Ameba Ownd

アプリで簡単、無料ホームページ作成

台風一過

2023.12.25 02:25

2015年9月10日 ·  ·

洪水は見えねどうねる雲居かな  五島高資

 大雨によって被害を受けられた方々へ心からお見舞い申し上げます。ー 場所: 栃木県 宇都宮市

宇都宮も田川が氾濫しかけましたが何とか大丈夫でした。先日、ちょうど人丸神社を訪ねた常総市石下近辺の鬼怒川が氾濫したのには驚きました。被災地の皆様には心よりお見舞い申し上げます

蛟竜の逆鱗もあり野分雲  五島高資

竜淵に向かへる雲のうろこかな  五島高資ー 場所: 男体山

蛟竜とは才能がありながら未だ発揮できず雌伏の時のようですね?当に蛟竜の逆鱗のような鱗雲です。昨日の鬼怒川の氾濫をニュースで見て、「鬼怒川」・・鬼も怒る川との言葉の持つ意味を、改めて想いました。市町村合併により昔からの地名が沢山無くなっていますが、謂れのある地名も多く先人達の知恵もあり、残すべきものと考えますね!!。


五島高資 ご感想ありがとうございます。三国志に「蛟竜雲雨を得」とあり、「水中にひそみ、雲雨に会して天に上る」らしいです。もともとは古代養蚕が盛んだったことから絹川と呼ばれていたようですが、同時に暴れ川としての記憶も強かったのでしょうね。

龍神様がお帰りになったみたいですね。


五島高資 そのようですね。今ちょうど夕日が雲間から覗いています。


 神々しい暖かい光ですね。東北地方の災害にも胸が痛みます。どなたが龍神様を怒らせたのでしょうか…一日も早い復旧をお祈りいたします。


五島高資 日本は戦争こそなけれども色々な試練を乗り越えていかなくてはなりませんね。新しい意識改革の時期に来ているのかもしれません。


高嶋 真由美 その通りだと思います。


五島高資 生死も含めて二項対立的価値観を超克する高次元の意識が大事になってきますね。


 本当にそうですね。二項対立的価値観を乗り越えた高次元の意識が必要な時代なのかも知れませんね。

平和であることを望みます。



台風が尾骨に迫る星夜かな 五島高資:

台風の目に入る自動販売機 五島高資:

台風のあとの空気を食べにけり 五島高資

2013年9月16日 ·

台風の目に入るテールランプかな  高資ー 場所: 栃木県 宇都宮市

コメントのやり取り

高村 典子 うまいなあ!昨日の、私たちの百葉会(万葉集からこうつけました)の題詠も「台風」でした。こんなのどうですか? 今、台風は丁度宇都宮あたりのようですね。

 「台風の強き風雨に打たれてももはや脅えず美しき街頭」

五島高資 高村さん、このあと吹き返しがありましたが、まもなく台風は行き過ぎました。


コメント主・高村 典子さん まさに台風一過の人生を歩まれた感じです。

https://blog.goo.ne.jp/sikyakutammka/e/681b8182a8da95119504ebfb9a40ff63  

【短歌評 高村典子さんから受け取ったもの、第二歌集『雲の輪郭』にまつわる思い出 望月遊馬】 より

高村典子さんという歌人のことを思う。まだ知り合って間もなかった彼女の凛としたその筆跡であるとか、口からこぼれでることばであるとか、そういった事柄に魅入られてしまえば、たちまち、彼女の短歌に近づけたかのように感じられるのである。

 高村さんが一度目のくも膜下出血で倒れて、彼女のことばを奪ったとき、彼女は「話すこと」を失い、そして、短歌を失った。ことばを失う、つまり失語症により、彼女はそれまで所属していた「かりん」を退会することになる。しかし、そこから驚異的な意志力によって、高村さんは自らの力で、ことばを、短歌を、奪還したのだった。

 そうして詠まれた第一歌集『わらふ樹』は、失語症のこと、大好きなピアノのこと、ベートーヴェンの「熱情」のことなどが丁寧に綴られている。

 はじめて高村さんと出会ったのは、facebookである。突然、高村さんの方から友達申請をしていただき、恥ずかしながらその当時、私は高村さんのことを存じ上げていなかったのだが、高村さんのfacebookのページを訪れ、ピアノのことなどが書かれているのを目の当たりにして、ああ、高村さんもピアノがお好きなのだな、とたちまちfacebookの友達申請を承認してしまったのである。

 私もピアノが好きで、その日以来、高村さんとは繁忙にメッセージのやりとりをするようになった。ピアノのこと、短歌のこと、詩のこと、家族のこと、絵画やお能のことまで話しているうちに、お会いしてみたいな、と思うようになり、機会があって上京するときにお会いしようという約束をとりつけた。

 高村さんと私は、年齢が三十歳以上離れているから、叔母と甥のような関係ですね、と高村さんは笑っておっしゃっていらしたが、私は純粋に年の離れた友達ができたことがうれしかった。

 高村さんの第二歌集『雲の輪郭』は、私が高村さんと知り合ったあとに出版された歌集で、あるとき高村さんが、「第二歌集のタイトルを何にしようか迷っている」とメッセージをくださったことがあり、私は、タイトルをつけるのはあまり得意な方ではないので、あれこれと思いを巡らせていたのだが、最終的にタイトルが決まったようで、「歌集が上梓するまでは秘密にします」とうれしそうに語っておられたのが印象に残っている。

 その第二歌集『雲の輪郭』であるが、高村さんご自身のことばによれば、第一歌集『わらふ樹』は、悲しみや負の感情を機動力にひとつのまとまりを構築した歌集であるのに対して『雲の輪郭』は、そういった負の要素をそぎ落としてまた別のベクトルへ歩みだす、歩みはじめた、「はじまりの歌」なのだと。わたしはそう受け取ったのである。

 こんど上京したときに、『雲の輪郭』の感想を高村さんに伝えようと(私は短歌には明るくないので、専門的なことはいえないけれど)心をこめて、一首、一首、読むことを心がけ、素敵だなと思った自分の感覚をしんじて、その歌の載っているページには付箋をはったら、本は付箋だらけになってしまった。

 その中から、私がもっとも好きな一首をここに載せることにしたい。

大切なものから記憶失せゆくか欅に風の船が来てゐる

 「大切なもの」から受け取るまなざしを、私たちはいつでも胸にしまって日常に降りてゆくから、たとえば欅に訪れた風も、ここでは「うつくしい現象」であって、それは「風」という現象が「船」という現象に置き換えられる唯一無二の瞬間として切り取られる。その瞬間の刹那的なうつくしさも、また大切なもののように思える。これは自己本位の読み方であるが、評論や批評ではなく、エッセイであるのでお許しいただきたい。

 私がこの歌を好きだというと、高村さんは非常にうれしそうでいらっしゃった。

 私はその日、はじめて高村さんとお会いしたのである。

 食事をしながら、いろいろな話をした。それはfacebookでも話した内容とかぶっていたかもしれない。けれども、直接お会いしてお話をするということの尊さを、私は思うのである。高村さんはインターネット上でも、凛とした方だったが、実際にお会いしても、やはり凛とした方だった。そして、ちょっぴり感情が溢れすぎるところがあって、何か話すたびに涙ぐみ、そして、お洒落で、とても素敵な方だった。

 私はその日のことを忘れないだろう。

 帰り際に、こんどは一緒にピアノリサイタルを聴きに行きましょう、と約束をした。そして、私はそれをとても楽しみにしていた。

 しかし、これが高村さんとお会いした最初で最後の機会になろうとは、思いもしなかった。

 二度目のくも膜下出血は、高村さんの命を奪ったのである。

 もう会うことのできない、ことばをかわすことのできない、年の離れた友達の最期を思うたびに胸のつまる思いがした。

 それでも、第二歌集『雲の輪郭』は、世界に刻みつけられて、これだけは誰も奪うことができない。

 高村さんは、世界に「ことば」を刻みつけたのだ。


http://soratanka.seesaa.net/article/98514554.html 【高村典子さんの歌集】

ことばの本質について、深く考えさせる歌集である。脳と心、ことばと心という問題を思い、何度となく立ち止まるような気持ちで読み進んだ。


「月」と言つてごらんと病窓に丸きもの母は教へる四十歳(しじふ)  のわれに

失くしたる文語文法ふたたびを暗記してゆく夕べ かなかな


作者は、40歳のときにクモ膜下出血で倒れ、言葉を失った。そのときは自分の名前も言えず、月や林檎といった日常の言葉も、ほとんど分からなくなったという。愛唱していた短歌も、自分の作った歌も忘れてしまった。

一首目は、窓から見える月を指して、作者の母親が幼い子どもに言うように「あれは月よ。つき、って言ってごらん」とやさしく語りかけた場面である。立派な大人である自分がそんなことを言われている状況も悲しいが、母はそれ以上に切ないだろうと、この作者は胸がいっぱいになっているようだ。

二首目は、忘れてしまった文語文法をまた学び直している夕方の、もの悲しい気分が詠われている。詠嘆を表す終助詞「かな」を重ねることで、「かな」の用法を覚えようと口ずさんでいるような、「カナカナ」という蜩のさみしそうな鳴き声のような不思議な感じが出ている。「失くした」ものは文語文法だけではなかったはずである。治療や闘病に費やした時間や、屈託なく過ごしていた頃の時間を思う作者の悲しみが、せつせつと伝わってくる。

 

ことばよりこころがよかつた失くすなら束ねゐるクリップが言へぬ  真夜中

たましひの頼りなきころ我が名さへ言へざりしこと忘れがたしも

湿り気を持てる日本語「うちみづ」と言へばベランダに涼風生(あ)  れる


私は失語症というものをよく知らなかった。外傷や脳血管障害によって言語能力が失われ、訓練次第である程度は回復するものだ、というくらいの理解しかしていなかった。その回復は、肢がマヒして歩けなくなった人が再び歩けるようになるようなものだろうと思っていた。しかし、神経内科医を取材して初めて、失語症がどんなに大変な病気であるか知ったのである。専門医によると、いったん失われた母語を獲得するのは、外国語を学ぶようなものだという。穏やかな面立ちの医師から「あなたが海外で英語のスピーチをすることを想像してごらんなさい。気持ちの細かいひだや心の奥底まで表現できず、もどかしくて苛立つでしょう? 失語症の人は、日々そうした苦しみを抱えているんです」と言われ、心底驚いた。

 何ということだろう。高村典子さんが短歌を作るのは、例えてみれば私が英語でソネットを作るような営みなのだ。彼女の生活は、これから先ずっと外国語を用いて暮らすような日々なのだ。倒れてから5年、彼女がどれほどつらいリハビリを重ねて歌をまた作り始めたのか、と思うと胸が痛む。

 「ことばよりこころがよかつた失くすなら」「たましひの頼りなきころ」の哀しみ、所在なさには、読む方も悲しくなってしまう。しかし三首目には、「うちみづ」という言葉に、初めて出合う喜びがあふれている。その響きに湿度やかすかな涼しさを感じる感性は、もともと作者に備わっていた優れた資質にほかならない。


幾千のこころとふもの詰めこみてポストの中は吹雪きてをらむ

モーツアルトはモーツアルトらしく弾くされど正攻法といふつまらなさ

私といふ本に目次はありません好きな所からお読みください

 

この歌集は闘病記のようなものではない。作者は時にきっぱりとした顔を見せるかと思えば、おどけた顔も見せ、詠いぶりは自在である。思いがけない魅力的な喩や、口語と文語を使い分けた文体も見事であり、ことばという美しい贈りものを存分に楽しめる一冊となっている。

 ☆高村典子『わらふ樹』(角川書店・2008年5月)

自分自身として生きること、

自分たちの家族をつくること――。

気鋭の写真家が模索した鮮烈なるドキュメント。

2018年1月24日、壮絶なる闘病生活の果に、末期癌を患った夫にしてラッパーのECDが亡くなった。悲しみと喪失感が押し寄せるなか、激変していく毎日の暮らし。友人たちの支え、ふたりの娘の成長、そして新たな恋人との出会いの先で、今もなお家族のなかに生き続ける夫の姿とは――。気鋭の写真家が記録した、新しい家族のかたち。


長谷川ひろ子さんを連想します。

http://ikitahi.com/gaiyou/index.html  

【ドキュメンタリー映画「いきたひ」~ 看取り・命のバトン ~】  より


【いきたひの効果】

「死」を描いていながら、観終わると何とも言えない清々しさがあり、死ぬことへの恐怖や不安よりも、生きることへの希望や喜びが大きくなる。

そんな活力をあげる映画であると同時に、死別の悲しみや後悔、喪失感からも立ち直らせてくれるグリーフケア作品でもあります。

旅立ったあなたの大切な人は、あなたの最強の味方であることをどうか思い出して欲しい。

それを信じた時点であなたの人生は願った方向に加速していく。


死を恐れるということは人生そのものを恐れるということでは なかろうか?

人は例外なく死ぬ これほど確かなことはないのに なぜ死ぬのか 死んだ後どうなるのか

迷子のように それでも人は 終わりの日まで 懸命に生きていく 今から60 年ほど前 

この国では  ほとんどの人が 自宅で亡くなっていた 祖父母は  老いて行く姿を示しながら  生きることの意味を 教えてくれていた

畳の上で生まれ 畳の上で死ぬ 生きるということは「暮らす」ということ 人生の幕は 歴史を刻んだ家で閉じたい そう願いつつ いつの間にか病院で生まれ 病院で死ぬのが 当たり前になった

人生の始まりと終わり 最も大事なシーンが 暮らしの中から 切り取られてしまった

そうして命はぼやけてしまったようだ

人を看取ることで 本当に救われるのは 看取った本人であろう 人生の完結シーンに

優しく寄り添うことで 逝く人から 命のバトンを受け取るのだから

日蓮上人は言った「されば先ずは  臨終の事を習うて後に 他事を習うべし」

 

まったくの素人ながら映画制作の夢を実現長谷川ひろ子(はせがわ・ひろこ)

秋田県に生まれる。地方局のアナウンサーを経て結婚。4児の母となる。

末期癌の夫(薬学博士)を、家族とともに自宅で看病しながら、その姿を撮影。生還を信じて撮影した夫の闘病生活だったが願いは叶わず、2009年、夫(当時47歳)は他界。家族とともに自宅で看取った。

3年後、大きな心境の変化をきっかけに、まったくの素人ながら映画制作を決意。脚本、ナレーション、編集、音楽の作曲・演奏・歌など、ほとんどすべてを自分で担当し、2015年4月に完成させた。

完成したドキュメンタリー映画「いきたひ」は、「これまでの死生観が変わった」「受け入れられずわだかまりを感じていた肉親の死を、ようやく受け入れることができた」など、多くに衝撃と共感を与える。

観た人の「自分の周りの人にも、ぜひ観てほしい」という熱い思いから、全国で自主上映が続いている。監督本人の講演とセットでの上映会は、評判を呼び、公開からの4年間で390回上映され、韓国ソウル市、米国ロサンゼルスなど海外でも上映されています。

【現在】

フリーアナウンサー

シンガーソングライター 歌手名HIROKO「カラオケの鉄人」配信

元日高市教育委員

健康体操教室・スタジオmother’s主宰

NPO法人日本サプリメント臨床研究会・代表理事

ドキュメンタリー映画「生死(いきたひ)」監督・脚本・演出

著書『自分磨きは姿勢から』

監督の想い   

長谷川ひろ子

「どう死なせないか」ではなく

「どう生ききるか」

後期高齢化で多死社会を迎えたこの時代に、計らずも看取りをテーマにしたドキュメンタリー映画を世に送り出すこととなった。

余命半年の宣告を受けた主人にカメラを向けたのは主人が薬学博士として末期癌の方々を生還させて来た実績を傍らで見て来たからであった。自らが生還する過程を示してくれるものと信じて、主人の闘病生活を記録映像として残した。結局余命宣告から3ヶ月でこの世を去ったが、その映像は実に多くの教訓を残してくれた。先ず抗癌剤を断り自宅で終えられた幸い。映画の後半、主人の遺体を囲んで眠る4人の子供達の寝顔のシーンがある。畳の上で「生と死」が並んでいる場面を映し出すことで、日常の中にある「命の終わり」を観て欲しかった。

人生が刻まれた家で最後まで家族と一緒にいられたのは、遺された者にとっても救いとなった。病院だと死ぬ直前まで医療行為を受けることになり「どう死なせないか」にフォーカスされてしまうが、自宅では「どう生ききるか」を貫くことが出来た。家では家の主でいられるが、救急車に乗った途端に患者となる。生きるとは「暮らす」ということ。病院は暮らす所ではない。人生の最後が暮らしの中から切り取られてしまっているこの時代だからこそ、何処で誰と終えるかを見つめ直して欲しいと思う。亡くなってからの49日があるように亡くなる前の49日は人生の最終章。この最終章をどう書き上げるか、逝く人、遺される人との出会い直しや紡ぎ直しの期間。「終わり良ければ全て良し」命をかけたその瞬間を豊かなものに出来たら、それがこの国の成熟度に反映されると思う。

天地合同制作映画

この映画は主人が亡くならなかったら存在しない。主人の「死」を私が映画として生かし、私の「生」を主人の「死」が活かしてくれて「今」がある。

映画のタイトル文字は生と死の合体文字であり、主人と私の関係性を象徴した造語でもある。あの世とこの世、生と死、その境は幻のようなものであり、我々は肉体の有無を超えて死者と共に生きているのだと思わざるを得ない。

映画を観た方々が今は亡き大切な人との糸を紡ぎ直し、その死を肯定し、看取り直しをすることで自分を立て直していかれる。後悔が感謝へと昇華して行く様を目撃する度に、この映画は「天地合同制作映画」だと思う


「生還」を信じて撮影した闘病生活

 2009 年、主人が癌で余命宣告を受けてから、闘病生活を撮影していました。薬学博士として末期癌の方々を何人か生還させてきた姿を傍らで見ていましたので、いつかビデオを主人と一緒に見ながら「生還への軌跡」として振り返る日が来ることを信じて撮っていました。

 結局二人で見返すことは叶いませんでした。

 主人が亡くなってからの数日は喪主として、やるべきことがたくさんあり、ビデオを回している場合ではなかったはずなのに、なぜか主人の遺体や子供たちの姿を撮影していました。

 今思うと、あの時から映画製作は始まっていたのかもしれません。もしかしたら主人が撮らせていたようにも思えます。

 主人が亡くなって3年半が過ぎたころ、大きな心境の変化がありました。「死への恐怖」が「生への肯定」へとつながり、生まれることと死ぬことは同じ位置にあることを感じるようになったのです。

 映画「おくりびと」のヒットで「納棺士」にスポットが当たり、亡くなった人を送ることの大切さが話題になりました。同じように人を看取ることの意味や大切さが伝わる映画を、誰かがつくってくれたらいいのに……と思っていました。

 そんな時、知人が「ひろ子さんが自分でつくれば?」と電話してきたのです。その言葉にスイッチが入ってしまいました。

天地合同制作で完成

 夫を亡くした4児の母が、全く経験もないのに映画をつくりたいと思ってしまったんです。映画制作にかける経済的、時間的余裕も、技術も、機材も、人脈もない中で、思いだけがあり、とにかく動き始めました。

 ところが、いったん覚悟を決めてしまうと次々と奇跡的に、映画制作は導かれるままに進みました。必要な人たちに自然に出会えるし、どんどんスピードが加速されていきました。

 脚本の一文一文、一言一言は、主人の遺影の前に正座し、祈りの中で降りてきた言葉を紡いで書き上げたものです。

 映画音楽に関しても、ピアノを習ったこともない私の指が鍵盤の上に置くと自由に弾き始めました。どんどん生まれてくる曲をレコーディングしておいたのですが後で映像に音を重ねる段階になって、シーンごとにピッタリの曲が用意されていました。

 制作チームをつくることも、スポンサーを募ることもせず、自分で脚本を書き、自分の声で語り、家族を抱いて看取った方々にインタビューし、編集し、音楽も自分で作曲し、演奏し、主題歌を歌い、20 年来の友人が映像エンジニアで編集作業と音楽の録音や編曲を手伝ってく

れました。

 結局、専門知識もないまま思いだけで完成したのでした。

 映画を作ると宣言した時にカンパしてくれた友人たちの気持ちが背中を後押ししてくれました。

 映画に出演してくださった皆様はもちろんのこと、その方々に看取られ先立たれた方々と主人あっての映画です。まさに天地合同制作映画といったところでしょうか。

 タイトルは造語で生と死の合体文字です。生と死を切り離しては考えられないという意味もあり、生を活かすし死、死を活かす生、それをタイトル文字に託しました。書は実家の母に書いてもらったものです。 この映画に携わってくださったすべての方々に感謝いたします。