Okinawa 沖縄の旅 Day 56 (26/09/19) Haebaru 南風原陸軍病院壕跡
Haebaru Army Hospital Ruins 南風原陸軍病院壕跡
Place of Former Army Headquarter 陸軍高津嘉山司令部
Haebaru Army Hospital Ruins 南風原陸軍病院壕跡
9月18日に、ここに来たのだが、運悪く休館日で資料館も病院壕も見れなかった。一昨日に糸数のアブチラガマの陸軍病院の分室跡を訪れ、ガイドさんから色々な話を聞き、もっと沖縄戦について知りたいと思い、ここにはもう一度来て、実際に見て話を聞きたくなった。今日は別の予定を立てていたのだが、そこに行く途中にこの場所があるので、思い切って寄ることにした。9月19日のレポートにも書いているのでだぶる所もあるが、更に深い話を聞くことが出来たので、忘れない内に書き留めて置く。
南風原町の黄金森 (こがねもり) の小高い森に日本軍は米軍の侵攻に備え、沖縄陸軍病院壕群を数ヶ所に人海戦術で掘り進めていた。米軍の陸軍本部があった首里への侵攻は予想より早く、壕の完成を待たずに院長以下、軍医・看護婦・衛生兵・ひめゆり学徒らがここに配属され傷病兵の治療に当たることになる。一般的な解説はこのぐらいだが、この場所で悲劇的な出来事が多くあった。これは実際にこの地に来て、資料館やガイドさんから話を聞かないと知り得ない事も多かった。一昨日に続きショックだったが、本当の沖縄戦を少しでも理解するには必要な事だ。再度、来てみて良かったと思う。
先ずは資料館に行き、ゆっくりと消化出来るように見学をした。南風原を取り巻く環境が軍国主義化して行く説明から入って行く。
大正時代から第二次世界の終結までの年表。大雑把に時代の流れを頭に入れる。
天皇の神格化。天皇への参拝を強要
沖縄古来の信仰の中心の御嶽 (うたき) を神社化。国家神道を強要。
沖縄出身兵士の状況
日本帝国のアジア侵攻に伴い、多くの沖縄の人が満州、フィリピン、東南アジア諸国連合などに移住して行った。
学徒の教育も軍国化し、戦場への総動員が行われる。
国の為の戦死を英雄視する国策。
沖縄の6000人の学童が疎開。以前訪れた対馬丸の悲劇はこの時に起こっていた。
首里が危なくなって来て、陸軍と陸軍病院を南風原の黄金森に移す。ここから南風原は軍隊と一般住民の住む要塞化が進む。当然、米軍の標的となり、悲劇が展開される事となる。
南風原には3ヶ所の慰安所が置かれていた。那覇の辻のジュリを約20名程連れて来ている。一昨日行った。糸数のアブチラガマの病院分室には3名の朝鮮人慰安婦がいたと聞かされた。このような陸運病院には慰安婦を置くことが上層部で決められていた筈だ。しかも将校には特別な慰安婦があてがわれている。現場で勝手における訳が無い。他の陸軍病院や陸運施設にも同様の事があった筈だ。しかし、日本政府はこの事実をひた隠しにしていた。恥ずべき事だ。この慰安婦達も解散命令で戦場に放り出され多くの人が亡くなったのだろう。この時代の軍部の思想は異常に思える。何故、このような国になったのだろう。日本の歴史上最も忌まわしい時代と思う。
Place of Former Army Headquarter 陸軍高津嘉山司令部
帰途の途中に訪れる。ここは那覇から陸軍本部が移ってきたが、本部機能は再度那覇の戻り、ここも外科病院として使われた。戦後、ここから多くの薬や治療道具と共に男性避妊具が大量に発見された。軍部主導の慰安所の設置は紛れも無い事実で、病院が兵士の性のはけ口の手助けを行なっていた。大きの住民が食うことにも、住む場所にも大変な時に、こんな事を陸軍本営の方針であったとは恥ずかしい限りだ。この時の日本は何かが狂っている。
別の場所にも病院壕がある。
このように南風原は戦争の真っ只中に置かれた。移動して来た兵隊に家を提供させられている。半分ぐらいの民家が兵隊の住居となっている。住民はどうしていたのだろうか?
南風原町にとって、沖縄戦は目をつぶる事の出来ない出来事だった。首里が陥落した後はこの南風原が米軍の標的となった。住民は指摘された避難壕に逃げて来ても首里から移動して来た兵隊に占領され、戦場に追い出され、家の墓に避難することになった。沖縄の墓は先祖代々の遺骨を納めているので内部が広く多くの場合避難壕として使われていた。その墓も日本兵に追い出されたという。
南風原の人たちの戦争体験が紹介されていた。
驚いたのは、南風原町の住民の4割が沖縄戦で亡くなった事だ。当時の南風原は人口約8900人。家族の誰かは亡くなっている。全滅した家族も多い
そして南風原も占領間近となり撤退命令が下され、あてもなく南に移動して、途中多くに人が命を落としていった。
戦時下では人は狂気となるのであろうか、信じられない出来事が多くあった。
- 沖縄では内輪での話は沖縄語で行われるが、沖縄語を話すとスパイとして見なされ多くの人が日本兵に射殺された。
- 避難していた壕で生まれた人がいる。その人が語ったのは、自分は母親の乳を飲むとおとなしかった。それで今も生きている。同じ壕にいた赤ちゃんでも母親の乳のでが悪く、泣き止まない子は、日本兵が赤ちゃんを水たまりに顔を押し付け窒息死させた。これは日常茶飯事であったという。目の前でお腹を痛めて産んだ我が子が殺されて行く。他の人を救う為という。それでも母親の気持ちを考えるとなんとも言葉がない。
- 南風原陸軍病院は負傷兵だけに使われ、一般人の治療は一切されなかった。当初は内科もあったが、戦火が広がると外科だけになった。堀った壕は高さ175cmぐらいで人が二人通れるぐらいその壕に2段ベッドが置かれてていた。公開されている20号壕は長さ70mで真ん中に少し広くなっている所で手術をしていた。手術と言っても、負傷した所を間接で切断するだけのもの。麻酔もなく、ひめゆり学徒3名が助手として手伝う。一人はロウソクで医師の手元を照らし、一人は医者に器具を渡し、残りの一人が患者を押さえつける。切断された足や腕は彼女達が始末しなければならない。
資料館の後に病院壕に行ったが、暗くて撮影はできなかった。資料館に復元したものがある。まさにこんな感じのところだった。右は手術場所。
- 当初ひめゆり学徒は首里からこの南風原陸軍病院まで毎日通っていた。距離は8キロ程で片道2時間ほどかかる。学校では70キロを歩く訓練もあったそうだ。15才から19才の少女には過酷だったろう。首里が危ないとなり、この地に約220名が配属された。配属され、100名が入口と出口が完成していた20号壕に、残りがまだ入口しか完成していなかった24号壕に入れられた。24号壕は出口が完成しておらず換気の問題があり、学徒は数時間おきに起きて換気のために布を羽ばたかせていた。
- ここも危なくなり、更に南部へとの撤退命令が出た。歩けるものは移動するのだが、移動できない負傷兵は置いていくことになった。残る負傷兵にミルクが配られた。飲んではみたが苦く、持っていた黒砂糖を砕き混ぜて飲むか苦い。しかし、滅多にないミルクの配給で一気に飲み干すと、胃が焼けるように苦しくなる。毒を飲まされたと知り、指を口に入れ飲んだものを吐き出す。殺されると思い、必死に出口から逃げる。兵隊に発砲されたが、幸運にも逃げ果せた。これは陸軍本営の方針で、捕虜にしないため青酸カリで始末する決定がされており、各病院の医師に青酸カリを配るように指導がされていた。医師によっては、危険覚悟で青酸カリを捨て、兵士を救った者もいた。戦後、日本政府は青酸カリの使用は沖縄では使用しなかったと言い続けていたが、この逃げ延びた元兵士の証言で認めざるを得なくなった。当時の日本軍の多くの悪行が隠蔽されていた。まだまだ、表に出ていない悪行があるらしい。どうも日本政府との裏取引で未だに隠蔽されているものがあるらしい。
- 21号壕の側に慰霊碑があり、鐘が設置されており、ガイドさんに説明を受け、鐘を鳴らし、一緒に黙祷を行った。この黄金森には、まだ収容されていない人骨が多く埋まっていると言う。収容しきれない数だそうだ。黄金森は戦後は骸骨森と呼ばれた時期があったそうだ。
- ガイドさんの母親は沖縄戦で生き延びたのだが、いつも夜暗くなると戦争のトラウマが消えず、米軍が攻めてくると叫んでいたそうだ。このトラウマは亡くなるまで続いたという。この施設を訪れる人は9割が県外の人たちで、沖縄の人は余り来ない。特に沖縄戦経験者はほとんど来ない。来たくないのだ。多くの人が思い出したくないのだ。ガイドさんは戦後生まれで、戦争は経験していない。ガイドを始めて、当時の様子を村のお年寄りに話してくれるように頼むが、口を閉ざして語りたがらない。何度も訪問してやっと聞ける。このガイドは続けていくと言っていた。誰かが語り継がなければと使命感を持っていた。ちらっと言ったことが、ある日、この壕を訪れた人の反応を見たくSNSを見てみると、慰霊碑でVサインでふざけた写真が投稿されているのを見てショックを覚えたと言う。ここに観光気分で来ている若者も多い。そのような若者を見ると悲しくはなるが、戦争の悲惨さを分かってくれる人が一人でも増えればとガイドを続けている。
- 数年おきにボランティアガイドの募集がされているが、このガイドさんもこの間の募集にも応募した。多分これが最後の募集と思う、壕は石灰岩の岩を掘って造られているので脆く、年々崩壊の危険性が増しており、補強工事も続けて行くのが難しい。数年後には閉鎖される。閉鎖後、どのような形で当時の事を伝えていけば良いのか、それが心配と言っていた。ガイドさんの使命感の強さを感じる。
當山さんの話が聞けて、ここにもう一度来て良かったと思った。文化センターの資料館には沖縄戦の他にも、戦後の南風原の様子や、沖縄の人の伝統的な生活を展示している。その一部分を載せておく。
たくましい沖縄の人が眼に浮かぶような沖縄英語
展示室の最後にこのメッセージがあった。事実を伝えたいもの、否定的なもの、自虐的なもの、希望など、其々が複雑な思いを含んだ沖縄の人のメッセージだと思えた。これを見た人が考えて欲しいとの思いがあるのでは....
沖縄の人たちの誕生から死ぬまでの節目。
典型的な家の様子。
この場所の何時間もいた。自分のほか誰も見なかった。夏の観光シーズンも終わり、平日だから仕方がないのだろう。その分、ゆっくりと且つじっくりと見学が出来た。今日はこれで十分で、まだ日没までには時間があるのだが、精神的にも疲れ、これ以上史跡をまわる気にならないので、帰路に着く。疲れたが充実した時間だった。