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「宇田川源流」 大河ドラマ「麒麟がくる」 明智光秀は八木城をどうやって攻めたのか

2019.09.23 22:00

「宇田川源流」 大河ドラマ「麒麟がくる」 明智光秀は八木城をどうやって攻めたのか

 先日予告したように9月20日に明智光秀の八木城攻めに関して講演を行った。

さて、そもそも明智光秀の八木城攻めに関しては全く資料が残っていない。あくまでも「歴史は勝者が作る」の言葉の通りに、明智光秀に関しては資料がほとんど残っていない。これは明智光秀が資料を残していなかったということではなく、本能寺の変で明智光秀が天下を取ったと思うが、しかし、その明智光秀が天下を取ったのが11日間でしかなく、後に羽柴秀吉、後の豊臣秀吉が天下を取ったためであるといえる。

羽嶋秀吉に教養があれば、様々なものが残ったと思うが、残念ながら豊臣秀吉は、がさつで、農民出身ということはどうしても最後まで隠せなかったようである。同時に信長の「猿真似の合理性」でしかない状態では、教養人が敵味方に限らず残したいと思うようなものであっても、農民にとっては価値がないということになってしまう。

そのことは、光秀の様々な「連歌」や漢詩などが全く残っていないということがある。実際に、光秀の場合辞世の句も漢詩であり、非常に素晴らしいものだ。上杉謙信も漢詩をたしなんでいた。当時、室町幕府に近しい関係にあって武士となったもの特に教養の高い武士に関しては、和歌よりも漢詩を好んでいた。漢詩も和歌も連歌も、全く行わなかったものは、秀吉くらいである

さて、そのような素晴らしい漢詩ですら残っていないというのは、その後の為政者である秀吉が、その価値を感じなかったからということに他ならない。八木城に関しては、その明智光秀と、後に「禁教令」によってキリスト教が禁止され、江戸時代になって追放された内藤家の城だ、内藤如安は「執政」であって、基本的にこの城の城主でも大名でもない。そのように考えれば、内藤如安が有名であっても彼の城ではない。内藤家すべてがキリスト教であったとは考えにくいのであるが、一方で、内藤家でまともに残ったのが如安一人であったことから、八木城にあるキリスト教の痕跡や内藤家の資料はすべて破棄された。

その意味で、内藤家と明智光秀軍の戦いである「八木城攻略戦」は基本的には全く資料の残っていない「謎の戦い」である。

「光秀御膳」や八木城攻め講演楽しむ 「大河」前に丹波で催し

 丹波2市1町の明智光秀に関する「京都丹波の明智光秀を聞く・食べる・見る会」が20日、京都府南丹市八木町の八光館であった。光秀の八木城攻略についての講演や「光秀御膳」の試食会があり、参加者は光秀と八木町とのえにしに思いをはせた。

 観光関係者などでつくる「京・来て観て丹波の会」が、光秀を主人公にしたNHK大河ドラマが来年放映されるのを前に、光秀と丹波のゆかりを体感してもらおうと企画、約40人が参加した。

 会場では光秀に関する著作がある作家宇田川敬介さんが八木城主だった内藤氏や八木町について講演。城下は室町時代の有力者の細川氏が寺院を開き、キリスト教徒の武将内藤如安がいたことから「丹波の文化の中心だった」と指摘した。

 元陸上自衛隊陸将の小川清史さんが自衛隊の経験を元に、光秀の八木城攻めを推測。小川さんは地形を分析して「堅固な城のため、火をつけて内藤軍を混乱させ、城を降りたところに攻撃を加えた」と想像した。

 講演後、参加者は、八光館が宇田川さんの監修で創作した「光秀御膳」を試食。城郭に見立てて料理が配置されたお膳に、光秀の好物とされるちまきや徳川家康が好きだったタイの刺し身などが並び、舌鼓を打っていた。八木城跡や京丹波町の玉雲寺なども視察した。

京都新聞 20190922

https://www.kyoto-np.co.jp/local/article/20190921000098


 京都府南丹市八木町は、昨日のブログで見ていただいたように、今年、令和の大嘗祭の儀式で使われる米を刈り取る斎田のある場所だ。つまりそれだけ開発がされていない。もちろん水道もガスも電気も通っているし、また電車もアスファルトの道路もある。しかし、その街はほとんどが当時のままに残っているといって過言ではない。

今回のように「八木城の戦い」といえば、当然に、「八木城一つしかない」というような、ちょうど大坂の陣ような戦いを思い浮かべるのであろう。しかし、実際は、JR八木駅から見えるすべての山の山頂に城や砦があったといえる。

同時に内藤家の政治は非常に素晴らしかった。少なくとも当時は、管領である細川家の建てた寺があるほどの土地である。単純に丹波国の中心地であったし、内藤家は、その細川家の守護代、つまり「副知事」ということになる。知事が常に不在なのであるから実質的に知事であるといって過言ではない。その城下町であれば、当然に最も栄えていた。そのうえキリスト教の中心であれば、南蛮との貿易もあったはずであり、かなりの経済力もあった。

つまり、八木城下の人は、内藤家の善政によって裕福に暮らし、そしてキリスト教という精神的な絆をもって、かなりの結束力を保っていた。それは明智光秀にすれば普通の城攻めとは異なり、そこにいる民もすべて的にした「殲滅戦」をしなければならなかったはずだ。

その戦いを検証するには、歴史的な資料がない場合「現代の戦いの専門家」に聞くしかない。戦略家である小川氏にそこを相談したのである。

はっきり言って目からうろことはこのことである。私が常々疑問に持っていたことがやはり歴史をゆがめていたことがよくわかった。その内容は会の出席者だけが知っているということになるのでここでは話すことができないが、しかし、一つ言えるのは「私を含めて歴史家、著述家、小説家は、少なくとも戦争の描写に関して言えば、完全な嘘つきである」ということになる。

さて、もう一つのお楽しみ「光秀御膳」。

これは、八木町の八光館が来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の明智光秀にちなんで作ったメニューである。まあ、そのメニューにひとつづつ名前を付け、そのうえで、その名前とメニューに合わせた物語を作った。まあ、「創作」といわれてしまえばそれまでだが、一応光秀の好みや、光秀が家康の接待の時に考案したメニューなどを再現している。「光秀」が詰まった「光秀御膳」ということになる。

さて、町おこしに関して少し書いて本日のとりとめのない文章を終わりにしたいが、「町おこし」とは、我々が外から言って行う場合「その町の生活の中にある、他にはない輝きを他に届けること」であると考える。実際に、光秀御膳を作る技術がある料亭があり、そして大河ドラマという一つの「きっかけ」があり、そして何とか大きな力にしようと思ったとき、新たなものを作ったりと買いをその町に持ち込むのではなく「その町に眠っている輝きを光らせる」「街の歴史を活かす」ということが重要なのではないか。我々は、それを「毎日その場で生活している人には気が付かない輝きを見つけること」が町おこしになるのではないかと考えているのである。実際に、今回は、「軍略の専門家」にその町の歴史を掘り起こしてもらい、そして「光秀御膳」でその町のすばらしさや歴史でできることを町おこしとしてうまく生かしたということではないか。