「宇田川源流」 災害時に何でもかんでも自粛を呼びかけることの「問題」と「普通の生活とは何か」ということ
「宇田川源流」 災害時に何でもかんでも自粛を呼びかけることの「問題」と「普通の生活とは何か」ということ
まず、先週の日曜日台風15号での被災地の皆さんの一刻も早い復旧と普通の生活を取り戻すことを祈念するとともに、微力ながら幾分かのお手伝いをさせていただきます。被害に遭われた方のお見舞い申し上げます。
さて、被災地といえども今マスコミでは千葉県ばかりが言われておりますが、実際には、大島や初島、新島など伊豆諸島の皆さんもかなり大きな被害があり、また神奈川県横浜周辺の沿岸部の皆さんに関しても防波堤の崩壊など様々な意味での被害があったといわれております。これらもあまりマスコミが報じていないので、この場をお借りして、このように報告させていただくとともに、一刻も早い復旧を祈っております。さすがに支援または応援といえども私一人では一か所に行く以外には金銭的な寄付を行う以外にはなく、また、残念ながらあまり普段運動をしていないことから、私が被災地に行くこと自体、足手まといでしかなく仕事を増やしてしまうことになるので、15日など現地応援に行くことを一度は想起いたしましたが、今回は遠慮させて頂きましたこと御報告させていただきます。
さて、そのうえで、今回の記事はなかなか大きな問題ではないかという気がするので、少し考えていただきたいと思うものである。
一か所が災害で日常生活を送ることが困難であったり、あるいはそれまでの仕事を廃業しなければならない状態にあるということがある。もちろんそのことに心を寄せることは必要だ。しかし、なんでもないところでもそのことに合わせて「遊び」特に障碍者のリハビリなどまで自粛しなければならないのであろうか。
例えば、野球やサッカーなどにおいて選手や近しい人が亡くなった場合に、一分間の黙とうを行い、あるいは喪章をつけて、そのうえで、いつも通りのプレーを行うというのは普通のことであると思う。では、今回のような時に一般の人はどのようにすべきなのであろうか。
千葉市長「自粛はご遠慮ください」 台風15号の「不謹慎」苦情で呼びかけ
千葉市の熊谷俊人市長は2019年9月12日5時40分にツイッターを更新。台風15号により千葉県内で停電・断水が発生する中、水遊びをしていた養護学校の生徒に苦情があったことを明かし「心を寄せて頂いた上で、自粛はご遠慮下さい」と呼びかけた。
水遊びの養護学校生徒に「不謹慎」と苦情入る
熊谷市長はツイートの中で、
「養護学校の生徒が水遊びしていることについて『災害の中、不謹慎』との苦情が入りました(その方は停電は発生していない地域にお住い)」
とした上で、
「確かに千葉市内を始め、県内が停電・断水な中、不謹慎と思う方もいるかもしれませんが、自粛しても意味がありません。心を寄せて頂いた上で、自粛はご遠慮下さい」
と呼びかけた。
熊谷市長のツイートに対し、ツイッター上では、
「なんでもかんでも不謹慎といえばいいという自己満足クレームに屈しない姿勢素晴らしいと思います」
「障害をお持ちのお子さんにとって、暑い時期の水遊び活動は非常に大切と聞いております。こんな時だからこそ、守ってあげてください」
という賛同の声や、
「水遊びごときで不謹慎と言っていたら千葉県浦安市にあるディズニーランドは休業しなきゃいけない」
と苦情を入れた人物に対する皮肉が寄せられている。
2019年09月12日 11時46分 J-CASTニュース
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12144-402085/
さて、まず一つ考える。
何かどこかで災害があった時に、それ以外のところが自分の生活をやめて、謹慎しなければならないまたは、何かを自粛しなければならないというのはいかがなものであろうか。 3・11、東日本大震災の跡、東京都は「花見などはしている場合ではない」として、上野公園など桜の花が満開であった時に、夜の宴会をすべて自粛させてしまった。あの当時夜の不忍公園を回ったが、真っ暗な中で数組のサラリーマンと思われる人々が酒盛りをしていたが、当然のように例年のような盛況さはなかった。では、そのことで日本の景気は良くなったのか、あるいはそのことで、東北の人は癒されたのであろうか。
このように考えれば、「自粛した人」「やらなかった人」の自己満足と「やらせなかった人に対する苦情の防御」にしかならないのではないか。
もちろん、「普段通りにして被災を忘れてよい」ということではない。だから上記のように、「喪章」と「黙祷」ということがよいのではないか。
では逆に何故そのような苦情が存在するのか。これは日本人特有の「横並び意識」の感じである。つまり片方で困っているのであるから、他の「普通の人」も「横並びで不幸であるべき」というような「低値安定」を行うということになる。そのようなことで日本人がよくなるのであろうか。
本来、日本をよくする、早く復活するためには少しでも元気なところは元気に暮らしその利益を被災地に回すというようなことをすべきではないのか。普通でありながら被災地に心を寄せる、そのようなことができなくなったのは日本人でいつからなのであろうか。
同時に、逆に何故そのように「他人の明るさを妬む」のであろうか。
以前、このブログで「ジャスティス・ハラスメント」というものがある。本人たちはそのようなことを望んでいないのに、まさに、「妬みの感情で低値安定的にマイナスの方に生活や感情を合わせる」ということで、実際に被害者も何もないのに、また誰も嫌な思いをしていないのに、なぜそのようなことを言うのか。
現在の人は、なぜ「嫉妬」を「苦情という形」をするのか。そのようなことが、かえって被災地を悪くさせ、なおかつ、復興を遅らせる。日本を悪くさせて国力を失わせるような陰謀ではないかと思わせるような感じである。逆にそのような懸念がある人は、「喪章」をつけて遊ぶようにすればよい。そのようにして経済を活性化することこそ、遠回りではあるが、被災地のためになるのではないか。
「確かに千葉市内を始め、県内が停電・断水な中、不謹慎と思う方もいるかもしれませんが、自粛しても意味がありません。心を寄せて頂いた上で、自粛はご遠慮下さい」<上記より抜粋>
まさにこの言葉こそ、今の日本全体に必要なものではないか。