「宇田川源流 日本万歳!」 日本文化であるお辞儀がラグビーワールドカップで広まるという「日本文化のすばらしさ」と「浸透性」
「宇田川源流 日本万歳!」 日本文化であるお辞儀がラグビーワールドカップで広まるという「日本文化のすばらしさ」と「浸透性」
毎週月曜日は、日本のすばらしさを皆さんに伝えたいと思う。朝の通勤電車の中で、少しでもすがすがしい話を頭の中に入れて、良い気分で皆さんに一週間頑張ってほしいと思っているのである。その撃ちネタがなくなるのではないかとひそかに危惧していたことは事実である。実際に、無くなった場合は、「皮肉」なども含めて続けてみればよいのではないかと思っていたことも事実である。
例えば愛知のなんだかわからない「言論の不自由展」という名の、「政府批判を思い切り行って法廷お咎めが全くないという言論の自由を謳歌している展覧会」の補助金打ち切りに関して、「言論の自由が守られているいい国」などという皮肉をすることも考えていたのである。
しかし、そのようなことをしなくても日本のすばらしさを讃える世界の記事は少なくないことが明らかになった。実際にやってみて、非常に多いということは、逆に「いかに自分たちが普段からそのような記事を見ていなかったか」ということにもつながるのである。意識して読むことが少ないので、あえてこのようなブログを続けなければならない。つまり、日本人がもっとも日本のすばらしさを知らないという状況を避けなければならないのではないか。私はそう思うのである。
さて、そのような時に日本で行われているラグビーのワールドカップがなかなか面白い。もちろん、すべての試合を観ているわけでもないし、点数などを追っているわけでもないが、夜のニュース番組のスポーツコーナーでやっている程度でも十分に面白い。何しろ関取ほどの体格の人々が、全速力で走り、それをタックルで止めるダイナミックさは、なかなか他で味わえるものではない。そしてもう一つは、その時の観客のマナーだ。サッカーの時と違い、変な人も少ないし、何よりも変な国が来ていないところがよい。まあ、どことは言わないが、40万人のワールドカップ観戦客が来日しているという。その人々を含めた「世界の目」でまた一つ日本の文化のすばらしさが見て取れた。
ラグビーW杯で日本式「お辞儀」広まる
【ラグビーW杯2019日本大会 ニュージーランド代表対南アフリカ代表】試合に勝利し、スタンドにお辞儀するニュージーランドフィフティーン=日産スタジアム(蔵賢斗撮影)
ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会で日本代表は28日、強豪のアイルランドと対戦する。今大会では試合後に各チームがファンへの感謝を示す方法として日本式の「お辞儀」が広まっており、「お辞儀の大会」として後世に記憶されそうだ。
W杯3連覇を目指すニュージーランド代表「オールブラックス」は21日に横浜市の日産スタジアムで行われた南アフリカとの大一番を制した試合後、スタジアムのファンに向けてお辞儀し、応援への感謝を示した。発案したリード主将は、「できるだけ日本の皆さまとつながりたいと感じていた。お礼を返したいと思った」と語った。
イタリアやナミビア、ウェールズ、サモア、ロシアなど、各国も続々と追随。インターネット上では「一見怖そうなラガーマンは実は紳士的で優しい最高の男達」などと、称賛の声が相次いでいる。
2019年09月26日 17時14分 産経新聞
https://news.nifty.com/article/sports/athletic/12274-417341/
「お辞儀」を知っているであろうか。
ウィキペディアによると、その定義は「お辞儀(おじぎ、英語: bow)とは、挨拶や感謝、敬意などを表すために、相手に向かって腰を折り曲げる動作である。単に「辞儀」とも言う(「お」を付けるのは「お金」や「お酒」と同様、美化語である)」となっている。
「相手に腰を折り曲げる」というのも変な言い方で、頭を下げるということになる。単純に、あたま、つまり目線を相手の方が上に持ってゆくことによって「謙譲」を示すしぐさというような意味合いが持たれているといわれている。同時に、お互いがお辞儀をすることで「対等」「平等」を示すということもあり、お辞儀一つで様々な意味合いが存在するのである。
もちろん世界各国にあり、例えば、ヨーロッパでは、片腕を胸に当てて頭を下げるというようなものもあるし、また、中国などに於いては土下座をするだけではなく、そのまま手を頭の上にあげるようなしぐさをするような場合もある。
厳密に言えば、イスラム教やユダヤ教では「神以外のものにお辞儀をすることが禁じられている」ということになっている。
日本では座った姿勢で行う「座礼」と、立ったまま行う「立礼」の二通りがある。生活様式で、畳や板の間という膝をついて生活する場面と、外で立っている場面の二種類があるので、その場面にあったお辞儀が存在することになる。
また、このお辞儀にも様々な流派があるが、実際に刃「公家」「武家」「民間」というように、身分が違い、そのお辞儀の意味合いも変わってくることから、お辞儀の種類が変わってくるし、また古くからあるので身分を超えた場合のお辞儀の違いなども出てくるのである。
子のようにお辞儀に関しては、世界各国にあるが、しかし、お辞儀そのものが一つの文化として存在するのは、まさに日本の文化である。神々に対して以外はお辞儀はしないというのと、どんな時にも感謝の意を表し、お辞儀をする。この違いは日本の死生観や神の意識があり、日本のようにどの場面でも神がいる、神の国の思想であれば、どこでお辞儀をしても神に対するお辞儀になるのである。
今大会では試合後に各チームがファンへの感謝を示す方法として日本式の「お辞儀」が広まっており、「お辞儀の大会」として後世に記憶されそうだ。<上記より抜粋>
まさにこのことは、「お辞儀」というものを「感謝の意を表する儀式」(儀式は言いすぎかなとも思うが)として、日本の文化を多くの国が取り入れたということになる。これは「ファンを神、または自分の上司に見立て、応援してくれたことに感謝の意を表する」ということを意味しているのである。
このように「なんにでも感謝の意を示し、ありがたいという感情を示す。」このことは、戦いに命をかけるものこそ、その戦いが無事に終わったことを感謝し、またそれを見守ってくれた人々に感謝の意を表するということになるのである。
「できるだけ日本の皆さまとつながりたいと感じていた。お礼を返したいと思った」<上記より抜粋>
なんという嬉しい言葉であろうか。日本の武道なども同じであるが、闘志を表に出し、そして力を出しきって戦う。そして戦いが終わったらお互いが力を出しあったことを讃え、お互いに感謝の意を表し、また、力を出し切れる環境にあったということを神に感謝し、そして戦ってこれたことを仲間に感謝し、そして、それを見守ってくれたファンに感謝する。この気持ちがまさに「日本の文化と融合してお辞儀という形になって表れた」というのは非常に素晴らしいことではないか。
実際にお辞儀の礼法・作法などをうるさく言う人がいるが、こういう場合、つまりニュージーランドの人々がさまざまに言うような場面は、そのような礼法でも何でもなく、その気持ちを示すことこそ、つまり「形ではなく心でくみ取る」ということが最も良いのではないか。それをこのような記事にして、非常に素晴らしいということを世界に伝えようという新聞もまた良いではないか。
日本のすばらしさが、ワールドカップを通じて、また一つ世界に広まったのではないか。ああ、日本文化はなんてすばらしいのであろうか。