成熟・老い・尊厳死:それが自然界の姿
実柘榴の黄泉へ通じる裂け目かな 高資
高松宮殿下御手植「石榴」・宮應山生福寺
「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」
新約聖書「ヨハネ伝」第12章
一指李承憲@ILCHIjp
自分は生と死を超越した無限の生命エネルギーそのものだと感じ、その生命エネルギーの理に順応することによって深く感謝する瞬間、大自然の懐で自然の一部である自分を感じ自然との一体感を体験する瞬間…、これらの瞬間が私たちの魂が神性と出会う瞬間であり、完成に一歩近づく瞬間です。
私たちはいつか自然が呼べば逝かなくてはなりません。自然と人類のための人生を送れるようになれば戻る準備ができたのです。いつ地球に呼ばれても堂々と逝くことができる――。それが人間完成、魂の完成です。そんな価値を人類は忘れています。それを伝えるために地球市民ムーブメントをしています。
肉体の人生は、どれほど甲斐甲斐しく世話を焼いても最終的には死とともに終わります。そのため、肉体に完成はありません。ただ魂を通してのみ、有限な人間の肉体の人生を超えて無限の永遠性に近づくことができます。
くれなゐの零を集めて曼珠沙華 高資
時を漕ぐ栃の木の空舟(うつおぶね)かな 高資
時を漕ぐ櫂の雫も栃の花 高資
西日へと漕ぎ出す栃の空舟 高資
栃の木の舟や西日へ溯る 高資
樹齢300年の栃の木から造られた江口週 作「時を漕ぐ舟」・栃木県庁舎本館1階県民ロビー
それでも長寿は祝福???
もしかしたら不老長寿を手に入れるためには 財(金)が必要であり お米(金色の稲穂)が必要だと考えたのでしょうか?
ソクラテスは「生きるために食べるべきで、食べるために生きてはならぬ。」と言ったそうです。
https://jikokeihatsu-gekihen.com/live-to-eat/ 【食べるために生きる】
「生きるために食べるのか。食べるために生きるのか」という有名な哲学的問いかけがあります。
私がこの言葉を聞いたのは高校生のとき。家庭科の先生が調理実習しながらいっていました。
太宰治も『人間失格』の中で、「食べるために生きる」と言及しています。
当時この言葉をきいた私は、「いや、生きるために(仕方なく)食べるんだ」と思っていました。高校生の頃勉強にはまっていて、寝る時間がもったいない、食べる時間がもったいない、と考えていたからです。
食べることは好きか?と聞かれたら、嫌いです、と答えていましたね。
大変恥の多い人生を送ってきました。
食べることの意味
なぜ、人は食べるのでしょう。
シンプルな答えは、栄養を補給するためです。食べなければ餓死してしまいます。
では、食べなくても栄養補給ができれば、人は食べなくなるのでしょうか。そんなことはないと私は思います。食べることには、以下のようなメリットがあります。
おいしいという感動
空腹感を満たすという幸せ感
誰かと食べるとき、感動を共有する
食べ物に関わるとき、人の役に立っているという幸福感
食べることの意味は、栄養補給とか、食欲を満たすためだけではないのです。
生きることの意味
生きるということを、生存して心臓が動いている状態とするなら、生きるためには食べなければなりません。
『史上最強の人生戦略マニュアル』によると、「本当に生きることとただ存在することの違いを知り、区別するための知識」というものがあるそうです。
ただ存在する・・・人生の質に関係なく、日々を生き延びることをいちばんの目標とすること
生きる・・・自分の研ぎ澄ました武器となる技能や能力を使うこと
「生きるために食べる」といってしまうと、ただ存在するために食べるということになってしまいがちです。食べることにも生きることにも、もっと大きな意味があります。
食べる=幸せを味わうために、生きる=自分の能力を磨く、そういった態度で生きていきたいですね。
もしかして今の現実は自分が選んだこと、今世は自分が選択したということに気づくと そんなジレンマから解放されるのかもしれません。
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6960207 【闇とは死?不老不死は光?】ご参照ください。