健康のカギ
火と水を斎く社や九月来る 五島高資ー 場所: 太平山神社
「居着く」「鋳付く」「傅く」「慈」「美」「厳」色々ありますね!!
室の八島のある大神神社の宮司も兼ねておられる太平山神社の宮司さんを訪ねて2時間半ほど神社の縁起や人麻呂や製鉄との関係などについて歓談しました。色々な発見がありとても有意義でした。
「大神神社」は古代製鉄の職人集団の居住 した地だそうですね。
第5章 近代室の八島・第6章 現代室の八島 以降の備考
tntenji.sakura.ne.jp/bikou/kingendai_bi.html - キャッシュ
これが現在の大神神社の由緒 では「第十代崇神(すじん)天皇の皇子豊城入彦(とよきいりひこ)命が東国治定の時」 と、崇神 ...... の「大神神社」古代製鉄の職人集団の居住 した地でもあり「煙の名所」 の呼称も嘘ではない由緒のある下野最古の神社である。」
亀が玄武(水性)、鶴が朱雀(火性)と見なされ、南北をも示しているそうです。
「水昇火降」を促す必要を連想します。
https://www.ilchinet.jp/archives/1724 【健康の原理「水昇火降」】
健康の原理の一つに「水昇火降」(すいしょうかこう)があります。これは、文字通り、体の中で「水が昇り、火が降りる」という意味です。水のエネルギーが上に昇って頭を冷やし、火のエネルギーは下に降りて下腹が温まっている状態を指します。水昇火降の状態だと、人体は正常なエネルギー循環ができています。
水昇火降の現象は自然界でも見ることができます。太陽の放射熱が大地に降り注ぐのは「火降」です。太陽熱によって加熱された水が水蒸気になって空に昇っていくのは「水昇」です。下降する火と上昇する水の作用で、地球上では絶え間なくエネルギーが循環しているのです。
人体では、火のエネルギーは心臓から発せられます。一方、水のエネルギーは腎臓が担当しています。
まず、火のエネルギーが心臓から降りて下腹に集められ、全身に循環。その熱が腰の方に流れて腎臓を温め、腎臓にある水のエネルギーを押し上げます。頭に昇った冷たい水のエネルギーは頭と心臓、肝臓の火のエネルギーを下降させ、下腹のエネルギーをさらに熱くします。
水昇火降がよくできるようになると、頭がすっきりして集中力と記憶力が高まり、創造力も最大限に発揮できるようになります。同時に、下腹が温かくなって内臓の働きが活発になります。
反対に水昇火降の状態でないと、熱いエネルギーが頭に集まって、頭痛・口の渇きが起きます。心拍が不規則になったり、疲れてイライラして首と肩がこりやすくなったりします。下腹が冷えて腸が硬くなり、便秘や消化不良も起きやすいです。手足の冷えも招きます。
水昇火降になるためには、ストレスと否定的な感情をコントロールし、丹田を強化してエネルギーが流れる道を作ることです。胸、肩、首、腰などエネルギーが滞っているところや硬い腸をやわらかくほぐしたあとで深い呼吸をすれば、頭と心臓、肝臓にある熱が下がって下腹が温かくなり、水昇火降の状態に戻るでしょう。
http://dashi-matsuri.com/series/dkouza/d101/d_kouza129.htm 【鶴と亀】より
ことわざに「鶴は千年、亀は万年」とあるように、鶴と亀は一セットの組み合わせで縁起物とされることが多いようです。
婚礼の飾りや画材などでも鶴亀は見られますし、山車装飾でも彫刻「高砂」の鶴亀や幕類の鶴(水引)亀(大幕)など鶴と亀の組み合わせが見られます。鶴亀共に長寿ではありますが、それだけではないようです。その因果関係には諸説あるようですので、それぞれ、ご紹介しましょう。
・諺「鶴は千年、亀は万年」
この諺はあまりにも有名ですね。その元は中国、前漢代の思想書「淮南子 説林訓」に鶴は千年、亀は万年の寿命を保つ伝説が記されていることからきています。
・能「鶴亀」
能の演目に「鶴亀」というのがあります。その内容は新春を迎え、唐の玄宗皇帝が月宮殿で宴を行い、そこで鶴と亀の冠を被った舞人が、皇帝の寿命を祝って舞うというものです。
能といえば室町時代以降ですが、話の内容は、中国の唐の時代です。能の流派によっては、夏の禹帝王の設定で演じられます。夏は殷王朝の更に前の王朝で有史以前の伝説の王朝です。ちなみに、この頃の日本は旧石器時代です。
・四神の転化
五行説(木火土金水の五要素で森羅万象を読み解く説)では南を火性とし、北を水性とします。四神では南は火すなわち日を表し、そこから空を表します。
そうしたことから、空を象徴する、つまりは飛ぶ、朱雀が配されます。(例・古く都の南門を朱雀門といいました。)
北は水で、水中の玄武が配されます。(参考・講座「四神」)この朱雀と玄武が変化したという説です。鳥である朱雀が鶴に、亀と蛇の合体の玄武が亀となって鶴亀の組み合わせが生まれたという説。
ちなみに東西の青龍と白虎の横軸は双璧を表します。(参考・講座「龍虎」)
南北は縦軸で連続性を表します。例えば系図などの時系列でも横軸は同世代、縦軸は先祖、現代、未来へと繋がります。
こうしたことから、縦軸の朱雀・玄武が連続性から長寿と子孫繁栄の象徴として実在の鶴亀へと転化して行ったということです。
・浦島伝説
横須賀・北町組水引幕より
ご存知、浦島太郎の話です。但し、一般的に知られている、昔話の浦島太郎ではなく、元となった話です。(現在、一般的なものは明治以降、文部省によってまとめられたものだそうです。)
古く、御伽草子に記された浦島太郎の説話です。一般的な浦島太郎の話を踏まえて、ご紹介しますが、先ず、子供たちにいじめられていた亀を助けるのではなく、漁で掛かった亀を助けます。数日後、船に乗った娘が現れ、遭難したといって、自分の住んでいたところまで送って行って欲しいと、太郎に頼みます。
太郎は娘を伴って、娘の住処まで送ります。つまりはここが、竜宮城のわけですが、ここで娘は、自分は先日助けてもらった亀だといい、恩返しにと太郎をもてなします。三年遊んだ太郎は飽きてきて、帰ろうとします。ここで、ご存知、開けてはならない玉手箱ならぬ重箱をもらって帰ります。
帰った所は、太郎が住んでいた所には違いないが、見慣れぬ風景です。腹が減った太郎は、重箱の中は食べ物だろうと、重箱を開けてしまいます。すると、太郎は、お爺さんではなく、鶴になってしまいます。
太郎は、ひどい仕打ちだと思い、娘の所へ飛んでいきます。娘は、太郎が過ごした三年は、実は七百年であり、人間だったら死んでしまう。それが不憫で、千年生きられる鶴になるようにしたといい,太郎は残りの三百年、亀と夫婦になって暮らしたということです。めでたし、めでたし、でもありませんが。ここで、鶴と亀が繋がります。
鶴亀の因果関係は諸説あるようです。鶴亀が乙姫・太郎の三百年共にした夫婦とすると、高砂に鶴亀は何とも、おめでたい?物に思えてきます。
https://wabisabi-nihon.com/archives/9281
【縁起物の「鶴亀]長寿と繁栄のシンボルになった理由とことわざ 】
鶴亀」は、年賀状やお正月の飾り物、結婚式などの慶事、豪華な祝儀袋など、いろんな祝い事に使われます。 ... 五行説は、南を「火性」、北を「水性」と考えます。 ... ですから、 南を守る四神は、空を象徴する「朱雀」が配されています。 ... そして、この縦軸の朱雀⇔ 玄武の連続性が、長寿と子孫繁栄の象徴そのものとわれました。
朽ちて咲く赤詰草の淡さかな 五島高資ー 場所: 塚山古墳
TAO 自分さがしの旅@ilchi_tao
老化は誰も避けられない。年をとると体の活力と機能が落ち、あちこちがきしむものだし、結局はみな死を迎えるという事実を堂々と受け入れるべきだ。大切なのは健康な心であり、その心で体を導いていくことだ。体の現実を堂々と受け入れながらも体を管理しようとする健康で柔軟な心、これが健康のカギだ
日々新たに!成長は死と再生のプロセスです。
https://www.city.oyama.tochigi.jp/site/hakubutu/205453.html
【「古代の製鉄遺跡群 ー渡良瀬遊水地周辺の大地に刻まれた歴史を探るー」】
下野・下総・上野・武蔵の四ヶ国(現在の栃木・茨城・群馬・埼玉県)が接する関東平野中央部は、本州最大の湿地帯である渡良瀬遊水地が所在します。その周辺には、主に9世紀(平安時代前期)の製鉄関連遺跡群が所在し、下野・下総の国境周辺に大規模な遺跡が操業しました。この地域では続く10世紀に、藤原秀郷や平将門など、歴史的に有名な「兵(つわもの)」たちが駆け巡りました。彼ら兵の登場と製鉄遺跡群との関連についても展望し、郷土小山の歴史や、渡良瀬遊水地周辺地域の魅力の再発見につながればと考えております。
麦焼いて烟れる室の八嶋かな 高資
麦の火の走る下野国府かな 高資
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6942939 【葦焼き】ご参照ください。
http://www.sake-asaka.co.jp/blog/arakan/arakan109.html
「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第十一章 大和に残る製鉄神の累積 より
奥野正男氏によると、砂鉄などチタン分の多いものは高温でないと還元できないが、褐鉄鉱を原料として密閉式の炉内に木炭や原料を入れて点火し、送風をつづけると、半溶解状の海綿鉄が得られる。この中から良質な部分をとりだして加熱・鍛打をくりかえして純鉄を得ることができるというものである。(中略)褐鉄鉱は900〜1000度の低温でも還元できるからである。すでに青銅器の鋳造を行って、精度の高い銅鐸さえも製作していた弥生時代人であるから、当然おこないえたことは間違いない。ただ残念なことは、弥生時代のそうした鉄製品の遺物が発見されていないことであるが、それは、ひとつには砂鉄より精錬した鉄製品よりも純度が低いため、酸化腐食する度合いも早く、形態を遺していないからにほかならない。(中略)
渡来系技術者によって砂鉄による精錬の方法を習得したことにより、弥生時代は終焉し、古墳時代に移行した。
真弓常忠著「古代の鉄と神々」(1997年学生社)
1.葦原中国
真弓氏は同書の中で、鉄分の多い水流のある水辺では葦(あし)、茅(かや)、薦(こも)などの根のまわりに褐鉄鉱の塊ができ、やがて植物が枯れ、褐鉄鉱の中空の固まりだけが残るとします。中空の固まりの中には小片が混じるものがあり、それを振ると音がすることから水辺で採れる褐鉄鉱そのものを「スズ」と名付けたであろうことに同氏は気づきます。果物などがぎっしり実った状態を「すずなり」といいますが、自然界に「すずなり」という状態があってこそ生まれる言葉であることも指摘されています。
記紀によりますと出雲の別名は、葦原中国(あしはらなかつくに)です。この「葦原」は褐鉄鉱が生成しやすい場所です。褐鉄鉱を鉄の主原料としていた弥生時代においては「鉄資源の豊富な国」を意味していたに違いありません。やがて偉大なる大国主(おおくにぬし)の下、砂鉄による新たな製鉄技術を得た出雲の国は栄えます。「鉄は国家なり」は、弥生時代にも通じる言葉だったのです。
2.鉄と国の始まり
真弓氏は、渡来系技術者による砂鉄精錬の開始が古墳時代の幕を開いたことを指摘しています。
鉄器の普及は当時の主食・米の生産性を一気に高めました。鉄は、鋤(すき)や鍬(くわ)先になり田を深く耕せるようになります。稲の根は深く張り、多くの収穫をもたらしました。
収穫時、それまでの石包丁による穂先刈りに替えて、鎌で根本近くから刈り取ります。翌年深く耕された田に水を引き、別に育てた苗を植えます。田植えの始まりです。ある程度育った苗を植えるのは雑草に対する優位性を保つためです。
水田が拡がり、畑の面積が拡がりました。食料生産の拡大につれ人口密度が高まっていきました。
集約的な食料生産は職業の分化を促し、複雑な社会、そして国を生み出しました。国は大きくなり、王の権力は高まり、王墓は大型化していったのです。
3.出雲の国
記紀に描かれた神話時代の中心は出雲です。出雲では鉄製農具により農業生産性が向上し、人口が増えました。鉄剣、鉄の矢尻など武器の性能も上がり、葦原中国は出雲から因幡まで勢力を伸ばします。
記紀によりますと少彦名(すくなびこな)は海の彼方から出雲にやってきて、大国主を助けて葦原中国を平定し、やがて海に去って行きます。少彦名は、製鉄技術者を伴ってやってきた渡来人を象徴しているようです。
少彦名はなぜやってきたのでしょう。2世紀の第4四半期に気候が地球規模で寒冷化したからです。中国大陸の北方から遊牧民や騎馬民族が温暖な気候を求めて南下します。その内、今日の中国遼寧省から朝鮮半島北中部を領土とする高句麗(こうくり)を建国したツングース系民族・穢(わい)人が製鉄技術者を伴って海を渡ったものと私は考えています。その気候寒冷化の影響で、中国大陸では220年に漢帝国が滅び、三国が鼎立する分裂時代に入ります。
砂鉄による新たな製鉄技術を得た出雲の勢力は更に奈良盆地を目指します(第一章をご参照下さい)。2世紀末に奈良盆地に入り王朝を建てます。この出雲王朝では王墓を母国出雲に造営しました。
島根県出雲市役所の南東2kmに広がる西谷丘陵上には弥生時代末期、2世紀末から3世紀にかけて造られた古墳群があります。その内、2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は一辺30m以上もある方墳です。何れも四隅(よすみ)が突出しており、四隅突出型古墳と呼ばれます。この時代としては際立った規模の古墳を連続して造れたのですから、出雲では他の地域より一足早く渡来系技術者による砂鉄精錬が始まったことが解ります(注)。
注:出雲王朝成立前の2世紀、奈良盆地ではこれらを凌ぐ規模の前方後円墳が造られていたことが最近の発掘調査で判明している。纏向石塚古墳(桜井市太田。墳丘長93m)、勝山古墳(桜井市太田。墳丘長114m)、ホケノ山古墳(桜井市箸中。墳丘長72m)。出雲と並行して、或いは出雲に先んじて奈良盆地で砂鉄精錬が始まり、鉄器がかなり普及していたと推定できる。
4.出雲王朝から崇神王朝へ
桜井市街の東、円錐形の三輪山の麓に大神神社(おおみわじんじゃ)があり、三輪山を神体とします。ここに祀られる神は出雲の神。大国主の分身である大物主(おおものぬし)です。
その境内、北側にある狭井神社(さいじんじゃ)の祭神は、大神荒魂(おおみわあらみたま)、大物主、ヒメタタライスズ姫、セヤタタラ姫、事代主です。事代主は大国主の息子です。そして二柱の姫の名は何れも「タタラ」(製鉄炉)を含みます。おまけに「狭井」は、鉄の古語「サヒ」から来ていると見られ、サヒ神社。即ち鉄神社です。
記紀によりますと、九州から東征してきた神武が奈良盆地に入り、初代天皇になったとします。崇神王朝の始まりです。日本書紀ではセヤタタラ姫と大物主の間に生まれたヒメタタライスズ姫を初代天皇・神武(じんむ)が娶ります。これが王朝間の接続神話であり製鉄祭祀の継承を意味することは第九章で述べました。この神話を視覚化した施設が狭井神社のようです。
崇神王朝の始まりは桜井市に巨大な前方後円墳が築造されたことで解ります。3世紀が三分の二を過ぎた頃、最初に造られた箸墓古墳の墳丘長は278m、その北東2kmの渋谷向山古墳(天理市渋谷町。4世紀後半頃)の墳丘長は300m、その北1kmの行灯山古墳(天理市柳本町。4世紀前半頃)の墳丘長は242m。古墳の規模から崇神王朝では出雲王朝を超える鉄器の普及を推定することができます。食料生産効率が高まり、国家が形成され、王墓の造営に多くの労働力を振り向ける余裕のある社会であったことを物語ります。
5.穴師坐兵主神社
狭井神社から2kmほど北の、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の付近では鉄滓(てつさい)が発見されています。かつて三輪山北麓一帯で製鉄が行われていました。再び真弓常忠著「古代の鉄と神々」から引用しましょう。
「古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多く副葬されている。それらの鉄製品が渡来系技術者集団、すなわち、韓鍛冶の指導によって製作されたことは疑いない。彼らによって古墳時代の生産はさらにいちだんの進歩を示したであろう。それをうかがわしめるのが応神・仁徳朝における河内を中心として進められた大規模な土木工事である。
五世紀代、これだけの土木工事が進められるには絶対に鉄製器具が必要であり、それも舶載の鉄挺を鍛造するのではなく、この需要を賄うにたりる国内生産がなされていなければならず、そのためには、原始的な露天たたらや手吹子のごとき幼稚なたたら炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならない。その新しい製鉄技術の担い手が、イタテ神、あるいはアメノヒボコ、または兵主神を奉ずる韓鍛冶であった。」
「兵主」は中国古代の神・蚩尤(しゆう)のこと。武器を発明したとされ、武神として日本に伝わりました。兵主神を祀るこの神社は5世紀に始まる渡来系製鉄技術者の信仰が基になっているようです。
6.信仰の累積
弥生時代、三輪山を人の生死・田の豊穣を司る山の神とする信仰がありました。「みわやま」の「み」は蛇。「わ」は輪。「みわ」はとぐろを巻く蛇を意味します。山の神のシンボルは蛇。円錐形の三輪山をとぐろを巻く蛇の姿に見立て、聖なる山としていたのです。
弥生時代末期の2世紀末、砂鉄を原料とする製鉄技術を背景に生産力が高まり、人口が増え、勢力を増した出雲の人々が奈良盆地にやってきました。そして三輪山に出雲の神である大国主を祀ります。出雲は鉄の国。鉄は国家なり。鉄は豊かな農産物、そして豊かな生活物資を生産する基となります。大国主は鉄によってもたらされる「物」を生み出す神「大物主」とされます。大物主は、製鉄神としての性格が濃厚だったはずです。
3世紀の第3四半期、出雲の人々は北部九州からやってきたヤマト国に征服されます。崇神王朝の成立です。崇神王朝は、大物主の祭祀を続けさせる為、三輪山の南東山裾に出雲庄を設け、出雲王族の末裔を残したであろうことを第十章8.本田善光で述べました。崇神王朝自身も製鉄を司る神を祀ったはずです。ただその痕跡は明らかではありません。或いは狭井神社がそれかもしれません。
そして5世紀。再び北部九州からやってきた新たな勢力がヤマト国を征服します。物部王朝です。この勢力は、朝鮮半島から移住してきた秦氏など、崇神王朝より一層進んだ製鉄技術を持った人々を伴っていました。そして大物主とは別に、鉄と武器及びその製造を司る兵主神を祀りました。滅んだ崇神王朝の王族の魂を鎮めるために物部王朝が大和(おおやまと)神社の基になる祭祀を始めたと考えられることは、第一章で述べました。
7.今日の形
8世紀初期、藤原不比等の時代、仏教寺院を参考にして神を祀る専用の建造物「神社」が造られて行きます。不比等が記紀編纂を通じて創造した神話を、現実の建物によって視覚化すると共に、山の神のシンボルを蛇から猪(亥)に変更する、一種の宗教改革を伴っていました(第十四章で述べます)。
建造物を持った大神(おおみわ)神社が創建され大物主が祀られました。三輪山の山の神信仰は大物主と習合して今日に受け継がれました。
現在、狭井神社は大神神社の摂社(付属する神社)ですが、当初は独立した神社として建設された可能性を私は考えています。理由は、「サヒ」(鉄)神社という名称、それに記紀に描かれた出雲とヤマトの製鉄祭祀の継承と融和が視覚化されていることです。主祀神である大神荒魂(おおみわあらみたま)は山の神のようですが、祀神に初代神武天皇と結婚するヒメタタライスズ姫、姫の両親である大物主とセヤタタラ姫を加えているということです。もっとも記紀の記述に合わせて後日加えた可能性も否定できません。
物部王朝の製鉄神を祀る兵主神社もこの時に建てられたことでしょう。こうして鉄にかかわる三つの神社は、聖なる山・三輪山の麓の極めて近い距離に並存し、今日に至りました。
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11979232468.html
【⑧倭人〜古代「鉄の神」〜】より
鉄器
縄文時代末期頃に日本列島に大陸から鉄器がもたらされ、弥生時代の初めには鉄素材を輸入に頼りながらも日本国内で鉄器に加工をするようになった。
やがて、弥生時代の後期ともなると日本国内で製鉄するようになり、古墳時代後期には本格的に国内で製鉄するようになった。
一方、製鉄の原料にも変化があり、国内製鉄開始初期は主な原料は鉄鉱石であったが、徐々に砂鉄を加えるようになり、やがて砂鉄が主原料となった。これは後に中国山地で盛んにおこなわれるたたら製鉄の興りである。
鉄器は、弥生時代後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。
オオナムチの神
オオナムチの神、大国主(おおくにぬし)は『古事記』『日本書紀』に登場する日本神話の神である。国津神の代表的な神だが、天孫降臨で天津神に国土を献上したことから「国譲りの神」とも呼ばれる。出雲大社の祭神。
大国主は多くの別名を持つ。
◉大国主神(おおくにぬしのかみ)・大國主大神 - 根国から帰ってからの名。大国を治める帝王の意
◉大穴牟遅神(おおなむぢ)・大穴持命(おおあなもち)・大己貴命(おほなむち)・大汝命(おほなむち『播磨国風土記』での表記)・大名持神(おおなもち)・国作大己貴命(くにつくりおほなむち)
◉八千矛神(やちほこ) - 須勢理毘売との歌物語での名。矛は武力の象徴で、武神としての性格を表す
◉葦原醜男・葦原色許男神(あしはらしこを) - 根国での呼称。「しこを」は強い男の意で、武神としての性格を表す
◉大物主神(おおものぬし)-古事記においては別の神、日本書紀においては国譲り後の別名
◉大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。国の魂
◉伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神-『播磨国風土記』での呼称
◉所造天下大神(あめのしたつくらししおほかみ)- 『出雲国風土記』における尊称
◉幽冥主宰大神 (かくりごとしろしめすおおかみ)
◉杵築大神(きづきのおおかみ)
「穴」
オオナムチの神は
『出雲国風土記』→大穴持命
『古事記』→大穴牟遅神
と記す「穴」は従来借訓と見られていたが、西郷信綱、西宮一民氏によって「穴」正字とみて、「偉大なる洞窟の坐す貴い神」という名義であることが提唱された。
「穴」→「鉄穴」の意から「鉄」の意に用いられる程限定していたから→大穴牟遅神は「偉大な鉄穴の貴人」との説が成り立ち得るという。
オオナムチの神の原初的性格は「鉄穴」の神、すなわち産鉄の神であったとすることができるという。
▶三輪山
三輪山そのものを神体(神体山)としており、日本最古の神社である大神神社では大物主大神を祭神とし、配神を大己貴神 (おおなむちのかみ)少彦名神 (すくなひこなのかみ)としている。
三輪山西南麓の金屋遺跡からは、弥生時代の鉄滓や吹子の火口、焼土が出土しておりその付近で製鉄が行われていたことを示している。その山麓には金屋・ 穴師・金刺などの産鉄地名が残り、産鉄地・産鉄の 民と関係の深い地と見られている。
三輪山の周辺には、茶臼山古墳をはじめとして、前期の古墳文化が濃密である.それ以前にこの地域周辺に下井足遺跡・三輪遺跡などがある。
もともと三輪山の祭祀が三輪王権に始まったのではなく、弥生時代昔からこの地に土着した人々がまつっていたという。
吉備の中山
「吉備の中山」には、備中一宮の吉備津神社と備前一宮の吉備津彦神社がある。
しかし、「吉備の中山」は中山神社だと、折口信夫・池田弓三郎・山本健吉らが示唆され八木意知男氏が論証している。
中山神社は、美作国の一の宮として高い社格と農耕の神 牛馬の守護神として広く人々の信仰をあつめてきた 。慶雲四年(七〇 七年)創建とされている。祭神は、現在、鏡作神とされているが、金山彦命とする説もあり、産鉄の神である。
しかし、社伝によるともとはオオナムチの神をまつっていたという。
窪田蔵郎氏によれば「中山」とは、中国において鉄の生産を伝える『山海経』の「五蔵山経」が、南山経・西山経・北山経・東山経・中山経の五篇で構成されており、中でも中山経は出鉄・製鉄の中心として描かれており、中山経の世界が産鉄の世界をあらわしたものであろうという。
中山神社をまつる神社は、美濃国に仲山金山彦神社がある、「南宮大社」と称し、鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。
金山彦神
金山彦神(かなやまひこのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』では金山毘古神、『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とともに鉱山の神として信仰されている。神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、その嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。
神名の通り「金山」(かなやま、鉱山)を司る神で、嘔吐物から産まれたとしたのは、嘔吐物の外観からの連想によるものと考えられる。鉱山を司どり、また荒金を採る神とされ、鉱業・鍛冶など、金属に関する技工を守護する神とされている。岐阜県垂井町の南宮大社(金山彦神のみ)、南宮御旅神社(金山姫神のみ)、島根県安来市の金屋子神社、宮城県石巻市金華山の黄金山神社を始め、全国の金山神社で祀られている。(ウィキペディア)
倭鍛冶と韓鍛冶
『古事記』『日本書紀』などに日本最初の鍛冶としてあらわれるのが天目一箇神(あめのまひとつのかみ),一名天津麻羅(あまつまら)で,鍛冶の祖神といわれている。その子孫は倭鍛冶(やまとかぬち)として代々朝廷に仕えたといい,綏靖(すいぜい)天皇は天津真浦に鏃を,崇神(すじん)天皇は天目一箇神の後裔に神剣を造らせたと伝えている。また応神天皇のとき,百済から学者和邇(わに)とともに韓鍛(からかぬち)卓素(たくそ)が来朝し(《古事記》),この帰化系の鍛冶を倭鍛冶に対し韓鍛冶と称している。
倭鍛冶と韓鍛冶の両神をまつる神社
播磨国風土記には、伊和大神(葦原志挙乎命=大国主命)と天日槍命の二神に纏わる『 国占め』の物語が幾つか残されています。
伊和大神→倭鍛冶
天日槍命→韓鍛冶
播磨国総社 射楯兵主神社(いたてひょうずじんじゃ)は
東殿に「射 楯大神(いたてのおおかみ)」 西殿に「兵主大神(ひょうずのおおかみ)」を御祭神としている。
「射 楯大神」→伊和大神→倭鍛冶
「兵主大神」→天日槍命→韓鍛冶
播磨国は良質の砂鉄を産し、姫路市中心に位置する「射楯兵主神社」の周辺は、古来製鉄地であったことは既に書きました。
太陽神 日神祭祀
1980年2月11日に放映された、NHK特集『謎の北緯34度32分をゆく――知られざる古代』を企画・構成した水谷慶一氏に、
日本列島の中央部、大和の三輪山麓にある箸墓を貫通する東西の直線上に、何故か古代遺跡が点々と並ぶという。
箸墓を基点に東に行けば→三輪山山頂、長谷寺、丹生寺、伊勢神宮の斎王跡に行き着く
箸墓を基点に西に行けば→二上山、河内の日置社、大島神社から淡路島の舟木
その地がいずれも太陽神の祭祀に関係していることを指摘した。中でも御壺山の古歌に
「朝日さす夕日輝く御壺山、つつじの麓に黄金千両」
と歌われ、人々にとって神秘的で神聖な山として信仰されいた。その歌を頼りに昭和9年9月2日、区民総出で発掘調査をしたところ、経筒、銅鏡12面、経巻軸など、平安時代から鎌倉時代のものと思われる出土品がたくさん出てきたという。またその地には日置姓の家の多いことから、太陽観測や方位測定と密接に結びついて、日置氏を古代測量士と断定された。
しかし
「古代人は太陽の運行によって測量するのは現代人よりもはるかによくしたところで、必ずしも特定の氏族でなくともよかった。日置部の職掌としたところは、日祀(日奉)部と並んで日神祭祀にあった。日置流と云えば弓道の代表的流儀である。
弓矢が海人族の日神祭祀の祭具であるとすれば、日置すなわち日を招ぎ迎える祭祀に用いた弓矢から、弓術の流儀の生まれるのは当然であった。多気には「海住(かいじゅう)」と名のる家もあり、海人族の出身であることは明らかだが、美杉村の山中深く海人族が住いしていたことを示すもので、日置氏も同じ海人族であり、弓矢をもって日神の祭祀を行いつつ製鉄に従事したものと察せられる日置氏が製鉄と結びつくことは、垂仁天皇紀三十九年十月条に、五十瓊敷命が茅沼の菟砥の川上宮に居て、大刀一千口を作ったとき、これに参加した十箇の品部の中に日置部もみられることがあげられる。日置氏が製鉄に関わった氏族であり、漆の地に鉄が得られたとすれば、ここに日置姓の家が多いことも不思議ではないのである。」という。
もともと日置氏は宮内省主殿寮殿部(とのもり)の負名氏(なおいのうじ)の一つで,本拠は大和国葛上郡日置郷にあり,地縁的にも職掌的にも同じ負名氏の鴨氏と類縁の関係にあったと考えられている。葛城の鴨氏が阿治須岐託彦根(あじすきたかひこね)神をまつるのに対し,日置氏はこの神の妻という阿麻乃弥加都比女(あまのみかつひめ)をまつっていた(《尾張国風土記》)。(コトバンク)
賀茂氏も産鉄に関与したことがその各地に痕跡を遺している。上賀茂神社では、武射神事、下鴨神社は流鏑馬神事がある。
☞「上賀茂神社」はこちら
私は航海技術にすぐれた海人族は当然→太陽のみならず天体の運行によって測量するのは当然のことだったのではないかと思う。
「朝日さす夕日輝く~~」という歌は「朝日夕日伝説」「金鶏伝説」のように各地にあり、そこは鉄の在処を示すものだという。
古代海人族
先日もかきました
▶山澤貴志によると
弥生中期から後期にかけて大規模な鍛冶工房跡である「淡路島垣内(かいと)遺跡」は弥生時代から古墳時代への転換を読み解く鍵を握っていると思われる。
記紀神話は国生み神話の最初に淡路島を挙げる。その理由として淡路島が半島と畿内を結ぶ瀬戸内海ルートの交通の要所として重要であったことが考えられてきた。鍛冶工房跡の存在によって、淡路島が鉄の輸入、加工、配送拠点であったことが確かになった。淡路島という海運の要所が同時に鍛冶工房でもあったということは、言い換えればヤマト王権は海運を握る海人族と半島の鉄利権を握る天孫族の連合体であったことを意味する。国生み神話において海をかき混ぜる道具が何故「矛」なのかはその象徴であろう。
天孫族にとっては海人族の掌握が重要テーマであり、記紀神話に南方的、海人族的要素が基底にあると同時に記紀全体としては、海人族的神を屈服させるストーリーになっていることも合点がいく。と述べている。
https://09270927.at.webry.info/201704/article_5.html 大神神社( 栃木市) より
表参道は長いが、鳥居まで行ってみようと歩いた。
この参道で流鏑馬が行われるようだ。当社の流鏑馬は農耕の作柄占いのもので、鎌倉時代以降のものとは全く趣旨は異なるという。
下野国庁跡は長らくどこにあったか分からなかった。下野国分寺跡が栃木県下野市国分寺にあることから、近くに下野国庁跡があるはずだと調査が開始され、1976年(昭和51年)から栃木県栃木市田村町の宮目(みやのべ、宮延)神社境内付近の発掘調査が始められ、4年後の1979年(昭和54年)に国庁跡が確認され、昭和57年に国の指定史跡となった。 下野国庁跡が分かったことから惣社といわれた大神神社が注目されるようになった。
下野国庁跡は栃木県栃木市田村町・宮ノ辺にあり、そこは思川を挟んで下野国分寺跡の西の対岸に位置する。そして大神神社は下野国庁跡の北約3kmにあり、思川の西に位置する。
大神神社は惣社と言われてきた。表参道を真っ直ぐ南に延ばせば下野国庁跡へ通じる。
大神神社が総社(惣社)であったことは認めてもよさそうだ。当社は古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。
しかし、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていないので、大神神社と名告るようになったのは明治以降である。
栃木県では明治以降、ほとんどの大権現や大明神は○○神社に名前を変えたという。なぜ、「惣社六所大明神」は「大神神社」と名前を変えたのであろう。
それは、延喜式神名帳にある「下野国都賀郡 大神社」を意識してのことであろう。他の論社として太平山神社(栃木県栃木市平井町)がある。
総社は祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もあるので、式内社の総社もある。
総社の多くは中世にいったん廃れたが、後に再興されたものも多い。ただし今に至るまで再興されずにいるものや、どの神社が総社だったのか分からなくなってしまった国もある。
推定社を除く総社であり式内社であるものは、全国に11社ある。それを以下に挙げる。
河内国 志貴県主神社(大阪府藤井寺市惣社)
尾張国 尾張大国霊神社(愛知県稲沢市国府宮町)
遠江国 淡海国玉神社(静岡県磐田市見付)
駿河国 神部神社(静岡県静岡市葵区宮ヶ崎町)
※神部神社、浅間神社、大歳御祖神社の三社をまとめて静岡浅間神社と総称される。
下野国 大神神社(栃木県栃木市惣社町)
加賀国 石部神社(石川県小松市古府町)
但馬国 気多神社(兵庫県豊岡市日高町上郷)
石見国 伊甘神社(島根県浜田市下府町)
播磨国 射楯兵主神社(兵庫県姫路市総社本町)
伊予国 伊加奈志神社(愛媛県今治市五十嵐)
日向国 都萬神社(宮崎県西都市妻)
このうち私が訪れたのは、神部神社 と 都萬神社である。他に式内社ではないが、佐渡国 総社神社(新潟県佐渡市吉岡総社)と信濃国 科野大宮社(長野県上田市常田)を訪れた。 信濃国府は上田市から松本市へ移ったとされており、松本市にも総社として伊和神社(長野県松本市惣社)が鎮座する。
大神神社(旧惣社六所大明神)は総社であったことは確かなようだが、式内社であったかは微妙である。式内社の肩書きを手に入れることも神社の格式にとっては重要な事になり、神社の盛衰に関わるのであろう。
延喜式神名帳には、「下野国都賀郡 大神社」とあることから、927年以前からこの地には大神社があり、927年の時点でも当地を代表する神社として栄えていたことは確かである。それが、現在の大神神社であるかはともかく、大神神社がその後継社としてその祭祀を引き継いだことはあり得ることである。
社伝では、第10代崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
従って主祭神は、倭大物主櫛瓱玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)別名「大物主命」である。この大物主命を大己貴命と同じとするようになったのは、7世紀の後半頃からのようだ。
豊城入彦命は上毛君・下毛君の祖であるともされ、二荒山神社(宇都宮)などに祀られている。
崇神天皇は三輪山を御神体とする大神神社(旧大神大物主神社)を大田田根子(三輪氏の祖)に祀らせた。応神朝や継体朝以降はともかく、それ以前の大和の大王(おおきみ)は三輪山の神を祀っていたことは確かである。そしてこの三輪山(御諸山)の神は国津神である。つまり天津神に天下を譲った神である。
全国各地に大神神社が分祀されていて、既に「延喜式神名帳」にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。
大物主神は蛇神であると考えられ、水神または雷神としての性格を合わせ持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特に篤い信仰を集めている。
三輪山は御諸山とも呼ばれるが、私は御室山が御諸山に転じたのではないかと考えている。
崇神天皇は大物主神を祀るだけではなく、宮中で祀られていた天照大神と倭大国魂神を宮中から外に出して祀った。倭大国魂神は伊香色雄(いかがしこを、 物部連の祖)によって大和神社(奈良県天理市)に祀られるが、天照大神は各地を彷徨った後、伊勢に祀られることになる。
伊勢神宮を頂点とする天津神が日本の神まつりの中心になる前に、大和朝廷の大王は三輪山に国津神を祀っていたことは確かで、記紀では日本の歴史を古く見せるため660年ほど古くしたのでいろいろな矛盾が出てしまい、天皇の在位年はあてにならないが、四道将軍を派遣した崇神天皇の時代には、大和朝廷の影響力がかなりの広範囲にわたっていたようで、各地の伝説や伝承を全てそのまま荒唐無稽のものとして排除できないようだ。
崇神天皇の頃に三輪山の神が各地に勧請されたことを伝える社伝はいくつもあり、それはただ神だけを勧請したのではなく、三輪山周辺の大和朝廷の勢力(三輪氏・大神氏もその一つ)が各地に進出していったことを示すようである。古代の大豪族である物部氏やその一派ともされる尾張氏もそうした進出した氏族の一つであろう。
天皇家を万世一系とするかはともかく、祭祀者としての天皇家を考える時、その存続を可能たらしめた一つが、何らかの形で三輪山の祭祀を引き継いだことが挙げられるようだ。
不思議な事に、他の地方から来た大王も前王家の女子を正后に迎えて、三輪山祭祀を継続した節がある。それが正統性の護持でもあった。伊勢神宮を参拝したのは律令制度づくりが本格化した頃の持統天皇だけで、その後 明治天皇まで誰一人参拝した天皇、上皇はいない。交通不便な熊野三山には行幸しても伊勢神宮には参拝していないのである。宮中で密かに続けられた祭祀は三輪山の神を祀ることであったようだ。
奈良から都を遷すときも、新しい都に三輪山の神を勧請したようだ。天智天皇が近江大津宮(現在の大津市)へ遷都したときは、日吉大社に西本宮を造り三輪山の神を勧請している。
桓武天皇が京都へ遷都したときは賀茂神社(賀茂別雷神社・上賀茂神社)があり、この祭神と三輪山の神は深い関係があるようで、新たに三輪山の神を勧請しなかった。
また、明治天皇が江戸(東京)に遷都したときには、氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町)の祭神が三輪山の神と深い関係があるようで、新たに三輪山の神を勧請しなかったようだ。明治天皇は正式に遷都を宣言していないので、京都の人の中にはいまだに天皇は出かけているだけでいつか京都に戻ってくると思っている人がいるそうだ。
天皇家が存続した背景には、三輪山の神を祀る祭祀が、中央豪族や地方豪族に支持されたという古い記憶があり、伝統を重んじる日本民族のアイデンティティーに適ったからであろう。天皇家の中では結果的には神々の国譲りはなかったのかもしれない。
私は奈良時代を特異な時代だったと感じる。天武天皇系の出自の問題も含めて、道教や仏教による過剰なまでの中国化は果たして律令制度導入に必要であったのだろうか。そのままでは日本は完全な仏教国になってしまう勢いであった。その最期を飾ったのが、称徳天皇と道鏡だったのかもしれない。
その後、天武天皇系は根絶やしにされ、天智天皇系に天皇家は戻り、渡来系の母を持つ桓武天皇は京都に遷都した。そして宮中では形こそ変わったものの三輪山の神の祭祀が復活したのであろう。その後、仏教と神道は適当なバランスで祀られ、やがて神仏習合が本格化する。神主よりも僧の方が寺社領の経営に長けていたので、別当という形で寺の方が神社より上位になる傾向が現れたが、長く続いた寺と神社の蜜月時代を破ったのは伊勢神宮を頂点とした国家神道を選択した明治政府であった。
さて、当地は古墳が多い地域である。前方後円墳も多いので古くから大和朝廷との繋がりを持った豪族がいたことは確かで、その豪族の中に大神社を祀った氏族がいたのだろう。大神社は「おおみわやしろ」とでも訓じられたのだろう。(「むわのかみやしろ」と訓じられたともいう)
三輪山の神は出雲系だという説も根強い。それが後世、大己貴命を大国主として祀ることにも繋がる。
私は、古い時代に勧請されたと考えられる大神社の後継社とおぼしき大神神社が、主祭神を倭大物主櫛瓱玉命(倭大物主)として、大己貴命の神名を挙げていないことに好感を持つ。
この地域は渡来系の氏族が早くから入植し、仏教も盛んだったと考えられる。下野薬師寺(栃木県下野市薬師寺)には761年に戒壇が設けられている。当社には、弓削道鏡が下野薬師寺に左遷されたとき当社で国学や医学の講義をしたという伝承がある。その頃、国学があったかは疑問だが、神話や神まつりについて講義したのだろう。
大神社も恐らく神仏習合して栄えていたのであろう。本社の大神神社((奈良県桜井市)もしっかり神仏習合し神宮寺まであったので、大神社も仏教勢力の恩恵も受けていたのではないだろうか。大神社が衰えたとすれば、それは下野薬師寺や国分寺が廃絶してからではなかったかとさえ思う。
その後は、総社と大神社は一体となり存続してきたのであろう。
次に、説明板の奥の細道「室の八嶋」の条の説明文の中にある、「このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。」について記す。
本文に、
『同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見のみこと生れ給ひしより、室の八島と申。又煙を読習し侍るもこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁起の旨、世に伝ふ事も侍し。』
とあるが、曾良が語ったのは記紀の「一夜で懐妊したため貞操を疑われた木花咲耶姫が、不貞でできた子なら焼け死んで出産できないはずと、身の潔白を誓って無戸室(うつむろ)に入って火を放ち、燃え盛る炎の中で無事に彦火々出見命ら三柱を産み落とした」という神話に依るもので、当社の祭神でもある木花咲耶姫(富士山の女神)と「室の八嶋」を関係づけたものである。
しかし、木花咲耶姫がこの神社の祭神として出てくるのは、江戸時代が始まる頃だとされる。
一部の海人族は、産室を海岸につくり、出産後に産室を焼くという風習があったという。血の不浄を嫌ったものかもしれない。
また産土(うぶすな、生まれた土地)は、産砂からきていて、これも海岸に産室を築いたことから出た言葉だとされる。
神武天皇の父とされるウガヤフキアエズ(日子波限建鵜草葺不合命・彦波瀲武盧茲草葺不合尊)などは、安産で海岸につくる産室が葺き上がる前に生まれてしまったことがその名の由来だと言う。
ウガヤフキアエズは、彦火火出見尊(山幸彦)と海神の娘である豊玉姫の子で、母の妹(つまり叔母)であり育ての親でもある玉依姫と結婚し、神武天皇(神日本磐余彦尊)などを生んでいる。
つまり、神話では天皇家はその初期において2代にわたり海人族の娘を妻にしている。産室を海岸につくり、出産後に産室を焼くという風習は戦前まで対馬に残っていたという。対馬は豊玉彦一族を祀る神社が多い。綿津見や豊玉彦一族(豊玉彦、豊玉姫、玉依姫、穂高見など)は安曇氏(阿曇氏)が祀る神である。
さて、「このしろ(中型のものはコハダ)という魚を食べることを禁じられている。」とあるのは、富士浅間御本地由来に伝わる木花咲耶姫の伝承からきたもののようだ。
木花咲耶姫が危難に遭った際に、焼くと死体を焼く匂いがするというコノシロという魚を姫の身代わりに焼き、野辺送りして、姫は既にこの世にいないと偽って難を逃れたという逸話がある。
栃木県にも同様な逸話が伝わる。 (下野風土記逸文 慈元抄 十訓抄など)
下野国に、むかし、五万長者と呼ばれる長者がおり、長者には常陸国の国司に嫁ぐことを約束した娘がいた。
ある日、下野国に流離(さすら)い着いた孝徳天皇の子有馬皇子が長者の家に住み込み、いつしか娘と恋仲になった。(史実では有馬皇子は天智天皇に謀叛の罪をきせられて殺されている)
国司は婚姻の約束を果たすよう長者に催促するが、すでに娘は有馬皇子に心が移ってしまい長者は途方に暮れる。
そこで思い立ったのが娘を死んだと見せかけて国司に婚姻を断念してもらうことだった。偽りの葬儀で、長者は棺(ひつぎ)に「子の代(このしろ)」として「つなし(ニシン科)」とニラを入れて野辺送りをした。
すると、これを焼いた匂いが人を焼いたときと同じ匂いのため、国司は娘がほんとうに死んだものとあきらめ、常陸国に帰って行った。
いつしか「つなし」は「このしろ」とも呼ばれるようになった。むかし、大神神社で行われていた毎年9月9日の「つなし」を焼いて捧げる神事は、この謂れによるという。
「このしろ」は現在の種に当てはめるとコハダの成魚で関西では「つなし」というらしい。
現在、大神神社の重要な神事は、春季例大祭 (4月16日)と秋季例大祭(御鉾祭) (11月18日~24日頃)である。
春の例大祭では流鏑馬と神楽(市指定無形民俗文化財)が催行され、秋の大祭である御鉾祭(おぼこまつり)は市指定無形民俗文化財となっている。当社の御神体は「鉾」である。
市指定無形民俗文化財の神楽は、日光東照宮(又は二荒山神社)から上都賀尾裂神社を経て伝わったと云われている。神楽は古くからあったが、天保4年(1834)に舞伎、舞面、装束、楽器など一切が完成した。現在も純粋な古い型を残している。
弥生時代には近畿地方中心に銅鐸の祭祀が行われてきたようだ。銅鉾・銅剣の祭祀は北九州から中国地方西部に見られる。中国地方と四国地方は、東部が銅鐸、西部が銅鉾・銅剣の祭祀が見られ、微妙に混じりあう地域でもある。
なぜ、大神神社の御神体が鉾なのかは分からないが、御鉾祭は高さ4~5mの神鉾(おほこさま)をお假屋に奉祭し、久良女(くらめ)と呼ばれる童女を捧げる祭だという。この童女を「おくるめ様」とも呼ぶ。
童女は、祭期間中、お假屋で潔斎しなければならない。神鉾還御の行列の後、神鉾の体内から縄を出す。この縄が安産の守りとなるらしい。
また、翌26日には、コノシロ・ニラ・ニンニクの三種を神に捧げて終了する。国府(こう)地区の特産品は、イチゴ、トマト、ニラだと言う。ニラが特産品の一つであることは注目される。
この神事に関して、以下の伝承がある。
「昔、この地の長者に絶世の美人の姫があったが、都から流された公卿により懐妊した。その後、国司がこの姫を乞うたが、懐妊のため、「娘は死んだ」と嘘をつき、偽の葬儀を行い、棺の中に鮗(このしろ)と韮(にら)を納めて火葬にした。」
この時の気持ちを歌に詠んだのが、
「下野や室の八島に立つ烟 我このしろにつなし焼くなり」 だと言う。
この歌は、『古今六帖』に詠み人知らず(江朝綱の歌とも)で載る次の歌によく似ている。
「下野や室の八島に立つ煙 思ひありとも今日こそは知れ」
この歌が神事と関係ある歌だとすると、“思ひありとも今日こそは知れ”の「思ひ」とは、恋の思いなどではない。 また、煙も火葬の際の煙ということになる。
これらは栃木県に伝わる逸話を神社の伝承に取り込んだものだろうが、このような逸話がこの地域にあることに興味が湧く。
当時、火葬は珍しかったのだろう。
日本での初めての火葬は、文武天皇4年(700年)に火葬された元興寺の開祖道昭だとされる。初めて火葬された天皇は持統天皇で、702年に死亡し殯(もがり)の儀礼の後、703年に火葬された。遺骨は銀の骨つぼに収められたが、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに遺棄されたという。
江戸時代から天皇皇后については土葬とされてきたが、2012年4月26日、宮内庁は天皇や皇后が崩御した際の埋葬方法を、今上天皇および皇后の意向により旧来の土葬から火葬に変える方針で検討すると発表した。贅沢は禁物で遺骨は銀の骨つぼに収めないほうがいいだろう。
下野薬師寺や国分寺があるこの地域は、仏教徒が多く、当時珍しかった火葬も多かったのではないか。
鮗は、昔は「つなし」と呼ばれていたが、この歌より、「このしろ」と呼ばれるようになった。「このしろ」とは、子代(子の身代わり)という意味だとされる。
「このしろ」は一般に「鮗」と書かれるが、異字に、「魚偏に祭」「魚偏に制」「魚偏に庸」という字がある。
栃木県は海なし県なのでコノシロは手に入らない。やはり静岡県の浅間神社に伝わる逸話だったのだろう。
御鉾祭は五穀豊穣・安産子育・醸造祈願の祭だとされる。何となく女神(木花咲耶姫?)に感謝する祭のように感じる。木花咲耶姫も父とされる大山祗神も国津神である。
式内社の大神社に祀られていた神は、倭大物主櫛瓱玉命であろう。古代祭祀を考える時、男女の神がペアで祀られることがよくある。大神社には倭大物主櫛瓱玉命の他にもう1柱女神が祀られていたのではないか。それは「室」とも関係する蛇神であり、水神でもあったのではないか。それが後世、富士山の女神である木花咲耶姫に仮託されたのではないだろうか。木花咲耶姫は桜神でもある。
秋田県の雄物川は、「御物川」が転じて「雄物川」になったという。しかし、私は元は雄鬼川(おものがわ)であったのではないかという説を立てた。更に大物主川 → 雄物川 あるいは 大物忌川 → 雄物川 と云うことも考えられると記した。
そして、大物忌神は大物忌神社の祭神であり、大物忌神=瀬織津姫 という説もあることを紹介した。。
「大物忌」とは不浄を嫌うという意味で強い浄化力があるということらしい。従って大物忌神とは、穢れを清める神でもあるという。瀬織津姫は瀧神、川神であるが、祓戸四神の一柱で祓い浄めの女神ともされる。
大神神社の近くには思川(おもいがわ)が流れる。 「田心姫」の田心を縦に続けて書いた「思」から思川となったという説があるが、この川には女神が住んでいるようだ。
田心姫(たごりひめ)は、宗像三女神の一人である。宗像三女神は田心姫、湍津姫(たぎつひめ)、市杵嶋姫(いちきしまひめ)である。私は湍津姫の別名が瀬織津姫ではないかと考えている。また、市杵嶋姫は後世弁才天と集合する。いずれも水の女神の神格を持つ。
私は、思川は大物忌川だったのではないかという着想が湧いた。
小山市の諏訪家には、道鏡が伝えたとされる一子相伝の「しぼり紙」があるという。一度絞った和紙に渋柿から作った渋汁を塗り、干してからまた塗ることを繰り返すと固い紙ができるという。そのしぼり紙を活用した人形で「下野人形(しもつけひとがた)」というものがあるそうだ。50年ほど前から、しぼり紙で作った人形を紙雛にして、七夕に思川で流し雛が行われるという。流し雛の人形(ひとがた)とは子代(このしろ)でもある。
思川には水の女神がいるのであろう。人々は流し雛に託して、どんな思いを思川に流すのであろう。
最後に、「室の八嶋」を見て、その伝承を知ったときから、頭の中に引っかかっていることを記しておく。
あまり実証的ではなく、かなり穿ち過ぎた見方であるが、三輪山に祀られている神が、出雲神であると仮定したとき、出雲の代表的神である、出雲のスサノオ、新羅のスサノオから「室の八嶋」を考えてみた。
京都の八坂神社(旧牛頭天王社、祇園社)は、素戔嗚一族を祀る神社だが、素戔嗚尊(中御座)、櫛稲田姫命(東御座)の他に東御座に八柱御子神 (やはしらのみこがみ)が祀られている。その八柱御子神の中に、素戔嗚尊と櫛稲田姫命の長男として八島篠見神が祀られている。
この八島篠見神は出雲では、八島野尊と呼ばれ、その諡号は、「清之湯山主三名狭漏彦八島野尊(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまぬのみこと)」という長い名が付いている。
島根県雲南市大東町須賀にある須我神社は、須佐之男命と妻の稲田比売命、両神の子の清之湯山主三名狭漏彦八島野命(すがのゆやまぬしみなさろひこやしまのみこと、八島士奴美神)を主祭神としている。
この神社から南西約5kmほどの清田というところのそばに、「古代鉄歌謡館」(島根県雲南市大東町中湯石)があり温泉も湧いているので、清之湯山主三名狭漏彦八島野命はこの辺に住んでいたのかもしれない。
私は清(すが)は須賀だけではなく蘇我に繋がり、蘇我氏に繋がる神ではないかと考えている。
この八島野命については、古文書などの資料が少なく、よく分からないことが多い。それは7世紀の半ばに蘇我氏宗家が滅ぼされたことと関係があるようにも考えられる。
蘇我氏は盛んに方形墓墳を造った。
奈良の石舞台古墳は蘇我馬子の墓とされるが、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。方形墳は出雲を含む日本海勢力の墓墳の特徴でもある。
蘇我馬子は邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。その島の数は8つだったのではないか? ここでの8はただ多いという意味での8ではないように感じる。また、八千矛神は大国主命とされるが、本来は素戔嗚のことである。大神神社の御神体は鉾だとされるが、これもかつて素戔嗚を祀っていた痕跡かもしれない。
大神神社は、三輪山(御諸山)の神を祀る。三輪山の神は蛇神(竜神)であり、出雲系とも云われる。私は御諸山は御室山から転じた名前だと考えている。「室」は蛇穴にも通じる。
かなり飛躍した推測だが、「室の八嶋」とは、出雲系の神の八島野尊と関係した地だったのではないか。そして、蘇我氏のルーツは出雲にあり、八島野尊は蘇我氏の祖神ではなかったか?
蘇我氏は物部氏宗家を滅ぼした後、各地でその領地(地盤)を蚕食している。
『日本書紀』斉明天皇元年(655年)7月11日条には、難波朝(難波京の朝廷)で北蝦夷99人と東蝦夷95人を饗応したとある。そこでは「北」と「東」にぞれぞれ「北越」「東陸奥」と注があり、北は越の方面、東は陸奥の方面と解せる。
蝦夷は平時には交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物を和人にもたらし、代わりに米・布・鉄を得た。
難波宮は孝徳天皇(在位645~654)の宮で、実は難波宮は滅ぼされた蘇我宗家が中心となり既に造営を始めていたものだった。孝徳天皇は蘇我氏の政策を引き継いだと見られる。孝徳天皇が即位した後、重用したのは蘇我氏系豪族が多いことや仏教を重んじたことから分かる。
孝徳天皇と皇太子の中大兄皇子(天智天皇)の仲はすぐに壊れ、中大兄皇子は皇祖母尊(斉明天皇)と皇后(間人皇女)、皇弟(大海人皇子)を連れて大和に帰ってしまう。
最近の研究では、律令制度の導入を積極的に進めていたのは、蘇我氏や孝徳天皇であり、中大兄皇子らは抵抗勢力だったのではないかと言われる。それは、その時代の新興勢力であった蘇我氏は、旧勢力である物部氏や大伴氏等のように中央での大きな既得権や部民を持っておらず、旧氏姓制度を解体し律令制度を導入したほうが蘇我氏にとって都合がよかったようだ。また、蘇我氏が抱える渡来系氏族も旧氏姓制度の解体を望んだ。
孝徳天皇は難波朝で蝦夷を饗応したようだが、それ以前から蘇我氏は日本海側の蝦夷とは親しく、饗応していたようだ。その流れは、物部氏宗家を倒した後の蘇我蝦夷や入鹿の代には既に日本海側の蝦夷だけでなく古東山道を通して北関東の蝦夷まで広がっていたようだ。蘇我氏と蝦夷の関係が良好だったのは、蘇我氏の同族(出雲族系)が早くから東国へ進出し蝦夷との関係をつくってきたからではないか。そこはやがて渡来人たちの入植の地にもなった。
私の住む神奈川県の相模国総社は「六所神社」である。式内社ではない。この総社は元もとあった柳田大明神に国内の主な祭神を勧請して総社「六所神社」としたものだ。
社伝によると、崇神天皇の時代、出雲国(現在の島根県東部)より移住しこの地を開墾した人々は、この地を柳田郷と名附け、出雲の祖神である櫛稲田姫命・須佐之男命・大己貴尊を祀って柳田大明神と称したという。柳田大明神は現在の総社「六所神社」より北西1kmの石上台(伊勢神台)に社殿を築いて、『六所明神之縁起』によれば、創建の年は崇神天皇甲申年と伝えられる。
櫛稲田姫一族は、瀬戸内海にも進出しているが、そこから海人族と協力して太平洋側を東に進出したようだ。櫛稲田姫の名から、稲作を東国へ広めた一族の一つであろう。これらの一族はやがて古墳も造ったようだ。
大神神社も「惣社六所大明神」と呼ばれていたが、全国に六所神社はいくつもある。そのうち総社であるものは次の6つである
出羽国総社 六所神社(山形県鶴岡市)
安房国総社 六所神社(千葉県館山市)
武蔵国総社 六所宮(現名称「大國魂神社」)(東京都府中市)
下総国総社 六所神社(千葉県市川市)
相模国総社 六所神社(神奈川県中郡大磯町)
出雲国総社 六所神社(島根県松江市)
出雲国総社が六所神社というのが注目される。一般的に六所とは六柱祀っていることを指すが、全国に主な神社だけで30ほどあることを考えると、六柱祀っていることだけではなさそうだ。
この6柱のセットは東国(特に関東地方)に進出した出雲族を祀ったものだったという可能性はないのだろうか。武蔵国造などに出雲氏の名前が見える。
素戔嗚の子は八王子として祀られるが、全てが櫛稲田姫命との間の子ではないとされる。素戔嗚には妃が数人いたとされる。京都の八坂神社には素戔嗚尊の妻として櫛稲田姫命の他に神大市比売命、佐美良比売命が祀られている。また、素戔嗚とアマテラスの間には宗像三女神が生まれている。
私は関東を中心に祀られる6柱のセットは、素戔嗚尊と櫛稲田姫命とその間に生まれた4人の子どもの合わせて6柱ではなかったかと想像する。あるいは出雲族を代表する6柱だったのではないか。
総社の六所神社は関東に多い。「六」で想起されるのは第六天魔王を祀る第六天神社である。第六天神社の分布については関東地方が中心であるが、東北地方や中部地方にも存在している。一方で、長野県および静岡県より以西にはほとんど見られない。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡の中で、織田信長は第六天魔王を信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたとされる。
織田氏の出自は、福井県丹生郡越前町(旧織田町)にある剣神社の神職にまで溯れる。剣神社 の主祭神は素戔嗚尊である。信長は素戔嗚の信奉者であったことは有名で、神社仏閣を焼いても、祭神が素戔嗚である神社は焼かなかったので、信長に焼かれないために祭神を素戔嗚に替えて欺いた神社もあったほどだ。
信長が自らを「第六天魔王」と名乗ったのは、第六天神社に祀られていたのが素戔嗚一家であることを知っていたからであろう。第六天神社は六柱の天王を祀る神社だった可能性がある。素戔嗚が牛頭天王と呼ばれるように素戔嗚一家は天王として祀られていた。
そこに「魔」を入れて「六天魔王」とし、さらに6柱であったことを隠すために「第」を入れて「第六天魔王」にしたのは、伊勢神宮を皇祖神として祀った中央の祭祀者で奈良・平安時代をかけて改変していったのだろう。
7世紀の後半、大王(おおきみ)から天皇と名乗りを替え、記紀により天皇家の正統性と正当性を構築するに当たり、この6柱の天王はどうしても消えて頂く必要があったのだ。神々の世界で国譲りをして頂くのは大国主命だけでは済まなかった。
私はこの消された6柱の中に、八島野尊がいたのではないかと考えた。八島野尊は6世紀に蘇った蘇我氏のルーツに繋がる神であったかもしれない。八島野尊の他の5柱に増しての悲劇は、蘇我氏の本流と繋がっていたからではないか。素戔嗚は新羅あるいはもっと北のモンゴルへのパイプを持っていたようで、早くから鉄器の流通に関わっていたのだろう。それは後の蘇我氏が渡来系氏族の擁護者になることにも繋がる。また鉄の流通だけでなく騎馬民族とも交流し、乗馬の文化を導入したのも出雲族だった可能性がある。素戔嗚の軍が強かったと云われるのは、馬の機動力と鉄器によるものだったのだろう。
8世紀以降、朝堂は藤原氏に牛耳られる。その藤原氏の正当性は祖である鎌足が中大兄皇子と共に蘇我入鹿を討ったことである。討ったと云っても暗殺である。つまり、藤原氏の大義名分は蘇我氏が悪であることにより成立する。その蘇我氏が大和朝廷創建メンバーに繋がる名門であっては困るのである。
稲目 → 馬子 → 蝦夷 → 入鹿 と朝堂の中心にいた蘇我氏であるが、その出自が未だにはっきりしない。氏姓制度がまだ厳しかった6世紀に大臣になるのは、いい加減な家系ではなれないし、まして天皇家の外戚になるためにはそれなりの家格が必要だったはずだ。恐らく馬子、蝦夷、入鹿などの名も本名ではないであろう。同時代の蘇我氏の摩理勢や倉麻呂という名に比べて蔑まれた名のように感じる。
名門蘇我氏の過去は、その後何代にもわたって繁栄した藤原氏によって徹底的に消され続けた。蘇我氏のルーツに繋がる八島野尊も消されたのであろう。
藤原氏は中臣氏を傘下に置き、神々を管理させた。また、六国史などの歴史書の編纂には必ず加わり目を光らせた。
『古事記』や『日本書紀』にも藤原不比等の目が光っていたことは間違いない。この時は特に長男の武智麻呂にこの役目をやらせたようだ。そのために一時、武智麻呂は弟の房前に昇進で抜かれている。房前が先に参議に任ぜられ、武智麻呂に先んじて公卿となっている。それほどこの役目は藤原氏にとって重要だったのだろう。
901年、菅原道真は藤原時平に讒訴され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され、903年に現地で没した。亡くなった場所には太宰府天満宮が建っている。
この事件は、朝堂で道真が藤原氏を脅かす存在になったから排除されたというのが一般的だが、私はそれもあるが、道真が歴史書の編纂に関わったことも大きな要因ではないかと考える。
菅原氏は、道真の曾祖父菅原古人のとき土師氏より菅原氏に改めた。土師氏(はじし)の祖は野見宿禰で、天穂日命の末裔とされる。天穂日命は天照大神の子とされ天津神とされるがこれは怪しい。何れにしても野見宿禰は出雲氏であろう。野見宿禰は殉死者の代用品である埴輪を発明したとされる人物で、相撲の達人でもあった。
古代豪族だった土師氏は技術に長じ、出雲、吉備、河内、大和の4世紀末から6世紀前期までの約150年間の間に築かれた古墳時代の、古墳造営や葬送儀礼に関った氏族である。その土師氏の末裔が菅原道真であり、出雲氏の血を引く。
菅原道真は、六国史の一つ『日本三代実録』の編者であるが、『日本三代実録』は左遷直後の延喜元年(901年)8月に完成している。左遷された事もあり編纂者から名は外されている。もちろん編者には藤原時平が加わり目を光らせていた。
道真は右大臣の位置にあったので、歴史書編纂に当たり宮中にある過去の史料まで自由に閲覧できた。道真の不幸はそのことにより、藤原氏の歴史改竄を知ってしまったことである。学者でもある道真はそれを糺そうと考えた。そのことは藤原氏全体を敵に回すだけでなく天皇家にも影響を与えることであった。
道真は後世天満天神として祀られることになる。なぜ天神さまなのか? それは道真は土師氏を通して出雲氏に繋がり、出雲の一之宮である熊野大社で祀られる素戔嗚に繋がるからである。
「通りゃんせ 通りゃんせ ここはどこの細道じゃ 天神さまの細道じゃ ちっと通して下しゃんせ 御用のないもの通しゃせぬ この子の七つのお祝いに お札を納めにまいります 行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」
『通りゃんせ』は、江戸時代に歌詞が成立したと見られるわらべうたで、作詞者不明である。
ここで私は再び大神神社の御鉾祭に引き戻される。
大神神社のパンフレットから秋季例大祭の載せる。
『 秋季例大祭 鉾祭
おほこさま、くるめさまとも言う。
大神神社は今から約1800年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられるが、鉾祭はその時から始まったと伝わる。大規模なこの神事は現在も当時のままの型を残し近郷にない珍しい祭である。
毎年11月23日(勤労感謝の日)を軸に3日間(戦前は1か月、戦中は10日、戦後は3日)となる。
境内にお仮屋(お旅所)を作り、御神体のお鉾を出御し、中の日におひもとき、還御祭、最終日に翌日祭があります。
秋季例大祭は大勢の来賓をお招きして行われます。翌日祭終了後、年番の受渡しの行事がある。ドブロクを9合入りの大盃(木盃)で78枚の呑み分けが出来るまで続ける。(昔は関東三奇祭の一つと言われた)
この祭の主役はくるめさまという初潮を見ない少女で、神に仕える大切な役をします。いつの頃からか、花見ヶ丘蓮華寺に伝わる大蛇得度の伝説の中で大神神社の社司の一人娘が人身御供にされたことからか、くるめさまが人身御供と伝わってしまったようである。
親鸞上人(1173~1262)の室八嶋滞在の時に出来たらしい。
当地境内地には親鸞上人草庵のあと、弓削道鏡に関連した所もある。 』
親鸞上人(見信大師)は思川岸の大蛇済度伝説で有名だという。
私は「くるめ様」から、福岡県の久留米を連想してしまった。ここには水天宮があるし隣の八女には八女古墳群や岩戸山古墳などがあり古代豪族磐井の本拠地とされる。また、宗像三女神にも鉾にも繋がる。
『通りゃんせ』の歌詞にある、“この子の七つのお祝いにお札を納めにまいります 行きはよいよい帰りはこわい こわいながらも通りゃんせ通りゃんせ ”が気になる。
七つになった子は女の子であろう。日本の神まつりの闇は深い。
菅原道真は太宰府や京都など縁の場所だけでなく、全国で祀られた。道真が全国的に知られていた訳ではない。道真が知られていたのは京や太宰府や国司として赴任した土地の人ぐらいであろう。
なぜ道真は全国で爆発的に祀られたのだろう。
それは、道真が没した時代にはまだ全国で出雲神こそ日本の中心の神であることが知られていたからである。道真を祀ることに託けて、素戔嗚やその一族をも祀ったのであろう。
道真は太宰府に流された。天皇家の女子を治療した玄昉は筑紫観世音寺に流され、弓削道鏡(物部弓削連)は下野薬師寺に流された。玄昉も道鏡も宮中に出入りが自由だったので、古い歴史史料を見て天皇家の秘密を知ってしまったのかも知れない。そして、古代の大豪族物部氏に繋がる弓削道鏡は、法王だけでなく称徳天皇から天皇の位を譲られてもよいと考えたのかもしれない。
天皇家の存続のために女性宮家の創設が議論されているが、天皇家の女性に近づく男性が不幸にならなければいいのだが……。
鉄器を持った稲作の民として、出雲族は東国へ進出したのであろう。彼らは土木工事をした。古墳も造った。
地球規模の気候変動はあり、平安時代は温暖期だったが、古墳時代は寒冷期だったとされる。寒冷期には食料の確保が難しくなる。従って、稲などの食糧を溜め込んでいる側と、それを分けて貰う側の地位の格差が広がる。つまり与える側は与えられる側を奴隷のように使役することができる。大きな古墳を造営する労働力はこのようにして生まれたと解く研究者もいる。
古墳時代の寒冷化に伴い、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し、西南日本から北上して来た古墳文化の担い手と接触・交流していたことが、考古学的に明らかとなっている。
関東地方ではこれより早く古墳時代がおとずれたようだ。北関東や福島県辺りまでは、記紀で云う崇神天皇の時代には、古墳時代に入っていたのではないか。
神々の世界でも出雲族は天孫族よりも蝦夷との関係は古く良好であったと考えたい。
その出雲族の一派である蘇我氏が中央で復活した。
継体天皇の子である宣化天皇の時に蘇我稲目が大臣になっているから、蘇我氏は継体天皇と一緒に北陸辺りから中央へ返り咲いたのかもしれない。宣化天皇の母が尾張目子媛(尾張連草香の女)であるから、尾張から中央へ出て行った可能性もある。何れにしても継体天皇がらみだったのだろう。
戦国時代に素戔嗚の化身が現れた。織田信長である。彼が天下を取ることを一番恐れたのは、武家ではなく公家の藤原氏だったのだろう。「天下布武」を掲げる第六天魔王である信長は、旧来の権力を全否定する。もし、信長が天下統一を果たしていたら、彼は日本国の天王になったことだろう。その時には天皇は天王の陰に静に消え入るか、天上に帰るか、冥界に消えるかしかなかったのであろう。
昭和天皇は「人間宣言」して現人神(あらひとがみ)であることを否定したとされるが、以前その詔書を読んだことがあるが、どこが人間宣言なのかさっぱり分からなかった。
今上天皇のことを神だなどと思っている日本人はいない。昨今、天皇の譲位が話題になっている。神なら引退できないが、人間なんだから引退させてあげて、楽にしてあげたらいいのに、ということで国民の意見は一致しているようだ。
今の天皇は日本国及び日本国民統合の象徴だという。何が象徴だかよく分からないが、象徴の誕生日が国民の祝日で休日になるのは嬉しいことだ。男女平等の世の中である。天皇が象徴ならそれを支える皇后も象徴でもいい。皇后の誕生日も国民の祝日で休日にしたらどうだろう。
昭和天皇の誕生日が「昭和の日」として国民の祝日で休日になっている。平成天皇が譲位して上皇になったら、上皇が崩御するまでは「平成の日」として国民の祝日で休日にするべきであろう。上皇の誕生日も祝ってあげたいではないか。本音は休日がほしいのですが……。
室の八洲の小島に祀られている神の名は 香取神宮。二荒山神社。熊野神社。富士浅間神社。雷電神社。鹿島神宮。太宰府天満宮。筑波神社。いずれもタケミナカタをご祭神としているのではないでしょうか?
内容紹介
縄文時代から続いてきた御柱祭、大木を切り倒した道具は石か鉄か? 諏訪湖周辺に出土する薙鎌や高師小僧の存在は何を物語るのか。“古代製鉄王国”の信州の遺跡と祭と神々の解明を通して日本古代史の真実に迫る。(2006.7)
前書きなど
平成一六年、七年に一度の諏訪御柱祭が諏訪の男衆の血を沸かして終わった。御柱祭が縄文時代からの祭だろうと思ったのは未だ私が若い頃だった。各地の歴史の七不思議などに非常に興味を抱き、関連書を読み漁ったものだった。そんな中に諏訪大社の七不思議があった。もっと科学的見地から七不思議を解いてみたい、信州や日本の古代史の不思議をもっと科学的な観点で見れば多くは解けるはずだと興味を持った。平成一六年五月、不思議が詰まった七年に一度の御柱祭がまた巡って来た。
日本には、多くの祭りが各地に古くから延々と伝承されているけれど、その多くの祭りの謂れは祭る人々の心から消え去って形式だけが伝承されている。しかし祭の不思議さは、その形式化した祭を演じた時、人々の感情が高ぶり一団となって「訳やいわれ」よりも「血が湧き、心が高揚」して酒や太鼓の勢いに酔い、古代の祭りのルーツを実感したり、体感したりして納得する。
そうした文化としての〈祭〉を人類の風習・習慣・遺産として延々と地上の皺の中に残してきた人類の智慧の不思議を思う。そして先祖の伝承を延々と受け継いできた彼ら地域住民のエネルギーとプライドに感じ入る。
とりわけ信州には日本一危険な諏訪の御柱祭や、北信の野沢温泉村の道祖神火祭や、南信の霜月祭など様々な古式ゆかしい祭が伝承されている。どの祭も純朴で古き良き情緒があり、その上豪壮で情熱的で、見る人を祭に同化させるエネルギーを発する祭りだ。それらの祭りは奈良時代以降に、その地に何の根拠もなく突然に祭られるようになったのだろうか?。
土の中から掘り起こされる遺物や遺跡は遥か六〇〇〇年も以前からの先祖達の生活を無言で伝えてくれている。それらのメッセージに対し科学的根拠もない多くの間違いのまま、時代を決定付けて後世に伝えてしまうもどかしさ。一市井の筆者が考えてきた“科学的な”諏訪の縄文古代史を、御柱祭と言う特異な祭りにスポットを当て、御柱祭の本質を一度じっくりと皆さんと共に考えてみたいと思う。
ところで、自然界には厳然と存在する科学の法則がある。例えば火力の強さを一定時間維持することで鉄や銅や金銀などの鉱石が溶解する事や縄文土器が焼き上がることなどだ。こういった科学の法則を人類の古代史に当てはめると、人類が営々と築き、科学してきた文化があり、人知では動かし難い自然界の中にある科学の法則によって、無作為で多くの文化が生まれ、その新しい変化の本質を究明し、生活に活かし発展させてきた縄文人や人類の好奇心に驚く。中でも火力の持つ科学的変化を利用してきた縄文人達の知的興味には目を見張るものがある。
古代史を科学的に見ようとする場合、例えば鉄(褐鉄鉱)は摂氏四〇〇度程度の低火力温度で熔け始め、五〇〇度前後で鎔解が止り、八〇〇度前後から再び熔解が始まるという。また鉱石に不純物が混じると、鉱物の熔解温度が下がるという不思議な法則もある。銅鉱石や金鉱石や錫や銀も他の自然界に存在する鉱物などは、火熱温度によってそれぞれ熔解を始める。温度の高低は鉱物によって各々異なるが、加熱により各鉱石は熔解するという自然界の法則が存在することを見逃すわけにはいかない。またそのことを抜きにして人類の古代史は解明できない。そうした自然界の不思議な現象でもたらされたものを縄文古代人は〈神〉と呼び称えた。日本の信仰の原点にある自然の岩石などへの崇拝はここから始まっていると思う。
縄文人達は延々と縄文土器を焼いてきた。その文化は火と土と風を科学し、生活に利用した文化だ。そし紀元前四〇〇〇年頃(六〇〇〇年以前)日本の中心にある信州諏訪地域に縄文土器文化が花開いた。後年、縄文中期の諏訪に繁栄した土器模様を〈水煙土器〉と呼ぶ。一方、新潟地域の同時代の土器様式を〈火炎土器〉という。名付けの謂れは諏訪地域は水煙が渦巻くような模様であり、新潟地域の土器は火がメラメラと燃え上がり野を燃え尽くしていくような模様だからというが妙を得た命名だ。
事実、諏訪の地は諏訪湖を中心に湖に流れ込む幾筋かの川が文化を作り上げて行った水の文化だ。一方、新潟には太古から今も燃え続けている天然ガスが自然の中で高温燃焼する、という天然ガス火力利用文化があった事が推定される。『古事記』に大国主命が越の国のヌナカワ姫と結婚し、遠い古代にヌナカワ姫のいた新潟県(越の国)が重要な位置に有った事がわかる。そのように自然界と共にあった縄文人達は水と火という自然の恵みを土器の中に模様として率直に表した。同じ時代でありながら諏訪と新潟という地域文化の違いをはっきり見ることができる。厳然と存在する自然界の科学の法則とともにあった人類の先祖の足許に、ちょっとメスを入れ日本の超古代史の真実を探ってみた。
版元から一言
本書を推す
千葉大学名誉教授 多湖 輝
私は、若い頃から常識や固定観念を捨てて、新しい視点で物をみつめ直すことを、主張してきました。
先日、日本古代史を研究していらっしゃる百瀬高子さんから思いもかけぬ原稿を送っていただきました。日本古代史など、私とはむろん、無縁の世界なのですが、先生は、私の「発想の転換」や「盲点力」的視点で、日本古代史を見直してみると、思いもよらぬ発見があるとおっしゃいます。なるほど読み進むうちに、古代史を解く発想の中には、「頭の体操」を解くのと共通の面白さが随所に満ちあふれていることが分かり、私は思わず魅き込まれてしまいました。この本には、確かにこれまで難解とされていた古代史を、推理小説を読むような感覚で興味深く読むことが出来、知らぬ間にまったく新しい世界に誘ってくれる魅力があります。
日本古代史の謎に触れ、興味を持つための本として、ぜひ、たくさんの方々に、読んでいただきたいと思います。
著者プロフィール
百瀬 高子(モモセ タカコ)
〈著者紹介〉
長野県出身
東京都公務員退職後古代史研究
著書(私家版)
・『超古代国家・神州は実在した』(1987年)
・『なるほどザ神話・そして人間』(1986年)
・『黄金の国ジパング・東松山市と金環』(1993年)
目次
第1章 御柱祭を科学する——御柱祭は鉄器時代(縄文時代)からの祭!?
1 諏訪大社は縄文鉄器時代の製鉄王国
2 薙鎌の不思議
3 御柱祭と鉄鐸
4 御柱祭と鉄斧
5 風の神・諏訪大社主神
《コラム》越中おわら風の盆
《コラム》諏訪大社御柱祭の幼男児の生贄の真相を哲学する
第2章 御柱祭をもうちょっと科学する
1 製鉄材料のカッテッ鉱(高師小僧)と焚火の温度
2 縄文・鉄器時代
3 縄文時代に製鉄文化があった科学的な可能性
4 科学的に見た縄文古代史への大きな疑問と五つの課題
①巨木文化は縄文時代中期遺跡
②火力温度による貴金属の熔解
③渡来文化技術による古代文化成立説の古代史編年基準への疑問
④天然ガスが新潟でも千葉でも採取でき、秋田では油が湧いている
⑤墳墓は先祖の文化の象徴
《コラム》お盆やお彼岸や年中行事
第3章 信州の遺跡と祭と神々と鉄器時代
1 諏訪湖周辺製鉄遺跡
2 安曇野の神々(縄文時代中期後半以降)
《コラム》村の外れの道祖神達(三貴神神話と道祖神祭の心理的考察)
3 北信の神々(善光寺如来と守屋柱)
《コラム》時代考証
《コラム》私の善光寺参り
4 東信の神々と文化
5 南信の祭と文化
第4章 埴輪の用途は?? 埴輪を科学する・そして心理的考察
第5章 東日本に繁栄した縄文後期の鉄刀文化
第6章 三角縁神獣鏡出土統計とルーツを探る
第7章 黄金の国ジパング・金環・東松山市と周辺文化
《コラム》秦の始皇帝墓
《コラム》信州のズラ・図良(ずら)言葉のルーツ
室の八洲に祀られているちいさな祠→香取神宮。二荒山神社。熊野神社。富士浅間神社。雷電神社。鹿島神宮。太宰府天満宮。筑波神社。
https://rekisisuki.exblog.jp/19528766/ 【鉄と神】
人間と鉄との出会い
隕鉄―小惑星の核のニッケルを多く含む鉄。核の冷却速度が遅いため特異な組織をもつ
砂鉄、鉄鉱石―山火事、たき火などで鉄に還元され、偶然発見されたと考えられる。
製鉄のはじまり
鉄の精錬技術を独占していたBC20世紀ヒッタイト(トルコ)からといわれる。ヒッタイト帝国はBC19世紀に歴史に登場する。エジプトの全盛時代、ラムゼス2世と互角に戦うが、BC12世紀に衰退する。それを契機に製鉄技術が広まったといわれる。
日本の製鉄のはじまりの通説
日本は、弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入(韓鍛冶)しており、石器時代から青銅器時代を飛び越え鉄器時代に突入したと言われている。しかしながら、『魏志』などによればその材料や器具はもっぱら輸入(鉄挺・鉄素材)に頼っており、日本で純粋に砂鉄・鉄鉱石から鉄器を製造出来るようになったのは、たたら製鉄の原型となる製鉄技術が確立した6世紀の古墳時代に入ってからだと考えられており、たたらによる製鉄は近世まで行われる。製鉄遺跡は中国地方を中心に北九州から近畿地方にかけて存在する。7世紀以降は関東地方から東北地方にまで普及する。
古代製鉄の条件
1.日本列島の地質は砂鉄が多い!
花崗岩から構成され」花崗岩には磁鉄鉱が多く含まれる。
日本の場合、ユーラシアプレート、太平洋プレート、
北米プレート、フィリピンプレートがぶつかり、
巨大な圧力によって近くの花崗岩が砕かれる。
それでもろく風化しやすい。
結果、磁鉄鉱が粒になった砂鉄が多く、
世界の三大砂鉄産地といわれる。(ニュージーランド、カナダ)
(関岡正弘)
2、森林が多い!
朝鮮に木が少ないのは古代製鉄のためであると
司馬遼太郎はいっているが、
日本は森林を伐採し、植林することで再生が早い気候である。
3、風通しのよい丘陵!
鞴(ふいご)など風を送る装置が考えられる前は自然風を利用した。
4、水が多い!
鉧(けら)の冷却、砂鉄の鉄穴流しに利用。
鉄の発見
砂鉄―地表に近い所に砂鉄があり、その地表で土器を焼いた時、砂鉄から還元された鉄が得られた可能性がある。
砂鉄のたくさん含まれる浜辺で焼いて偶然鉄を発見したかもしれない。
餅鉄(もちてつ・べいてつ)―東北には餅鉄という純度の高い(鉄分70%)磁鉄鉱がある。
大槌町(岩手・遠野、釜石に隣接)あたりに古代製鉄遺跡がみられる。
明神平では3600年前のカキ殻の付着した鉄滓が出土している。
明神平には小槌神社があり、現在の祭神はヤマトタケルだが、
もとは、古代の製鉄を普及した先人が祀られていたという。
この縄文人はお盆状の野焼き炉に餅鉄とカキ殻をいれて火をかけ、
矢鏃、釣り針を作ったらしい。
ちなみに舞草鍛冶は、岩手県一ノ瀬の舞川あたりでとれる餅鉄の製鉄が
発祥といわれる。(HP劇場国家日本より)
高師小僧(たかしこぞう)
愛知県豊橋にある高師原で発見された褐鉄鉱の塊のことである。水辺の植物の根に鉄バクテリアの作用で水酸化鉄の殻を作る。時を経て植物が枯れ中央に穴のあいた塊が残る。高師原に戦前陸軍の演習場があって雨が降ると頭を出し、幼児が並んでいるようにみえたことから名付けられた。
全国の製鉄遺跡がみつかった場所に多くみられる。
代表的なところが諏訪地方、大阪府泉南市、滋賀県日野町別所などがある。
諏訪の川には葦が茂り、諏訪湖のほとりも葦がたくさんある。ここにスズといわれる塊が製鉄原料として使われた
スズ=褐鉄鉱の塊=高師小僧=みすず=鳴石
「三薦(みすず)(水薦(みこも))刈る 信濃の真弓 わが引けば 貴人(うまひと)さびて いなと言わかも」
みすずは信濃国の枕言葉で、「みこもかる」は「みすずかる」ではないのかと賀茂真淵が唱えたことからみすずは、スズ竹のことであるといわれた。スズ竹は、篠竹で諏訪に多く産する。
うたの意味は「この弓を引いてあなたの気を引くのは貴人みたいで、あなたはいやがるかしら!?」という意味である。
湛え神事
諏訪大社の古い神事のことで、高鉾につけられた鉄鐸が使用される。
鉄鐸は、てったく・さなぎと呼ばれ銅鐸の原形といわれる。湛え神事は作物の豊穣を願う神事といわれているが、スズの増殖、鈴なりに地中に生成されることを願ったのではないかと考えられてきている。
諏訪大社
祭神は建(たけ)御名方(みなかた)命(のかみ)(南方刀美命)で、出雲の国譲りで納得できず諏訪に逃げてきた神である。
土着の洩(もり)矢(や)神(しん)を制し祭神となった。洩矢神は鉄輪を使い、建御名方命は藤の枝を使って戦った。
藤は砂鉄を取り出す鉄穴流しで使うザルで、この話は製鉄技術の対決だったという。
古代鉄関連地名・関連語
砂鉄 : スサ(須坂)・スハ(諏訪)・スカ(横須賀)・サナ(真田、猿投)
錆 : サヒ(犀川)・サム(寒川)・サヌ(讃岐)
鍛冶:鍛冶ヶ谷、梶ヶ谷
ズク、銑鉄 : スク~ツク(筑波)・チク(千曲川)
穴に住む人、鉄クズ : クズ(国栖)・クド(九度山)
踏鞴 : タタラ(多々良浜)・ダイダラ(太平山・秋田)―ダイダラボッチ伝説
吹く : フク(吹浦)・イフク(伊吹山)・吹田
鉄穴流し : カンナ(神奈川・神流(かんな)川) 鉄の古語 : ヒシ~イヒシ(揖斐川)
朝鮮語で刀 : カル(軽井沢)・カリバ(狩場)
溶けた鉄 : ユ(湯沐村)・ヌカ(額田) 水銀 : ニ(丹生、新田)
葉山―羽山―羽黒―鉄漿
芋―鋳物―イモー溶鉱炉―炭―鋳物師(いもじ)村―鋳母(けら)
別所 : 浮囚 、製鉄地
百足:東北地方の鉱物の呼び名―赤百足(金、銅)・白百足(銀)・黒百足(鉄)・縞百足(その他の金属)
砂鉄を熔解し、湯出口(ゆじぐち)からノロ(鉄滓)を吐き出す。これを沸ぎ間(たぎま)という。
最初のノロを初花という。
頭領は砂鉄を扱うのが村下、木炭投入が炭坂という。
丸三日のかかり一夜(ひとよ)という。
初日の炎の色は朝日の色、中日は昼間の色、三日目は夕日の色になる。鉄塊をコロといい、叩き割って鉧(けら)と銑(ずく)を分ける。
鉧は鋼鉄、銑は銑鉄の原料となる。
青と呼ばれる真砂からは、鉧が多く赤目という砂からは銑が多い。
真砂は鉧押法(けらおしほう)といい、赤目は銑押法(ずくおしほう)という。
これを踏鞴吹き(たたらふき)といい、大きな鞴を使った。
火炉(ほど)は女陰、風の吹き込み口を羽口というがそれを陽根にみたて、鉄の生産=出産にみたてる。
ところが、人の出産は、忌避され女房が出産するとひと月近く夫も高殿(たたら)には入らない。
女も高殿には入れず、山内にいる女性は飯炊きのみである。
番子(送風を足踏みで行うこと)で足を痛めるので「ビッコ」をひく。
火炉を見つめ、目を悪くするので目鍛冶から「めっかち」「がんち」といわれる。
口で火を吹くさまから「ひょっとこ」といわれる。
金屋子信仰―白鷺にのって出雲に降り立ち、桂の木(神木)で休んでいたところ、土地の宮司の祖先阿倍氏に会い、製鉄を教えた。
中国地方各地に伝説があり、村下となった。
一般に女神とされる。麻につまずいて死んだので麻が嫌い。
犬に追いかけられて蔦に登って逃れようとしたが蔦が切れて落ち、犬にかまれて死んだので蔦と犬は嫌い。
他説では犬に追いかけられみかんの木に登り、藤に掴まって助かったのでみかんと藤は好き。
死体を桂の木に下げると大量に鉄が生産できるので、死体を好んだ。
自分が女性なので、嫉妬からか女性が嫌い。村下は女性のはいった湯にはつからない。
鉄・鍛冶の神
稲・・稲妻・・雷神・・餅・・武甕槌大神タケミカヅチ(宮城・塩釜神社)賀茂別雷命(京都・上賀茂神社・葛城を本拠にした渡来人で製鉄技術を伝えた秦氏の氏神)・・建御雷神(塩釜神社)
稲・・鋳成り(いなり)・・稲荷・・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)豊宇気毘売(とようけびめ))・御饌津神(みけつのかみ)・・三尻神・・三狐神・・伏見稲荷
蛇・・龍・雷・虹・菖蒲の葉・刀―建御名方神タケミナカタノカミ(大国主の子)・・諏訪大社
蛇・・三輪山・・大物主大神(おおものぬしのおおかみ)・大巳貴神(おおなむちのかみ)・・大神(おおみわ)神社
金山彦・・イザナミの子・・南宮大社(岐阜)・・黄金山神社(宮城・金崋山)
金屋子神(かなやこのかみ)=天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・金屋子神社(島根)
一つ目小僧・・片目伝説・・一目連(いちもくれん)・・天目一箇神(あめのまひとつのかみ)・・天津麻羅(あまつまら)・・多度大社(三重県桑名)・・天目一神社(兵庫県西脇)
風の神・・一目連(いちもくれん)・・多度大社・・龍田神社(奈良県生駒にあり、法隆寺の鎮守)
風の神・・蚩尤(しゆう)(武器の神・風を支配)・・兵主神(ひょうずのかみ)・・穴師坐兵主(あなにいますひょうず)神社(奈良)・・伊太祁曽(いたきそ)神社(和歌山)・・五十猛命(いそたけるのみこと)(木の神)
天日槍(あめのひぼこ)・・新羅の王家の者と伝えられる・・韓鍛冶集団の渡来・・出石(いずし)神社(兵庫県豊岡・但馬国一之宮)
火・・たたら・・火之迦大神(ひのかぐつちのおおかみ)・・秋葉神社(静岡県浜松)愛宕神社(京都右京区)
百足:三上山(天目一箇神)・赤城山(大巳貴神)・信貴山(毘沙門天)・二荒山(大巳貴神)
東南風・・イナサー東南風は黒金をも通す(鹿島)・・武甕槌大神タケミカヅチノカミ(物部の神)・・鹿島神宮
経津主(ふつぬし)・・星神・・鉱山は星が育成すると考えた・・香取神宮(千葉)鹿島神宮(茨城)春日大社(奈良)塩釜神社(宮城)
山の神・・大山祇命(おおやまつみのみこと)・・大山祇神社(愛媛)三島大社(静岡)大山阿夫利神社(神奈川)寒川神社(神奈川・古代の祭神が大山祇といわれている)
小人・・小さ子・・小人部・・一寸法師・・少彦名神スクナヒコノカミ(体が小さく大国主とともに国造りに関わる・温泉・酒)・・大国主系、淡島系神社・・出雲大社・・気多神社・・大神神社・・伊福部氏
河童・・川子大明神・・水天狗・・海御前(二位の尼と安徳天皇の後を追って入水し、河童になった伝説)・・水天宮
巨人・・ダイダラボッチ・・デイタラボッチ・・たたら・・榛名湖・・富士山・・浅間山・・筑波山・・赤城山・・浜名湖・・世田谷区代田・・相模大野の鹿沼・・鬼怒川・・利根川・・秋田太平山・・羽黒山など。
跛者・・びっこ・・足萎え・・恵比寿・・西宮神社(兵庫県西宮)
吹く・・伊吹・・伊福部・・銅鐸・・スズ・・諏訪系神社
吹く・・できもの・・疱瘡神(牛頭天王)・・素戔嗚尊・・八坂神社(京都)
丹生タンショウ・・誕生―出産、安産の神・・丹生神社(にゅうじんじゃ)(和歌山)・・丹生津姫(紀元前8世紀春秋戦国時代に渡来した呉の太白の血筋の姫)・・丹生津姫神社(和歌山)
八大天狗・・山伏・・愛宕山(太郎坊、京都)・鞍馬山(僧正坊、京都)・比良山(次朗坊、滋賀)・英彦山(豊前坊、福岡)・飯縄山(三郎、長野)・大峰山(前鬼坊、奈良)・白峰山(相模坊、香川)・相模大山(伯耆坊、神奈川)
天狗・・秋葉山(三尺坊)羽黒山(金光坊)高尾山(飯縄権現)大雄山最乗寺(金太郎)など
出羽三山・・月読命月山神社・・羽黒権現出羽(いでは)神社・・大巳貴命・・大山祇命・・湯殿山神社
鬼・・温羅(うら)・・吉備津(きびつ)神社の鳴釜神事の竈の下に温羅の首を埋めた・・死体を南方の柱に結び付けると鉄がわく(たたら)
吉備津彦命(四道将軍・温羅伝説・桃太郎伝説)吉備津神社(岡山・備中一之宮・矢立神事)・・大江山の鬼退治(銅鉱脈)・・鬼嶽稲荷神社稲荷大神
一寸法師・・清水寺(十一面千手観音)の音羽の滝、音羽山(金、銀、銅がとれ元清水寺の地といわれる・京都)
坂上田村麻呂(清水寺寄進)・・鬼退治伝説の地は、東北の鉱脈が多い
湯・・湯立神事・・大湯坐―唖(ホムツワケ火持別で、火中生誕)・・白鳥が鳴いたら唖が治った・・天湯河板挙(神(あめのゆかわたなのかみ)(白鳥を献じた人)天湯河田神社(鳥取)・・金屋子神の乗った白鷺―客神(まろうど)・・白鳥・・餅・・矢・・矢にまつわる神事(弓矢は釣針と同一・幸福をもたらし、霊力がある)
朝日・・日吉・・日野・・猿・・日光二荒山・・俵藤太・・三上山・・百足山・・炭焼藤太・・淘汰―金、砂鉄を水で淘る(ゆる)
木地師・・惟喬親王・・小野・・小野氏・・小野氏の流れの柿本人麻呂・・鍛冶・・米餠搗大使命(たかねつきおおおみのみこと)小野神社製鉄地に多くある神社
お歯黒・・鉄漿(かね)・・鉄・・羽黒山神社・・鉄を多く含むハグロ石・・鉄鉱泉・・修験道・・出羽三山・・湯殿山神社(大巳貴神)
修験道・・鉱山・・もともと修験道は神仙薬を探し求めた(水銀、ヒ素)・・不老長寿薬・・中央構造線
水銀―・・丹生・・丹生津姫(大陸から渡来した姉妹でのちに天照大神と丹生津姫になった)・・お遠敷(おにう)明神(二月堂のお水取りで若狭から水を送る神)・・罔象女(みずはのめ)(天照大神の子で漂う神)水神・・ミズハー水刃(金属)
毘沙門天・・製鉄神・・鞍馬山(鞍馬寺)、愛宕山、信貴山(朝護孫子寺・毘沙門天・奈良)
妙見神・・秩父神社(埼玉)千葉神社(千葉)日蓮宗の寺(妙見菩薩)
不動明王・・産鉄地に多い 真言宗、天台宗の寺院
虚空蔵菩薩・・妙見神・・北辰信仰・・虚空蔵山(佐賀、水銀・波佐見鉱山)虚空蔵尊(高知、金)虚空蔵尊(三重、金剛証寺、銅、クロム、コバルト、鉄、ニッケル)能勢妙見(大阪、金、銀、銅)磐裂(いわさく)神社(栃木・足尾銅山)七面天女―吉祥天―妙見神(山梨・敬慎院・甲州金)清澄寺(虚空蔵菩薩・妙見尊・金剛薩埵―ダイヤモンドのように堅く不変の金属・角閃石・斜長石・黒雲母・丹生など)
東北のキリシタン・・南蛮製鉄を伝え、伊達藩では産業擁護のため、キリシタンの多い製鉄民を保護していたが、幕府に逆らえず、処罰した。(岩手県東磐井郡大籠)
参考:金属と地名、青銅の神の足跡:谷川健一
隠された古代:近江雅和
黄金と百足、金属鬼人柱:若尾五男
日本古代祭祀と鉄、古代の鉄と神々:真弓常忠
風と火の古代史(よみがえる産鉄民):柴田弘武
鉄の民俗史:窪田蔵郎
神々と天皇の間:鳥越憲三郎
杉山神社考:戸倉英太郎
古代山人の興亡:井口一幸
弥生時代のはじまり:春成秀爾
ながされびと考:杉本苑子
伊勢の神宮ヤマトヒメ御遷幸のすべて:大阪府神社庁
古代の製鉄:山本博
古代伝説の旅(電車・バス・徒歩でたどる東急沿線):新井恵美子
靖国刀:トム岸田
鉄から読む日本の歴史、 新羅花苑(壬申の乱異聞):宇田伸夫
日本科学古典書(鉄山秘書):三枝博音
まぼろしの鉄の旅:倉田一良
古代東北エミシの謎 日本の神々:鎌田東二
鬼の日本史:沢史生
鶴見川流域の考古学:坂本彰
空海と錬金術:佐藤仁
空海の風景:司馬遼太郎
古代史を解く九つの謎:黒岩十吾
日本神話の謎がわかる:松前健
HP:中央構造線と古代史を考える
伊太祁曾さんの風土記
博物館ニュース
坂東千年王国
日立金属 和鋼博物館
ウイキペデイア