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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

壮麗帝の挑戦2-セリム1世マムルーク滅亡

2019.09.30 03:49

嵐はオリエントからも吹いていた。1514年、スルタンとなったセリム1世は、シーア派イランのサファビー朝を攻め、チャルディラーンの戦いに大量の火砲をつぎ込んで勝利、首都タブリーズまで進んで多くの財宝やイラン職人を連れ去った。サファビーのシャー、超イケメンイスマイールは妻まで連れ去られて、酒びたりになった。

セリム1世はサファビー朝との交易を禁止したが、マムルーク朝はイランの絹を使っていた。そこでいよいよマムルークへの侵攻を決意する。マムルーク朝は、ポルトガルがアフリカ沿岸に支配を伸ばし、勢力が衰えていた。

16年、セリム1世はシリアに入り、マムルーク朝とアレッポ北方のマンジュ・ダービクの戦いに800門の火砲をつぎ込み大勝利を収め、翌年リダニアの戦いで、カイロを征服し、マムルーク朝を滅亡させた。カイロのセリムの前にメッカとメディナの鍵が届けられ、この後メッカの式典はオスマンが行い、スンナ派守護者として教徒に認められることになる。

マムルーク朝にはアッバース朝のカリフの子孫が居り、セリムはカリフをイスタンブールに連れて行った。セリムはカリフの継承を許さず軟禁状態にした。43年に最後のカリフが死んだ後は、オスマンがスンナ派正統代表者として、オスマンのスルタンがカリフを兼ねるという認識が広まってゆく。

下はマムルークを攻めるセリム1世