蝦夷
阿武隈の霧より生るる流れかな 高資
神さぶる阿武隈川や竹の春 高資
阿武隈の川面を霧と渡りけり 高資
[ 阿武隈川~蝦夷と大和の境界線 ] | 『福島の歴史物語」。ただいま ...
plaza.rakuten.co.jp/qiriya/diary/?ctgy=28 - キャッシュ
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東北歴史博物館開館20周年記念特別展!
今から1300年ほど昔、古代東北の地には律令国家の支配に属さない「蝦夷(エミシ)」と呼ばれた人々が暮らしていた。この展覧会では、最近の発掘調査及び文献史料の研究成果をもとに、律令国家の形成・発展・衰退のなかで「蝦夷」と律令国家の交流と軋轢の実像について紹介する。
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201908/20190829_13032.html
【蝦夷と律令国家、対立と交流の実像に光 東北歴史博物館で9月から特別展】より
古代東北の蝦夷(えみし)に焦点を当てた特別展「蝦夷-古代エミシと律令国家」が9月21日~11月24日、多賀城市の東北歴史博物館で開かれる。開館20周年と宮城県多賀城跡調査研究所の設立50周年を記念して企画された。出土品の展示に加え、第一線の研究者による講演会や連続講座で、東北の古代史を解き明かす。
律令国家の支配に属さず蝦夷と呼ばれた人々について、最新の発掘調査や文献史料を基に、律令国家との争い以上に交易が盛んだったことを紹介する。
年代は、多賀城が設けられる直前の7世紀後半から平泉藤原氏が滅亡する12世紀後半までが対象。国重要文化財「金装獅噛三累環頭大刀柄頭(きんそうしがみさんるいかんとうたちつかがしら)」のほか、蕨(わらび)手刀、柳之御所遺跡の「カエル板絵」など北東北を中心に出土した約300点を展示する。
9月に「律令国家と蝦夷」、11月に「古代蝦夷研究の現在」をテーマにした記念講演会を開催。連続講座は9~10月が「前九年・後三年合戦と平泉」、11月が「考古学からみた“伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)の乱”」などを題材に開く。
24日にあったプレイベントでは、アニメ映画「アテルイ」が上映されたほか、元館長の進藤秋輝さんが「古代東北統治の拠点 多賀城」と題して講演し、多くの歴史ファンが訪れた。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/materia1994/34/10/34_10_1149/_pdf
【東北の古い製鉄】 より
https://www.muroran-it.ac.jp/mat/momo/tatara/ttr/miti1.html 【みちのくの鉄】
弥生時代後期には一般的な石器が出土しなくなるが、石器から鉄器への変換がなされたかどうかは不明である。 ... 東北地方南部では、七世紀代に大規模鉄生産が開始される。 .... 秋田、青森県地方では、最近、古代の製鉄遺跡が次々に発見されている。
https://kitchengoods-yanagiya.com/nanbutekki/history/index.html
【<南部鉄器の歴史>】
製鉄技法とその歴史
南部鉄器はその名の如く鉄を主原料とし、それを様々な形に加工して製造する製鉄製品です。南部鉄器の歴史を紐解く上で、是非押さえておきたいのが鉄を主原料とした鉄製品の主な製造技法です。その製造技法には大きく分けて、「鍛造(鍛金)」「彫造(彫金)」「鋳造(鋳金)」の3つがあります。
「鍛造(鍛金)」とは、主に包丁や鍬・鋤、一昔前ならば刀などを製造する時に用いられる技法で、熱した鉄をハンマーや金づちなどで打って延ばしたり縮めたりする方法です。今日よく耳にする「打ち出し」はこの技法に分類され、鍋などの強度を上げ、表面積を多くすることにより熱まわりをよくする目的にも使用されています。
また、この技法は鉄瓶やすき焼き鍋などのツルの部分にも一部用いられており、南部鉄器を製造する上でも重要な役割を担っています。
次に、「彫造(彫金)」は刀剣や置物などによく用いられる技法で、鉄の塊を(その名の通り)彫って形を成型していく方法です。彫金には「たがね」と呼ばれる特殊な道具を使用します。分かりやすく例えるならば、金属用の彫刻刀といったところでしょうか。
「江戸彫金」と呼ばれるモノが有名で、小さく細かい加工が出来ることから装飾品に多く用いられています。
最後に「鋳造(鋳金)」ですが、これが南部鉄器の主な製造技法で簡単に言えば、「溶けた物質を型に流し込みそれを固めて製造する技法」でこのようにして製造されたものは大きく「鋳物(いもの)」と呼ばれ、南部鉄器の「鉄鋳物」の他に山形鋳物に代表される「銅鋳物」、工業製品によく用いられるアルミ鋳物・ステンレス鋳物・チタン鋳物などがあります。
鋳造技術の原点は狩猟に使う「鏃(矢尻・やじり)」で、粘土をよくこねて柔らかい粘土板を2つ作ったら、その粘土板の片方に石の鏃を半分埋め込んで形をとり、もう片方に先に形をとった反対側を押しつけて形をとります。するとそれぞれ半分ずつの形が写し出されるので2枚の粘土板を合わせるともとの鏃とほぼ同じ形の空洞が出来ます。そこに注ぎ口を作って溶けた物質を流し込み、固まったら型を壊し注ぎ口を切り離せば鋳造の鏃の完成です。この工程は数千年経った今でも、基本的に変わってはいません。
鋳造の歴史は古く、紀元前3500年程までさかのぼります。現在のイラク周辺で栄えたメソポタミア文明の頃、その地域で発生したと言われています。それから約3000年後の紀元前4世紀から紀元3世紀頃の弥生時代にその多くは中国や朝鮮半島を通り、日本に伝わったとされています。
とは言えこの頃の鋳造材料は主に「銅」で、鉄を溶かして製造する鋳鉄が生まれたのはメソポタミア文明の頃からさらに数千年後の事になります。
東北地方での製鉄
本格的に日本で鉄の製産が始まったのは3世紀から7世紀の頃(なんと古墳時代!)ですが、東北地方では遺跡から歴史を紐解くとそれとほぼ同じかやや遅れての7世紀に入ってから大規模な製産が始まったとされています。(遺跡は現在の福島県相馬郡)
また、岩手県の熊堂古墳をはじめとして東北の主に岩手県の古墳からは砂鉄を主原料とした ”蕨手刀(わらびてとう)” の出土が全国的に見ても秀でて多く、一時は岩手県がその中心地とされる説もあったくらいです。
たたら製鉄(たたら吹き)と鋳物職人
「たたら」とは、身体全体を使って体重をかけて使用する大型の鞴(ふいご=いわゆる送風ポンプ)のことで、これを用いて大量の風を送り木炭を一気に燃焼させて炉の中の温度を上げ、砂鉄を溶かす技術を「たたら製鉄」または「たたら吹き」といいます。江戸時代頃には「たたら=製鉄」を意味し、製鉄とは切っても切れない技術でした。
その頃のたたら製鉄は、不眠不休で3~4日間砂鉄と木炭を交互に入れ銑鉄(せんてつ=鉄鉱を溶解炉で溶かして精製される炭素を含む鉄素材で現代の南部鉄器でも使用している)等を製産していました。その3~4日間で投入される量は、砂鉄10トンに対し木炭も10トンとその量だけ見てもとても大がかりな作業な事がうかがえます。なんとこの作業を年間60回近くも行っていたというからさらに驚きです。
そして、たたら製鉄然りその技術を今日まで伝えた職人についても紹介します。
鋳物職人は ”鋳物師” と呼ばれ彼らは律令制の下に組織化されていましたが、時が経つにつれてその組織は解消されてしまいますが、それぞれ地方豪族や寺院のもとで護られ鋳造を続けて行くこととなります。ちなみにこの「鋳物師」、”いものし” と読む方が多数だとは思いますが実はこれ「いもじ」と読みます。「いものし→いもんじ→いもじ」になったのかなと勝手に推測はしています。
もちろん鋳物師の中には、豪族や寺院などから庇護を受けずに生活用品を製造しながら転々とする鋳物師もいました。彼らは全国を歩き、その土地その土地で砂鉄を取っては製鉄をして鉄器を造って売るという生活をしていましたが、やがて一つの集落を形成するようになります。岩手県は鉄山も多く消費地も近くにあったことから自然とその集落多くなっていきました。
しかしながら岩手県内でその集落が現存しているのは、盛岡と水沢のみとなっています。
みちのくの雲を彩る春日かな 高資
竜華会の雲を彩る日の輪かな 高資
日は高く雲を彩る灌仏会 高資
みちのくの稲穂に遊ぶ雲居かな 高資
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2008/624.html より
北海道における鉄文化の考古学的研究-鉄ならびに鉄器の生産と普及を中心として-
笹田 朋孝
本論文では、北海道で出土する鉄器を研究の中心に据え、鉄・鉄器の生産や普及などの側面から、北海道における鉄文化の特徴とその背景を考古学的に明らかにすることを目的とした。
北海道では縄文文化の後、続縄文文化(弥生・古墳時代併行)、擦文文化・オホーツク文化(古代併行)、そしてアイヌ文化(中世以降に併行)という独特な文化変遷を辿る。そして、農耕を主とする生業を選択せず、また王権や国家が形成されなかった特色を持っている。このように本州以南と異なる文化変遷を辿る北海道ではあるが、周辺地域との交流は様々な形で継続しており、鉄に注目した場合、むしろ本州以南との関係が意識される。
北海道の鉄を考える上で特徴的な事柄は、明治初頭まで基本的には鉄を産しない地域であったことである。そのため、鉄器が生活に必要不可欠でありながら、常に外部から入手せざるを得ないという状況におかれつづけてきた。このような特殊な状況が、北海道の先史社会を評価する際にいくつかの特徴的なロジックを生み出してきた。例えば、擦文文化からアイヌ文化への変容は、鉄鍋をはじめとする交易品の急激な流入により伝統的な生業の変容や集団の再構成が起こり、擦文社会が変容・終焉したとするのが一般的な理解であった。このようなロジックが妥当であるかは再検討の余地があるが、鉄が北海道の諸文化に影響を及ぼしたことは疑いようがないところである。
しかしながら、これまでの研究では鉄器やその生産・流通に関わる考古学的現象が具体的に参照されることは少なく、理論が先行している感は否めなかった。
そこで本研究では、北海道における鉄器生産能力の限界、個別の器種の変遷とその背景、定量的な分析に基づいた鉄器の普及とその交易、の3つの側面から、北海道の鉄の様相を実証的に解明した。そして、これらの検討成果を踏まえて北海道の社会変容の過程を鉄の立場から明らかにした。
鉄・鉄器の生産には専門的な技術が必要とされ、原料から製品に至るまでに複数の工程が存在している。第Ⅲ章では鉄・鉄器生産の工程を製鉄・精錬・鍛冶(精錬鍛冶と鍛錬鍛冶)・鋳造に分けた。その内、鍛冶工程の後半にあたる鍛錬鍛冶工程を「沸かし」・「素延べ」・「火造り」の3つの工程に細分した。そして、製鉄実験や鍛冶実験の成果から各工程で生成する鉄滓の種類を確認した上で、遺跡から出土した鉄滓の観察所見に基づき、どの工程で生成した鉄滓であるかを考察した。
その結果、北海道では製鉄と鋳造は行われておらず、精錬と精錬鍛冶は時期・地域が限られていることが明らかとなった。換言すれば、北海道における鉄の技術とは鍛冶の技術である。その中でも鍛錬鍛冶工程が中心であった。そのため、高い鍛冶技術を必要とする鉄器(刀剣や鉄斧など)は、オホーツク文化・擦文文化・アイヌ文化では生産できなかった。本州以南の鍛冶との技術差は埋まることが無く、最終的にアイヌの鍛冶は和人の鍛冶によって駆逐されたと考えた。近世後半の和人の鍛冶の普及を考えれば、松前藩によりアイヌの鍛冶活動が禁止されたとする深沢百合子の「禁鉄」モデル(深澤1989)を敢えて設定する必要がないことを指摘した。
第Ⅳ章では、北海道で出土する各種の鉄器の型式論的研究を行った。対象とした鉄器は、鉄鎌・鉄斧・刀子である。これらの鉄器は北海道に鉄器が普及した古代から現代に至るまで継続的に使用されたものである。
鉄鎌は、茎が意識され始める10世紀中葉、有茎鎌が完成する14世紀前後、目釘孔を持つ鉄鎌が出現する16世紀後半に画期を持つことが判明した。鉄斧は、断面がコの字型の袋状鉄斧が出現する10世紀中葉ごろ、孔式鉄斧(マサカリ・タツキ)が出現する14世紀ごろ、孔式鉄斧しか使用されなくなる16世紀ごろに画期を持つことが判明した。刀子は、金属製の柄をもつ小柄が出現する14世紀、小柄が出現しなくなり片刃の刀子や包丁が目立つようになる18世紀後半に画期を見出すことができた。すなわち10世紀(鉄斧・鉄鎌)、14世紀(鉄斧・鉄鎌・小柄)、16世紀(鉄鎌・鉄斧)、18世紀(小柄・刀子)に鉄器の画期が存在している。
また、近世後半の鉄鎌の形態には遺跡ごとに偏りが見られ、蝦夷地の場所を請け負った商人に由来している可能性が考えられた。加えて小柄の出土時期とその分布から、小柄が和人との交易の度合いを示すバロメーターになることを指摘した。
第Ⅴ章と第Ⅵ章では、第Ⅲ章と第Ⅳ章で得られた成果を踏まえて、北海道における鉄器の普及とその交易について論じた。第Ⅴ章で擦文文化期までを、第Ⅵ章ではアイヌ文化期を取り扱った。
第Ⅴ章では、擦文文化期の鉄器の普及とその交易を論じている。その際に擦文文化と密接な関わりを持っていた、青森の鉄の様相との比較検討も行っている。鉄器が出現する縄文時代晩期末から道具の鉄器化が進行する続縄文文化までの鉄器の問題についても、擦文文化の鉄の様相の検討に先立ち、ここで取り上げている。
北海道では「北周りの鉄」の存在が漠然と意識されているためか、明らかに古い鉄器の存在が容認されてきた。そこで、これらの資料の再検討を行った。縄文時代晩期の釧路市貝塚町1丁目遺跡の鉄製品については人工遺物ではなく、酸化鉄(ベンガラ)が凝集したものであることを指摘した。また、北海道内で弥生時代前期・中期に併行する鉄器(羅臼町植別川遺跡出土の刀子など)に関しては、周辺地域の最新の研究成果に基づいて再検討を行う必要があると評価した。
石器が使われなくなることや少ないながらも鉄器が出土し始めることから、鉄器の普及は続縄文文化後半(後北C₂D式から北大式、古墳時代併行)である。ただし鉄器が安定的に出土する段階、すなわち鉄器が本格的に普及する段階は擦文文化(古代併行)である。
擦文文化の鉄器の普及を竪穴住居址から出土する鉄器の出土率から考察した。その結果、擦文文化後期(11世紀ごろ)に鉄器の出土率ならびに一軒当たりの鉄器数が増加する。青森では9世紀後半に鉄器生産の急増に伴い、鉄器の出土も急増している。青森と擦文文化の鉄器の増加には1世紀以上のタイムラグがあるが、基本的には北海道の鉄は青森をはじめとする北奥と関連しながら変遷を辿る。しかし、両地域間の影響関係は明確に把握できるものの、生産技術の差や鉄器の出土率から見た鉄器の量の差は顕著であり、この差が埋まることは無かった。そして、結果として、異なる文化変遷の道を歩むことになる。
擦文文化後期・晩期の段階では、鉄器の出土率や出土数から道北やサハリンへの活発な交易活動は想定できず、むしろ道東への交易の方が盛んであったと指摘した。このことは青銅製品(特に青銅鋺)の分布からも想定することが可能である。鉄の対価となる交易品の問題については、道東の擦文文化の遺跡立地から見ると、瀬川拓郎(2005)が説くような交易用のサケの大量捕獲は想定しにくいことを指摘する一方で、文献資料に見られるように交換価値の高い毛皮類が重要視された可能性が高いことを推測した。
第Ⅵ章では、アイヌ文化期の鉄器の普及とその交易を論じた。現時点では12~14世紀前半の鉄の様相は明らかではない。14世紀後半以降、鉄器組成に鉄鍋や刀が加わり、鉄器の出土率や出土数が急増する。そして、近世後半には鉄器組成から刀が欠落し、刀子・鉄鍋・漁撈具・釘を主体とする鉄器組成へと移行する。鉄器の需要が増し、鉄器の出土量が増加しているにも関わらず、鍛冶関連資料の増加が見られないことは、基本的には必要な量の鉄器を必要な時に手に入れることができたと推測した。
アイヌ文化期では擦文文化期の少なくとも数倍以上の鉄器が出土している。擦文文化後期の鉄器の増加と比較しても、中世段階により大きな画期を見出すことができる。そして、中世段階に鉄鍋と刀が鉄器組成に組み込まれることも、中世段階に大きな画期があることを示している。鉄器が交易品であることから言えば、中世こそ交易に特化した段階と言える。中世アイヌは鉄器を大量に入手するために、サハリンや千島との交易ルートを積極的に開拓し、北方の文物(毛皮類・ガラス玉)を入手するとともに、大量捕獲したサケや昆布などの海産物も本州への交易品に組み込んでいったと考えられる。
第Ⅶ章では、鉄器生産・個別器種の検討・鉄器の普及などの検討成果をもとに、北海道の鉄の様相を通史的にまとめた。鉄の様相の変化は、本州以南の動向ないしは関係の変化によるものが多い。そして、擦文文化後期から中世アイヌ文化期にかけての変容を鉄の様相から再検討することで、「アイヌ・エコシステム」論(瀬川前掲)が有する問題点を指摘した。具体的には擦文文化期のサケに対する過大評価や交易の画期の設定に対する批判を行った。
また、東アジア史的な視点から北海道の鉄文化を位置づけるために、琉球の鉄の様相との比較を行った。北海道と琉球は製鉄・鋳造技術を持たない地域であったため、基本的には必要とする鉄・鉄器は外部から入手する必要があったという共通点がある。加えて興味深いことに、鉄器の普及の二つの画期(7世紀と12世紀以降)が北と南で共通しているが、これは偶然の一致ではなく、同じ要因から説明できることを指摘した。すなわち前者は律令国家の周縁地域に対する政策の変化が、後者は中国を中心とする東アジアの巨大な物流機構のもと、中世世界に汎列島的な商品経済圏が形成されるようになったことが、それぞれの地域に及んだことを意味している。このような周縁地域の鉄文化の研究が東アジア全体の鉄文化の研究にも有効であることを指摘した。
https://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/tatara/pdf/tatara46-50.pdf#search='%E5%8D%97%E9%83%A8%E9%89%84%E3%81%A8%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C'
【『たたら研究』第46~50号 目次】
第46号(〓)
特集 北海道の鉄器文化
擦文〜アイヌ文化期の鉄器・素材生産 鈴木 信
鉄器にみる北海道アイヌ文化期の生活様相 小野哲也
北海道東部における鉄の様相 笹田朋孝
アイヌ文化期の原料鉄と鍛造技術 佐々木 稔
出雲市佐田町の加賀谷たたらとたたら祭礼道具 河瀬正利・山崎順子
韓国における製鉄原料の金属学的調査−達川鉱山及び龍里遺跡採集資料について− 大澤正己・角田徳幸
仁王手・赤井手遺跡出土の棒状鋼半製品の組成−大澤正己氏の批判に答えて− 佐々木 稔
寺島文隆氏を偲ぶ 穴澤義功
たたら研究会受贈図書
平成18年度 たたら研究会大会報告
第47号(2007年12月)
古墳時代祭祀遺跡における鉄の消費形態
‐京都府舞鶴市千歳下遺跡出土鉄器の紹介を通して‐ 野島 永
中国地方における中世製鉄炉地下構造の構造的特質 上栫 武
砂鉱採取法の成立と在来製鉄業 加地 至
固結滓の巨塊について 杉原清一
島根県鉄穴内遺跡の調査概要‐中国地方山間部における古代の鍛冶遺跡‐ 米田克彦
中国横断自動車道尾道松江線予定地内における鈩跡の調査について
椿 真治
孫 明助「韓国における古代鍛冶遺跡の諸様相‐最近の発掘調査成果を中心として‐」
(訳)角田徳幸
たたら研究会受贈図書
平成19年度 たたら研究会大会報告
第48号(2008年12月)
特集 山陰の鉄文化
江津市桜谷鈩金鋳児神社と江の川下流域の鉄生産 角田徳幸
明治初年出雲地域における鉄山経営の基礎的考察 鳥谷智文
田儀櫻井家たたら製鉄遺跡とその周辺 石原聡・安部智子・伊藤悟郎
大呂奥遺跡・残存する鉄穴流し選鉱施設について 松尾充晶
たたら吹製鉄床釣りの成立 上栫 武
オーコ8号墳出土鏨の金属学的考察 大澤正己
コメント:オーコ8号墳の調査 野上丈助
インドの伝統的製鉄に関する民俗例の紹介 山田義明
河瀬正利会長の逝去を悼む 古瀬清秀
松尾陽吉先生を偲んで 大村紀久子
平成20年度 たたら研究会大会研究発表要旨
平成20年度 たたら研究会大会報告
たたら研究会受贈図書
第49号(2009年12月)
特集 東北地方の鉄文化
福島県内における鉄器生産初期の様相 能登谷宣康
南部鉄の江戸商人 -萬屋庄右衛門についての考察- 菊池正則
福島県富岡町滝川製鉄遺跡発掘調査成果 三瓶秀文
岩手県下閉伊郡普代村割沢遺跡の調査 北村忠昭
山城溜池遺跡の調査 設楽政健
特集 都合山鈩をめぐって
近藤家文書からみた都合山の製鉄事業 加地 至
鳥取県都合山鈩跡の調査とその成果 都合山鈩跡研究会
鳥取県都合山鈩跡出土鉄関連遺物の金属学的調査 大澤正己・角田徳幸
平成21年度 たたら研究会大会研究発表要旨
平成21年度 たたら研究会大会報告
たたら研究会受贈図書
第50号(2010年12月)
近世後期における出雲国能義郡鉄師家嶋家の経営進出 鳥谷智文
-出雲国飯石郡及び伯耆国日野郡への進出事例―
近世江川流域における鑪製鉄業の展開 笠井今日子
真砂砂鉄と赤目砂鉄の分類 久保善博・久保田邦親
-たたら製鉄実験から明らかになったチタン鉄鉱の役割―
広島県大懸山製鉄遺跡の製鉄炉背後に位置する高まり 上栫 武
鳥取県日野川流域における炉の立地と移動 加地 至
鳥取県天神川流域における鉄穴流しと海岸地形の変化 貞方 昇・武下憲史
―中国地方の鉄穴流し調査補遺1―
金權一「韓国嶺南地域における朝鮮時代製鉄文化の基礎的研究― (訳)角田徳幸
平成22年度 たたら研究会大会研究発表要旨
平成22年度 たたら研究会大会報告
たたら研究会受贈図書
内容(「BOOK」データベースより)
七世紀後半から九世紀にかけ、律令国家は、蝦夷の激しい抵抗を受けながらも東北支配を拡大していった。それを支えたのが国府多賀城の後背地、福島県相馬地方の鉄生産である。大量の武器・農耕具・仏具を供給するために推進された古代製鉄の全貌を明らかにする。
https://blog.goo.ne.jp/orangeone_2008/e/9ab952e7c38431ee55519e0ae50f1f7f
【古代鉄】
島根県立古代出雲歴史博物館の角田徳幸氏は古代製鉄の研究者である。氏によると、古墳時代後期から平安時代前半頃までの製鉄遺跡は、南は九州の熊本県、北は東北の青森県まで359ヶ所の製鉄遺跡が確認されており、製鉄炉の数は1084基に及ぶと言う。中でも、旧国別で見ると陸奥は83遺跡348基と突出している。福島県南相馬市の金沢地区製鉄遺跡群では木炭窯は152基、土坑606基、製鉄炉123基、鍛冶炉20基が見つかっており、国内最大規模である。7世紀中葉から10世紀前葉のものとされる。同じく南相馬市にある平安時代初頭の割田H遺跡では11基の製鉄炉跡が見つかっているが、発掘調査結果が2005年に発表された際、福島県文化振興事業団は「朝廷が北上川流域(岩手県など)で先住民蝦夷(えみし)を征服する戦いを繰り広げた時代で、一帯が北の戦線に武器を供給する国営軍需工場地域だったことが裏付けられた」としている。正史とされる『日本書紀』は658年から660年に阿倍比羅夫が蝦夷と粛慎を討ったとし、774年に大伴駿河麻呂が蝦夷征討を命じられてから、801年の坂上田村麻呂の遠征があり、811年の文室綿麻呂による幣伊村征討まで蝦夷征討が続いている。日本書紀の記述をそのまま受け入れたとしても、9世紀初めまでは東北は朝廷による征服は終わっていなかった。南相馬市の金沢地区製鉄遺跡群で早いものは7世紀中葉である。この時期の製鉄遺跡は明らかに朝廷のものとは言えない。残念ながら、東北各県の遺跡発掘にあたる考古学者自体が「正史」を前提にした解釈しか出来ていない。これは九州の遺跡についても同様である。弥生時代の際立った遺跡が北部九州に集中しているにもかかわらず、近畿を中心とした発想しかなく、邪馬壹国が近畿であるとしたり、九州王朝には無視を決め込んでいる。先入観念を排除し、真摯に発掘物を捉え、そこから歴史を構築しなければ、歴史学とは言えないだろう。現在の歴史学や考古学は逆である。前提があって、発掘物をその前提で解釈している。そのために、青森県で何故弥生時代前期と言う早い時期に水田稲作遺構(砂沢遺跡)が発見されているのか説明出来ていない。製鉄と言う古代にあっては高度な技術は決して蝦夷ではあり得ない技術と見做されてしまっている。
https://kotobank.jp/word/%E8%9D%A6%E5%A4%B7-36617
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
蝦夷
えぞ
日本古代史上、北東日本に拠(よ)って、統一国家の支配に抵抗し、その支配の外に立ち続けた人たちの呼称。「えみし」「えびす」ともいう。従来、「アイヌか日本人(和人)か」という人種論を縦糸にし、これに横糸として「蝦夷征伐」の歴史を織り合わせる形で、研究が進められてきた。現在では、その人種論、征伐史観ともに、大きな転換を迫られる研究段階にきている。[高橋富雄]
人種論
日本神話では、いわゆる「天孫民族(てんそんみんぞく)」が新しくきて、国土を統一したように伝えている。それを歴史に読み替えて、天孫民族が日本人、先住民族がエゾですなわちアイヌという理論に発展した。『類聚国史(るいじゅうこくし)』では、エゾを「風俗部」に数え、これを一種の「国内殊俗(しゅぞく)」すなわち「国内異民族」扱いしている。歴史的経過に照らせば、北東日本に拠った「国内異民族」にあたるものがアイヌであることは、まことに自然である。だから、エゾをアイヌと考えることは、十分理由のあることである。しかし、これは、蝦夷をエゾと読むようになった平安中期以降では無条件に正しいのであるが、蝦夷をエミシ(エビス)とよんでいた古代においては、これをすぐにアイヌと置き換えるだけの十分な理由がない。古代エゾ観念は人種観念でないからである。それを、エミシ時代の古代エゾをも含めて、通して、アイヌか日本人かという二者択一の人種論でとらえようとしてきたところに、この議論の誤りがあった。[高橋富雄]
歴史上の蝦夷観念
初めエゾという呼称はなかった。エミシ(エビス)であった。それをすべてエゾと考えてきたところに問題があった。エミシはもともと「勇者」の意味である。人名にエミシがあるのはこの意味である。他方、この勇者は、神武(じんむ)歌謡以来、「東の抵抗する勇者」として意識されるに至っている。「エミシを一人(ひたり)、百(もも)な人 人はいへども 手向ひもせず」が、皇師東征の歌であることに注意すべきである。こうしてエミシは「あずまびと」への賤称(せんしょう)ということになる。「あらぶる人たち」「まつろわぬ者たち」というのがその性格規定である。「夷」はヒナとも読んだが、「あずま」もヒナ=辺鄙(へんぴ)の意味であった。エミシはヒナ人である。律令(りつりょう)時代に彼らが無法、無道とされるのもこの意味である。すなわち歴史上のエゾ観念は、政治的、文化的な蛮族観念である。人種の違いに基づく異民族観念ではないのである。古代国家の統一に抵抗し、その支配と文化を受け入れないゆえに、体制側からすれば、未開、野蛮な人たち、その意味での政治的、文化的異民族であったのである。人種上の異民族であったかどうかは、別途の考察を要する。[高橋富雄]
日高見蝦夷目次を見る
『日本書紀』景行天皇(けいこうてんのう)27年条には「東夷の中、日高見国(ひたかみのくに)あり。その国の人、蝦夷という」とある。これは、同じエミシのなかでも、東国エミシと日高見エミシは異なることを指摘し、後世のエゾに連なるエミシ、すなわち固有の意味のエゾ観念を示すものとして注目される。日高見国はすなわち「道奥(みちのく)」をさしたと考えられる。これまで、ただ「夷」と書いていたエミシを「蝦夷」と書いて区別するようになった点でも、特別なエミシが意識されたことを物語る。この景行紀の記事は、大化改新前後のエゾ事情を反映しているものと考えられ、歴史時代のエゾ観念の成立とすることのできるものである。そこで、エゾ経営が東北に進み、とくに激しい軍事的対抗関係に入るようになった東北中部あたりから以北のエゾについては、実際に人種的にも別種の人たちではなかったかと考えられる。その人名、地名についても、このあたりからヤマト語では説明できないものが出てきて、この人たちが「アイヌ系」であることを物語っている。この人たちが、もう少し時代が下り、場所も北海道に近づいて、エミシとも区別してエゾとよばれ、アイヌであることをはっきりさせるが、そうなるまでには、この「アイヌ系」のなかでかなりの変化があったと思われる。10~11世紀ごろは、北方アイヌ系の人たちの間に、かなり大きな「ヒトの変革」があって、中世エゾ=アイヌの成立になったものと思われる。[高橋富雄]
蝦夷征伐史観
これまで、日本古代国家は4~5世紀のころヤマト国家として成立し、その後は、これを体制的に整えるのが国家の仕事で、国家を外に拡大する仕事は、国家悪者退治という程度に考えてきた。熊襲(くまそ)征伐、隼人(はやと)征伐、みなそうである。その最たるものに蝦夷征伐がくる。しかし、この「征伐史観」は正しくない。誤りの根本は、国家成立史観にある。4~5世紀のころのヤマト国家は、瀬戸内海中心の西日本国家として、第一次の成立をみただけである。その外側には、日本列島の半分にも上る広大な地域が、独立・半独立の状態に置かれていた。その残された独立諸日本を統一して初めて日本国家は完成するので、それまでは日本列島国家は成立しない。その第二次統一国家、第三次統一国家の統一戦争として、熊襲征伐も隼人征伐もあるのだが、とくにエゾ征伐とされているのは、東日本、北日本全体の経営にかかわるのであるから、これは日本国家形成の最大の統一事業のように考える必要がある。だから、そのとらえ方も「蝦夷征伐」のような悪者退治史観ではなしに、日本史を二分するような東西抗争史観を根底に置いて、「西の挑戦」に「東の応戦」を対置して、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地に主権が進んで、初めて日本国家は完成するという史観に改まってこねばならない。エゾ経営史は国家成立史である。[高橋富雄]
エゾ問題の行方目次を見る
エゾ人種論は、それがアイヌであるか日本人であるかさえ決まれば、それですべては解決すると考えてきた。エミシがエゾになり、最後にアイヌになっていくのには、東国から奥羽へ、さらに蝦夷地へ、何百年にもわたって、何百里も移動する民族の流離の歴史のあったことは没却されている。「エゾ征伐」を論じてきた人たちは、戦争が終わってしまえば、それでエゾ問題は終了したと考えてきた。エゾ経営は、外にたつエゾを内に組織し、そのエゾ世界に統一日本を実現することを目的とした。エゾ問題は、その目的がどう実現したかを見届けて終了する。これまでのエゾ征伐史観には、この観点が欠落していた。それは、古代エゾを中世エゾに送り届け、アイヌとしての歴史に至り着くのを見届ける必要があるとともに、国家のなかに編成されたエゾたち、すなわち俘囚(ふしゅう)らが、どのように「内民」としての「同等」を成し遂げたか、もしくは成し遂げないで「内なる独立」を保持し続けることになるのか。そのような「それからのエゾ問題」にも、しっかりした見通しをたてておく必要がある。彼らについて「俘囚郷」というムラの存在が知られ、彼らの「調庸(ちょうよう)の民」化が進まなかったことからすれば、この人たちのうずもれた歴史が差別の問題にも連なっていることは明らかである。この問題は日本史の暗部に連なる。[高橋富雄]
一つの日本
最近、アイヌも沖縄の人たちと同じ南方系のヒトで、北方系ではないのではないかという意見が強く出されている。アイヌ語についても、本来、日本語と同系ではなかったかという見解も有力になってきている。中央部に新しい大陸的要素が入って、日本は大きく変わった。もとは「一つの日本」であった。エゾはその原日本の担い手になるのでないか。そういうことも考えられてきている。
古代国家の蝦夷政策
古代蝦夷は、大和国家(やまとこっか)形成過程において領域内に組み込まれる人々としてまず登場する。「崇神紀(すじんき)」における大彦命武渟川別(おおひこのみことたけぬなかわわけ)の北陸・東国視察、「景行紀(けいこうき)」における武内宿禰(たけしうちのすくね)の東方視察とそれに続く日本武尊(やまとたけるのみこと)の東国経営、毛野(けぬ)氏と蝦夷との確執、「斉明紀(さいめいき)」の阿倍比羅夫(あべのひらふ)の日本海側北行事業などにおいてである。いずれも説話的伝承的記事である。大化改新後、越国(こしのくに)(新潟県)に渟足柵(ぬたりのき)・磐舟柵(いわふねのき)の両柵(さく)が設置されるが、この時期の国家領域は新潟県・福島県北部に及んだことになる。7世紀後半に陸奥国(むつのくに)、712年(和銅5)には出羽国(でわのくに)が設置されると、両国北辺における蝦夷支配と対立とが律令(りつりょう)国家にとって大きな課題となった。養老令(ようろうりょう)によれば、両国は「辺遠国」「辺要国」であり、「夷人雑類」の居住地。国司の任務は「饗給(きょうきゅう)、征討、斥候(せっこう)」という他国にはない任務が付加されている。
奈良時代前期、仙台平野に国府兼鎮守府(ちんじゅふ)の多賀城(たがじょう)ができ、漸次、建郡、城柵建設が進むと、ここに柵戸(きのへ)・鎮兵として東国・北陸の農民が徴発・配備された。蝦夷は姓(せい)を与えられ、戸籍に編入されて班田農民化する者、交易関係を通じて緩やかな支配を受ける者とがあった。しかし国家収奪の強化、交易関係の混乱、現地社会の内部対立などから絶えず政情不安が生じた。709年(和銅2)陸奥・越後(えちご)蝦夷の乱、720年(養老4)陸奥蝦夷の按察使(あぜち)上毛野広人(かみつけぬのひろひと)殺害、724年(神亀1)陸奥蝦夷の大掾(だいじょう)(国司三等官)殺害事件などが起こり、いずれも征討軍の派遣をみる。また737年(天平9)大野東人(おおののあずまひと)による東国騎兵1000人、陸奥国兵5000人、鎮兵、蝦夷らを駆使した鎮撫(ちんぶ)政策と出羽柵への直通路開発事業や、758年(天平宝字2)の陸奥国桃生城(もものうじょう)、出羽国雄勝城(おがちじょう)建設などは現地社会の矛盾を激化させたのであろう。770年(宝亀1)蝦夷宇漢米公宇屈波宇(うかめのきみうくはう)の離反を契機に、仙台平野北部から北上(きたかみ)盆地にかけての地域は以後約30年に及ぶ動乱期を迎えることになる。なかでも780年「俘軍(ふぐん)」を率いた上治(かみはり)(伊治(これはる))郡大領伊治公呰麻呂(いじのきみあざまろ)の乱は、私怨(しえん)に起因するとみられたが、牡鹿(おじか)郡大領道島大楯(みちしまのおおたて)・按察使参議紀広純(きのひろずみ)殺害と多賀城の陥落という事態に発展した。桓武天皇(かんむてんのう)は「坂東の安危は此(こ)の一挙に在り」という認識で3回にわたる征討戦に大軍を投入する。788年(延暦7)征東将軍紀古佐美(きのこさみ)による衣川(ころもがわ)付近の戦闘は官軍の損亡3000人に及ぶ大敗。794年征東大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)による10万人の征軍には坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らが副将軍に起用され、斬首(ざんしゅ)457、捕虜150、焼亡75か所という戦果。801年は田村麻呂が征夷大将軍として4万人を率い、翌年胆沢城(いさわじょう)築城と胆沢蝦夷大墓公阿弖流為(たものきみあてるい)、盤具公母礼(ばぐのきみもれ)ら500余人の降人を得、さらに志波城(しわじょう)築城までも行った。この段階で国家領域は岩手県北部に伸長したことになる。その後811年(弘仁2)征夷将軍文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)が爾薩体(にさて)(岩手・青森県境)、閉伊(へい)(岩手県東部)に2万人の兵を展開、815年に至って胆沢、多賀(たが)などの諸城柵および軍団に兵士・健士(有勲者)を重点的に配備する軍制改革が行われた。
他方、出羽国では、878年(元慶2)国司苛政(かせい)に反発した上津野(かづの)(鹿角)、野代(のしろ)(能代)など12か村の「夷俘」の反乱(元慶(がんぎょう)の乱)が勃発(ぼっぱつ)するが、帰順した「義従俘囚」動員の成功や、出羽権守(でわごんのかみ)藤原保則(ふじわらのやすのり)、鎮守府将軍小野春風(おののはるかぜ)の懐柔策により動乱は終息。秋田城、雄勝城、国府を中心とする軍制改革をみた。こうして律令国家にとっての辺要国での蝦夷問題は、最北辺の国境線を明確にせぬまま終わった。
この間、全国各地に分散移住させられた蝦夷は俘囚とよばれ、「俘囚計帳」に登録されるようになって調庸民化する者、調庸は免除され禄物(ろくもつ)が与えられるが、軍事力を期待されて要害警備の任につく者、平安末期に至るまで、朝廷儀式に参集することを義務づけられた者などの姿があった。『延喜式(えんぎしき)』によれば35か国に「俘囚料稲」が計上され、『和名抄(わみょうしょう)』では6郡に「夷俘郷」の名がみられる。[弓野正武]
『古代史談話会編『蝦夷』(1963・朝倉書店) ▽高橋富雄著『蝦夷』(1963・吉川弘文館) ▽新野直吉著『古代東北の開拓』(1969・塙書房) ▽豊田武編『東北の歴史 上巻』(1967・吉川弘文館) ▽大林太良編『蝦夷』(1979・社会思想社)』