「フランスの宮廷と公式愛妾」4 アニェス・ソレル(4)出会い
フランス王の戴冠は代々ランスで行われた。ランスはフランク王クロヴィスの洗礼の地であり、フランス王はその王権の根拠を、ランスに保管されている聖油による聖別を受けてクロヴィスの後継者となることに求めたためである。ジャンヌは、シャルルをランスで戴冠させるべく、王太子軍を率いて戦いを続けながら、フランス国王シャルル7世として正式に即位したのである。
「王が祝聖されたその瞬間、<乙女>(ジャンヌ=ダルクのこと)はただちに跪き、王の膝を抱きしめて熱い涙を流した。誰もが同じように泣いた。」(ジュール・ミシュレ『ジャンヌ・ダルク』)
しかし即位後シャルルとジャンヌの間に溝が広がっていく。シャルル7世はイギリス・ブルゴーニュ派との和平交渉を進めるが、ジャンヌは敵の手中にあったパリを武力で奪還するために突入。しかし敵の矢を受けて負傷。しばらくしてパリの北にあるコンピエーニュを奪取するため進軍するがブルゴーニュ派に捕らえられイギリス軍の手に渡ってしまう。そして、ルーアンで宗教裁判にかけられ、異端の判決を受け、1431年5月30日に火刑に処せられた。当時は敵の手に落ちた捕虜は、身内が身代金を支払って身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、シャルル7世はジャンヌの身柄引き渡しに介入せず(多額の身代金を惜しみ?)見殺しにしてしまった。ただし、何も手を打たなかったわけではなさそうだし、ジャンヌを救えなかった理由についても未だに不明のようだ。
その後、シャルル7世はブルゴーニュ派との和平交渉を進め、1435年にはブルゴーニュ公フィリップとの間で「アラスの和約」を結び、内乱を終結させる。それによってブルゴーニュ派とイギリスの同盟は破棄され、百年戦争の終結への前提が作られた。また、シャルル7世率いるフランス軍は着実に勢力を伸ばし、軍制改革も推進、1440年にはそれに反対した貴族の反乱も鎮圧する。そして1444年を迎える。国王になって15年、41歳になったシャルル7世のもとを妻マリーの姉イザベルとその夫ナポリ王ルネ・ダンジュが訪れる。彼らに同行していた次女の一人が、フランス史上最初の公式愛妾になるアニェス・ソレルだった。このときアニェス24歳(22歳という説もある)。とびきりの美女で、ずば抜けて知的だったと言われる。シャルルは瞬く間に彼女に魅せられてしまった。彼女をどうしても自分のそばに引き留めておきたいシャルルは、王妃マリーの侍女にする。それからというもの、ベッドにも、食卓にも、散歩にも、側近との会合にも彼女の同行を求めた。こうして国王の愛妾になったアニェスには瀟洒な館も与えられた。パリ東郊外の「ボテ・シュール・マルヌ城」(現存しない)である。その城の名前から、アニェスの愛称「ダム・ド・ボテ」(「麗しきご婦人」)が生まれた。
シャルルは溺愛する愛妾と幸せに満ちた生活を送っていた。しかし、唯一の悩みがあった。それは、どんなに愛していても愛妾は公式の場には同伴できない、ということ。公式の場に同伴できるのは王妃だった。アニェスと一時も離れていられない王が悩みぬいた末に考え付いたのが「公式愛妾」制度。何とも奇妙に映るが、こうすることでアニェスは日陰の存在ではなくなり、公式の場にも正々堂々出席することができるようになった(もちろん王妃やその家族からすれば疎ましい存在だったろうが)。国王の結婚は政略結婚であり、王妃の最重要の役目は後継者を生むこと。恋愛結婚などありえない(それを望んだ若きルイ14世が、摂政マザランによってマリー・マンチーニとの間をどのように引き裂かれたか、を見ればよく分かる)。それに対して、公式愛妾は肉体的にも精神的にも自分好みの女性を選べる。事実上のファースト・レディ。フランス歴代の国王はこの好都合な制度を取り入れる。いかにもフランスらしい制度。ただ一人の例外が、あのマリー・アントワネットの夫ルイ16世だった。そして、公式愛妾がいないことで、本来公式愛妾に向けられるべき民衆の憎悪を王妃マリー・アントワネットが一身に受けることになってしまったのだ。
リオネル・ロワイエ「火刑台のジャンヌ」ボア・シュニュ大聖堂 ドンレミ
ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー「ジャンヌ・ダルクの伝説(ジャンヌ・ダルクの火刑)」パンテオン
ジュール=ウジェーヌ・ルヌヴー「ジャンヌ・ダルクの伝説(シャルル7世の戴冠式にて)」パンテオン
ドミニク・アングル「戴冠式のジャンヌ」 ルーヴル美術館
アンリ・ラマン「シャルル7世」ヴェルサイユ宮殿
アニェス・ソレル