Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

kaden-style

堀文子さん【日本画家】

2019.09.18 19:18

今年亡くなられていましたね。

100歳までご自分の生き方を凛と貫かれた堀文子さん

好きな女性でした。

最初の本との出逢いは

⬇︎

堀さの自叙伝です



尊敬する女性のおひとりでした。


群れない  慣れない 頼らない   

この言葉をモットーに生きられた堀文子さん


私もこの言葉にどんなに勇気つけられてきたことでしょう。


今年の2月にご逝去

享年100歳でした。


心よりご冥福をお祈りいたします。





「みんなひとりが寂しいといいますが、

人といれば本当に寂しくないのかしら?

 人はそもそも孤独なんです」 

【ひとりで生きる】


群れない

慣れない

頼らない

これが私のモットーです



人間誰でもいろいろな意味で、悩んだり、悔しかったり、ひどい目に遭ったり、

生きるということは毎日が大騒ぎじゃないですか。

そんなときに、お説教されるのは嫌ですが、

何か自分の気持ちに相応しい言葉と出合ったりするのは嬉しいものです。


私は、人に相談もしないし、

自由でいることに命を懸けてきたような人間ですから、

私の言葉が何の役に立つのかわかりませんけれど。

【自由は命懸けのこと】


〔九十代は初体験〕

私は今九十代のスタートなんです。

あと何年でお迎えがくるのか知りませんが、初めてのことなんです。

「九十代」は初体験です。

自由は、命懸けのこと。


群れない、慣れない、頼らない。


これが私のモットーです。

群れをなさないで生きることは、現代社会ではあり得ないことです。

何をするにしても誰かと一緒にしなければならない。


それを私はしないよう道を選んで、私のような職人にはよかったと思います。


身体が衰えてきますと、誰でもが何もできない諦めの老人と思うでしょう。

〔けれども、私は知らなかったことが日に日に増えてきます〕

いままで「知っている」と思っていたことが、本当は「知らなかった」と。

それが、だんだんわかってくるのです。


【蘇生の軌跡】

〔素直に嘘をつかない〕


素直に、嘘をつかず、正直に、一心不乱に生きていればいいのだと思いました。


嘘をついたり、ごまかしたり、飾ったりしていると、

自分の体のなかに自然があることがわからなくなってしまう。

細胞もおかしくなるに違いない。


嘘をつくと嘘の電流が体のなかに流れるんだと思います。


【感動していたい】


〔楽しみながら日々を過ごす〕


息の絶えるまで感動していたい。


現状を維持していれば無事平穏ですが、新鮮な感動からは見捨てられるだけです。

私は岐路に立たされたときは必ず、未知で困難な方を選ぶようにしています。


〔死ぬまで前を向いて〕


私も機嫌よく死にたい。

生き生きと死にたいということは、たくさんの先輩から学びました。


そういう方がこの世からどんどん消えていきます。


老残のかけらも見えぬ、阿部なを先生の迫力の原動力が知りたかった。


「死ぬまでに体の悪い所は直しておかないと。」

何というすごい生き方だ。


〔みんなひとりが寂しいといいますが、人といれば本当に寂しくないのかしら?  

人はそもそも孤独なんです。〕


私は人に迷惑をかけますから、ひとりを選ぶんです。

私には習慣性がないんです。


同じことの繰り返しが嫌いなんです。


人を見るときも本能で、好きか嫌いかで、損得ではきめません。

地位や名誉、肩書きなんてうつろいやすいもので、それにふりまわされないようにすることです。


〔美徳を吹聴してはなりません。美徳自慢は無粋の限りです。〕


ばか正直。

ばか丁寧。

くそ真面目。


美徳にそんな言葉をつけて

「過ぎる」ことをいましめていた昔の人の粋な感覚に圧倒されます。


「恥を残しては死にたくない。」


なんて焦ったこともありましたが、私の恥を見て笑った人もいずれ死ぬんですから

「まあいいや」と思うようになり、整理のできないまま年をとりました。


恥を笑われることの心配をしているより、

せっかく生きているのだから、

したいことをしたいと思います。


もう時間は残り少ないのです。


一生は一回しかないんです。


〔反省なんてしたらダメなんです。

反省したら前のところに留まってそこから上には行けないのです。〕


反省は、失敗したことを叱るお説教みたいなものですから、

これから進む前に戻れということになるわけでしょう。


反省なんかしないで、自分のことを「バカ!」って叱るのがいちばん。



バカでいたくなければ、自分で何とかするでしょう。

本当にやりたかったことは忘れずに諦めないでいれば、

何十年と月日が過ぎても、不思議とチャンスはやってくるんです。

いくつになっても、誰にでも、あきらめなければそのチャンスはきます。


【孤独を糧として】

私にとって、しいんと引き締まった孤独の空間と時間は何よりの糧である。


本気で、自分の孤独と向き合う。



日常の暮らしを捨て、世のしがらみから逃れた時、人間本来の新鮮な感覚が戻ってくる。


刻々と失われていく身心のエネルギーの目減りを防ぐのは、自分自身の力でしかできないことだ。


人の助けで埋められるような生やさしいものではない。

老いにさからわず、私は私の手足で働き、私の頭の回線を使うしか方法はないのだ。

過去の功績によりかかり、人を従えたがる老人の甘えを何とか寄せつけないよう心掛けたいものである。

日本はバブルの真っ最中。恥知らずの国に成り下がり、品位を失ったこの国で死ぬのは嫌だ。

私は日本脱出を決めた。


1987年70歳の春のことだった。


【美にひれ伏す】

奢らず、誇らず、羨まず、欲を捨て、時流をよそに脱俗を夢見て、

私は一所不住の旅を続けてきた。


自分の無能を恥じ、己との一騎打ちに終始し、知識を退け、経験に頼らず、

心を空にして日々の感動を全身で受けたいと心掛けた。


肩書きを求めず、ただ一度の一生を美にひれ伏す、

何者でもない者として送ることを志してきた。


その時その時をどう生きているか、

その痕跡を絵に表すので、一貫した画風が私にはないのだ。


結果として画風が様々に変わって見えても、

それらはすべて私自身なのである。


紅と黄口朱。


私の好みに答えてくれたこの二つの赤が、あと僅かしか残っていないのだ。


私の分身のような絵の具との別れの時が近づいている。


あと幾度この赤を使えるか。私の終わりも近いのだ。


残り少ないこの絵の具を見る度に、やり場のない悲しみがつき上げてくる。


泥水をかきまわし、その混沌のなかから顔を出すようにしていつも私の絵は生まれてきた。

人は必ずその絵の意図や説明聞きたがるが、

「こうなってしまった」と答えるしかない。


私の作品には主張も意図もない。


主張せず、押しつけもせず、雲や水のように形も定めず行方もしれない絵。

修練や努力も役立たず、定義の仕様もない。


【乱世を生きる】


私の時代は、あまりに重圧がすごいので、反発する力もすごい。

自由を求めての大脱走みたいなもので、穴を掘って、ズボンの裾に砂を詰めて、

まるで映画『大脱走』のスティーヴ・マックイーンになったような気持ちだったのです。


今の若者には初めから重圧がない。


重圧がなくなってしまうと、かえって何をしたらいいのかわからなくなるのかもしれません。


自活とか、自由というものは、どんなに辛いことか。


ワガママとは違って、責任は全部自分で背負わなければならない。

自由の裏には過酷な任務があることを心得ておかねばならない。

それに耐えるだけの体力と気力がないと、真剣に遊ぶこともできない。


私の知らないこと、できないことをやってのける、

ひとくせもふたくせもある友人ばかりを選んだのは正解で、

私の無頼は人間の幅を広くしてくれて、のちの人生にとって大事な時間となったのです。


【自然への思い】


黙って、手を合わせるような心で、花は見るものである。


〔81歳の時、青い罌粟(ケシ)、ブルーポピーを求めてヒマラヤへ旅をしました。〕



岩場で足を踏み外しそうになったり、バンベで酸素吸入したりしながら、

やっと探し当てた瞬間を忘れません。


標高四千五百メートルのガレ場の岩陰で出会った、

全身を鋭いとげで武装した草丈二十センチほどのブルーポピーの青い花。

生きものの生存を拒絶されたような厳しい環境のなかで咲くこの花は、

氷河期の生物か宇宙からの使者のように思え、易々と描く気にはなれませんでした。


◾︎名のある華やかな花たちは珍重されるが、

振り向かれることもなく道端や庭の隅にひっそりと咲く、名もなき花。

讃えられることもなく、うとんじられながら志をまげず、生き続けたけなげさ。



◾︎踏まれても摘まれてもあきらめず、自力で生き抜いてきた名もなき雑草たちの姿には、

無駄な飾りがない。


生きる為の最小限の道具だてが、侵し難い気迫となって私の心を打つのだ。

「むさぼらず、誇らず、黙々と下積みの暮らしに徹する名もなき者の底力が、

どくだみを描く私の体に地鳴りのように響きわたるのだった」


生きものはやがて死に、会うものは別れ、財宝も名利も仮の世の一時の驕りであることが、

否応なく見えてくる今日この頃である。


この先、どんなことに驚き熱中するのか。

私のなかの未知の何かが咲くかも知れないと、これからの初体験に期待がわく。


私にはもう老年に甘えているひまなどないのだ。


死は、人間に課せられた一度きりの初体験であり、

誰の真似もできず、誰の助けを借りることもできない。


私がこれからどのような過程で死を迎えるのか、私は私の成り行きを眺めるつもりである。

九十の齢を迎えた今、逆らうことを忘れ、成り行きのままに生きる安らぎの時が、いつの間にかきたようだ。


ー堀 文子 記ー