坂の上の雲(全8巻)
ついに読破しました。「坂の上の雲」(全八巻)(著者、司馬 遼太郎さん)です。この小説は「リーダーの本棚」(日経新聞社刊)という会社のトップの推薦本を紹介した書籍の中で、多くの社長さんが推薦していたので、いつか読んでみたいと思っていました。読後の感想ですが、正直なところ、「竜馬がゆく」の坂本 竜馬に比べると、主人公たちのキャラクター(秋山 好古、秋山 真之、正岡 子規)の影が薄い、言い換えれば、圧倒的な日露戦争の描写の中に彼らの存在感が埋もれてしまっている印象を受けました。この「坂の上の雲」という作品は、しかし、司馬さんが、自分の40代という作家として脂ののっている10年間を費やした作品なので、確かに読後感の充実感は確かなものがあります。特に、日露戦争という国難に立ち向かう日本の政治家、軍人達、日露戦争の陸戦、海戦といった会戦の一戦一戦の戦場の状況や経緯とか入念に調べ上げ、そいうった人物たちの生き方や、事実を司馬さんなりに咀嚼し、小説という形式で「明治」という時代の息吹(あるいは、精神)というものを読者に感じさせる、ということに成功していると思います。
日露戦争というのは、いくつかの陸戦と海戦に分かれていますが、やはり劇的なのは、旅順港奪取の戦いと、特に、クライマックスの対馬沖で行われたバルチック艦隊との海戦でしょう。(陸戦においても日本軍は遼陽会戦、天奉会戦などで、ロシア軍を北へ北へと敗走させましたが、ロシア陸軍の戦い方の常として、敵を圧倒する数の兵士や物量を調達し、数の上で優位に立つ、そして、自陣の奥へ奥へと退きながら、相手の補給路が伸び切ったところを見計らって、一気に戦いをしかけ勝利を得る、というのが伝統だったので、陸戦において兵士の数でも、物量でも貧弱だった日本軍にとって、明確な、つまり他国が見ても客観的に判断できるような「勝利」は期待できなかったのです。)
また、日露戦争というのは、ロシアの帝国主義的な侵略的性格、つまり、日本側から見ると自衛、防衛的な性格が強い戦争だったので、(第二次大戦とは違い)我々日本人にとって闘うための正当で、明確な目的があった戦争でした。しかし、悲しいかな、日本は軍隊を整備し始めてから年月も浅く、ロシアと比べて十分な戦力もなく、仮に戦っても「良くて五分五分、そこを頑張って日本の六分四分」になった時点で外国(アメリカ)に仲裁に入ってもらい、日本に有利な外交を行う、というのが日本側の戦法だったようです。とにかく物量でも、人員でもロシアが勝っている中で、海軍だけはその数が少ない中でもなんとかやり方によってはロシア海軍と戦える、という感じだったようです。しかし、日本としては、海の戦いにおいては、ロシア海軍を一隻残らず壊滅させる、という信じらないような大目標を立て、戦いに臨むのです。(海戦というのは、相手と自分たちのもっている兵器、つまり、艦の性能や数、戦艦が持つ砲の数や性能である程度相殺し合いう戦いになるので、同じような艦隊数や性能なら、どちらか一方が極端に勝ったり、負けたりすることは通常ありえないのです。しかし、日本は、ロシアの艦船を一艘でも残すと後で、日本の補給線の脅威になる、とロシア艦隊を一隻残らず海に沈める、という神業に近い目標をたてたのです。)しかし、ここが凄いのですが、1905年5月27日の対バルチック艦隊との戦い(日本海海戦)において日本海軍は(自らの軍艦を一隻たりとも相手の攻撃で沈められることなく)その奇跡を成し遂げたのです。そして、この対バルチック艦隊との完全勝利をもって日本はアメリカのルーズベルト大統領の講和勧告に臨むことができたのです。(しかし、この奇跡的勝利で日本人は過信してしまい、それが後年の第二次世界大戦の発端となるアジア大陸への進出につながるのですが。。)
ところで、恥ずかしながら自分はこの小説を読むまで、日本海軍が対戦した「バルチック艦隊」というのを知らなかったのですが(日露戦争についても「203高地」という映画ぐらいでしか知らなかったのですが、)、このロシアが当時世界に誇る「バルチック艦隊」は、日本海での海戦の為に、もともとデンマークやスエーデンに囲まれているバルト海の拠点、リバウ港からヨーロッパ、アフリカ沖を南下し、喜望峰沖を回って、マダガスカル、マレー沖を通って遠路はるばる対馬沖まで航海してきたのです。リバウ港からの出航は1904年10月15日。そして、対馬沖で日本海軍と海戦に臨んだのが翌年5月27日なので7か月以上も航海してきたことになります。
実際、当時、この40隻もの大艦隊(乗員一万二千人)が一万八千海里に及ぶ遠征を行う、この大移動はそれだけで「奇跡的偉業」とも言われました。しかし、この航海は、この大艦隊にとってはつらいものであったのです。なぜなら日英同盟によりイギリスは、このバルチック艦隊が航海で寄港予定の港に寄港できないように、また、当時戦艦の燃料であった(良質の)石炭を供給できなようにあらかじめ関係国に強制させていたのです。このため艦隊の乗組員たちは航海のつかの間の休息でも陸に上がることができず、おまけに粗悪な石炭で航海するため、その補給回数も多くなり、また、黒煙が船上からもくもくと上がるため、艦隊の航海位置を把握されやすくなったのです。
でも、どうして、「日本海海戦」において、このような日本側にとって奇跡的な勝利で終わったのでしょうか? 例えば、この小説の主人公の一人、秋山真之は、日本海軍で作戦立案の責任者でしたが、彼は、戦争前から一日二十四時間、来る日も来る日も様々な戦況を考え、いろいろな作戦を考え続けました。また、兵士たちは武器や戦力が少ないながらも常に訓練を怠らず、砲撃能力を高めたり、戦いに勝つ可能性が少ない中でも、勝てるように準備を入念に行っていました。(日本陸軍も同様に入念な準備を行いました。)一方、この頃のロシアではニコライ二世の専制政治により国民、兵士たちの間には厭世観、厭戦観が起こっていたといいます。また、バルチック艦隊を率いた司令長官/ロジェストヴェンスキーもニコライ二世の恩寵を受けた軍人、というより官僚的な人間で、一緒に戦う部下/兵士より、常にニコライ二世からの好意を受けることばかり気にかけていた、といいます。また、日本海海戦においても、戦いの途中で自分が乗船していた旗艦スヴォーロフを海戦の途中で放棄して他人に任せたり、海戦場所からほど遠くないウラジオストック港へ逃げることしか頭になかったようです。このように、この戦いにかける意志の強さの差が勝敗を分けた理由だったのです。
(この戦争に関しては日本人は立派だったと思います。日露戦争を戦い、今の日本の礎を築いた方々に合掌。)