大人になったみんみん
みんみんのことは何回書いても書き尽くせません。
「震災の年の暮れに出会った」と覚えているので、一緒に暮らしてきた年数が数えやすいです。
犬と暮らしている人はみんなそうだろうと思いますが、以前のように平気で「犬を飼う」とか「犬のエサ」といった言いかたができなくなりました。
いろいろな意味で人間よりも優れていると思うことが多いので、「飼う」とか「給餌する」というような傲慢な人間の目線で使う表現はもう「ダメな言葉」として認識しています。
ある人から「犬を飼っているなんて優雅な暮らし」だと皮肉っぽい言葉を投げられました。(ついでに言えば、その人はわたしが家を建てたことも優雅だと思っているようです。夫も子どももいない可哀想な女が「家を建てて犬を飼って優雅に」暮らしていると、そういう目線でした。そんな貧困な見識しかない人が友人だったなんて、情けない限りです。)犬と一緒だというのは、人間にとって、とても幸福なことです。子どもがいたら、その子にとって、犬と育つことができるのはとても幸福で幸運なことです。「無償の愛」なんてセリフ、意地でも使いたくありませんが、まっすぐストレートに打算のない愛情を注いでくれる相手と一緒に暮らすのですから、幸福でないはずがありません。犬とは本当にそういう存在なのです。
環境が許すのなら、すぐにでも犬との暮らしを始められることをおススメしたい。
もちろん、幸福な一生を送らせてやらなくてはならないという重い責任を負いますし、日常的な負担も増えますが、すぐに「あの子のためなら仕方ない」と思えるようになります。
最近、みんみんが大人になったと思う瞬間がいくつもあります。
わたしの言葉に反応するときがそうです。「2階へ行くよ」とか「ごめんね、お仕事行ってくる」とか、「オシッコしたいの?」とか、日常的なセリフに対して階段の下へ駆けて行って待ったり、わたしの上着の裾をくわえて引き止めようとしたり、玄関マットの上にうずくまって外へ行きたいと意思表示することで応えるのです。
毎晩、わたしの入浴時にはバスルームの外で「出待ち」です。バスマットの上に寝そべり、どんなに長湯しても黙って待っています。子犬の頃もそうしていましたが、しばしばバスルームの扉をひっかいて「早く出て来て!」と急かしていました。今はただひたすら待ってくれます。
2年前の夏まで、毎日、戸田公園で散歩して、ボート部の若者たちに可愛がってもらっていました。
今では毎日、御殿場の郊外の農村を散歩して、農家のおばさんたちに可愛がってもらっています。
戸田公園で遠征のときやオフのときにシャッターが下りた艇庫の前に座り、誰かが出て来るのを辛抱強く待っていたように、今では農家さんの庭の入り口に座り、おばさんが出て来ないかと待つのです。
健気でいじらしくて、待ってもおばさんが出て来ないときには、代わりにぎゅっと抱きしめて「また明日来ようね」と声をかけています。
ちっちゃかった頃のみんみんは本当に可愛かったのですが、実は大人になった今のほうが何倍も愛おしいです。