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足利三田会

リーダーに学ぶ生き方 「自分とは」突き詰めた慶応SFC 山口絵理子氏

2019.09.23 07:18

 新しい企画です。

 慶應義塾出身のいわゆる塾員の皆さまは、それこそ数えきれないくらい多くの方々が各方面で活躍されています。ここでは、塾生をはじめ若い皆様がこれからの人生100年時代を生き抜くために、特に知っておいてほしいリーダーの生き方を紹介してまいります。

記念すべき?第1回は、マザーハウス代表兼チーフデザイナーの山口絵理子氏です。

 筆者は、今春以下にお示しするネット記事で、山口さんを知ったのですが、たまたま書店で見かけた最初の著書「裸でも生きる」を読んで、衝撃を受けました。若い皆様には是非、読んでいただきたい本です。

(著書「裸でも生きる(背表紙)」

「君はなんでそんなに幸せな環境にいるのにやりたいことをやらないんだ?」バングラデシュで見てきた現実の中で自分の人生に最も影響を与えたのは明日に向かって必死に生きる人たちの姿だった。ただただ生きるために生きていた。そんな姿を見ていたらバングラデシュの人が自分に問いかけているような気がした。他人にどういわれようが、どう評価されようが、たとえ裸になってでも自分が信じた道を行く。それがバングラディシュのみんなが教えてくれたことに対する私なりの答えだった。

 さらに本の内容紹介をするにも私のつたない文章力ではとても足りないと思ったので、山口さんの半生を記した、ネット記事を以下に引用します。

日経スタイル>出世ナビ>リーダーの母校>記事

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO43937090Z10C19A4000000?channel=DF130920160874&nra

リーダーの母校

工業高→慶応SFCで 培った突進力

山口絵理子・マザーハウス代表兼チーフデザイナー(上)

2019/4/29

「途上国発の世界ブランドをつくる」。山口絵理子氏(37)はこう目標を掲げて2006年、バングラデシュでバッグを生産して日本で販売する「マザーハウス」を創業した。19年4月現在、生産国はネパール、インドネシアなどを加えた6か国に広がり、国内30店と台湾、香港、シンガポールの海外8店で、バッグからアクセサリー、衣料品まで扱うほどに成長している。各国を仕事場に活躍する山口氏だが、高校時代は男子部員を相手に柔道の練習に明け暮れる生活だったという。

慶応義塾大学湘南藤沢キャンパス(SFC)で開発学に出会い、歩むべき道が見えてきた。

「みんなと同じ」が苦手な子どもだった。

今も基本的に変わっていませんが、ひとことで言うと内向的。自分の意見を話すのが苦手で、いつも日記を書いたり、絵を描いたり、粘土をこねたりしていました。父が陶芸をやっていたので、身近に芸術があったことも影響していたかもしれません。

小学校では「前にならえ」も疑問に感じるくらい周りのみんなと同じ行動をすることが苦手で、窮屈に感じていました。漠然と「もっと自分らしさがあってもいいんじゃないか」と思って。自分が周りのみんなと違うことを認識させられた6年間でしたね。1年生のとき、ベランダに出ていたら中からカギをかけられるといういたずらをされたんです。物理的にだけでなく、精神的にも輪の中に入れないという状況です。

でも、この中に入ることだけがゴールだったら、生きるのがつらいなと感じていました。私の場合、母が支えてくれたおかげで6年生のころには休まず出席できるようになりましたが、中にはドロップアウトしてしまう子もたくさんいるでしょう。もっと個々の違いを認めてもらえて自由になれたらいいのに、という問題意識がこのころ芽生えました。

中学は地元の公立に進みました。クラスも環境も変わるので、もういじめられたくないという気持ちもあって遊んでいる先輩たちと付き合い始めたんです。学校に行かないのは当たり前。先生にも反抗して。それが、中2の秋にたまたま柔道の道場で女の子が男の子を投げ飛ばしているのを見て変わりました。「かっこいい!」と思い、のめりこんだんです。負けるのが悔しくて、部活でも町の道場でも練習して、中3のときに埼玉県で1位になりました。

男子強豪高に入って全国7位に。柔道をやり切った後、教育を変えたいと慶応SFCに進む。

当時、埼玉県の女子柔道は埼玉栄高校が圧倒的に強かったのですが、決められた道を進むのが嫌で。自分の力を試してみたかったんですね。男子で1位のところで鍛えれば埼玉栄に勝てると考え、県立大宮工業高校に入りました。当時、女子柔道部はなかったので、監督に何度も入部させてほしいと懇願しました。「男子が弱くなる」と断られ続けましたが「必ず結果を出す」と約束し、やっと認めてもらいました。

でも、ケガが多く、なかなか結果が出なかったんです。精神的にも不安定だったとき、監督と交換日記のような形で柔道日記を書き、支えられました。柔道では「自分に勝つ」ということを学んだと思います。高3最後の試合があった9月23日、負けたのに、爽快だったんですね。「いじめられた自分を克服したい」というのが柔道を始めた原点でしたから。この先、オリンピックの金メダルを目指し畳の上で人生を送るというのはちょっと違う。自分は小学校の6年間、違和感を持っていたのを変えたい。そのためにいい大学に入りたいと思い、そこから猛勉強しました。

高校生活は柔道が中心。授業中はほとんど寝ていたので浪人覚悟でしたが、慶応SFCのAO(アドミッションズ・オフィス)入試の面接で「教育を変えたい」という小学校からの思いを訴え、合格できました。面接官に「柔道はやらないの?」と聞かれて、はっきりもうやるつもりはないと答えたので、落ちたかな、とも思ったんですけどね。

同級生のほとんどが就職する工業高校から進学したSFCでは、周囲に圧倒された。

入学してからは、まるで別世界にいるような衝撃を受けました。帰国子女が多く日常的に英語が飛び交っているし、1年生の時から他大学と連携してイベントを企画したりITベンチャーを起業したりする学生もいる。工業高校卒なんてもちろんいないし、自分は柔道しか知らないと改めて思い知らされました。英語もコンピューターも何もできず、すべてがコンプレックスです。授業では先生にあてられないよう、一番後ろに座っていました。

必死でついていこうと、毎日ずっと図書館で予習・復習をしました。人生で一番勉強した時期です。それでも成績はBを取れればいい方。実は1年生の終わりごろ、退学届を書いたんです。辞めて美大を受けなおそうと思って。ずっとスポーツの世界にいて「1位にならなければ意味がない」と思い込んでいたんですね。どの科目も普通以下なのがやるせなくて。

母に辞めると伝えたら「あ、そう。いいんじゃない」。さらりと言われたら、肩の力が抜けました。「別にいいじゃない」という答えもあるんだ。このことが分かったとたん、もう少し力を抜いて2年生を踏み出してみようかなと思えました。

開発学の授業がきっかけで、途上国の教育問題に取り組み始めた。

1年で辞めずに続けたおかげで「開発経済学」という学問に出合い、(元経済財政相の)竹中平蔵先生の授業を受けることができました。そこで初めて「途上国」という言葉を聞き、国の根幹をなす経済成長に対して教育が持つインパクトが非常に大きいと知って、教育と途上国がオーバーラップするようになってきたんです。

SFCはグローバルな環境で、政治や経済の分野の素晴らしい先生がそろっていましたが、中でも竹中先生は政策立案の中枢にいる人です。自分がやりたいことを学べるのは先生の研究会だと思いました。

竹中研は政治経済で圧倒的な人気を誇っていて、そこにいる先輩たちはSFCの中心と言われていました。校内を歩いていると全然違う雰囲気を持っていて、「この人たちは世の中を動かす人たちとつながっているんだ」という感覚でみんな見ていていた気がします。絶対受からないと思ったけど、ゼミの面接を受けるだけならタダだから行ってみようと考えて挑戦しました。後から聞いた話ですが、将来何になりたいか聞かれたときに「首相になって教育を変える」と答えたのが面白いといって、採ってくれたみたいです。

ゼミでは経済格差や貧困問題について調べて発表していました。竹中研からは日銀や財務省に行く人が多く、主に金融や財政政策を研究していましたから、私は完全にアウトサイダーです。先生は忙しくてなかなか大学に来られないし、私なんかが近寄るなんてできないと思っていました。でも、経済成長と教育の相関について、本当にシンプルですが計量モデルを作って発表したとき、「プレゼン良かったよ」と一言声をかけてくれたんです。もう天にも昇る気持ちでした。柔道以外で人に認められる機会はゼロで、SFCに受かっちゃったのは間違いだったと後悔していたころですから、その言葉はすごく重かったです。

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO43937940Z10C19A4000000?channel=DF130920160874

「自分とは」突き詰めた慶応SFC 

山口絵理子・マザーハウス代表兼チーフデザイナー(下)

2019/5/6

発展途上国で作ったバッグやアクセサリーを日本や台湾の店舗で販売するマザーハウス(東京・台東)の代表で、デザイナーも務める山口絵理子氏(37)。これまでにないブランドを立ち上げる過程で、自ら道を切り開いてきた。決して平たんではない道を進んでこられたのは、自由な校風の慶応大湘南藤沢キャンパス(SFC)で個性あふれる学生に囲まれ、自身について考え抜いた経験があったからだ。

経済財政相などを歴任した竹中平蔵教授(現東洋大教授)のゼミで1年先輩だったのが、現在マザーハウス副社長を務める山崎大祐氏。ゴールドマン・サックス証券エコノミストだったが、創業2年目の2007年にマザーハウスに参加した。

山崎さんはゼミの中心人物でした。竹中先生とも重なるのですが「(人と違うという)外れ値」を許容してくれる人です。ほかの学生が日銀政策を研究している中、ひとりで途上国の教育問題に取り組む私と常に対話して「教育を何とかしたいという気持ち、夢を大事にした方がいいよ」と言ってくれ、自分の個性は現場(主義)にあると気づかせてくれました。

印象的だったのは、私は勉強でついていくのに必死で飲み会に一度も参加しなかったのですが、毎回必ず「行かないの?」と声をかけてくれたことです。自分は忘れられた存在で、いなくても変わらなかったと思う。そんな端っこにいる人にも配慮してくれて「リーダーってすごい」と思いました。

マザーハウスを起業した後のことですが、社内ミーティングなどでうまく説明ができず「山崎さんが社長をやった方がいいんじゃないか」と相談したことがあります。自分のような内向的な性格は組織を引っ張るのに向かないのでは、と。

その時に言われたのが「リーダーって、説明がうまいとかロジックが強いということじゃないんだよ」という言葉です。パッション、思いにみんな集まったわけで、うまくしゃべれるかなんて関係ない、と。リーダーはいろんなスキルがないといけないと思い込んでいたけれど、自分スタイルでいいんだ、と教えられました。

国際機関にあこがれを持ちつつ、民間企業の就職活動もした。

大学で開発学と出合って、国際協力の道に進みたいと思うようになりましたが、軸はやはり教育でした。小学校時代、周りと同じように行動するのになじめず辛かった原体験があるので、自由に生きられるような教育をする学校を途上国で作りたいと思いました。

将来も見据え、大学3年のときには開発コンサルの会社で1年間アルバイトをしました。上司の海外出張の航空券を予約するなどの事務が多かったのですが、日本の教材をタイ向けに作り替えるなど、教育関連のプロジェクトにもかかわらせてもらいました。そこで実感したのは、開発関連の仕事をするなら世界銀行や国連などの国際機関だ、ということ。あこがれました。

実は、途上国支援をやりたいと考えたのは、ポジティブな理由だけではなかったんです。すでに活躍しているSFCの同級生たちを見ると、どの分野にもたけている人がいて「日本には自分の居場所はないのでは」と悩んでいました。途上国なら何か自分の役割があるかもしれない。それが教育とつながればいい、と。

漠然と「国際協力をやりたい」と夢見つつ、時期が来て就職活動を始めました。でも、ボロボロ落ちるんです。本当にやりたいわけではないから、見透かされますよね。よく知りもしない企業で「第1志望です」なんて、口が裂けても言えない。面接でうまく話せず、商社や日用品メーカー、コンサルティング会社など全滅でした。

それでも、SFCは何でも好きなことができる自由な環境で、まさに独立自尊で自らの道を切り開いている先輩たちやクラスメートがいたのが大きかったと思います。決まりきったレールがない中にポツンと自分がいて、個性とは何か、自分とは何かを問い続ける4年間です。だから、何をしたいのか分からない迷子のまま就職活動に流される学生も多かったのですが、私はみんなが一斉に同じことをするということに子どものころから違和感があったので、卒業してすぐ大企業に就職することだけが幸せなの?と疑問に思っていました。こんなとき、たまたま募集のあった米州開発銀行(IDB)のインターンに採用されました。

4回面接があって、英語は苦手だったけど、ここでは思いを伝えられたようです。就職が1年遅れたっていい。まずはここを見てからにしよう。こう決断できたのも、とびっきり個性的な学生が多かったSFCだったからかもしれません。選択肢は見えてないだけで、実はたくさんあるのだと思います。もともと与えられた枠の中だけで考えるということをあまりしない性格です。他の大学に行っていたら中退していたでしょうね。

「現場を見たい」という思いで、バングラデシュの大学院への進学を決めた。

国際会議にオブザーバーとして出させてもらうなど、ワシントンのIDBでの仕事は刺激的でした。一方で、政治がすべてを決める世界です。あのビルの中で途上国の現実を考えるには、相当な想像力が必要だと気付きました。とにかく現場を見てみたいと思い、大学4年の4~8月にワシントンで働いた後、9月にバングラデシュに行きました。ネットでアジアの最貧国を検索したところヒットした国だったからです。

この十数年でずいぶん変わりましたが、当時は物乞いが多く、国際機関とは世界の天と地ぐらいの差がありました。現場をもっと知りたいと思い、2週間の滞在期間中に現地の大学院への入学を決めました。両親は大反対だったけど、私は進路においては絶対しっかり腹落ちしたものを選びたいと思っていたんです。

「腑(ふ)に落ちる」という言葉が好きなんです。人は腑に落ちれば、どこまででも一人でモチベーションを生み出せます。でも、そうでない人は他人からの評価など、外から動機を持ち出さないといけない。目の前に広がる現場で2年間過ごし、何かつかんでから帰る。これが自分との約束になりました。

バングラデシュでの2年間は(中高で打ち込んだ)柔道の5年間に並ぶ、大きな意味のある経験になりました。競争社会での優劣とは違う生きる意味、価値をベンガル人が教えてくれたことに感謝しています。それまでは、やはり自分のキャリアや評価を気にしていましたから。この期間がなければ、マザーハウスの哲学そのものが生まれなかったと思います。

「世界の中の自分」を見つめ直す挑戦が始まっている。

4月にシンガポールに出店し、新たにミャンマーでの生産も始まって、製販併せて10カ国に広がりました。アジアでは基盤ができてブランドの立ち上げができましたが、世界で勝負しているかというとゼロ点です。欧米にはアジアとは異なる美に対する価値観がありますが、そこで「この価値観どうですか」と提案もできていない段階。せめて「どうですか」と問いたい。

(途上国発のブランドを欧米に持ち込むという)構造が逆転するアクションにワクワクしています。パリでバッグを見せても「革は僕たちのもの」という意識です。そういう本家本元の人たちに対し、バングラデシュならではの革で作った製品という、選択肢を広げるボールを投げてみたい。価値観の違う大陸に入っていくには、ブランドの文脈も変える必要があると考えています。大学でずっと「自分とは」ということを突き詰めてきましたが、今は「世界の中で自分は何者か」と見つめ直しているところです。

原点の教育に関しても、バングラデシュでの経験に基づいた絵本を描いて日本の学校に配布するなどの活動をしています。途上国においても教育は重要なので、これから拡大していくバングラデシュの自社工場には青空教室のような施設も併設していきたいと考えています。

(ライター 高橋恵里)