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社会的アイディンティティの拡散・変容

2019.09.27 05:58

昼の野に星の降るなり岩煙草  五島高資ー 場所: 大谷観音

朽ちて咲く赤詰草の淡さかな  五島高資ー 場所: 塚山古墳


https://storywriter.tokyo/2018/11/05/0509/  

【サカナクションの楽曲とともに「アイデンティティ」を考える】

Vol.16 アイデンティティとは?

前回の防弾少年団(BTS)の国連でのスピーチの話は、「アイデンティティの確立」ということにも通じる内容でした。

アイデンティティという言葉は、日本のミュージックシーンでもしばしば取り上げられています。例えばサカナクションはそのものずばりの「アイデンティティ」という曲を発表しています。

他にも椎名林檎、sumika、MO’SOME TONEBENDER、MY LITTLE LOVERなど、多数のアーティストたちが「アイデンティティ」というタイトルの曲をつくっていますし、歌詞の中であれば数えきれないほど使われている言葉です。

その「アイデンティティ」は、「自我同一性・自己同一性」とも言われますが、ここで心理学者であるエリクソンの考え方を見てみようと思います。

エリクソンは、アイデンティティとは「内的な不変性と連続性を維持する各個人の能力が他者に対する自己の意味の不変性と連続性に合致する経験から生まれた自信」としています。

ちょっとわかりにくいので、かなり簡単に言うならば「自分らしさ」「自分が自分であること」で、それが何であるのか自覚を持つことが「アイデンティティの確立」です。

しかし、確立するためには様々な困難が伴います。

そのため、アイデンティティの拡散や混乱といった精神的危機に陥る危険性もあります。アイデンティティが拡散してしまうと、充実感を喪失してしまったり、他人と親密になれなくなったりしてしまうことがあります。

また、場合によっては「否定的アイデンティティ」を確立してしまうこともあります。

これは、自己を肯定的に受け入れられず、自分を無価値な者として否定的にとらえてしまい、それによって、反社会的行動をとったり、そうした考え方をしたりすることによって自己を主張するようになってしまうケースです。

ここでも「自己肯定感」が重要であることがわかります。(Vol.8『「I Love Myself」自己肯定感を持て! ケンドリック・ラマーのメッセージ』参照)

この危機は、とくに子どもから大人へと変化していく青年期に起きやすいのですが、その後も人生の様々な局面で向かい合うことになる問題です。


成人期のアイデンティティ発達論やライフサイクル論の研究者である岡本祐子氏は、下の図のように、アイデンティティの危機と構築を、螺旋を描くように繰返しながらアイデンティティが成熟していくモデルを提示しています。

アイデンティティの拡散という危機は、環境や年齢の変化に影響されることがあります。

たとえば、学校などの進路を考えるときや、転職のときや、外国で生活をはじめたりしたときなどです。

そのため、青年期に確立されたアイデンティティがそのままずっと一生を通して一貫して存在し続けるというわけではありません。アイデンティティの感覚は、「一貫していくこと」と「絶えず変化し続けていくこと」とのジレンマに常にさらされていて、それにどう対応していくのか? ということが問題となるのです。

その問題を解消するためには、連載のVol2で取り上げた「自己一致」とも似ていますが、その都度自分のあり方を見つめ直して、アイデンティティを再確立させていくことが必要になります。

また、人は成長するにしたがって、職業の選択や配偶者・パートナーの選択など、数多ある選択を突きつけられることになります。それは、アーティストがなにかを表現しようとするときにも、たとえば「このやり方でいいのだろうか?」「どちらの表現方法が良いのだろうか?」など、様々な形で現れてきます。

こうした選択肢はとても数多く、可能性はどこまでも広いのですが、その中からひとつだけを選びとり、決定しなければなりません。

これには明確な「正解」はありません。「自分にとっての答」があるだけです。

そのため、他の人はどうであれ、自分はこういう人間だから、これを選ぶのだ、という選択になります。その根底には自我同一性=アイデンティティが必要です。つまり、アーティストの創作活動においてもとても重要な要素なのです。

ちなみに、冒頭のサカナクションの「アイデンティティ」の歌詞にも、最初は〈アイデンティティがない〉〈隣の人と自分を見比べる〉と言っていたものが〈時を経て〉〈見えなかった自分らしさってやつが解りはじめた〉と歌われています。

槇原敬之の「どんなときも」では〈どんなときも僕が僕らしくあるために、好きなものは好きと抱きしめてたい〉と、アイデンティティの確立と自己肯定感が重要であることが宣言されていて、さらにそれは〈迷い探し続ける日々が答えになる〉と、アイデンティティの一貫性と変化のジレンマのことが自覚されていました。

また、BUMP OF CHICKENの「ダイヤモンド」では、〈やっと会えた 君は誰だい? あぁ そういえば君は僕だ 大嫌いな弱い僕を ずっと前にここで置き去りにしたんだ〉そして〈弱い部分 強い部分 その実 両方がかけがえのない自分〉と、まさにアイデンティティの危機を経てから確立するまでストーリーが歌われています。


https://www.works-i.com/project/100/lifecareer/detail007.html  

【ポスト・アイデンティティ時代の生き方・働き方】

第1章で、そのさわりに触れたエリクソンの漸成説モデル。このモデルの背後には、「ひとは、生まれ持った遺伝的(genetic)な資質、能力によって人生のあり方が決まっているのではなく、生涯にわたって発達していく漸成的(epigenetic)な面を持っている」という生涯発達心理学の根源的な考え方がある。

図表1:エリクソンの漸成説

そして、そのベースにあるのは、ひとは、生涯をかけて、人間としての完成の域に到達する、という思想だ。エリクソンモデルの第8段階の発達課題が、「統合」と銘打たれていることが、その表れだろう。つまり、生涯をかけて、ひとつのサイクルを回す、ワンサイクル人生モデルだ。加齢とともに、成熟していく、という考え方だ。

アイデンティティは、今も重要なのか?

そうした思想をさらに顕著に表しているのが、第5段階の発達課題である同一性=アイデンティティ。自分の中にある多様な経験、行動、思考の底流にある首尾一貫した自己という存在を発見するという段階だ。自分とは何者なのか、自分は何がしたいのか、自分はどのように生きていくのか。「自分探し」という日本語は、その核心を適切に表している。

ひとは、働きはじめる20歳前後の時期に、緩やかに自己を認識し、さらに他者と交わり、後進を生み、育てることを通じて、唯一無二の個性を持った存在へと統合されていく。

これが、20世紀中盤に、エリクソンが生み出したモデルだ。そして、私たちは、この理念モデルを、さして強く意識することなく、ごくごく当たり前の考え方として受け入れている。そのように首尾一貫した人生を過ごして生涯を閉じることが幸せな人生である、という発想だといえばいいだろうか。

このモデルは、人生100年時代にも、有効なものだろうか。ひょっとすると、既にモデルの賞味期限は過ぎてしまい、新たなモデルが待ち望まれているのではなかろうか。

第4章で紹介したサイクルシフトを果たしている事例を再掲してみたい。

学生時代にバックパッカーとして海外を3年間放浪し、日系の証券会社、外資系銀行で働いていたHさん。バブル崩壊を目の当たりにし、この業界からの転身を図るにあたっての選択は、ロシアへの留学だった。ある人から「特殊語を取得すれば、人生何かしら生きていけるよ」と言われたのがきっかけだ。それも、短期の語学留学ではない。大学院まで進み、修士論文を書き上げたのだ。その後、語学力を生かし、教育機関などで働き、現在は合弁企業を立ち上げている。

エレベーターガール、アパレルの販売員、スキーのインストラクターなどを経験し、結婚、二人の子供を出産し、専業主婦となったKさん。しかし、夫の身勝手に耐えられず離婚。事務職経験がなく、職探しは難航。単発のアルバイトをしながら職安でパソコンを習い、派遣社員としてデータ入力の仕事などもするようになった。あるとき、小学校の図書館の学校司書の仕事を紹介される。Kさんは、以前は子どもが嫌いだった。しかし、出産とともに、価値観が一変。自身の子どもだけではなく、子ども全体がいとおしく思えてきていた。その仕事は、最初はパートでの採用だったが、自身の仕事にしたいと思い聞いてみると、教員免許がなければ就けないという。そこで、Kさんは通信教育で、教員免許と司書教諭の資格を取得。今は、小学校の教員として、一番手がかかるといわれる低学年を主に担当している。

この2人がインタビューで答えてくれた内容を、エリクソンモデル、生涯発達心理学の通念に準じて読み解くならば、こうなる。

「初期キャリアは自己を同定できていなかった。つまり同一化できておらず、アイデンティティ拡散の状態にあった。その段階で発達が止まっていた。しかし、転機の到来とともに、やっと自己を確立し、人生の発達段階をやや遅れながらも進み始めた」

だが、話を聞いた私には、そのような解釈は受け入れられない。Hさん、Kさんは、キャリア初期にも、自分らしい自分を生き、そして、転機ののちに、また別の自分らしい人生を生きている。転機は不連続であり、その前と後では、よって立つ価値規範は違っている。違う人生を生きている。

ある一貫した価値規範のうえで、ステージシフトを繰り返していく、というのが、生涯発達心理学の考え方に根差したライフキャリアのありようだ。しかし、不連続なサイクルシフトを遂げた人は、そうではない。新たなライフテーマが生まれるというのは、過去に大切にしていた価値規範とは別の価値規範が生まれるということだ。それは、発達ではない。変容だ。

転機を境に、別の人生=サイクルが始まる。生まれ変わるわけではないので、その前後に、何もつながりがないとはいえないが、それまでとは違う人生が始まる。転機以前を否定するのではなく、しかして、その延長上にはない人生を歩み始める。セカンドライフということもできる。

「セカンドライフ」が意味していたもの

閑話休題。読者の皆さまの中には、「セカンドライフ」を楽しんだ方がきっといると思う。米国リンデンラボ社が2003年に開始したインターネットサービスだ。3Dの仮想世界の中で、好みの分身=アバターを作り上げ、現実とは異なる「セカンドライフ」を楽しむものだ。サービスは現在も続いている。

このサービスのブレイクの要因は、現実世界からの逃避ができるから、なのだろうか? もちろんそういうユーザーも一部にはいるだろうが、多くは違うだろう。人間は、現実の自分とは異なる自分を持つ、言い換えれば、ある異なる人格の人間を演じることを楽しみたいのだ。

若者研究の第一人者・浅野智彦氏(東京学芸大学教授)は、著作『「若者」とは誰か―アイデンティティの30年』の中で、若者の中に生まれた多重人格ブーム、キャラの使い分けなどの実態を紹介し、彼らが「多元的自己を生きている」と語る。このありようを、アイデンティティ拡散の極み、発達の遅滞と捉える向きもあるようだが、おそらくそれは誤りだ。人生をワンサイクルで回す時代が終わっただけではなく、異なるサイクルを同時にいくつも回していく、ということを、時代は要請しているのだ。そうした社会環境変化に、いつの時代もいち早く反応する若者が、そうした行動をとり始めていることを、20世紀的な文脈で切り捨てることは適切ではない。

そして、それは、若者だけに限らない。第6章でご紹介した「100年ライフ調査」の結果からも、「役割によって自己を演じ分けている」という個人の存在が浮かび上がる。演じているということと、自分らしく生き生きとしていられるということとが同時成立している人が、実はたくさんいることも見えてきた。仕事、学び、家族などのさまざまなライフロール、そのライフロールに対応したコミュニティへの参加を通じて、ひとは、既に多元的な自己を生きている。そして、多元的であることが、キャリアのマルチサイクル展望につながっているのではないか、という仮説が浮かび上がる。

21世紀のライフキャリアを考えるうえでは、アイデンティティという20世紀に生まれた概念を、時代の変化に合わせて捉えなおす必要があるのだと思う。ペルソナ、アニマ、アニムスというユングが探索した概念の周辺にまで立ち返ることも必要なように思う。

次なるアクションに向けて

今回の特集ページには、「人生100年時代のライフキャリア」という大タイトルがついている。この大きなテーマに切り込んでみたが、答えらしきものはまだまだ見えない。大きな問いがおぼろげながら見えてきたというところだろうか。このように入口に立った程度の報告ではあるが、あえてこのように形にしてみた。仕掛品ではあるが、発信することを通じて対話を生み出していきたいと考えている。一連の内容に、いろいろと思うところのある方のご意見をぜひお聞きしたい。そして、次のアクションにつなげていきたい。この発信が、何かを生み出す起点となることを、心から祈りつつ。