外もテントも劇場に⁈…唐十郎の演劇活動『少女仮面』コラム③
どうも、研修科1年の北川莉那です。
さて、今回のコラムのテーマは『少女仮面』の作者である唐十郎さんです。
実は、学部は違いますが私が通っている明治大学の大先輩…。
「アングラ演劇の創設者」「特権的肉体論」「紅テント」・・・唐十郎さんを読み解くキーワードはたくさんありますが、
今回は唐十郎さんの演劇活動を順を追って紹介しようと思います!
最後までお付き合いいただければうれしいです。
唐十郎のはじまり
このペンネームは三島由紀夫のエッセイ『太陽と鉄』にある「昔、唐天竺に十人のつわものありき」という漢詩からとったもの。
”唐の十の野郎”というのをつなげて、唐十郎という名前になりました。
唐は1940年、東京都台東区の下町、下谷万年町で三人兄弟の次男として生まれました。
父は映画監督で、母は小説や戯曲を学生時代から書き、同人雑誌に発表したりもしていたそう。
住んでいたのは長屋の一角で、その二階には男娼が住んでいて
少年時代の唐は、この「男娼」を、女とも男とも、中性という言葉でも解釈できない存在に感性におけるカルチャーショックをうけたとか・・・
終戦の1945年、唐は当時5歳。
東京大空襲などにより浅草一帯は"焼け野原"で、上野から御徒町にかけては"闇市"でにぎわっていました。
唐は疎開をしていたので直接空襲を体験してはいませんが、帰京した後に目の当たりにした風景は、かなりの衝撃だったでしょう。
学生演劇から状況劇場へ
明治大学文学部演劇学科に入学し、学内劇団である「実験劇場」に入りました。
実験劇場は今でもある明治大学の公認サークル。(そういえば私も一年生の頃勧誘を受けました・・・)
そのころ唐はもっぱら俳優で、自分がものを書くなんて考えもしなかったそう。
大学卒業後、大学時代のメンバーと「シチュアシオンの会」を設立。
これはフランス語で「状況」という意味です。これは哲学者・作家のサルトルの影響をうけたもので、唐は卒業論文にサルトルのことを書くほど興味をもっていました。
初めての演目もサルトルの『悲しき娼婦』。そして今度は、カミュの『正義の人々』をやろうとしたのですが、
「翻訳劇ばかりやっていても、劇団として成立しないな」という声が内部であがり、シチュアシオンの会は解散します。
それから三か月ほどブラブラして、唐は「じゃあ書いてみるか」と
『24時53分「塔の下」行は竹早町の駄菓子屋の前で待っている』
という最初の戯曲をかきあげました。
唐十郎は当時23歳、ここから「状況劇場」が発足します。
劇場を探して
状況劇場は場所を借りていくつか公演を行いますが、唐はその空間に違和感を覚えていました。
そこで、行ったのが野外劇です。
これは台本がなくても、いくつかのポイントだけ決めて、役者が街中で表現することができないだろうかという試みでした。
ちなみに、『24時53分ー』をやったときにアンケートに「若いのに、なんでこんなに暗いんだ」「外に出て太陽を浴びろ」と書かれたのがきっかけだそう。(ホントかな・・・)
月曜日の朝8時半、東京駅でサラリーマン風の男たちがドーッとでてきてカンカン照りの中、傘をさしながら「働くのはやめましょう」という劇をやったのです。
これはお巡りさんにつかまり、「ちゃんと働きなさい」と説教されました。
その次は数寄席橋で、『ミシンとこうもり傘の別離』という真冬のなか、噴水に張った氷を割って沈み、そこを泳ぎながら何かを探すという芝居。
水に入りすぎた大久保鷹が痙攣をおこしてしまい、中断してお巡りさんと交番に運んでみんなでマッサージをするというので終わりました。
唐は「若い演劇愛好グループ」を率いる「自称演出家」と書かれました。
これを経て生まれたのが”紅テント”です。
野外劇では雨がふったときに、屋根が欲しい、しかしコンクリートに囲まれた劇場ではなく、
繊細にしてタフな皮膚のような壁が欲しい・・・・それがテントのビニールシートになったのです。
赤を選んだのは、紅テントでの最初の公演『腰巻お仙ー義理人情いろはにほへと篇』の「赤い腰巻」のイメージからだそう。
同時に紅テントには六角形の子宮もイメージされていました。
この公演は新宿・花園神社で行われましたが、「腰巻」という言葉が下品だ、と神社が場所をかしてくれなかったので『月笛お仙』と題名をかえました。
その後、『由井正雪』を公演しますが、神社から以後の会場提供を拒絶されてしまいます。
闘争する状況劇場
状況劇場は花園神社を去りましたが、新宿を黙って出たことに納得ができなかった唐は「東口がだめなら西口だ」と新宿西口中央公園で公演をしようと思い立ちました。
しかし、この公園を使うための都知事の許可が得られませんでした。
そこで唐は「消防署とかいろんなところから許可がもらえれば目をつむってもらえるだろう」と思い、
1月3日、無許可で『腰巻お仙 振袖火事の巻』を強引に上演します。
この公演は機動隊が出動し、”新宿西口中央公園事件”という事件に発展します。
一部の劇団員が機動隊に陽動作戦を行うなか、その他がゲリラ的に素早くテントを設営し、公演は始まりました。
これについては、事前に15分でテントを設営する練習を繰り返すなど、かなり周到に計画されていたそう・・・
機動隊員に取り囲まれ、ビニールの壁をけられながらも芝居は続けられました。
そして紅テントではおなじみの「屋台くずし」という最後に舞台奥の幕が開き、外が丸見えになる演出では、
偶然か、計画か、
舞台にいる警官の恰好をした役者とともに、本物の機動隊がみえる風景が出来上がったのです。
その後、唐十郎と笹原茂朱、李礼仙が逮捕され、テントも没収されてしまいました。
3人は釈放され、テントも返却されたものの、この出来事は唐にとってかなり堪えたそう。
そんな唐のもとに偶然事件を新聞で知った駐車場のオーナーが「うちの土地を貸してやる」と声をかけました。
そこで唐がおこなったのは
「トラック劇場」というもので、新宿西口の駐車場でトラックの荷台を劇場にして、公演を行いました。
移動する演劇人
1969年に書かれたのが『少女仮面』です。
実はこの戯曲は、早稲田小劇場という劇団の鈴木忠志に頼まれて書いたもので、状況劇場が上演したのはその後です。
そして翌年に、『少女仮面』は岸田國士戯曲賞を受賞します。
その後、唐十郎は海外でも公演をします。
1972年に詩人・金芝河の協力で『二都物語』を韓国語に翻訳し、戒厳令下のソウルで上演します。
73年には『ベンガルの虎』をバングラデシュで、74年の『唐版・風の又三郎』ではレバノンやパレスチナのキャンプに出掛けて行きました。
この行動には、同世代で活躍していた演劇人・寺山修司がヨーロッパの演劇祭で凱旋して帰ってきたことへの対抗意識、"これと180度違うやり方をしてやろう"という思いからでした。
そして冒頭にも書いた、幼少期に見た風景、「あっちへいくな」と言われていた上野周辺の禍々しい領域、そういうふうな闇市やマーケットをみたいという思いが、ソウルやダッカにつながっていきます。
1988年、状況劇場は解散、新たに劇団唐組を結成します。
以後、唐十郎は横浜国立大学や近畿大学で講師をしたりもし、唐が退職した後も、唐の作品は学生たちによって上演されています。
そして紅テントも、今でも新宿・花園神社に現れます。
私が唐十郎の作品に出会ったのは確か高校1年生のとき。先輩がやっていた『少女都市』でした。
よくわからなかったけど「ガラスの子宮」と「兄と妹」という関係にすごく魅かれたのを覚えています。
受験生のときは、予備校でこっそり『二都物語』の脚本を読んだりもしていました。
忘れたころに大学の入学式で、唐十郎の言葉がスクリーンにバンとでてきて、そして今回の発表会。
研究生それぞれが、私と同じように唐十郎にある種の出会いがあると思います。
この文学座研修科『少女仮面』はどのような世界になるのか・・・
それはぜひ、舞台でご覧ください!!
ありがとうございました!
文・絵北川莉那
《参考文献》
西堂行人『〔証言〕日本のアングラー演劇革命の旗手たち』吉夏社、2015年
樋口良澄『唐十郎論 逆襲する言葉と肉体』未知谷、2012年岡室美奈子・梅山いつき/編『六〇年代演劇再考』水声社、2012年
堀切直人『唐十郎がいる唐組がある二十一世紀』青弓社、2004年
桂秀実/編『1968』作品社、2005年
文学座附属演劇研究所研修科
2019年度第3回発表会『少女仮面』は、
10月10日(木)~10月13日(日)
【新モリヤビル一階】にて上演されます。
お電話 03-3351-7265(11時~18時/日祝除く)もしくはwebにてご予約ください!
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