宮崎亮馬と「あこがれ」について
週に一つ、記事を書くことにした。
今週書きたいことをぼんやりと考えながら一週間を過ごす。
そして、書きたいことの通過点として、今日は宮崎亮馬に触れることにした。
ブログのもう1人の書き手である。
まず彼は、土佐の出身ではない。
付き合いは12、3年くらい。
彼の授業も彼のクラスも見たことがない。
彼は、ぼくの授業もぼくのクラスも見たことがない。
大学も違う。教員同士として関わり合うことも当時は思いもよらなかった。
宮崎亮馬の語ること、物の見方、レポート、それはほぼ「人」に焦点を当てた語りである。
どんなにテーマが決まっていても、自分の実践というより、教科論というより、「人」が出てくる。
もっというと彼が語るのは、大学時代あるいは教師になってから彼が出会った「あこがれの人」である。
本で出会い、実際に会い、そしてまた新たな文章から「あこがれ」を深める。
ぼくも面白そうだと思って、彼の「あこがれ」を読み、「あこがれ」る所へついていった。
それがまた、面白くて(新たなことを知るわくわくや勤務校の外にある新鮮な風を感じた)
ぼくはぼくで新しい「あこがれ」をもった。
創造的な実践を続ける姿勢、子どもに対し愛おしい気持ちで接する姿、優しくまっすぐな人柄、ユーモア、雰囲気、などなど。
そして、この職を前向きな気持ちで継続できているのは、「あこがれ」の支えが大きい。
病休5000人以上。ここには自分がよく知る人も入っている。両手の指は超えた。
自分だって、今ではそんなこともあったなぁという程度の記憶でも、その時はめちゃ辛いと思ったことは何度もある。
同僚に対してだったら「大丈夫ですよ、長い目でみましょうよ」とか言いそうなのに、自分の学級のことになると、なかなかそうは思えなかったりする。
1年あれば、そりゃ嫌なこともある。
・理不尽なこと。
・「今年、本当にこの子たちとうまく行くのかなぁ」と不安に思ったり。
・「学級が崩れないか不安だ」とフライング気味の指導が入ったり。
・けがさせたり、鬼ごっこしてて子どものメガネを壊したり。
・遅く帰る日が続いたり、疲れが取れなかったり。
・せっかく子どもと決めきったことに、大人の都合が入ってきたり。
上のようなことがもしも長期的に続いたらぼくも。休んだかもなぁと思うことがある。
とくに、ぼくは学級の子どもとのすり合わせに時間がかかって、5月6月までうまくいかないなぁという思いをすることが度々あった。
そこから、立ち上がり、学校楽しむぞモードに入るのは、たいてい夏休みだ。
夏休みに「あこがれ」にふれるからである。
「あこがれ」にふれるとエネルギーがたまる。
本来の楽しさを思い出す。
エネルギーがたまると、不安だという気持ちが、吹っ飛ぶ。
チャレンジしたいことや楽しみたいことでいっぱいになるからだ。
「あこがれ」にふれると、まだ30年辛い辛いが続くのかぁと思っていた気持ちが吹っ飛ぶ。
まだまだ未熟ものだということを心地よく感じ、がんばらねばと思う。
「あこがれ」にふれると、魂が喜ぶ仕事をしなくてはと、大切なことを思い出す。
物理的に不可能だと思っても、少しの時間を割く。
それが心地よい。
そしてエネルギー充電状態の夏明けに、子どもたちに会うとなんとも不安ばかりが膨らんだなぁと、反省もする。
久々に会うと安心する。心配はどこへやら。
まだまだ旅は続く。
自分の足と「あこがれ」に支えられて。