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個であること、バランスを大切にすること

2019.09.26 15:00

実際の知人とは話し辛い時事ネタについて。

まず、私個人は何かの派閥に属することはないというスタンスを明確にしておく。


アートイベントのこと


 大型アートイベントの一部の展示品が議論を呼んだ。SNSなどでも議論は白熱し、何を言っても敵ができる構造の中、それぞれの主張を見ていた。一番自分の意見に近かったのはエジプト人女性の端的な言葉だ。そこで今の自分の考えを書いておくことにする。

 私も芸術を志すものとして「表現の自由という概念」は大前提として大事だと認識している。それは、人間誰もが表現者であることと同じ意識だ。

 過去の美術史でも、退廃芸術だの、絵に布を被せるだの、様々な“問題表現とされるもの”があった。芸術家は作品を通じて世に疑問を投げかけたり、新しい何かを示すチカラがある。それは時に既存の意識を変えるものとなり、体制側や世論から弾圧されることもある。


 ただ、今回のアートイベントに出品された問題の3作品については、「アートとしてのレベルが低すぎる」ことが問題だと単純に思うのだ。

 シンプルに“美術作品”としては美も感動も表現のパワーもほぼ感じられず、“現代アート”としてならばコンテクストが浅すぎて、とても大型アートイベントの土俵に上げられるラインでは無いようだ。

 現代アートは、膨大な美術史を理解した上で、新しい意識や視野を提示(そのための技術的工夫も含む)するもので、世界中のアーティストが真摯に取り組むシビアな世界だ。

 事の真相も不明なテーマで政治的活動のアイコン化したオブジェを置くことや、多くの人が大切に思う方の肖像に対する破壊的表現、高校生の文化祭レベルの安易な造作に否定的意図を載せたもの、それらは果たして“現代アート作品”として価値はあるのか。

 その作者が現代アーティストを名乗るなら、知識という意味ではなく、美術についての考えをインタビューしてみれば、真偽がわかるだろう。本当に本気でアートとして創作しているなら、プロパガンダではなく戦略的コンセプト(コンテクスト)を語れるはずだ。そうでなければ「アートの名を借りた別の何か」だ。


 そして、公的補助金の給付が撤回され、SNSではファシズムだの表現の自由を守れだの、またしても渦が巻き起こっている。これに関しては、担当省庁の判断はまっとうだと感じる。公的に支援する際、事前申請の情報不足や内容相違があるならば(一般企業の取引でも同じ)取り消しという判断は妥当だ。

 特に今回は、多くの人が大切にしているものを否定的表現で公的に出すのだから、多数の人間の心を害する危険性に対しそれを上回る感動や新しい価値を提示しなければ公的支援する価値はないといえるだろう。自由にやりたいなら、体制側のお墨付きとお金を求めるのではなく、自費でギャラリー借りて「表現の自由」を表現すればいいだけだ。



環境活動のこと


 私も自然を大切に思うし、無知で無駄に環境破壊をすることは否と考えている。

 最近も“環境について考えて”という声があがり、SNSを通じて賛同者たちが声を上げ、行動していた。(この運動自体には様々な意見があったが、違和感を察知した人達はバランスの取れた視点による冷静な意見が多かった印象だ。賛同側がヒステリックだったり、抽象的なポエムが目に付くのが気になった)

 そこで私も考える。私が出来ることは、なるべく無駄に資源を消費しないこと、良きものづくりをしている企業の商品を選ぶこと、調べ考え続けること。


 私は基本的には「反対運動」には参加しない。「新しい提案」なら良いが、“否定するだけでは良き方向に行くと思えない”からだ。ヒステリックな演説や、熱狂したコメントやコールを見るたびに、その知識や考えの浅さや偏り、傲慢さ、用意された思想の匂い、利権への欲が気にかかった。“仮想敵を設定し、個人的不満を正義の名で発散(あるいは自己価値の補填)”している様に見える人達もいる。


 “上(前、大人)の世代が、負債を下(次、子供)の世代に押し付けている”という発想を持つ若手達もいる。

 大手企業や省庁、様々な意思決定層に仕事柄接してきたこともあるが、先代たちも企業も、今の社会に良きものをと、価値を作ってきたのだ。(もちろん、そこには良くない副産物があったり、悪徳や腐敗もあるが、全てがそう(敵)であるわけではない)

 水道や道路など、若手達が当たり前のように享受しているインフラを作ったのは誰だ。医療で救われた健康や命はどんな研究と努力の積み重ねの上にあると思っているのか。学校に行くことができて、文字が読めるようになること、沢山の素晴らしい文化、技術、知恵。それらは皆、先代が良かれと思って頑張って作ってきてくれた財産だ。

 偏った知識と狭い視野で、負の感情の捌け口として、安易な思想に乗っかり、何かを敵視して吠えているだけより、自らも新たな価値を現実で創れる人になればいい。それは地味で地道なことだ。正義や怒りを叫んで酔える快感はないかもしれない。


 自分で考えてバランスをとること。安易に“偏った正義”に逃避しないこと。現実で自力で少しでも良い方へ向かうこと。

 それが私の言いたいことだ。


Image by Pixabay