言葉をうばうこと
たくさんの「主体的」で、「対話的」でが見られる指導要領になったはずである。
さて、現在学校はどんな感じなのだろうか。
これは「静かに」「喋らない」が学校の柱になっていないかということの質問である。
ケガに対して安全に安全にの管理主義的発想の中に、
・水遊びができないプール
・廊下を並んで歩く、担任が先頭。
・運動会表現では、担任が朝礼台に必ず立
つ。
・定規バトルの禁止。目に入ったら大変だか
らという理由。
・雪遊びの禁止(何度もおかしいおかしい言
ってますが)
行き過ぎじゃないかなぁ、と個人的に感じるものがある。
けど、ぼくも今までクラスの子がケガをしてしまうという事故があれこれあった。
なので、ここで強気な意見を言うつもりはない。反省しながら続けているのだ。
ただ、荒れないように荒れないようにの管理主義的発想について、はっきり思うことがある。
なかでも声をうばうような統制についてだ。
・挙手指名を通してしか喋ってはいけない、
・静かに手を上げなくてはならない、
・授業中仲間と話すときは小声ででなくては
ならない。
・私語の厳禁、
・モグモグタイム
・無言清掃
などなど
ただ、上のもので、ぼくが実際にやらねばならなかったものはない。
どれも聴いた話で、実際にどれくらいの学校で起きているのかは知らない。
低学年(ぼくは3年生を3回もったが、1と2は経験なし)を何回か持って、心には留めていられぬ子どもや、言いたいことができるとたまらず手をあげる子どもがいることがよく分かった。
そう言う話は聞いてあげたい。
その子も言いたいことが言えたことで、仲間や教師が受け止めたことで、安心感が生まれる。
本日の授業で、「銀行って何??」と大きな声で質問した子がいた。
勢いがあった。手もあげていないし、こういう展開を、勿論担任も予想していない。
「指導案」とか「ねらい」とかの話になると、きっとこの言葉を拾って、時間を使う必要はなかったという人もきっといるだろう。
ただ、この質問が周りに火をつける。
銀行とは何か、に対し
自分の知っている銀行のことを懸命に伝えたい、
その子にわかってもらいたい、
そういうチャレンジャーがどんどん現れる。
そして、「銀行って何か伝わった?」
と、その子に聞く。
分かったと言うしれないし、分かんないと言うかもしれない。
子どもは体も大きくなっていくが、言葉だって獲得され大きくなっていく。
量だけの話じゃなくて、色がつき、エピソードがつき、一層詳しくなって、また一つ何かを表現する手段となる。
つまり、気軽に統制するものじゃないということだ。
むしろ、絶対、遠慮なく声が出せるような雰囲気の方が大切である。
喋りたいことを聞いてくれる仲間がいるということが大切である。
ぼくだって、自分が喋るときや、仲間が何かを伝えているときには、そちらへの集中を促す。
けど、「銀行って何?」と聞けることのよさやそこから展開される仲間との学びの価値にはそれ以上に目を向けたい。
「子どもが勝手に喋るようになる」だなんて、大人に都合のいい、つまんないこと言ってないでさ。