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補陀落・常世(選択の問題)

2022.11.19 05:03

燈籠の火の照り合えるこの世かな  高資

補陀落へ燈籠の火のつづきたる 高資


補陀落は、観音菩薩の降臨する霊場であり、観音菩薩の降り立つとされる伝説上の山である。その山の形状は八角形であるという。インドの南端の海岸にあるとされた。補陀落山とも称す。Wikipedia

この伝承説に則ると 観音菩薩(魂)が降臨(受肉)する霊場・補陀落は現象界=この世と言えますね。ただし浄土でないと駄目と受け取れます。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/30141/kbb09-02nei.pdf#search='%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E8%A3%9C%E9%99%80%E8%90%BD%E6%B8%A1%E8%88%AA'  では

「空海は『性霊集』のなかで開祖勝道上人を讃える碑文を書き、二荒山 (日光山)は補陀落 山と言い切っており. ます。そして那智も観音浄土」と紹介しています。

では浄土とは???

リタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典によれば

仏陀の住む清浄な国土のことで,煩悩に汚染されている穢土 (えど) に対する。大乗仏教では,多くの求道者が修行を積んだ結果,悟りを開いて仏陀となり,それぞれの国土に住む無数の人々を救済すると主張する。浄土にも種々あり,現実のこの世界が,悟りを開いた人間には浄土であるとしたり,たとえば,阿弥陀仏の極楽浄土のように現実の世界を離れて存在するとされる浄土もある。そのほか薬師浄土,弥勒浄土,観音浄土なども説かれる。なお,極楽浄土の観念は,『リグ・ベーダ』に始るベーダ文献にその起源を求めることも可能で,おそらくインドのクシャン朝の富裕な資産階級の生活欲求をある程度反映しているものといわれる。日本では「浄土」といえば,特に阿弥陀仏の極楽浄土のことであると解されるようになった。

https://kotobank.jp/word/%E6%B5%84%E5%9C%9F-79573  より


浄土・穢土は自分の選択の問題であり 補陀落を今ここに見るのか、海のかなたの異界に見るのかも選択の問題と言えそうです。丁度幸いを「山のかなた」に見るのと「内側の気づきと選択」に求める在り方の違いのようです。

補陀落の茂る二荒山(ふたあらやま)神社  高資

 宇都宮二荒山神社

補陀落の湖へ伸べたる秋日影  高資

補陀落へ日矢のさしてや秋の湖  高資

湖の凪ぎたる釣瓶落しかな  高資ー 場所: 中禅寺湖畔イタリア大使館別荘記念公園

補陀落へ階つづく雲の峰  五島高資

沈みたる閻浮檀金や秋の湖  高資

補陀落や水を抱いて山眠る  高資

 男体山ー 場所: 中禅寺湖

瀬をはやみ滾つ蛇橋や霞立つ  高資

神橋を過ぎてのどけき流れかな  高資

補陀落へかけたる橋や鐘霞む  高資

補陀落にもみぢ散りたる御堂かな  高資

もみぢ散る閻浮檀金や雲巌寺  高資

黄落や堂宇羽ばたくけはひあり  高資


https://www.excite.co.jp/news/article/Real_Live_47317/  【海の向こうにあるとされた楽園『補陀落』を目指す、異教徒も衝撃の修行】  より

日本では『補陀落』と書いて「ふだらく」と読む、観音菩薩の住む楽園だとか、あるいは観音が降り立つとされる山に対する信仰があった。『補陀落山』とも称し、その形状は八角の形状であり、別名『小花樹山』、『光明山』、『海島山』とも呼ばれる。

 日本各地でも『補陀落』信仰が盛んになったが、特に南紀の熊野一帯は中心的な信仰の場であった。そもそも、『ニライカナイ』や『竜宮』など、我々日本人は、海の向こうに楽園があるとか、神仏がいる場所があるとか考えてきた。つまり、海上異界の一種が『補陀落』なのだ。

 『日本書紀』には、大国主の国づくりを補佐してきた少彦名が海の向こうにある常世に還っていったという記述がある。「少彦名命、行きて熊野の御碕に至りて、遂に常世郷に適しぬ」。このように海の向こうの楽園から神々がやってきて、役割が終わるとその楽園に還っていくという概念があった。

 そして、この『補陀落』に行くために命を捨てる『補陀落渡海(ふだらくとかい)』という捨身行があった。これは命懸けで『補陀落』を目指す仏教修行の一環であった。

 この行の中心地となったのが、熊野・補陀落山寺である。同寺は、仁徳天皇の治世、インドから熊野に漂流してきた裸形上人によって開かれたと言われており、平安時代の作といわれる秘仏「三貌十一面千手千眼観音立像」(この像には補陀落世界からこの地に漂着したという伝承がある)を本尊に据え、『補陀落』信仰のメッカとなり、多くの修行者が集まってきた。

この『補陀落渡海』は、まさに即身成仏の行であったと言っても過言ではない。歴代の住職は61歳の11月になると、30日分の食料と灯火のための油を乗せて、渡海船(小型の木造船)に入り、外から釘を打たれ、場合によって煩悩の数と同じ108個の石を全身にくくりつけ、『補陀落』を目指したのだ。

 その渡海船には、『補陀落』を目指す住職が入る空間を取り囲むように4つの鳥居が設置されており、「発心門」「修行門」「菩薩門」「涅槃門」という仏教の修行の経過を表している四門だという。

 また、一説によると死後、魂はこの4つの門をくぐって浄土往生すると言われており、この船そのものが異界を表現していると言われている。この渡海船は、伴走船によって沖まで曳航し、頃合を見て綱を切って見送る。

 この『補陀落渡海』に関しては、クリスチャンから見ても衝撃的だったらしく、ルイス・フロイスも著作で触れている程である。他にも観音信仰が広がった中世には、熊野灘だけでなく足摺岬、室戸岬、那珂湊などからも『補陀落渡海』が行われ、僧侶だけでなく武士や庶民さえも渡海したという。この『補陀落渡海』の実例に関しては、面白い記録が残っているのだが、これはまた別の機会に譲ろう。

(山口敏太郎)

風澄んで鏡のうらの常世かな  高資

爽籟や鏡のうらに常世あり  高資

田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける  山部赤人

冬富士の雲を噴きたる常世かな  高資

初凪や常世へつづく島の影  高資

 津多羅島(地元ではその島影からキューピー島と呼ばれています)


http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/sp_newsletter/spnl_backnumber/spnl-09/spnl-09-2.htm

【霊界における時間と空間について ニューエイジのパラレル世界観の虚構】

霊界は時間と空間がない世界?

よく霊界には時間と空間がないと言われます。この点において、霊界は地上世界と根本的に違っています。時間がないとするなら、過去も現在も未来もないことになります。過去・現在・未来は一つであって、過去の自分も、現在の自分も、そして未来の自分も、同じ一つの現存在ということになります。そこには、今の私と未来の私が同時に存在しているのですから、当然、未来の予知は可能ということになります。

霊界に対する知識が普及するにつれ、現在ではこのような理解をする人が多くなっています。しかし結論を言いますと、今述べたような考え方は事実ではありません。「霊的真理」に照らした時、明らかに間違っています。“時間論・空間論”はスピリチュアリズムにおいても重要なテーマの一つです。もし時間論・空間論についての正しい理解がないところでは、先に述べたような間違った解釈がなされることになります。実際に、スピリチュアリズムに係わる人々の中においてでさえ、間違った時間・空間論が受け入れられています。多くのスピリチュアリストが、この点で大きく混乱しています。

天外伺朗(てんげしろう)氏の“時間論・空間論”の解釈

ここでは、典型的な間違った時間論・空間論の解釈を取り上げてみます。天外伺朗氏は科学技術評論家としてばかりでなく、あの世に対する造詣の深さで知られています。その天外氏は、『未来を開くあの世の科学』(祥伝社)の中で次のように述べています。

「あの世」には、時間という概念が成立しないわけです。ですから、いったん「あの世」に情報を取りに行って戻ってくれば、予知ということも可能になるはずです。

『未来を開くあの世の科学』(天外伺朗/祥伝社) p.62

「あの世」では、原因と結果を区別することが不可能であり、因果律そのものが成立しないということです。これも時間がないのだから当然です。連続した時間があるからこそ、原因とか結果があるわけです。(中略)前世・現世・来世をはじめとして綿々(めんめん)と続く輪廻転生の一つひとつの人生は、「あの世」ではすべて重なり合っているはずです。(中略)私は、カルマの法則というのは人間が自分で決めた約束事だと思っています。ですから「あの世」に行けばそういうものは一切ないけれど、「この世」に来たときだけあるというルールにしたのではないでしょうか。

『未来を開くあの世の科学』(天外伺朗/祥伝社) p.63~64

この目に見えない宇宙、すなわち「あの世」とは、死んでから行くところではありません。(中略)つまり、われわれが生きているときは、「この世」でも生きているし、「あの世」でも生きているという二重の宇宙の中で生きている。本当は二重ではなくて、ひとつの宇宙なんですけど、「あの世」というのは、普通の状態ではわれわれには知覚できないので、あたかも二重の宇宙になっているように感じられるわけです。

『未来を開くあの世の科学』(天外伺朗/祥伝社) p.118

つまり、時間がたたみ込まれているということは、死がないのです。ですから、「死後の世界」は「あの世」では定義できないのです。「あの世」は死後の世界ではありません。死後の世界と言ったとたんに、そこには時間が入っています。死のうが生きようが、そんなこととは無関係に「あの世」は存在し、われわれはそこで生活しているのです。死後の世界ということを考えること自体が過(あやま)ちの原因なのです。

『未来を開くあの世の科学』(天外伺朗/祥伝社) p.124

以上は天外氏の言うところの「あの世観」の要約ですが、彼の考え方はすべて、霊界には時間・空間がないという前提から引き出されていることが分かります。あの世には時空が存在しないという前提から出発し、論理を推し進めています。そして最終結論として、彼は死後の世界である霊界そのものの存在を否定するに至っています。

天外氏はこの本の中で、彼の前著『ここまで来たあの世の科学』で死後の世界について言及したことを自己反省し、その時点では、まだ今のような考え方に気がついていなかったと述べています。すなわち彼は、前著を書き記した後に、「あの世と死後の世界は同じもの」と考えることが間違いであることに気がついたと言っているのです。彼がこのように前著の考えを変えるようになったのは、“ニューサイエンス”がきっかけであったとも述べています。天外氏は、こうした新しいあの世に対する見解は、ニューサイエンスが初めて明確に言い出したと語っています。

ニューエイジにおける形而上学(けいじじょうがく)――パラレル世界観・多次元人間観

ニューサイエンスとは、言うまでもなく“ニューエイジ”の一部を構成する分野です。従来の科学に対して新しい科学的視点を提示することによって、人類に新たな知見をもたらそうというものです。ニューエイジに関心を持ったことのある方ならば、天外氏が述べた「あの世観」は、ニューエイジにおいて流行している「パラレル世界論」という、「ニューエイジ独自の形而上学」であることに気がつかれるはずです。(*形而上学とは、感覚を超越した世界、形を知覚できない世界を探求する学問で、「神学」がその代表です。)

あるニューエイジャーは、この形而上学について次のように説明しています。

形而上学の多次元論では、現在の自己が過去へ情報を流し、過去を変えることが可能になる。これによって現在も変化していく。現在の自己が、可能性未来にすでに存在する自己からメッセージを受けるということもできる。それが現在の選択に影響を及ぼすことになる。直線的輪廻の概念では、前世→現世→来世と順序だって進むようにとらえられる。しかし多次元論では、それらは全て多次元人格で、時空を超えて同時に存在するとも考えられる。

『ニューエイジ・夢みる地球』(桜井ゆみ/三省堂) p.277

未来も時間を進行して到達する地点とはとらえられなくなってきている。可能性未来として、すでに存在しているものとも考えられる。

『ニューエイジ・夢みる地球』(桜井ゆみ/三省堂) p.80

こうしたニューエイジの形而上学は、多くのチャネリングの中にも色濃く見られます。日本人の間に一時期流行したチャネリングに、『バシャール』があります。バシャールとは、自称宇宙人である通信ソースの名前です。そのバシャールの通信の中にも、「パラレル世界観」と全く同じ内容が述べられています。

時間をあまり考えに入れる必要のない非物理次元の観点から見ると、過去・現在・未来は、すべて同じものとして捉えられます。皆さんが過去に生きた人生、現在の人生、そして未来に生きる人生、これらすべてが同時に起きているように見えます。皆さんの人生は重なり合っているのです。(中略)すべての過去世と未来世に加えて、どの人生においても、皆さんは同時に多数の人生を生きています。更に、並行した別次元での人生を同時に体験しています。これは物理的現実の中に限ってみても、皆さんは多次元な存在であるということです。

『ニュー・メタフィジックス』(ダリル・アンカ【著】/関野直行【訳】/ヴォイス) p.142~144

彼(チャネラー)は、私(バシャール)の過去世です。私(バシャール)は、自分の来世のチャネルなのです。

『バシャール』(ダリル・アンカ【著】/関野直行【訳】/ヴォイス) p.238

私(バシャール)自身は、このダリル・アンカ(チャネラー)の来世からきた存在です。

『バシャール』(ダリル・アンカ【著】/関野直行【訳】/ヴォイス) p.206

*『バシャール』については次回のニューズレター(10号:「どちらでもよいことに、いつまでも関心を向けていてはなりません」)でも取り上げる予定ですが、バシャールと名乗る存在は宇宙人ではありません。バシャールによるチャネリング(霊界通信)の内容は、チャネラー(霊媒)であるダリル・アンカの潜在意識にある知識がトランス下で吐き出されたものか、あるいは単なる低級霊のからかいと思われます。ニューエイジで流行している「パラレル世界観」をダリル・アンカが自分流に解釈したものが、宇宙人からの通信として述べられているに過ぎません。

こうした形而上学は、今日のニューエイジにおける中心的思想の一つの柱になっています。この「パラレル世界論」という形而上学は、ニューエイジにおける際立った特徴の一つになっています。ニューエイジャーはこの形而上学を、人類史上初めて明らかにされた画期的なものと考えています。

スピリチュアリズムの観点からすれば、こうした世界観は明らかに間違っています。理解に苦しむ奇妙な空論としか言いようがありません。もっともニューエイジャーに言わせれば、その奇妙さこそが、ニューエイジのすばらしさを証明するものということになるのですが……。

どこから奇妙な世界観が出てきたのか――パラレル世界観の形成過程

アメリカのニューエイジに蔓延するパラレル世界観という形而上学は、量子力学とチャネリングをきっかけにして形成されました。「パラレル世界」という言葉は、もともと現代物理学で言われたものです。パラレル多次元空間は、量子力学の基本方程式、シュレーディンガー方程式から導き出された数学上の仮説空間です。それはヒルベルト空間と呼ばれていますが、言うまでもなく、そうした空間は数学的にのみ考えられる理論上の存在に過ぎません。現実の存在世界ではありません。そのためニューサイエンスの旗手的存在と目(もく)される物理学者アラン・ウルフは――「実際、そんなもの(多次元世界)があるかどうか分からないが、数学上では可能である」と言っています。

ところがニューエイジでは、それを勝手に拡大解釈し、パラレル世界が現実に存在する世界であるかのように言うのです。先に述べた天外氏も、まさにその一人と言えます。現代物理学の仮説であるパラレル世界論は、いつのまにかニューエイジでは、事実の世界にすり替わってしまったのです。

こうした事態が引き起こされた要因の一つとして、チャネリングの存在が考えられます。とくにアメリカの本格的なチャネリングの走りとなった『セス』は、形而上学の形成に大きな影響を与えたと言われます。セスのチャネリング(霊界通信)は、チャネリング界のバイブルのように言われてきましたが、その内容は、スピリチュアリズムの観点から見ても評価に値する深さと正確さを合わせ持っています。アメリカのチャネリングの中では、最も良質なものの一つと言うことができます。

特に『セス』の優れた点は、アメリカにおいて初めて“類魂”の存在を説き、輪廻転生をこの類魂との係わりの中で明らかにしたことです。シルバーバーチと同様な再生観を、セスはアメリカにおいて初めて述べたのです。セスは――「現在のパーソナリティーは、我々の個々の意識より大きな意識のいくつかの側面に過ぎない」「個々の意識は、大きな意識の一部でしかない」「我々のパーソナリティー以外のたくさんの側面がある」と言っています。またスピリチュアリズムで言うところの類魂を、「多次元的な自己群(multidimensional selves)」とか「集合実在(a group being)」と呼び、それを独自のアイデンティティーをもった多次元的な自己群から成り立つ存在と説明しています。ここではインディビジュアリティーとパーソナリティーの区別が明確になされ、類魂ならびに輪廻・再生が正しく説明されています。

ニューエイジのチャネリングの中には、『セス』以外にも二、三の良質なチャネリング(ラザリス、ミカエルなど)があり、そこでは類魂についての正確な認識がなされています。

さて問題は、このように『セス』によって初めて明らかにされた類魂の説明が、ニューエイジでは正しく理解されず、それどころか大きくねじ曲げられてしまったことです。セスの語る――「時空を超越した存在」とか「多次元的な自己群(multidimensional selves)」などの概念は、勝手に歪めて解釈され、さらに物理学のパラレル世界と結び付けられて、奇妙な形而上学理論がつくり上げられてしまいました。こうして出来上がった奇妙な“空想的形而上学”が、ニューエイジの中で独(ひと)り歩きすることになってしまいました。

『セス』など良質のチャネリングにおいては、輪廻は、過去→現在→未来という一方向の流れの中でとらえられています。それがパラレル世界論では、あの世には時間がなく、過去・現在・未来は同時に多次元にわたって存在するというような、SF的世界に取り替えられてしまいました。過去の自分・現在の自分・未来の自分が同時に存在するというような、現実とはおよそ掛け離れた“輪廻転生観”が出来上がってしまいました。

*霊界の界層(階層)は、すべて一つの場に重なり合って存在しています。これをパラレル世界・多次元世界と呼ぶのであれば、それは正しいと言えます。しかしニューエイジで言われるパラレル世界とは、そうした意味ではありません。

現在ニューエイジに流行している形而上学は、このように物理学の仮説を勝手に事実と決めつけ、さらに類魂についてのチャネリングの見解を歪曲して解釈し、それらを結び付けた結果として出来上がったものです。二重の拡大解釈・歪曲からつくり出された想像的産物に過ぎません。まさに空想以外の何ものでもありません。もしパラレル世界論が事実であるとするなら、天外氏の言うように、死後の世界である霊界は存在しないことになります。死後の成長のプロセスも存在しないことになります。「霊性の進化」という大事実さえ否定されることになります。

どのように都合のよい解釈をしたとしても、死後の世界としての霊界は厳然として存在しています。あの世には因果律がないどころか、それは霊界のすみずみまで行き渡り、すべての存在を支配しています。神の造られた法則である“因果律”は地上と霊界の両世界にまたがり、誰一人としてその支配の及ばない者はありません。すでに決定されている具体的な未来などというものは、神の造られた世界のどこにも存在しません。それは空論の上ではあり得ても、霊界の現実として、そういうことは絶対にないのです。霊界は空想の世界でも数学的に考えられる仮想世界でもありません。厳然として存在する事実の世界なのです。その事実の世界にあって、時の流れが逆行することは決してありません。もしそれが本当なら、霊性の永遠の向上というプロセスは成立しなくなるのです。現在のあなたは未来から来た存在であるなどという馬鹿げた話は、空想の上でしか存在しません。言うまでもなく、未来の自分にコンタクトすることによって、未来予知が可能になるということもありません。

*“予知”という現象は実際にありますが、それは、すでに存在している未来の自分にコンタクトすることによるものではなく、別の方法によって可能になるものです。肉体を脱ぎ捨て、霊的能力を発揮するための制約が少なくなったあの世の霊においては、(成長のための環境を自ら選びとった)地上人の未来は、おおよそ見当がつくのです。本人の性格・環境などの諸条件と因果律の霊的要素を総合して、未来に起こり得ることを予測するのは、ある程度まで可能になります。本人の将来において実現される可能性を、かなり正確に推し量ることができるのです。それが予知の実際の内容です。

予知についてはこの他にもさまざまな複雑な要素があり、簡単に説明することはできません。いずれ別の機会に取り上げることにします。とりあえずここでは、“予知”がすでに実現している未来を覗き見し、情報を引き出すことによってなされるようなものではないことを理解していただければよいでしょう。

スピリチュアリズムの“時間論・空間論”

ニューエイジにおけるパラレル世界観の間違いは明らかになりましたが、スピリチュアリズムにおける「時間論・空間論」はどのようなものでしょうか。霊界には時間・空間がないということになれば、それはどのような世界として考えたらよいのでしょうか。もし本当に時間と空間がないとするなら、現在・過去・未来は同一のものと理解しても、間違いではないように思えます。幸いなことに、シルバーバーチはこうした問題に対する重要な手掛かりを与えてくれています。シルバーバーチの言葉を引用しながら、霊界における時空の問題について考えてみましょう。

シルバーバーチも、霊界には時間というものがないと言っています。しかし、それをそのまま文字通りに受け取ると、これまで述べたような間違いをしでかすことになります。まともな理性の持ち主ならば、とても納得できないような奇妙な結論にたどり着くことになってしまいます。

時空の問題について正しく理解するためには、シルバーバーチが述べている、次のような言葉に注目しなければなりません。

「こちらには、あなた方がお考えになるような時間がないのです。」

『シルバーバーチの霊訓(5)』(潮文社) p.48

「地上と同じ意味での時間はないのです。こちらでは霊的状態で時間の流れを計ります。言い換えれば、経験していく過程の中で、時の流れを感じ取ります。一種の精神的体験です。霊界の下層では生活に面白味が乏しいですから、時間が永く感じられます。上層界では――むろん比較上の問題ですが――快い活動が多くなりますから短く感じられます。」

『シルバーバーチの霊訓(2)』(潮文社) p.146

このシルバーバーチの言葉から明らかにされるのは、霊界には地上のような時間はないということです。霊界には地上と同じような時間はないが、ある種の時の流れ、すなわち私達地上人が感じるような時間の流れに相当するものは、霊界にもあるということです。シルバーバーチは、あの世には時間が全くないと言っているわけではありません。地上のような時間はないと言っているのです。そこが重要な点なのです。

霊界に関心を持つ多くの人々は、霊界には時間の流れに相当するものさえも一切存在しないと思っていますが、それは間違いです。そうした間違った理解から、SFまがいの奇妙な世界観・形而上学を信じてしまうようになるのです。霊界にも、主観的な時の流れ、ある種の時間はあります。それなくしては、一切の因果律も、人類の霊的な成長・進化も存在しないことになります。

シルバーバーチは、さらに次のように述べています。

――霊の世界には時間はないというのは本当でしょうか。(質問)

「私たちの世界の太陽は昇ったり沈んだりしませんから、夜と昼の区別はありません。従ってそれを基準にした時間はありませんが、物事が発生し進行するに要する時間はあります。私も本日この場所へやってまいりました。それには時間が掛かりました。」

『古代霊シルバーバーチ 最後の啓示』(ハート出版) p.183

このシルバーバーチの言葉から、霊界にも主観的な時間の流れ・主観的な時の経過があることが明らかになります。また霊界には空間がないと言われますが、これも時間と同様に理解しなければなりません。すなわち地上のような空間はないということであって、主観的に感じる広がり、ある種の空間はあるということです。実際、霊界には山や海や川があります。海で泳いだり、山を飛び越えたりして楽しむ霊もいます。このことは、地上とは違っていてもある種の空間があるということを意味しています。

霊界では思うだけで離れた場所へ瞬間的に移動したり人と出会ったりすることができるなど、地上とは時間や空間の在り方が全く異なります。だからといって、主観的に感じる時間や広がりがないわけではありません。地上のような時間と空間がないということ、すなわち地上的な「時空」を超越しているということなのです。

時間の流れがある以上、「パラレル世界論」で言うような、現在・過去・未来が同時に存在するといったことは決してありません。未来から現在に来るというようなタイムトラベルは、SF小説の中では存在しても、現実には存在しません。霊界においても未来は決定されてはいません。未来の人間が、現在のチャネリングで現れるというようなことはあり得ません。もしそうしたことがあると言うなら、それはすべて、インチキか低級霊のからかいであると思うべきなのです。

地上にいて、確定した時間と空間の次元の中に存在するしかない私達には、霊界における時空を実感を持って理解することはできません。霊界の「時間論・空間論」は、私達地上人にとっては最も理解の難しいものです。しかしそうであっても、数学的にのみ存在する多次元世界観が、あの世での現実であると思うような間違いだけはしてはなりません。