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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄の旅 Day 44 (14/09/19) Yonabaru 与那原町

2019.09.15 12:06

Former Haebara Magiri Village Office 南風原間切番所跡

Uchinmi Gusuku Castle Ruins 内嶺城跡

Kanegusuku Ishijishi Stone Lion 兼城の石獅子

Mabunike Grave 摩文仁家墓

Yonaha Gusuku Castle Ruins 与那覇グスク跡

Usan Nidaki ウサン嶽 穏子根子の墓

Yonabaru Udun Yama 御殿山

Yonabaru Wue Ga 与那原親川

Sou nu Mashi 宗之増

Agari Naufusu 東名大主

Menuka Public Well 前の井

Kufado 久葉堂

Michindaki 三津武嶽

Ueyonabaru Ishijishi Stone Lion 上与那原の石獅子

Former Keibin Railway Yonabaru Station 軽便鉄道与那原駅舎跡

今日からは尚巴志が第二尚氏王統を開く迄に、育った地の佐敷近辺を探索する。佐敷は南城市にあり、那覇からは15km程の太平洋に面した海岸線にある。まずは那覇市と南城市の間にある南風原 (はえばる) 町に向かう。

南風原町は島尻郡に属している。この島尻郡は離島なども含み。尚氏王統時代は三平等 (ミフィラ) とよばれる三つの行政区域に分けられており、直轄地だった。いました。南風之平等(ハエヌフィラ)、真和志之平等(マージヌフィラ)、西之平等(ニシヌフィラ)。その後は、「その他」地域は全てこの島尻郡の中の入っている。

南風原町は12の字に分かれており字兼城 (かねぐすく) を通り南城市に近い与那覇の史跡を訪ねる。

Former Haebara Magiri Village Office 南風原間切番所跡

1611年頃、尚寧王が各間切りに番所を設置し、南風原間切番所もその時に設置された。現在は南風原町の字宮平にある。


Uchinmi Gusuku Castle Ruins 内嶺城 (兼城城) 跡

南風原町の字兼城 (かねぐすく) にある。ここは兼城城とも言われている。14世紀後半、首里城から内嶺按司 (うちみねあじ) が一族をひきつれて、丘陵上にある上殿内毛 (いんとぅんちもー) 内に内嶺グスクを築きいた。 内嶺按司は、尚巴志から鉄塊を受けて鍛冶を行い、鉄具を作って農業を推奨したといわれている。この話は察度が浦添で行った事と酷似している。共に、農民に鉄の農機具を与え、領民の信頼を勝ち得ていった。また、養子として跡を継いだ兼城按司 (かねぐすくあじ) は、北山王の攀安知 (はんあじおう) の五男 虎寿金 (とぅらじゅがに) で、北山滅亡後に内嶺按司に引き取られた。グスクは小高い丘の上にあり、2段の曲輪があるようだ。現在は公園になっており、下の曲輪はゲートボール場、上の曲輪のは数基の拝所や、沖縄戦の慰霊碑がある。

Kanegusuku Ishijishi Stone Lion 兼城の石獅子

この石獅子は、南風原町の字兼城 (かねぐすく) にある。 恐れや災いをもたらす場所に向けられており、ここ兼城は上間 (那覇市の識名園の近く) と隣接しており、上間へのフーチゲーシ (邪気返し) の目的で置かれたと伝えられている。普通、南部では東風平の八重瀬へのヒーゲーシ (火返し) の目的で置かれたものが多いが、この石獅子が上間へのケーシであるといわれるのは当時、上間も一帯の人々にとって恐れの対象であったことを示しており、当時の南風原 (はえばる) と上間の関係が推測できる。石獅子は相当古いのだろう。案内版が無ければ石獅子とはわからないぐらいすり減っている。

Mabunike Grave 摩文仁家墓

南風原町の別の字の字大名にある。摩文仁御殿は、第二尚氏王統第10代尚質王の次男の尚弘毅 大里王子朝亮 (1647年 - 1687年) を元祖とする御殿 (うどぅん 王家分家) 。一世 朝亮は第11代尚貞王の摂政を務めた。第11代尚貞王といえば、政治は蔡温 (1682 - 1761) が取り仕切っていたが、年齢から見ると、蔡温が活躍する前は朝亮が政務を見ていたようだ。この摩文仁家の墓は、造られた年は不明だが、この朝亮が国王から拝領したと伝えられている。

Yonaha Gusuku Castle Ruins 与那覇グスク跡

南風原町字与那覇にある。道路工事中で、どうも城跡は工事中の道路で分断されている様だ。築城年代や築城主は不明。城塞と言うよりは、拝所としてのグスクではないかと推測されている。

Usan Nidaki ウサン嶽 穏子根子の墓

与那覇集落に御殿小 (うどぅんぐゎー) と呼ばれる拝所があり、ここは琉球版浦島太郎伝説の穏子根子(うさんしー)という人物の墓とされている。ここに伝わっているのは各地にある浦島太郎伝説とほぼ同じ内容。沖縄の人は浦島太郎伝説の元祖は沖縄と思っている。気持ちはわからないでも無いが....  沖縄の話は以下の通り (浦島太郎という名では無いmが)

「南風原の与那覇村の男が、与那久浜で髢(かもじ。髪の毛)を拾う。探しているそぶりの美女に返すと感謝され、竜宮に招待したいと言われる。男が(手を)引かれて歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。その美女は神であり、男と竜宮で歓待の日々を過ごすことになる。三ヵ月ほど経つと男は故郷が恋しくなり帰郷を思い立つ。神女は、元の世を去ってからすでに三十三代経っており、男には子孫もいないと諭すが、断念させられない。そこで向かう所に道が開けるという(しかし絶対に開けてはいけない)紙包みを渡し里帰りさせる。男が郷里に帰り着くと辺りは変わり果て、自宅を指さし家族について尋ねるが、嘲笑され癩人扱いされる。なすすべなくなった男は丘に登り桑の杖を突きたてて穏作根 (坐って休み)。ふと、何か良策が出るかと思って紙包みを開いたが、中に入っているのは白髪だけで、それが飛びついて体に付着すると、老爺と化し動けなくなって死んだ。地元の者が老爺をその場所に神として祀ったのが、穏作根嶽 (うさんにだき) であるという」

南風原町を抜けて太平洋に面した与那原 (よなばる) 町に入る。沖縄本島で一番小さな町で、ここも島尻郡に属している。尚巴志が佐敷に住んでいた頃は、この地域には二つの港があり大和との交易の船が停泊をしていた。二つの港とは、馬天泊とこの与那原泊 (ゆなばるどぅまい) であった。尚巴志も頻繁にこの与那原泊に訪れていただろう。

Yonabaru Udun Yama 御殿山

御殿山 (ウドゥンヤマ) は、本島南部の拝所を回る「東御廻り (アガリマアイ)」の巡礼地の一つ。首里王府の祭祀をつかさどる最高位の女神官の聞得大君 (キコエオオキミ) にまつわる伝承がある。御殿山と呼ばれる祠は浜の御殿 (ハマヌウドゥン) とも呼ばれ、昔聞得大君が隠居した跡だと伝えられ、当時は民家は無く、浜田山という小さな丘になっていた。琉球王国の聞得大君職は尚真王が設けられた女神官の名称で、それ以前は最高女神官のことを国司 (クニチャサ) 大君とも呼ばれていた。

察度王の四男の本部王子の次女は、首里城の聞得大君職であったが、1402年に久高島に参詣の帰りに暴風で舟が流され行方が分からなくなった。1405年に、第一尚氏王統最後の王である武寧王が佐敷小按司尚巴志に滅ぼされ、新しく中山王になった尚思紹は聞得大君職を継ぐ者に悩んでいたところ、各地の神職を集め協議した結果、行方不明になった聞得大君を探し出し、首里城に連れ帰らなければならないという君真物 (チンマムン) という神からお告げがあった。神のお告げでは、聞得大君は薩摩で生きていると言う。天ヌルを薩摩に迎えとしてを送るが、聞得大君は薩摩国で薩摩の殿様の子を宿しており、薩摩の殿様が帰国を承諾しなかった。そこで馬天ヌルが聞得大君の両手にハジチ (針突き=刺青) をし、やっと殿様も帰国を許した。聞得大君は帰国するも穢れた身では首里城の祭祀を行うわけにはいかないと、与那原の浜に庵を結んで住むようになり、そこで男の子を生み、この地を御殿山と呼ぶようになった。産湯に使った井泉は親川 (ウェーカー) と呼ばれ、代々の聞得大君が久高島参詣のとき参拝するようになった。生んだ男の子は、生後間もなく亡くなったとも、成長して後の城間親雲上 (グスクマペーチン) であるとも伝えられている。史実は、聞得大君は尚巴志が中山を攻める前に首里城を抜け出し、交易のあった薩摩に援軍を頼む武寧王の使者として、紀伊国の僧侶と共に薩摩に向かい、そして熊野権現の本拠地である紀伊国に逃げたと考えられている。この事件以来、聞得大君の就任儀式である御新降 (ウアラウリ) は、久高島ではなく、斎場御獄 (セーファウタキ) で行われるようになった。

御殿山のとなりにグランドがありそこに大きな看板が立っている。綱武士の大綱曳の祭りの看板だ。この広場で行われる。大綱曳の祭りの翌日に立てられた様だ。看板には「あと364日はこの大綱曳のため」と書かれている。地元の男連中にとって祭りは生きがい。多分、祭り近くなると、仕事も手につかず、商売や家の事はかみさんに任せっきりなのだろう。

綱武士 (ちなむし) の大綱曳の祭りは、かなり大掛かりな祭りで、東 (アガリ) と西 (イリ) に分かれ勝敗を競い合う。起源は第二尚氏王統 第6代尚永王 (1573~1588) の時代で、町内の5ヶ所の拝所の東名大主、宗之増、阿知利世主、御殿山、親川 (この後、訪問) に来年の豊年や住民の健康を祈願してから曳かれた。それぞれの陣営は綱曳きの前にそれぞれの陣営の女性たちが、各々の綱と向かい合って先導しながら歌い踊りながら練り歩く。メーモーイ (前舞) と呼ばれる。綱の先頭にはチジンドゥールーと呼ばれる旗頭があり、毎年趣向を凝らし作り替えるそうだ。綱は東西で雌雄となり、綱曳き前にガーエーを行った後、旗頭、金鼓隊 (鉦鼓、太鼓、銅鑼、ボラで音を出す)、メーモーイ、綱の順序で綱曳き場のある御殿山青少年広場へ向かいながらスネーイ (示威行進) を行う。雌雄の綱が相対するまではシタク (支度) と呼ばれるふん装をした青年が乗っている。ふん装は組踊から取っていることが多い。雌雄の綱をカナチ棒で繋いで東西の綱武士 (ちなむし) により綱曳きが開始される。この綱曳は沖縄全土にあるので一度見てみたい。

与那原町の5つの拝所を巡ってみる。御殿山はもう訪問済みなので残り四つ。

Yonabaru Wue Ga 与那原親川

天地開闢の昔、御殿山の天降りした天女が、その御子の出産にあたり、この地で産場を使ったという神話がある。琉球王朝時代には国王の久高参詣の東廻や聞得大君の御新下りの際、この親川の水に中指を浸し、額をなでることで、霊力を獲得する「お水撫で」の儀式が行われた。首里出発後、最初の拝所として、休憩の御用水を献じた所と伝えられる。

Sou nu Mashi 宗之増

与那原発祥の門家を祭った神屋。竿之増とも表記する。与那原の発祥は700年前といわれ、上与那原の謝名家の子孫がこの地に移り住んだのが部落のはじまりと伝えられている。当時は測量のことを“竿を入れる”といい、この地にはじめて竿を入れ部落づくりがはじまったということから“竿ヌ増”と言う名称になった。拝所にはこの部落開拓の祖をまつり、上与那原の照屋家 (屋号謝名) の子孫が祭主になっている。

Agari Naufusu 東名大主

東名大主 (あがりなうふす) は上与那原地区は、与那原町で最も古い集落。察度王統の時代に東名大主が大東島 (与論島とも平安座島・伊平屋島ともいわれる) からこの地に移って来た。ここにはその大主が祀られており、部落行事の際は、最初に拝む部落第一の拝所。この東名大主より7代目の子孫が、先に訪れた与那原の村建ての祖といわれる 宗之増 (そうぬまし)。

Achiriyunushi 阿知利世主

この日にはここは行かなかったので、8月17日にもう一度、与那原にきた時にここを訪れた。阿知利世主は、阿知利毛 (あちりもぉ) に居を構えた実力者で、与那原最大の門中、上原一門の祖先が、国頭行のため与那原を通りかかった際、阿知利世主の知遇を受け、長男を養子に懇望されるとともに、当地に居住するように勧められそのまま留まり、村建てに尽力したといわれ、上原門中が崇拝している。阿知利世主は、綱曳では東方あがりかたの中心であり、東の綱行列はここから出発する。

Menuka Public Well 前の井

部落南部にある古井 (ふるかぁ) で共同井戸として使用されたところ。170~80年前に王府への上納成績優秀な村に贈られた御拝領井である。

拝所はこの5つ以外にもある。その他の史跡も訪れた。

Kufado 久葉堂

久葉堂 (クファドウ) は琉球王国の神女である聞得大君が、与那原に帰って来たが、妊娠していたので首里に戻るわけにいかず、久葉堂御嶽の場所で、子供と共に隠れ住んだ場所とされている。また、運玉山 (ウンタマヤマ) の麓に移り住んだ住民が山崩れで犠牲になるという惨事があり、その魂を鎮めるために海岸から珍しい石を拾い、ご神体として拝んだともいわれている。ここは与那原公民館の敷地内にあり、子供達のたまり場。子供達が近ずいてきて、この拝所のお詣りの仕方を教えてくれた。子供達は親に連れられて、時々お詣りをしているようだ。まずはお賽銭を入れると言うので、小銭を祠に投げ入れる。「うとう、うとう」と子供が言っている。ウトウトと聞こえ、寝るふりでもするのかと思ってキョトンとしていると、子供たちが「うーとーとぅ」と言って手を合わせている。お拝む時の祈りの言葉だった。漢字では「御尊い」だそうだ。

Michindaki 三津武嶽

この三津武嶽 (みちんだき) は今日何度も出てくる聞得大君の墓所で、薩摩から帰国してからは首里には戻らず、この与那原で一生を終えたと言う。与那原の高台にあり、獣道のような雑草が伸び放題で道も隠れるぐらいの所をハブに注意しながら登った。勿論誰とも会わず、所々に朽ち果てた亀甲墓がある。心細くなるくらいのところだった。墓は頂上にあった。地元では子宝の神様とされているようだ。

Ueyonabaru Ishijishi Stone Lion 上与那原の石獅子

与那原町には全部で石獅子が7体残っているそうで、そのうちの一つ。火の獅子と呼ばれている。与那原の観光案内では「昔、村内で頻繁に火事が起こったのを調査したところ、大里村の古堅部落も火事が頻繁に起こっており、そのため火を返す獅子を頭を与那原に向けて建てたためだと分かった。それに対抗するために建てた獅子と言われる。」

この獅子を見ていると、だんだんと可愛く見えてくる。昔の獅子像は愛嬌のあるものが多い。現在のシーサーは、立派なものとか、遊び心でコミカルなものもよく見かける。街で見かけたシーサーを少し紹介をしよう。

Former Keibin Railway Yonabaru Station 軽便鉄道与那原駅舎跡

戦前にはここまで鉄道が通っていた。継続していたら今以上に与那覇や鉄道の線路沿いは更に発展していたことだろうし、那覇の人口密集問題、交通渋滞は少しはましだったかもしれない。現在検討中の沖縄鉄道計画ではこの地区は幹線としては考えられておらず、初期の計画では支線として検討の一部であったが、幹線が工期 15年 収益予測では開業後40年間は赤字という予測もあり、恐らくこの地区から南城市への支線は実現が難しいだろう。

ここで6時になってしまった。佐敷まで行きたかったのだが、与那原は面白く、時間をかけて回ったので時間切れ。明日また来れば良いので、今日はこれで那覇に戻る事にする。