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ヒルティ喫茶:虹息

主がある人に惠を垂れようとする時、主は‥

2019.09.17 15:56

どこか、傲然と構えて人を近づけない態度は、たしかに尊大な人間の大いに好むところで、彼らはそれを“高貴”だと思っているのです。

けれども、主の手にかかれば、決してそうはいかない。

主がある人に惠みを垂れようとする時、主は、傲慢な態度を捨てざるを得ないような境遇にその人を移すものです。

なぜなら、一般の人々の運命から遥けく離れて全くあずかり知らなぬというような半神たちは、誰からも愛されないからです。もし、彼らの願い通り、それが叶ったとしたら、彼らは、そうした「特例的地位」を獲得した代わりに、真の愛を知ることがないのですから、そのような代償は、あまりにも高価な買い物と言わざるを得ません。

『幸福論 第二部』高貴な魂 p.200~

今日初めて、この文章の‘恵’が旧字体の“惠”になっていることに気づきました。誤植か、校閲で見落としての不統一か‥

(たとえば、p.85

こうして、つねに悲喜こもごもの生涯の終わりに、ついにこの“慰められた人”に授けられるものは、澄んで曇りなき慈愛であり、これこそおよそ人間が手に入れうる最高のものです。そうなった人にとっては、どのような悦びも彼をして主を疎んじさせるものとはならず、どのような苦悩ももはや彼をして苛立たせることができません。悲喜いずれもが、日の光と雨のように、同じ手から授けられたものとして受け取られます。しかも、感謝をもって受け取られる、というのは、今や自ら、ほかの人々に‘恵’みを与える者となった、一つの生命体にとっては、悲喜いずれもがなくてはならぬものとなるからです。」)

と、枝葉末節にすぎないことに、今日、気づいたのでした‥


他の箇所で‘恵’みとなっているところがこの文章では‘惠’みになっていますよということが言いたかったのではなくて、今日、皆さんと共有したかったのは、


主がある人に惠みを垂れようとする時、主はその人を、傲慢な態度を捨てざるを得ないような境遇に移すものです。


というヒルティおんじの言葉でした。