまわり)」が近年作られている。
アプリの解説を見ながら城跡を見て回った。そのアプリの解説を拝借したものを載せておく。
(南風原の港/クトジ御獄)
“勝連城は、かつて海外交易によって繁栄しました。交易船が発着する港は、現在の南原 (みなみはら) 漁港近くの「浜川」と想定されています。港近くには「クトジ御嶽」という聖域があり、14~15世紀前半のグスク時代には、中国からの交易品がここに運ばれ供えられていました。航海安全や旅の幸運に感謝の祈りを捧げた後、勝連城に運びこまれたと伝えられています。この一連の儀式は、勝連かつれんの栄華の裏に、多くの危険を伴う航海があったことを物語っています。”
(防御田地)
“かつて付近一帯は 「底なしの沼」と言われるほど、水量豊富な湿地帯でした。グスク時代には争い事が頻発していたことから、侵入者があった場合、湿地帯に足を取られる “防御ライン” としての機能が想定されていたようです。また、平時においては城の財政を支える農地として活用されていたことでしょう。水源の一つは、左手の森にある「アコージガー」という名の泉です。ここは一般の人々に使用されており、かつて城に向かう旧道もありました。”
(門口カー)
“大きな川の少ない沖縄では「カー」という泉が水源であり、人々の暮らしの中心となっていました。ここは、旧暦の二月・八月の村の除災招福を願う行事が行われる場でもあります。名前の由来となっている西原御門 (にしはらうじょう) から城内へ入る際に、訪問者が手足を清めるために使用していたと言われています。また、集落や港と反対側に位置する西原御門にこのカーが存在することから、身分の低い家臣が利用していたと考えられます。”
(マチダ・ナケージガー)
“沖縄全域にみられる御嶽(聖地)の中でも、王府編纂へんさんの地誌『琉球国由来記』に記載されている、「マチダの御嶽」「ナケージの御嶽」に縁起を持つ特別な場所です。王国時代より神々と繋がる泉(カー)として、少なくとも300年以上の歴史を持った祈りの場であると考えられています。以前は「ヌールガー」と呼ばれていましたが、聞き取り調査より「マチダ・ナケージガー」であることが分かりました。旧暦の二月と八月に村の安寧を祈る「御願(うがみ)」を行う場所で、現在も地域の信仰の対象となっています。”
(仲間ヌウカー [カンジャガー])
“12世紀から15世紀前半のグスク時代、この地域の鍛冶屋(カンジャー)であった「仲間家が使用していた泉である」という伝説から、「カンジャーガー」とも呼ばれています。周辺の発掘調査で、鍛冶屋跡は現在のところ発見されていませんが、仲間家先祖は安全な場所を求めて、鍛冶屋の場所を替えながら武具の製作や修理を行っていたと言われています。”
(ウタミシガー)
“「ウタミシ」はお試し、「カー(ガー)」とは泉を意味する沖縄の言葉です。旧暦元旦の初拝はつうがみの際に、水の量によって一年の豊作・凶作を占うことから、「ウタミシガー」という名前が付いたと伝えられています。この泉の水量が豊富にあるときは「サーイ年(不作の年)」、水が少ないときは「ユガフーの年(豊作の年)」と言われています。”
(ミートゥガー)
“かつてこの泉が、男女の逢瀬の場であったという伝説から「縁結びのカー(泉)」と伝えられています。女性が自由な行動を制限された時代でも、水汲みは若者の仕事であり、外出できる口実になりえたのでしょう。一方で「この泉のそばで恋物語をするな」という言い伝えもあります。ここで結ばれた男女が別れると、どちらかに不幸が起きると信じられていたからです。泉は命の源であり、聖域であることから、困難があっても添い遂げよという教えなのかもしれません。”
(四の曲輪)
“勝連城の中で最も広い面積をもつ曲輪です。曲輪内に五箇所の泉があり、泉を守るように四の曲輪の城壁が巡っています。城壁の南側には南風原御門、北側には西原御門 (にしはらうじょう) があったと考えられており、現在では両門の跡と門に続く石畳道が確認できます。また2014年の調査で、二の曲輪の舎殿と同様の建物跡がここで見つかりました。当時、石畳道を上り城門をくぐった人々は、眼前にそびえ立つ気高き勝連城の圧倒的迫力に息を飲んだことでしょう。“
(右旋回の階段)
”勝連城の各曲輪を結ぶ石階段は、城壁に沿うように右側から旋回して上る構造になっています。これは、敵軍による侵入を防ぐ工夫と考えられています。階段を急勾配にすることにより侵入者の体力を消耗させ、さらに右手側城壁より攻撃を加えることで、敵軍の機動力と攻撃力を弱める効果があります。また、敵軍による攻撃のアプローチを制限できること、高い場所から相手の兵力を確認できることなどの利点もあります。このように、勝連城の階段が描く美しい曲線には、古いにしえの人々の工夫が込められているのです。“
日本でも珍しい登り石垣がある。
(三の曲輪くるわ城門 四脚門[しきゃくもん])
“四の曲輪から細く長い石畳道を上りつめたところに、かつて内郭の門がありました。発掘調査したところ、礎石と壁には“ほぞ穴”と考えられる、四箇所のくぼみが確認されました。このことから三の曲輪城門は、四本の柱で屋根を支える四脚門(薬医門)であったと考えられています。薬医門は、東京大学の通称 “赤門あかもん”(正式名称:旧加賀屋敷御守殿門/国指定重要文化財)が有名ですが、16世紀以降の寺の門にも多く見られる構造です。”
(三の曲輪)
“四の曲輪から続く長い石畳道を上り、かつてあった四本柱の門跡を抜けると三の曲輪が広がります。三の曲輪の広い空間は、政治的な儀式などが行われていたと考えられています。かつては、多くの配下の者を前に、様々な指示を出す按司の姿が見られたことでしょう。発掘調査では、石積みを何回か修復したことや、石積み以前には柵列があったことなど、沖縄のグスクの歴史を知る上で、重要な発見がありました。”
(御庭)
“「御庭うなー」とは、三の曲輪に広がる空間のことです。前方の二の曲輪には政治が行われたと考えられる舎殿があり、これを御庭からあがめる空間配置は、首里城をはじめ、多くのグスクにおいて同様の構造が見られます。儀礼の場として使われており、グスクにおいて最も重要な場所の一つと言えるでしょう。”
(石積み)
“沖縄のグスクの石積みは、大きく分けて三種類の積み方があります。自然石を大まかに加工して積んだ「野面のづら積み」、四角い切石を水平に積み上げた「布積ぬのづみ」、多角形の石を亀甲型に積んだ「相方積あいかたづみ」があり、野面のづら積み→布積ぬのづみ→相方積あいかたづみと発達したと考えられています。勝連城の石積みは、そのほとんどが「布積ぬのづみ」で積まれています。また、鈎かぎ状に組むことで、強度を増した工夫も見られます。”
(肝高[きむたか]の御嶽/トゥヌムトゥ)
“神人 (かみんちゅ) と呼ばれる女性祭司を中心に行われる、王国時代から続く「ウマチー」という年中行事の拝所 (うがんじゅ) です。旧暦二月と三月に「麦」、五月と六月には「稲」の、それぞれ初穂や豊作を祈ります。御嶽の近くには、神人たちが腰掛けたと言われる石列(トゥヌムゥトゥ)があります。以前は、ウマチーの際に神人たちの前で若者が「イユコーイミソーリー(魚を買って下さい)」と呼びかけて回ったと言われています。”
(すり鉢状遺構)
“直径7.5m程のすり鉢状に掘り込まれた遺構が、三の曲輪の中央部で発掘調査によって発見されました。掘り込まれた土の表面には粘土が貼り付けられており、水を溜める施設であったことが分かっています。この施設の用途については、「飲み水を溜めていた」とする説や、あるいは「儀式に使われていた」とする説など様々あり、未だ解明されない謎に包まれた興味深い構造物です。”
(二の曲輪基壇)
“基壇とは、建物の基礎になる石や、土で一段高く築いた場所のことです。二の曲輪と三の曲輪の境は、石灰岩切石積で築かれ、南北全長約41m、ほぼ一直線に造られています。南側では約2m奥に入っており、他部分より古い時代の建築であったと推測されます。これにより、二の曲輪に存在した舎殿は、長い歴史の中で、少なくとも二度の建て替えがあったと考えられています。”
(傾斜階段)
“勝連城の階段の多くは踏面が傾斜しており、足が滑りやすく、大変上りにくい構造となっています。これにより、敵軍の突進力を減退させることができました。築城当時は、他地域との激しい戦争が繰り広げられていたことから、簡単に攻め込まれないための対策であったと考えられます。この傾斜は、降雨時における城内の水はけを良くするための工夫ともなっており、当時の建築技術の高さをうかがい知ることができます。”
(二の曲輪)
“二の曲輪には、勝連の政治上、最も重要な建物があったと考えられています。周辺から瓦が出土することから、当時、首里城や浦添城などでしかみられない瓦葺屋根の建物があった可能性があります。現在では、その礎石跡を地上に復元しており、建物の大きさを知ることができます。また、一の曲輪に続く石畳道も残っており、当時の人々の足跡を感じることができます。”
(舎殿跡)
“正面約17m 奥行き約14.5mの、やや長方形の舎殿跡が発見されました。この建物は首里城正殿のような柱の多い構造で、礎石のあるしっかりとした造りであったことが分かっています。勝連城の城郭内で、最も重要な建物であったと考えられています。舎殿が建てられた時代、屋根は板葺きが主流でしたが、周辺からは大和系瓦も発見されていることから、「瓦葺きの建物であった」という説もあり、勝連の栄華が偲ばれます。”
(ウシヌジガマ)
“「ガマ」とは、沖縄本島南部に多く見られる自然洞穴のことです。「ウシヌジ」には「身を隠し、凌しのぐ」という意味があり、このガマは「身に危険が及んだ時に逃げ込む場所であった」と言われています。1458年、首里王府軍によって攻め入られた際、圧倒的に数で勝る敵軍に対し善戦したものの、難攻不落とされた勝連城も、最後は力尽きてしまいました。真相は謎に包まれたままですが、この洞穴は一の曲輪「玉ノミウヂ御嶽」脇の洞穴と繋がっており、城主である阿麻和利は、ここを抜けて現在の読谷村 (よみたんそん) まで逃げ延びたという伝説が残っています。”
(ウミチムン 火の神)
“「ウミチムン」とは「三個のかまど石」を意味する言葉です。琉球古来の信仰で、火の神が祀られています。この信仰は現在も続いており、沖縄の各家庭では台所に「火の神ひぬかん」を祀り、家内安全を願う風習が残されています。また、藪地島 (やぶちじま)、浜比嘉島 (はまひがじま)、久高島 (くだかじま)、津堅島 (つけんじま) など、神話を残す周辺の島々を、遙かに拝む場所でもあります。”
(一の曲輪階段)
“一の曲輪階段は、敵軍による侵入などの勝連城有事の際の、“最終防御ライン”としての役割を担っており、城内に攻め入った敵が一挙に侵入できないよう、上るにつれて階段幅が徐々に狭まる構造となっています。また、石積みに沿わせた道から敵の横腹を突いて撃退する仕組みなどの様々な仕掛けにより、少ない兵力でも敵軍と互角に戦える工夫が見られます。”
(一の曲輪城門)
“踏み幅の狭い石段を上り切ったところに、かつて一の曲輪の城門がありました。周辺から出土した石材より、捲まき髭ひげ状の浮き彫りが施されたアーチ型の門であったと考えられています。琉球王国時代に編纂された沖縄最古の歌謡集『おもろさうし』 の中で、「かつれんは てだ むかて じょう あけて」と歌われており、東から昇る太陽に一の曲輪城門が誇らしく光り輝いていた当時の様子をうかがい知ることができます。”
(一の曲輪)
“標高約100m、勝連城内で最も高い位置に築かれた曲輪です。周囲360度見渡すことができ、周辺離島や本島北部の山々、南部の知念半島まで望むことができます。さらに、宿敵・護佐丸の居城である 中城城も確認することができ、眺望の美しさだけでなく、軍事要塞としての特徴も備わっています。
発掘調査より出土した遺物は、海外交易により得られた質の良い品々であったことから、かつて一の曲輪には、宝物殿のような建物があったと考えられています。”
(玉ノミウヂ御嶽)
“一の曲輪のほぼ中央にある、勝連を守護する大きな霊石をご神体とする御嶽です。ここでは、村の繁栄が祈願されていました。霊石の表面が平坦にされていることから、グスク時代には、建物の基礎に利用されていたとみられます。発掘調査により、かつてこの曲輪には宝物殿のような建物があったことが分かっています。また、霊石脇にある洞穴は 「かつては二の曲輪のウシヌジガマと繋がっており、有事の際の避難路として使用されていた」 という伝説が残されています。”
Mid-Sea Road 海中道路
勝連城から、勝連半島の先にある島に行くことにした。四つの島を海中道路が繋いでいる。地図では始めの島の名前が表示されていないのだが、平安座島、宮城島、伊計島、そして浜比嘉島。この4島をドライブ。
海中道路を走る。
空も海も真っ青のエメラルドでまさに南国沖縄。
Grave of Amamichu アマミチューの墓
平安座島から浜比嘉島 (はまひがじま) に渡るとアマンジという小島に、女神アマミチューと男性神シルミチューの祀られ祠がある。パワースポットとして人気があるようで、次から次に観光客が来ていた。この浜比嘉島は琉球誕生の島と言われている。この女神アマミチューと男性神シルミチューは日本の開闢神話のイザナギ・イザナミと酷似している。学者の中にはこの日本や琉球の開闢神話はポリネシアから北上して来ているとしている。そうであれば琉球のアマミチューとシルミチューはイザナギ・イザナミの原型とも言える。琉球の開闢神話は複数あり、アマミキヨ (アマミチュー) という神が、ニライカナイ(神の世界)から降り立ち国づくりを始めたという。アマミキヨは島々をつくり、一組の男女を住まわせ、二人の間からは三男二女が生まれる。その舞台とされているのが久高島。アマミキヨは七つの御嶽を作ったとされる。琉球王朝ではこの久高島詣でを行なっていた。これが琉球で最も知られた開闢神話で、もう一つが久高島が浜比嘉島に変わる。ここではアマミキヨ (アマミチュー) だけでなくシネリキヨ (シルミチュー) の男女神が降りてきて、子を授かって洞窟に暮らし、その子孫が人間として繁栄したと言うもの。その洞窟がシルミチュー霊場のこの場所で子宝に御利益があるという。この浜比嘉島バージョンが日本の開闢神話のイザナギ・イザナミになったと考えられている。
ここでもずくを売っているおばさんに出会う。沖縄人特有の気さくな話好き。野良猫と一緒に売っている。店長だそうだが、ずうと大の字になって寝ているだけ、触っても起きない。朝から夕方まで、観光客を相手に売っている。話し上手なのでついつい、ぜんざいともずくを買う事になった。
二人で記念撮影。二人とも怖そう。