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フランクリン自伝(全)

2019.10.01 10:28

   京セラ株式会社の創業者、稲盛 和夫さんの最新著書「心」の中にリーダー論が書かれていて、そこに「アメリカ合衆国が今のような大国になることができたのは、建国のリーダーに依るところが大きい」ということを稲盛さんは話されています。「アメリカの大統領には、きわめて強大な権限が与えられている。例えば、議会が決めたことを拒否できる権限。民主主義において議会の決定事項は最優先されるべきものであるのに、一人大統領だけが、それを拒否できる」(P169)のです。「それほど大きな権限がなぜ大統領に付与されているかといえば、それは初代大統領であるジョージ・ワシントンがすばらしい人格者であったから、だというのです。徳行備わった君子であったワシントンなればこそ、強大な権力を与えても、それを濫用することなく、国を誤ることもないだろう。そう考えての処置だったそうです。事実、アメリカは意図したとおりの国になりました。もし、任命された大統領がワシントンほどの人格者でなかったら(あるいはワシントン自身がそれほどの人格者でなかったら)、アメリカの独立はあれほどうまくいかなかったでしょう。これはリーダーに必要な資質を考えるうえで、きわめて示唆に富んだ話だといえるでしょう。」(P170、以上「心」)

   このG.ワシントンと同様に、アメリカ建国に多きな役割を果たした人物に、ベンジャミン・フランクリンがいます(1706 年 1月 17日、ボストンで生まれ)。彼は「アメリカ合衆国の政治家、外交官、著述家、物理学者、気象学者。印刷業で成功を収めた後、政界に進出しアメリカ独立に多大な貢献をした。また、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにしたことでも知られている。(中略)勤勉性、探究心の強さ、合理主義、社会活動への参加という18世紀における近代的人間像を象徴する人物。己を含めて権力の集中を嫌った人間性は、個人崇拝を敬遠するアメリカの国民性を超え、アメリカ合衆国建国の父の一人として讃えられる。 」(Wikipediaより) 本書を読んでもわかりますが、B.フランクリンという人は、政治家、外交家として州(当時は、ペンシルバニア植民地というイギリスの植民地)やアメリカ国のリーダーとして、また、実業家としてアメリカ最初の火災保険会社やペンシルバニア病院を設立し、初めて暦というものをつくり(今でいう、日めくりカレンダーのようなもので、毎日めくると「今日の一言」のような、教訓や有名な言葉が載っているアレです。)、さらには、雷実験から避雷針を発明したり、、と様々な違う分野で一級の仕事をした多彩な人格者でした。

   恥ずかしながら、自分はこのB.フランクリンのことは、雷の電気実験をしたアメリカ人ということぐらいしか知らなかったのですが、例えば、彼の伝記(本書)がロング・ベストセラーのひとつになっていたり、現在のアメリカ 100ドル紙幣の顔にもなっています。間違いなくG.ワシントンと同様にアメリカ建国のリーダーの一人と言って差し支えないでしょう。

   B.フランクリンの父ジョサイアは、最初の結婚と再婚で授かった子供が全部で17人いて、フランクリンはその15番めの子でした。家庭は貧しく、学校教育は10歳で終えました。しかし、フランクリンは子供の時から本を読むのが好きで、それを見ていたジョサイアは、フランクリンの兄ジェイムズに続き、フランクリンも印刷屋にしました。印刷屋で働くようになっても、彼の読書熱は一向に冷めず、同じ読書好きのジョン・コリンズと親友になり、彼との討論を通じて、論理的に考える思考、文章を書く才能を磨きました。また、ソクラテスなどの本も読み、「いたずらに反駁(はんばく)したり、なんでも反対の論争でつっかけたりするやり方をやめて、相手の言うことに対して、謙虚に質問を出したり、疑うといった様子を見せる方法を使うようにした」と論争の方法やマナーを勉強もしました。(このことは後年、彼が集会や議会で相手を説得するのに役立ちました。)「会話の大事なことは、お互いに知ったり、知らされたり、人を喜ばせたり、説得したりということで、相手の胸くそを悪くさせる独断的で横柄な態度は、相手に反感を抱かせたりして、人間に与えられた会話の終局的な目的である知識や楽しみをお互いに与えたり、受けたりするやり方をめちゃめちゃにしてしまう。」そして、人生の後年、(断定的な言い方は避け)「私はこうでないかと思う。」とか、「もし私がまちがっていなかったらね。」という言い方を多用したそうです。この習慣は「私の意見を強要して、私の腹の中で、おしすすめようと決めた通りに、こっちの気持ちを相手に納得させる時に、とても役に立ったと信じている。」(P24)と会話における相手の説得方法を話しています。

   その後、タブロイド誌などを発行した彼は、フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館を設立します。そして、それまでなかった暦(こよみ)を販売します(前述)。そして、のちに「貧しいリチャードの暦」という名で知られるようになるこの暦の余白に、勤勉さと節約を説いた教訓的なことわざをつけて売り出し、部数を一万部にまでのばし、以後、二十五年間この暦の販売を続けました。

   彼の行動は、道徳的価値観を基盤に置いていることに特質があります。実際、彼は、1728年頃、「道徳的に完全な人間になろうとして、大胆な、しかも困難な計画を思い立った。どんなときにも過ちを犯さずに暮らしたいと考え、生まれながらの性質や習慣、それに友達に引きずり込まれそうな過ちなど、そういったものをすべて克服しようとした。私は何が善であり、何が悪であるかは自分に分かっている、また分かっていると思うから、常に善をなし悪を避けることができないわけがない、」(P120)と考え、この理想を実行するため、自らの信念を「十三の徳目」にまとめて、毎週、一週間を徳目の一つに捧げて、年に4回この過程を繰り返したのです。(この「十三の徳」については本書P122 を参照下さい。)特に、「勤勉の徳」についての記述はこの伝記の中に多く見られます。例えば、自分が若い頃、地元の名士から「あのフランクリンのように働く男は、今まで会ったことがない。とにかく私がクラブから帰る時でもまだ働いているし、朝は近所の人が起きる前から働いているんだからね。」と言われ、「(自分が)一生懸命に働いているのを、近所の人が見ていて評判も良くなり、信用もあられるようになった。」(P90)とか、「貧しい人間が出世をするには、清廉潔白であることが一番大切なものだ、ということを若い人たちに悟らせたい。」(P132)など。

   B.フランクリンは、1736年に州会の書記に選ばれ、これが出世の第一歩となり、その後、フィラデルフィアで郵便局長に就任。1743年にはアメリカ学術協会を設立。1748年からは公職に専念し、ペンシルバニア植民地議員、郵便総局長などを務め、啓蒙思想の普及に力を入れるようになります。その後、( 後のペンシルバニア大学である )フィラデルフィア・アカデミーを創設し、英領北米郵政副長官に就任。1754年に勃発したフレンチ・インディアン戦争(*)ではイギリス軍のための軍需品調達に奔走。1757年、植民地の待遇改善を要求するためにイギリスに派遣され、このとき、彼の科学的な業績を称えオックスフォード大学から名誉学位を授与(有名な避雷針に関する実験は1752年)される。1775年、大陸会議から初代郵政長官に任命され、そして、1776年、アメリカ独立宣言の起草委員となり、トーマス・ジェファーソンらと共に最初に署名した5人の政治家のうちの1人になりました。

(*)フレンチ・インディアン戦争:当時、アメリカのイギリスの植民地とフランスの植民地において、イギリス軍がインデアンとフランス軍との同盟軍と戦った戦争(1755-1763年)。 今の我々にはちょっと想像がつかないのですが、この頃のフィラデルフィアの近郊では、インディアンの襲撃が頻繁にあり、大変危険であったようです。本書において、当時、フランクリンが、「対インディアン防衛のために要塞を築く任務を知事から要請」されたり、近くの耕作地でインディアンに襲われた農民十一人がB.フランクリンに鉄砲と弾薬を貸してくれ、と頼みにくるのですが、その当日、その農民十一人中十人がインディアンに殺されてしまったり、というエピソード(P207,209)が紹介されています。

(最近、下の本を書店の新刊コーナーでみかけました。)