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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄の旅 Day 60 (30/09/19) 豊見城市 (2) Madanbashi Hamlet 真玉橋

2019.10.01 13:17

Former Mausoleum of Shotoku King 尚徳王御陵跡 (那覇市)


Madanbashi Hamlet 真玉橋集落 (まだんばし、マダンバシ)

Nagado Hamlet 長堂集落 (ながどう、ナガドー) [Okinawa 沖縄 #2 Day 28 (03/07/20) 豊見城市 (13) Nagado Hamlet 長堂集落 に記載]

Tukgayama Hamlet 津嘉山集落 (つかざん 南風原町)

沖縄の滞在も60日目となった。2ヶ月になるのか.... やっと沖縄が見えて来た。どんどん深みにはまって来る。それほど面白い所だ。沖縄の歴史を見ると、日本の今や将来を考えるには非常に有効と思われる。今まで日本の環境で考えていたことが、異なった視点でもっと客観的に、既成概念から外れ、より公平に見ることが出来る。しかしまだまだ知らないことの方が多く、行って直に触れてみたいところが山ほどある。いつになったら沖縄の旅が終わるのだろう。まだ日本全土の旅は紀伊半島が残っている。どこかで沖縄の旅を小休止して紀伊半島を回ってから再び継続する手はあるかもしれない。

台風18号が沖縄に近ずいて来ている。今夜からは天気が荒れるようだ。既に黒い雲が強い風にいつもより早く移動している。今日も不規則な雨が降るのだろう。今日は30分ぐらいで帰ってこれる範囲内の所に行ってみよう。


Former Mausoleum of Shotoku King 尚徳王御陵跡

第一尚氏最後の王の尚徳王は1441年、尚泰久王の第3王子として生まれ、第二婦人の子でありながら嫡子を退け王位に即位。これは先のレポートでも書いたが、第2王子の世子である中和が謀反人の護佐丸の娘の子であった事によると言われている。1460年から1469年まで在位したが、金丸 (後の尚円王) のクーデターにより王座を奪われた。個人的な想像では、尚徳王は優秀な青年だったと思う。ただその若さゆえに、人を信用できず、専制的な行動が多く、古参の家臣が離れて行ったのだろう。あまりにも自分を過信し過ぎたのでは無いだろうか。在位中はかなりの成果をあげているにも関わらず、それは家臣に評価されなかった。金丸はクーデターを起こした時は55才、当時としてはもう引退の年齢だ。クーデターを成功させるにはかなりの根回しが必要であっただろうから、主要な按司連中も尚徳からは心が離れていたのだろう。尚徳の養育役であった安謝名 (アジャナ) が、金丸はクーデターで、尚徳王の一族が殺戮された際に、首里城の京の内にあるクンダ (脹) グスクと呼ばれている場所から遺骨を持ち去り、安謝名の領地であった識名上間地区に尚徳王の墓を建てたと言われている。(余談: 殺されて投げ捨てられた王妃の脹骨 (ふくらはぎ) が崖に引っ掛かったことからクンダ (脹) グスクと呼ばれている)

墓の前には碑が立っているが、これは第一尚氏の系譜にあたる門中の人たちが建てたそうで、今でもここを訪れて御願 (ウガン) をしている人は多いそうだ。そのことから考えると、「中山世鑑」や「球陽」に書かれている様な悪逆な国王ではないだろう。

第一尚氏王統は1406年から1469年まで三世代で僅か60年しか続かなかった。尚巴志以降は各王とも在位が短命でお家騒動が多かった。第二尚氏の尚真王の様に、王統を長く続けられる方策がなされていなかったのが理由だろうが、当時はそんな余裕は無かったのだろう。この時の尚徳王は久高島で愛人のノロ と密会していたときに、このクーデターを知り、入水自殺したとか、(尚徳王の身代わりに家臣の仲程筑登之 [なかほどちくどぅん] であったとの説もあり、この尚徳王の墓のそばに小さな拝所があり、そこがこの仲程筑登之を祀っているともいわれている)、北に逃走したとかいわれている。別の説では、クーデターではなく尚徳王が急死した後に、尚徳王の世子の王への即位式で、安里大親 (護佐丸の弟と伝わる) がそれに異を唱え、即位式が中止され、金丸 (後の尚円王) が民衆に押されて即位したともある。これは沖縄の子供たちが教えられている説だが、尚徳王が急死は金丸 (後の尚円王) の毒殺説もある。別の話では、尚徳王の死後は第二王子の中和が継ぎ、中和王は約1年間、尚徳王の名で朝鮮に遣使し、明へも朝貢使節を送ったいたといわれている。この中和王は歴史上、第一尚氏の第八代王としては認められていない。このクーデターにはあまりにも食い違う多くの説がある。現在、通説となっているのは第二尚氏時代に編纂されたものなので、都合よく改竄されているだろうから、定説は事実でない可能性が非常に高い。

那覇市から豊見城市に入る。市内にある其々の字を散策。まずは真玉橋集落から


Madan Village 真玉橋集落 (まだんばし、マダンバシ)

琉球国由来記 (1713年) や遺老説伝 (18世紀初期) によれば、中国からわたってきた人々が真玉橋の東に定住し、陶窯を設けて瓦器を焼き琉球における最初の焼瓦となったという。

2019年末の時点で、人口は4,569人だが、近年は2016年を境に人口が減少に転じている。世帯数はあまり変わっていない。考えられるのは、元からの住民の転出が増え、那覇の中心まで数キロの場所なので、那覇で働いている若者の単身者の転入が増えているのではに無いだろうか?

字真玉橋の昭和20年の集落の地図と現在の街並みを比較すると、かなり変わっている様に思える。国場側に近いところは、当時の路地が残っているのだが南側の丘陵側はかなり変わっている。当時の集落の中を東西に那覇東バイパスが走り、真玉橋から豊見城へも国道11号線の幹線道路が通り、このために、当時の集落の大部分が変わってしまっている。文化財も移設されているものが多い。


Ruins of Madan Bashi Bridge 真玉橋

標高100mの識名からいっきに坂を下り、漫湖に流れている国場川を渡る。ここも何度か来たことがある。那覇港から首里城への道だった眞珠道 (まだまみち) が通り、国場川には真玉橋が架かっていた。眞珠道 (まだまみち) この間は首里側の遺跡を見たのだが、対岸の島尻側の豊見城市にも遺跡が残っていた。

この近くの真玉橋公民館の場所に真珠湊碑文 (まだまみなとひもん) / 重修真玉橋碑があり、それに真玉橋の建造の経緯が書かれていた。(この碑文は沖縄戦で破壊されたが、2000年代に再建されている)最初に架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王の1522年。その目的は、日常の政治目的 (按司などが使用)、城 (おそらく豊見城グスク) と水害防止、有事の際に島尻地域の軍勢を那覇港に集結させるためとなっている。首里と沖縄本島南部 (島尻地域) を結ぶ真珠道 (まだまみち) の一部として建造され、初代の橋は木造であった。第11代尚貞王の1708年に、5連のアーチの石橋に架け替えられた。5連のうち両端のアーチ橋は無名だが、中の3つのアーチ橋は南からそれぞれ「世持橋」「コモコ橋」「世寄橋」と命名されていた。1945年の沖縄戦の際、退却する日本軍によって米軍の侵攻を阻止する目的で破壊された。石橋への架け替えの際には、長嶺按司の居城があった長嶺グスクの城壁を壊し、その石で真玉橋築造したと伝わっている。

真玉橋は昔、増水などで橋が何度も何度も壊れるため、生贄として人柱の女性を橋の下に生き埋めにしたと伝わっている。この生贄についてはいろいろな伝承がある。別バージョンでは七色の元結を身につけた女性を生贄にせよを言い出した人はユタで、そのユタがまさに七色の元結を身につけていたとなっている。さらに、別のものは、生贄を決める為、矢を飛ばして刺さった家の娘を生け贄にしようという事になるのだが、矢が刺さったのは言い出した人の家だったため、その人の娘が生け贄にされ、橋に埋められた。この様な伝承は、劇や新作組踊にアレンジされている。


橋の神 (2020年7月9日に訪問)

伝承では真玉橋の上流側の中央部分の欄干下に香炉があったとされている。真玉橋を2002年に回収した際に、公民館がある側の橋のたもとに橋の神として祠が作られて祀られている。


重修真玉橋碑 (じゅうしゅうまだんばしひ) (2020年6月12日に訪問)

真玉橋の豊見城側の東には公民館がある。

この公民館が昔からの村屋 (ムラヤー) があった場所で、ここに重修真玉橋碑 (じゅうしゅうまだんばしひ) のレプリカが建っている。現在の石碑は1980年に台湾大学所蔵の拓本をもとに復元された物。碑文には「真玉橋は1522年 (嘉靖元年) に首里城並びに軍事的要衝である那覇港及び名は一帯を防御する目的として第二尚氏第三代国王尚真によって架けられた橋です。また、琉球王府時代には首里王府と南山 (島尻地方) とを結ぶ交通の要所 (宿道) でもありました。 真玉橋は当初は木橋であり、中橋を真玉橋、南に世持橋、北に世寄橋、両端は名のない橋でした。 1707年に改築工事が開始され翌年には木橋から石橋に架けかえられました。1809年大雨のために川が氾濫し、世寄橋が破損したため仮の木橋をかけましたが、再び破壊されました。その後、1836年に世寄橋を改築し、その北側に新たなる橋の世済橋を築き工事は終了しました。 工事にかかわった人数は最初の工事が石細工8918人、人夫が35ヶ間切から83676人、二度目の工事は石細工10258人で日用夫78226人と多くの人々がかかわっています。」と書かれている。


龍宮神 (リュウグシン)・火之神 (ヒヌカン)  (2020年6月12日に訪問)

真玉橋のすぐ西側に製糖小屋 (サーターヤー) があった。この場所に拝所がひっそりとある。龍宮神は元々は真玉橋の中の橋の下流川の欄干下にあったのをここに移して祀っている。ここは海に近いので、航海安全のために龍宮神が祀られているのだろう。火之神 (ヒヌカン) は沖縄では最も一般的な神様で、この火の神は戦後に造られたものだそうだ。

火之神 (ヒヌカン) には香炉 (ウコール) と三つの霊石 (ビジュル) が置かれている。少し火之神 (ヒヌカン) について調べてみた。火之神 (ヒヌカン) は家の守り神で、家庭では、女性から女性へと引き継がれる。実母や義母が守ってきたヒヌカンの香炉 (ウコール) の灰をもらい火之神 (ヒヌカン) を仕立て継承する。昔は、ヒヌカンはミチムン (三つもの) などと呼ばれていて、それが三つの霊石 (ビジュル) を置いている由縁だ。一般の沖縄の家庭では、毎月一日と十五日に「チィタチの拝み」や「ジュウグニチの拝み」を行うそうだ。ウチャトゥ (お茶) やお酒を捧げた後に、茶碗に山盛りにもった白ウブク (白いご飯) を三膳、供えて拝む。今での沖縄出身の主婦は、マンション住まいでも台所にこの火の神を祀り、拝んでいる人も多い。

この場所は小字では西原 (ニシバル)と呼ばれ、元々はサーターヤーがあった場所であった。そこから真玉橋の袂までが馬場 (ウマヤー) だった。

真玉橋から豊見城へ登る道の東側に、村の起源であった古島がある。今はその高台の上は住宅街になっている。


仲間世 (ナカマユー)  (2020年6月12日に訪問)

真玉橋から古島であった高台のさらなる上にある住宅街への入り口の所に真玉橋の古い時代の先祖を祀ったといわれる拝所がある。1522年に木橋の真玉橋が架けられた時代に、嘉数バンタの下方の傾斜地に真玉橋村落の最初の祖先が居住し始めたといわれている。この時代は仲間世 (ナカマユー) と呼ばれ、三戸のみの集落であったそうだ。 拝所は元あった場所からここに移設されている。 ここは西北風が強く、水も少ないために古島に移動したといわれている。


仲間井 (ナカマユーガー) 址  (2020年6月12日に訪問)

仲間世 (ナカマユー) を少し下った住宅街の一角に仲間井 (ナカマユーガー) 跡がある。このかつてはここの仲間世 (ナカマユー) の住民の井泉だった。戦前は飲料水として利用され、戦後もしばらくは、石積みの囲いが残されていた。


真玉橋古島井 (フルジマガー)  (2020年6月12日に訪問)

移動した古島は5-7世帯の集落だったそうだ。この集落は1708年に真玉橋が石橋に架け替えられた時代に形成されたと考えられている。この場所に古島井 (フルジマガー) がある。拝所には火の神が祀られており、真玉橋拝所整備事業のときにときに、同様に修復された。この井戸跡は民家の裏にあり、表示版もないので見つけるのに時間がかかった。


真玉橋拝所 (マダンバシウガンジュ) (2020年6月12日に訪問)

この古島時代を経て、国場川の流域の現在の場所に移動してきている。そこは魚介類も豊富で、農耕にも適した地であったことが理由だ。この移動して来た集落の古島の高台の麓に拝所がある。昔、真玉橋地区内には24か所の拝所があったのだが、バイパス建設に伴い、元々「大井之上」、「大井」と「地頭火の神」があったここに合祀されている。

[大井 (ウフガー)]

集合拝所となったこの場所は、元々は「大井の上」という拝所があった。この「大井の上」の入り口付近に大井 (ウフガー) がある。産井 (ウブガー) とも呼ばれている。

[大井之御獄 (ウフガーヌウタキ]

大きなガジュマルの木を囲んだ円形の石積みの中に神への遙拝所であった大井之御獄がある。多くの拝所を合祀したこの一帯が真玉橋集落の住民の聖地としての御嶽と呼ばれる様になった。

[骨神 (フニシン)]

円形の石積みの反対側には、骨神 (フニシン) がある。言い伝えでは、真玉橋架橋工事の事故での死亡者を祀っているとか、大雨で橋が流され際に、人柱をたてたという有名な伝説のその人柱となった女性を祀っているとかいわれている。

[神庭之殿 (カミナーヌトゥン)]

村落共同体の神行事に対する祭祀場。旧5月15日 (ウマチー) や旧6月15日に、根差部 (ネサブ、呑呂)、嘉数、真玉橋の神人 (ニージン) が字の儀式を終え、この殿で祭祀をとり行った。村人総出で、神酒を神に供え、字民の健康、五穀豊穣の祈願をする場所であった。

[骨神(フニシン)]

ここにもう一つ骨神 (フニシン) がある。移転合祀した骨神で、ここは真玉橋集落の門中の大屋一門中、新屋、上門、東上門小、いり金城の祖先を祀った拝所を移転合祀した骨神と考えられている。大屋は真玉橋の国元 (クニムトゥ)で、上門、新屋は真玉橋の獄元 (タキムトゥ) だ。

[臼井 (ウーシガー)、今帰仁井 (ナチジンガー)、遊庭井 (アシビナーガー)]

臼井 (ウーシガー) は後原 (クシバル) にあった井戸で、家庭に井戸がなかった時代に、て住民の生活水であった。サーターグルマの臼型の石が置かれていたのでそう呼ばれたそうだ。今帰仁井 (ナチジンガー) の詳細は不明だが、今帰仁井への遥拝所で、バイパス工事でここに移された。遊庭井 (アシビナーガー) は村屋 (ムラヤー) のアシビナーにあったといわれている。

[地頭火の神]

琉球王統時代の位階であった火の神を管理する人地頭として首里王府から派遣された役人の火の神を祀っている。元々ここにあったが、その当時はこの様な祠などは無く、自然石が置かれていただけだった。


真玉橋のアガリヌシーサー (東之石獅子) と イリヌシーサー (西之石獅子)

古島の後に移動してきた国場川の流域に、石獅子を見つけた「真玉橋のアガリヌシーサー」と呼ばれている。漢字で書けば「東之石獅子」で橋の東側を守っていた魔除け。ライオンには見えない。猿の様な愛嬌のある顔になっている。個人的にこの石獅子を見つけるのが気に入っている。いかめしいシーサーより不格好な石獅子の方が、愛着がわく。案内板には「このシーサーは、国場川を隔てた対岸の高台・カラヤームイ (または瓦屋原 :那覇市国場 )に向け置かれたものと伝えられ、一説には、カラヤームイからの風難を防ぐための守りであるとの由来が残されているが、こんにちカラヤームイの位置する北側ではなく、東側を向いていることについてはよく分かっていない。」と解説されている。

もう一つこの近くに石獅子があった。(この日は見落とし他ので10/2に来てみた) 真玉橋 イリヌシーサーという。先ほどの東 (アガリ) 之石獅子との対になっている西之石獅子だ。まるでゴジラのよう。案内板では「昔、ガーナー森 (案内板には埋め立てられる前のガーナー森の写真がある) は大きな魔物 で、真玉橋の人々を食べようと夜な夜な襲ってきた。村人が困っていたところ、天から3つの大きな石が降ってきて、魔物の尻尾を押え付けたため、魔物はそのまま動けなくなり湖面に浮かぶ小島・ガーナー森になったという。村人たちは神の加護に感謝し、以後ガーナー森が襲いかかってこないよう、シーサーを置いたと伝えられている。」と書かれている。

今日見つけた愛嬌のある現代版シーサー


真玉橋大屋 (ウフヤー) と新屋 (ニイヤ)  (2020年6月12日に訪問)

アガリヌ・シーサーから直ぐの、バイパス北側に「真玉橋大屋 (ウフヤー写真上) と新屋 (ニイヤ 写真下) の屋敷内拝所があった。大屋 (ウフヤー) は、国元 (クニムトゥ) と呼ばれた村を起こした開祖が住んだ場所で、新屋 (ニイヤ) は、大屋 (ウフヤー) の分家の屋敷。


ヒララス御嶽  (2020年6月12日に訪問)

ヒララス御獄 (ウタキ) は、漫湖 (マンコ) に面したヒララス杜 (森) にあった。かつては、標高38m余のピラミットのような形をした丘の上にあった。頂上に大岩があり、二基の香炉があった。一基は豊見瀬の御獄への遙拝所、一基はニライカナイの神への遙拝所だったという。 いまは県営住宅の建設のため、丘は消えて、県営住宅の敷地の一角に拝殿が建てられ祀られている。拝殿は地盤沈下で傾いてしまっているのだが、中に大きな岩が鎮座している。一説では竜宮の神様が宿る石と云われている。 その昔、ヒララス杜の南側に伊江島から知念姓の人々が移住したということで、知念ムイ (森) と呼ばれたこともある。この地は、爬龍船競争のハーリーの発祥の地として知られている。旧5月4日「ユッカヌヒー」には、この周辺になる豊見城、根差部 (ねさぶ、ミサシップ)、嘉数 (かかず、カカジ)、火数、真玉橋 (まだんばし、マダンバシ) の村人は雨乞い、航海安全の祈願をした。この御嶽は戦前は根差部区域管轄であったが、戦後は真玉橋区域に変更されている。ハーリーの際は、ヒララス杜に向かって、豊見城 (ジンス お神酒)、根差部 (ポーポー 豚肉の油味噌を薄い生地に包んで巻いたクレープ風の食べ物)、 嘉数 (アマガシ ぜんざい)、真玉橋 (マーミナズーネ もやし炒め) の料理をお供えした。

ヒララス御獄 (ウタキ) のある真玉橋集落の西側に二つ井戸跡があるというので、探しに行って見た。


神井 (カミグムイガー) (2020年6月28日に訪問)

神井 (カミグムイガー) が載っていた地図の場所に行くと、井戸跡が二つある。どちらだろう。おそらく写真上の井戸跡の方とは思うのだが、拝所などはない。グムイは「淀み」とか「溜まり」のことなので、この一帯が池か水溜りの様になっていて、そのほとりに水場があったのではないか? そうするともう一つの井戸跡もその水溜りの辺りにあったのかもしれない。そう考えると、当時の情景が浮かんでくる。漢字表示には「グムイ」が抜け落ちている。この神井 (カミグムイガー) はヒララス御獄 (ウタキ) と深い関係があったとされ、以前は根差部の管轄であった。


具志堅井 (グシチングムイガー) (2020年6月28日に訪問)

神井 (カミグムイガー) の近くに、もう一つグムイガーがあるのだが、それらしきものが見当たらない。豊見城高等学校 (「とみしろ」と読む。とみグスクとは読まない。) の周りが川が流れている。この近くにも池か水溜りがあったのだろう。この具志堅井 (グシチングムイガー) が記された位置にはコンクリートで囲まれた給水所の様なものがある。これが井戸跡なのかは不明だが、この近くにあったのだろう。香炉でもあれば拝所としての井戸と分かるのだが、この場所には香炉はなかった。


とよみ大橋由来碑 / ハーリー歌碑 (2020年6月12日に訪問)

この場所は漫湖に国場川と饒波川が合流して流れ込んでいる場所で、饒波川にとよみ大橋がかかっている。ここが字真玉橋に西の端で、このとよみ大橋を渡ると字豊見城に入る。この橋の袂にとよみ大橋由来碑 (写真左下) があるのだが、碑文が擦り切れて読めない。インターネットには碑文が載っていた。「とよみ大橋は、饒波川と国場川の合流する漫湖湖畔の豊見城村真玉橋と那覇市鏡原との間にかけられた沖縄初の斜張橋である。この橋のかかる漫湖湖畔は豊見城城跡を背景とした景勝地として知られて、また、都市地区では珍しい野鳥の飛来する貴重な干潟となっている。そのため橋の建設にあたっては湖畔の景観に配慮しながら水鳥の生息する干潟の空間を確保するため斜張橋という橋梁形式が採用された。また、とよみ大橋の名称は琉球の古語「鳴響む (とよむ)」にちなみ命名されたもので「とよむ」とは鳴りひびくから転じた「名高い」「美しい」「立派な」などを意味するオモロ語 (おもろさうし) の美称辞である。そのなのとおりこの橋が未来への掛け橋として末永く内外に鳴響むことを祈りこの碑を建立する。平成5年11月」

隣に南山王で豊見城グスクを居城としていた汪応祖が留学していた唐から伝え、この国場川で行なったハーリーを歌った「豊見城ハーリー歌」(写真右下) もあった。


Nagado Hamlet 長堂集落 (ながどう、ナガドー)

この日 (9月30日) は真玉橋から長胴集落に移動し、長嶺グスクを見学、長嶺按司の墓やナガンミヒージャー (長嶺樋川) 跡があった。後日 (6月12日と7月3日) に他の文化財の散策をしたので、長堂集落訪問記は7月3日のものに集約している。


この後、長嶺グスクから津嘉山に移動。


Nakama Gusuku Castle Ruins 仲間グスク

仲間グスクは、津嘉山の東側丘陵に築かれている。14世紀中頃に仲間按司によって築かれたと伝わっている。アミンの御願の由来発祥のグスク。「アミンの御願」 とは、南風原町津嘉山地区で行われる行事で、昔、仲間按司との戦いに破れ、長嶺グスクに逃げ帰った長嶺按司は井戸に落ちて亡くなったと伝えられ、仲間按司はその長嶺按司の霊を慰める為に豚をいけにえとして祭りを催した。


Tukgayama Hamlet 津嘉山集落 (つかざん)

つい今しがた訪れた仲間グスクの近くに津嘉山がある。津嘉山は高い山ではなく少し盛り上がった丘陵地帯で、何度か来ている。飛び安里の初飛行の碑や津嘉山陸軍司令部跡などを見たが、この津嘉山集落は気づかなかった。まだ時間があるので、この集落を散策をした。(津嘉山集落には2020年4月10 日に再度、訪れてじっくりと見学している。詳細は「Okinawa 沖縄 #2 Day 01 (10/04/20) 南風原町 (1) Tsukazan Hamlet 津嘉山集落

集落は丘陵地の麓にあり、集落と津嘉山の間に公園がある。ここに自転車を停め、歩く。

いつも通り至る所に拝所がある。

集落内には沖縄古来の建物の作りの民家が数軒ある。戦前のものか、戦後に建てられたのかは不明だが、沖縄では戦前からコンクリート製の家が一般的になり始めていたので戦争でも焼け残ったものと思う。昔からの沖縄瓦の屋根を乗せた長方形の平屋建て、敷地を風よけの石灰岩の石塀で囲まれている。那覇市内ではもう殆ど残っていないものだ。時折、この様な家を見かけるが、戦後に建てられたもので、沖縄瓦に似せたコンクリートの屋根の物が殆ど。戦前か戦後の物かはこの屋根を見ればわかる。

集落には村民が集まった広場が二つある。東あしびなー、西あしびなーと呼ばれている。あしびなーとは広場という意味。昔はこの広場に村民が集っていたのだろう。今は村の祭など行事で使われる場所。集落の中には数カ所の共同井戸がある。今では水道が行き渡り、多くの共同井戸は使われなくなって、史跡として保存されている。

台風の影響で風が強くなって来た。大荒れになるかもしれないので、今日はこの辺で終わりにして帰ることにする。


参考文献


[豊見城村史 1964年(昭和39)発刊・1993年(平成4年)復刻]

第9章 部落 第24節 字真玉橋


位置

真玉橋は本村の北端にあって、国場川をはさんで那覇市 (旧真和志村) 字国場と接し、真玉橋を渡れば国場区域の瓦屋原である。この橋を渡って国場区域を俗に橋の尻 (チビー)と称していた。真玉橋の東は嘉数に西は豊見城、南は根差部に接している。


古島と拝所

真玉橋の古島は嘉数部落の西嘉数端 (カカズバンタ、平松があった所) の下の方にあった。この時代を中間世と言い、中間井戸の跡がある。ここは高い所であり、狭く傾斜地であり、西北風が強いため、また水も少ないために移動したものと考えられる。移動先は現在の部落の南側から俗称松尾原 (マーチューバル) の間の平地で、ここを現在でも古島と称している。ここには古島井戸がある。古島の上に殿がある。稲二祭のときには長嶺城の御獄を拝んでから嘉数のカニマン御獄を拝み、この古島の上の殿を拝む。由来記中の神庭の殿はこれをさすようである。この古島からも東北の側に移動して現在の位置に落ちついたのである。この移動は真玉橋の橋が架設されてから後のようである (南島風土記にあり)。昔は真玉橋の碑文が立っていた道路から、新屋敷の前に通って、部落の東に出る道路が島尻中部 (東リ方) へ通ずる道であった。そしてその下の方は田園であったという。公民館の上に殿があるが、その由来は不明で、村拝みの際に拝むのである。由来記の中にも御嶽はないが、真玉橋は嘉数、根差部、金良、長堂と共に長嶺城の嶽を拝むのであるが、これは長嶺按司の管下にあったためである。それで嶽は仕立てなかったのだろう。新里屋敷の隣りに殿があり、六月二十五日に拝むのであるが、由来は知られていない。拝所としての井泉に嘉数バンタの下方、仲間世時代の井戸仲間井戸と古島時代の井戸古島井戸は現在でも拝んでいる。部落の東方 (真玉橋後原) に今帰仁井戸というのがあって崇めている。真玉橋前原に大井、前原井があり拝んでいる。


世立ち、地組、祖先

千草之巻によれば真玉橋村世立初「長嶺按司の孫二男真玉橋里主在所」としてある。これを祖先宝鑑から系統図を示せば (北山系統図参照)

右三男嘉数大主については「此の人は豊見城真玉橋村大屋にあり、その子宜保里主二男真玉橋里主云々」となっている。

また同じく祖先宝鑑より大屋についてみると(北山系統図参照)

右豊見城按司については「豊見城長堂村仲村渠と云う家なり」とあり、その三男については「同真玉橋村大屋と云う家なり」となっている。

千草之巻に云う長嶺按司はこの豊見城按司と同一人と考えられ、大屋が世立初であることが知られる。大屋について祖先宝鑑より別の系統図を示す。(為朝公系統図参照)

千草之巻によって地組始をみれば、真玉橋村地組始「今帰仁按司の採長堂大屋子在所」としてある。これを祖先宝鑑からみれば (北山系統図参照)

右浦添按司については「在所は浦添安波茶村仲間と云う家なり、その四男長堂大屋子、豊見城真玉橋村に住す」となっている。真玉橋部落が嘉数バンタの下にあったとき、仲間世といったのはこの安波茶村仲間の子孫であったためと考えられる。仲間世の墓は根差部の南チンヌハル毛の西南の端にある。この部落は二度も部落移動を行なったので、部落の御嶽もなく城内の御獄を拝んでいるのであるが、旧家の位置は一カ所に集っているのである。すなわち、根屋の大屋と並んで大屋の分家新屋があるが、両家共現在は廃家になっていて、大屋の子孫は那覇市字国場に (大屋、仲大屋) いるとのことであり、新屋の子孫は外国出稼ぎに行っているという。現在は部落によって神アシャゲが建てられ尊崇されている。公民館通りの東が大屋、次が新屋で、新屋の後ろに上門があり、新屋の前に松屋がある。松尾の東に新名加その東に仲加その東に赤嶺がある。赤嶺も現在廃家になっている。金良の仲加はこの赤嶺を拝むという。

右の仲加と金良の仲加とは祖先は同一であり、金良の方が兄の系統である。長堂仲加とも同一系統であるという。

祖先宝鑑より真玉橋関係の系統図を示します。(中城按司系統図参照)

(百名世主系統図参照)


焚字 (フンジロ)

これは中国の道教の教義から来たもので、文字を大切にするということ、ひいては文字が書れている紙片を敬重することで、沖縄でも文字を書いてある紙片を道から捨い集めて、これをフンジロ (石でかこんでこの紙片を燃す所をフンジロという) に入れて後でやいた。これは石でもって方三尺、高さ四尺位の炉を築いて、屋根はしっくいでもって塗り固め、前側面に四角の口があって、紙片を入れて、左右両側面に円形の穴があって煙を出すようにしてあった。具志頭親方蔡温時代に設けられたとも言われている。これは各部落にもあったということである。真玉橋には橋の碑文の前の溜池の側にあって後まで残っていたというが、現在はなくなっている。


唐獅子像

真玉橋には石で刻んだ唐獅子像が二基置かれている。一基はガーナー森に対するものであり、一基は国場川を渡った対岸の瓦屋原(森)に対しての魔除けの意味で設けられたものである。沖縄の瓦葺屋根の上には必らずといってよい程赤瓦としっくいでつくった唐獅子像が置れていた。これも魔除けのために飾ったものであった。戦後においても少なくはなったが、まだ残った所もある。また、まれにヒンプンの上に獅子像が置かれた家もあった。


一里塚の制定

尚巴志王代に土地測量をして、道路の里程元標 (一里塚 ッンマーサー、積囲し?) を定め、五十町は一里で一間は今の六尺五寸位であった。故に昔の一里は今の一里半と十間であったという。昔の首里から島尻南部へ (南山) の国道は首里アヤ門から金城坂を通り、繁多川の坂を上って識名、上間、国場を経て真玉橋を渡り、今の十一号線を通って一つは石火大橋をへて豊見城番所へ、一つはそのまま高安と饒波の間を通って、早瑞橋を経て平良に上り、高嶺をへて兼城村へ出た。真玉橋の碑文の側にある石囲のガジュマルが (一説には真玉橋部落の南の外れにあったという) 首里アヤ門からの一里塚であり、次は糸満町 (旧兼城村) 字阿波根にあったと言う。なお、真玉橋から字嘉数への道は碑文の所から上への道が本道であったという。橋の碑文の所から屋号新屋敷の前を東に通ずる道が那覇から島尻東、中部 (東り方)への本道てあったという。


石敢当

道のつき当たりに石敢当の三字を刻んで立てた石が見られる。この風習は中国から伝わったもので、石敢当とは力士の名で、西漢の頃の人ともいい、また晋の愍 (みん) 帝の頃の人ともいわれている。ある書に「石敢当は平生凶にあいて吉に化し、侮を籞ざ危きを防ぐ。後人故に凡そ橋路要衝の所には必ず石を持って其の形を刻して其の姓名を書し居民を護らしむ」とあり、もとは像まで刻んであったようである。これも魔除けのために建てたものであった。これも各部落にあったが戦後はあまり見られなくなった。


ノロ

真玉橋にはノ口はいない。根差部ノロの管下にあったのである。


国場川

南風原村与那覇に発し、西流して真和志仲井真を過ぎ国場字より那覇湾に入る。流長約三里、川口を字真玉橋と言う。同名の橋あるによって名づけられている。那覇市 (旧真和志村) 字国場と豊見城村との境界はこの国場川になっている。琉球国旧記巻五、江港の条に国場港と見えているが、それによると、「仲井間邑と国場邑の前にあり、邑を抱え、長流帯腰に纆ひし如くなし」と、当時としてはよく形容しているが、この川は当時全く港の如く船着場であったと思われる。伝説によればば長嶺按司は対外貿易も盛んに行ない、城は大和、唐より買い入れた瓦でもって葺いてあったとも言われている (黒糖の起源、長嶺城の項を参照)。この貿易には那覇より入って国場川を使用したものと解せられる。なお、琉球政庁時代はもちろん、明治に至るまで嘉数、真玉橋、金良、長堂やもちろん東、中部島尻からも運送にこの国場川を利用したのであった。


眞珠の塔

真玉橋西原 (松尾原に慰霊塔があり、無名戦死者の遺骨が収められている。毎年六月十五日より二十日の間に例祭が行なわれる。


ヒラナシ森

由来記にあるヒララス球の所在地で由来記には豊見城村 (むら)としてあり、戦前は根差部区域であったが、戦後は真玉橋区域に変更された。旧五月四日には真玉橋でも拝む。その南東にある知念屋取は元根差部であったが現在は真玉橋の区域になっている。