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世界史のなかの昭和史

2019.09.14 06:52

  「昭和史 1926-1945」「昭和史 戦後篇1945-1989」の著者、半藤一利さんが、昭和史を庶民の視点から描き出した「B面昭和史 1926-1945」に続いて書き上げた「昭和史」シリーズ三部作の完結編にあたるのが本書です。 そのタイトルの通り、同じ昭和史でも、本書では、当時の世界列強諸国のリーダー達の思惑に翻弄されていく日本の「昭和史」について書いています。半藤さんは、本書前書きにおいて、「歴史は皮肉なものである。それは、その時代に生きている人間が期待するように、素直に、一直線に、歴史の流れというものは進まない。むしろ期待とは逆なほうへと進むことが多い、という意味であり、むしろ『皮肉』というよりも、実際は、それどころではなく、歴史は無常で、残忍で、非人間的な、酷薄なもの、つねに思いもかけない偶然を用意する、しかも、それは想定外に悪い場合が多い、といったほうがいいのかもしれません。」と感想を述べています。

  特に、第二次世界大戦で、連合国軍を相手に戦ったドイツのヒトラー、ドイツを倒すために国の体制の異なる資本主義国家(アメリカ、イギリス)となりふりかまわず同盟を組んだ共産主義国、ソ連のリーダー、スターリン。この罪のない自国民の大量虐殺をなんとも思わず、狡猾で、抜け目ない二人のリーダーに、戦争中の日本は翻弄され続けました。常に、ヨーロッパ諸国、アジア諸国、そして、アメリカの動きをみながら、小国日本を丸め込もうとし、交渉ごとに表の顔と裏の顔を上手に使い分けてくるこの二人のプレーヤーにとって、「同盟条約」「中立条約」さらには、「不可侵条約」などの締結(や破棄)においても、常に優先すべきは自国実利のみであり、そこには理想とか後ろめたさはまったくありませんでした。(実際ドイツは、対アメリカ戦の防波堤として日本と三国同盟を結びましたし、ソ連は、ドイツとの戦いに集中するため日本と「日ソ中立条約」を結びました。その「中立条約」が存在するのにもかかわらず、アメリカが原爆投下後、日本が戦意喪失とみるや、ソ連は条約を一方的に破棄し、日本の領土へ攻め込んできました。(対照的に、このドイツ、ソ連の二国に対して、開戦前から、日本側に終始一貫した主張を通してきたアメリカ、それにイギリスは、逆に毅然としているというか、流石というか。。。当時の敵ながら ”あっぱれ” という感じがしました。)

  さらに、そういった世界の列強国に対し、日本は情報戦でも負けていました。アメリカは第二次大戦の早い時期から日本の暗号解読に成功し、その後は常に日本の動きを察知していましたし、ソ連はスパイ、ゾルゲを日本に送り情報を収集していたのは周知の事実です。

  本書ではそのタイトル通り、日本の昭和史に関わってきた列強国と日本のやりとりを紹介していますが、特に意外だったのが、1940年の九月に調印された「日独伊三国同盟」に関し、当時外相だった、松岡洋右(ようすけ)が構想した「日独伊ソ四国協商」です。これは、「三国同盟後に、ドイツが持つ ” 対ソ影響力”を活用して、ドイツをして日ソ国交調整の斡旋の役割を担当させ、なんとかソ連もこの同盟に引き込みが『日独伊ソ四国協商』の実現をはかり、この提携の力の威圧を利用して対米交渉に乗り出し、諸懸案の妥結をはかると同時に、アメリカをしてアジア、およびヨーロッパでの干渉政策から手を引かせ、同時にこれらの地域での平和回復に共同協力することを約束させる。そして、同同盟、同協商の力で英米を牽制して、日本の南進政策を推進する。こうしてヨーロッパ、アジア、アフリカで四国間に生活圏を分割し、世界新秩序を樹立する。」というものでした。(実際は、ヒトラーは同年7月には、ソ連への侵攻を決断していますが、松岡はそんなことは知りませんでした。)

    また、この三国同盟に関してはヒトラーは「アメリカが参戦してきたときには同盟国(当然ながら日本も含みます)は自動参戦の義務を負う」という提案を加えます。これに対して日本側はその点を「自主的判断によりに参戦する」という内容なら受け入れる、と最終決定で妥協し、調印ということになったのですが、実はこの「自主的判断による参戦」に対しヒトラーはあくまで「自動参戦の義務」を正式の条約に明記することを強く希望しました。このため当時この同盟締結交渉にあたった3人(ドイツ側のオット-とシュマーター、それに松岡外相)は、苦肉の策として、「(同盟国が)攻撃を受けた時の協議にドイツ政府は最善を尽くすという保証」を内容とした(オットーとシュマーターの二人による)「私信」を松岡外相に送る、ということで最終決着ということにしたのです。(P315)(つまり、一国の軍事行動に関する重大事項の決め事を単なる「私信」(*)ですませてしまったのです。ただし、日本ではこの文書は「交換公文」扱いされています。)このことに対して、半藤さんは「松岡外相は、(ドイツの2人と共に)ペテン劇の主役の一人を務めたていたが、その松岡もヒトラーがすでにソ連攻撃の意志をかなり強く固めていたことは知らなかった。松岡の四国協定の構想など富山湾の蜃気楼のごときはかないものだったことを思うと『世界史のなかの昭和史』がなんとも可哀想になる。」と語っています。(P317)

   でも私的に理解できなかったのは、どうして早くから「ソ連の征服」とか、「東方での領土拡張」とかを主張し、「日本人を蔑視」していたヒトラーのドイツと日本が同盟を結んでしまったのか? ということです。(1925,26年出版の著書「我が闘争」で、すでにこれらの考えをヒトラーは明確に述べている) 半藤さんは本書(P303)で次のように語っています。「ドイツ贔屓(びいき)となった、当時の日本人がいったいナチスのどこに共感したのか、ということを考えると、日本人と共通するある種のイメージを彼らのうちに描いたからではないか、といまになると思われるのです。堅実、勤勉、几帳面、徹底性、秩序愛、律儀さ、端正といったポジティブな面から、頑固、形式偏重、無愛想、唯我独尊というネガティブな面まで。(中略)また、日独はいずれも単一民族国家、団体行動が得意で、規律を重んじ、遵法精神に富み、愛国心が強い。日独はどちらも教育水準が高く、頭がよく、競争心が強く、働くことに生き甲斐を感じている。組織に対する忠誠心に溢れ、勇敢で、軍事的潜在力が高い。しかも日独は、近代国家としては『おない年』で、統一国家を形成した1870年頃には、世界の帝国主義強国の地球上における領土分割はほぼ完成し、後発であったばかりに優秀でありながら、” もたざる国家 ”として国家発展のために苦闘をともにしている。お互いに国際連盟からも脱退し、国際的孤立感に悩みに悩み、アメリカ大統領からはさながら『黴菌(ばいきん)』のごとくさげすまれている日独両国は、いまこそ盟邦としてより強く手を結び合うべきではないか。そんな空気がいまや日本中に充満しはじめていた。バスに一緒に乗ろう。民草もそのつもりになっていたのです。」 

   独ソ開戦はやがて起こるとの極秘情報を得ていたアメリカは、日独伊三国同盟の正式調印を受け、「(同同盟は)既存の世界の秩序・体制に対抗し、新しい秩序をつくろうとする日本の戦闘姿勢を示すものと考え、この時からアメリカの国民は、日本および日本人にたいしてナチス・ドイツにたいする不信感と敵意と不気味さとそっくり同じものを持ち始めるようになったのです。」(P325) アメリカは三国条約に対する対抗措置として、40年10月16日に屑鉄の対日禁輸を決定します。制裁措置は翌年にはさらに強化され、イギリスも追随します。この後、アメリカとの外交交渉を経たのち、同交渉を断念。 世界の列強国の思惑に翻弄され続けた日本は194年12月8日、ついにハワイの真珠湾攻撃をもって第二次世界大戦へ参戦することになります。

   当日、(ハワイ時間十二月七日、日本時間十二月八日)、ハワイの真珠湾攻撃に向かった日本の攻撃隊は生涯において最も美しい夜明けを見ます。「その日、(ハワイ真珠湾)攻撃隊総隊長、淵田美津雄中佐機を先頭に、母艦上空で進撃隊形をととのえた攻撃隊は、高度三千メートル、畳々(じょうじょう)たる雲上をはうようにして飛んでいきます。真っ黒にみえていた脚下の雲が、しだいに白みをおびてくる。それを切り裂くようにして、真っ赤な大きな太陽が水平線から光の矢を放つのを見ます。日の出はハワイ現地時間六時二十六分。白い雲海のまわりが黄金色にふちどられ、壮麗に輝き始めます。この時、眩(まばゆ)い朝の光に心打たれ、淵田中佐は、思わず「グロリアス・ドーン!」(栄光の夜明け)とつぶやきました。 " Glorious Dawn "  それは大日本帝国の新時代の夜明けを象徴するかのように、中佐には思えたのです。『よき時代に男に生まれたことを誇りに思い、日本の運命が我々の双肩にかかっている』ことを痛感したといいます。おそらく、その日、真珠湾上空に飛んだ第一次・第二次を合わせた七百六十五人の搭乗員全員が同じ感懐を抱いたに違いありません。彼らは選ばれた戦士の一員として、新しい時代の開幕を告げる戦闘に参加していると考えた。彼らは未来の中に、新しい歴史のページの中に、自分たちの姿をはっきりと思い描くことができたのです。それこそが男子の本懐というものであると思いました。」(P425)(しかし、昭和史における事実、そして、大日本帝国の輝かしい未来があったかどうか。それはもう、これ以上かくまでもないことですが。。。)  

   半藤さんは本書の最後の方(P422)で、” 世界史のなかの昭和史 ” を次のように結論付けています。「わたしはどうしても、国家というものは所詮、“天” の意志というものの抗い難い力によって押し流されて行く、とする歴史観にとらわれてしまうのです。人間の愚かさゆえ、それから逃れられないのだ、天の意志を汲み取ることはできないのだ、という思いを抱かざるを得ません。有能な指導者がその流れに逆らって、方向を変えようと、あるいは速度をゆるめようと、どんなに奮闘努力しても、歴史の大きな勢いのある流れを押しとどめることはできない、という無力感、体系的な思考の空しさ、といいかえてもしれません。(中略)日米関係の、戦争か平和かの危機的な状況を世界史の上においてみると、理性の力より “天” の意志によって。。と悪い方へと引っぱりこまれていってしまう、といわざるを得ないのです。いっさいを呑みこむ歴史のうねりへの畏怖といったらいいでしょうか。それがこの(本書の)結論である、とは、まことに情けないことながら、です。」

  (半藤さんは本書では触れていませんが、)私的には、やはり日本は国際外交感覚が足りなかったのだと思います。世界の列強が日本へ攻めてくる、という恐怖から慌てて開国したのが1854年。明治維新後、国が貧しいのにもかかわらず急いで軍備を整備し、やっとのことで日清戦争、そして日露戦争を勝ち取った日本にとって開国からハワイ攻撃までわずか87年。やはり、「国際外交」の経験値が絶対的に他の列強国比べ不足していた、ということなのだと思います。(一方のヨーロッパでは紀元前から国同士で戦争を行っていて、外交術を磨き上げてきた歴史があります。) 

   この「世界史のなかの昭和史」に対し、日本の庶民が昭和史において、「どう日本政府や軍部に翻弄されたか」を書き綴ったのが「B面昭和史」(下)です。 この中で、半藤さんは、日本軍の思惑や世界情勢という ”風” に翻弄され、なびく ”草” にたとえて日本の庶民を「民草」という独自の表現で語っています。)これを読むと昭和元年が数日しかなったとか、「2.26事件」の発生当日からの東京の様子などがわかって興味深いです。

(*)私信:私用の通信、個人的な手紙。