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「宇田川源流」 今日はせっかく先週京都に行ったので「光秀御膳」のグルメリポート

2019.09.24 22:00

「宇田川源流」 今日はせっかく先週京都に行ったので「光秀御膳」のグルメリポート

 正直なところ、以前のブログは「ニュース解説」と銘打っていた。それで10年以上継続しているので、「ニュースを解説をしなければならないのではないか」という強迫観念が私の中にあったのである。しかし、よくよく私自身のブログを見ていると「宇田川源流」とはあるが、ニュース解説とは全く書いていない。

つまり「好きなことを書いてもよい」ということになる。

まあ、基本は今後もニュース解説なのであるが、たまには、グルメリポートもよいのではないか。

さて、京都府南丹市八木町の八光館は、JR八木駅から徒歩5分くらいのところにある。駅前(内藤如安の絵の下あたり)に看板が出ているので、基本的には迷うことなく行くことができると思うが、まあ、その辺はどのようにしてもよい。車の便もよく、国道9号線で、ちょうど亀岡市と南丹市の境界線上にある感じだ。(詳しくはホームページ http://hakkoukan.com/)

その八光館で、来年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」にちなんで、その主人公の明智光秀の名を冠した「光秀御膳」を作ったという。先日講演を行ったときに、社長のご厚意で食べさせてもらうことができたので、せっかくであるからそのレポートを書いてみよう。なお、私自身はこのようなグルメリポートは池波正太郎先生を模範としているつもりだが、当然に、誰かに直接習ったわけでもなく、本を読んでいての独学なので、まあ、笑いながら読んでいただければちょうどよいかもしれない。

さて光秀御膳は「城郭巡り」「公方西京椀」「三戒焚き」「丹波加比古蒸し」「鯛めし」「デザート」で構成されている。来年の正式版にはこれにもう御一品食らいつけるということを計画しているようである。もちろん、これで十分なくらいである。

まずは「城郭巡り」。前菜の入ったお重を「城の廓」に見立て、その中に高坏に乗せた粽、これは明智光秀の大好物で、戦争の最中も粽を食べていたという代物。その高坏を「天主閣」と見立て、城郭の中に様々な個性のある部下がいるというような感じだ。

とにかくこの「八光館」の食べ物は「大胆にして繊細」という非常に素晴らしい腕を持った食べ物ばかりだ。一品一品に非常に手間をかけている。もちろん、そんなにすごい手間をかけているというわけではない。私も料理人ではないのでよくわからないが、しかし、大事なところ、ポイントになるところに一手間かけて出しているということは非常にようわかる。素材を生かしながらも、味付け、そして歯ざわり、香り、いずれもしっかりとついている。「個性のある部下」という表現があって、当然に味の統一性がない。しかし、「部下」というだけあって「味は統一性がなくても、口の中に入った雰囲気」は全く同じものになっている。一つ一つが別々でも「一つに合わされば結束は固く、そして明智光秀の軍としてまとまる」という前提になっているのである。

「城和え(白和え)」に「粽」「酢の物」そして「徳川家康を接待するはずであった鯛の松皮締め」などが並ぶ、いずれもおいしいだけでなく、香りも歯触りもすべてが大事にされているという感じだ。

「公方西京椀」は、丹波は京都から見て西の方にあり、そして糟汁にして体を温めるという意味が残されている。中には必勝の餅が入っていて、そのほかに、地元の野菜を味わえる。口の中に入れたときの「麹の香り」と「口の中に広がる甘くそして濃い味」それでいて喉越しは「すっきり」していてまた、口の中は「あっさりと残らない」味わいなのだ。

そこに少し硬めに炊いた根菜や、やわらかい魚などが入っていて、様々な地や海の幸と楽しませてくれる素晴らしさ。一つの椀の中にしっかりと京都の西側にある様々な内容が詰まっているではないか。そのうえ「麹糟汁」ということは「白い色」である。丹波の冬の白さを物語っているのか、あるいは、すべてを源氏の「白」にしてしまうということであろうか。それとも「城」の中に「様々な本当に大事なもの」が隠されているというような「なぞかけ」に考えれば考えすぎなのかもしれない。いずれにせよ「味」だけではなく「歯ざわり」まで含めて非常においしい。そして体が温まる内容だ。

「三戒焚き」は、やはり少し濃いめに、京都の薄口醤油で炊いた感じのものだ。丹波の物ではなく、全国のおいしいものを入れ、それを食べることによって光秀の苦悩の時代を思い出したという食事だ。これは「色合い」である。人参、インゲン、タコにタケノコが赤、みどり、白というような味わいを出してくれる。しかし、今度は「西京椀」とは異なり、「歯ざわり」が似ている。つまり、焚いている時間を変えて、柔らかさを箸できるのには少し硬いという「憎らしい」固さにしてある。この色合いを見れば、個々の料理が「目で料理を楽しむ」という日本料理の心をよく知っているということがわかるというものだ。やはり料理は器だけではなく食材そのものの色を見て楽しまなければならない。目で楽しむ料理を、他の要素は同じにして、その色合いの違いだけを楽しめるように調整してある。これは素晴らしい演出であり、料理人の腕がかなり素晴らしいということになろう。

「丹波加比古蒸し」「鯛めし」は、まあ、「茶碗蒸し」「鯛めし」といえばそのままであろう。しかし、「加比古(かひこ)」と読ませるところに、この店の「健康志向」が読める。本来「医食同源」であり「おいしいもの」を食べて「健康になる」というのがその姿であろう。そのことを「一つの言葉」で示すという技術はなかなかうまく凝っているといえる。また中に入っているものが「丹波」というにふさわしい。丹波といえば、おいしいものがたくさんあるし、京野菜の宝庫である。その京野菜の宝庫の野菜をうまく取り入れているということが丹波の言葉の中に隠されている。一方、「鯛めし」となれば、それは「海の幸」である。「めでたい」という言葉で表せるように、鯛は特別な時に食べる「寿魚」であろう。その鯛で「〆る」のである。お気づきであろうと思うが、「鯛の松皮締」で始まり、そして「鯛めし」で終わる。とにかく「めでたい」の演出が、そのまま多くの人の心の中に届くのではないか。何も「おもてなし」などという言葉をわざわざ書いたり言ったりしなくても、その「鯛」を出すことで、その心をうまく表現している。味や視覚・聴覚・触覚・嗅覚もさることながら「心」を料理の中で表現できていることが最も素晴らしいのかもしれない。

そして口直しのデザートである。これはパイナップルとバナナである。このように書くと「なんかデザートだけ・・・・・・。」と思うかもしれない。しかし、ここ、南丹市八木町にある「丹波八木城」は、キリシタン大名として有名であった「内藤如安」の居城である。本来は、大阪府高槻の高山右近のところでも「デザートといえば」というようにすべきなのであるが、ここ八光館は先んじて「キリシタン内藤如安が国外追放で終焉の地を迎えた呂宋島(ルソン島=現在のフィリピン)の果物」として出している。これこそ素晴らしい内容ではないか。つまり「八木の盟主」の終焉の地を「光秀御膳の締」を合わせたという感じである。

内藤如安は、ルソン島で大歓迎され、1626年に惜しまれながら現在のフィリピンサンミゲルの地でなくなっている。そして現在もその地に甲冑や十字架が残されているのである。そう考えれば「惜しまれながら」という心が、ここにもうまく表現されているのである。

少し長くなったので、ところどころ省略しながらグルメレポートをしたが、まさに、日本食というのは、伝統的に「目で季節を感じ・耳で音を楽しみ・香りを味わい・歯触りを感じ・そしてそれらすべてで味覚を表現する」という基本があるが、まさにその基本通りにしっかりとできているのではないか。

来年ぜひ一度、京都に行く時は食べてもらいたい。