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佐伯真魚(さえき まお)、弘法大師空海

2023.12.25 02:20

苔むして影向石に霞立つ  高資

 影向石(ようごうせき)・弘仁11年(820)、日光を訪れた空海がこの奥の大岩のあたりで、神霊の降下を祈願したところ、美しい女神(多紀理毘売命)が現れたと云われています。たまたま金剛峯寺でちょうど旧正御影供が行われていた旧暦3月20日(4月20日)に訪れることが出来たのは幸甚でした。ー 場所: 滝尾神社

空海の掌(たなごころ)なる初巳かな  高資

空海の手に微笑むや初弁天  高資

初景色おんそらそばていえいそわか  高資

 弁財天・延命院(五島黄島)、天長六年七月七日、江島弁天法秘に於いて密護摩・一万座奉修行の灰で空海が製作したと刻まれています。ー 場所: 五島観光歴史資料館

護摩の灰による塑像ではないかと思います。この手形がほんとうに空海のものであればすごいですね。天長6年の4月、空海は塩原元湯温泉に留錫したと伝えられていますので、その東国巡錫の折に作られたのかもしれません。

https://rekishi.sseikatsu.net/kukai1/ 

【佐伯真魚(さえき まお)、弘法大師空海の出生の秘密と上京するまで】

弘法大師空海とは

名 前:空海(くうかい)

おくり名:弘法大師(こうぼうだいし)

幼 名:佐伯真魚(さえき まお)

生 年:宝亀5年(774年)

没 年:承和2年3月21日(835年)

出身地:讃岐国多度郡(さぬきのくに たどのこおり)

    (香川県善通寺市)

父:佐伯田公(さえき たぎみ)

  一般には佐伯善通(さえき よしみち)

母:阿刀(あと)氏の娘・阿古屋(あこや)とも伝わります。

  一般には玉依御前(たまよりごぜん)

兄弟:鈴伎麻呂、酒麻呂、魚主

空海の一族は有力豪族

父は讃岐の豪族佐伯氏

空海は宝亀5年(774年)、讃岐国(香川県)で生まれました。

父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)といいます。名字は佐伯(さえき)、直(あたい)は朝廷から与えられた姓(かばね)。

佐伯田公の官職は多度郡少領。つまり多度郡を治める役人のトップ。市長のようなものです。少領は中央から派遣された役人ではなく、地方にいた豪族がなることが多かったようです。

一般には善通(よしみち)として知られています。これは四国霊場75番札所の善通寺が父の名前からつけた名前だと言われているためです。

讃岐佐伯氏は地方の豪族でしたが、かなりの経済力をもった有力豪族だと考えられます。

母は近畿の有力一族、阿刀氏

母は阿刀(あと)氏の娘。名前は阿古屋(あこや)だったともいわれます。

阿刀氏は物部氏から分かれた一族だといわれます。阿刀氏は河内国(大阪府)を本拠地にして一族は摂津国、和泉国(いずれも大阪府)に住んでいました。平安京遷都で京に移り住みました。

朝廷が作った八色の姓(やくさのかばね)のうち3番めに偉い宿禰(すくね)の姓をもつ名門。朝廷に仕える知識人の家系です。佐伯氏よりも格式の高い家柄です。

一族には桓武天皇の皇子・伊予親王の侍講(教育係)を勤めた阿刀宿禰大足がいます。阿刀大足阿は阿古屋の兄または父だともいわれます。一説には佐伯直田の兄弟で阿刀家の婿養子になったともいわれます。

現在、空海の母の実家跡には仏母院(香川県多度津町)があります。この地域を治めていた佐伯氏が学問の師として畿内から招いたのが阿刀氏だったのかもしれません。佐伯氏と阿刀氏は婚姻によって強く結ばれていたようです。

佐伯氏は空海以前にも仏教を信仰していた

空海の産まれた地だといわれる善通寺からは、法隆寺式の白鳳時代の瓦が出土しました。また善通寺には奈良時代の仏像の一部が残されています。

佐伯氏は空海の誕生以前から領内に善通寺を作って仏教を信仰していたようです。お寺を作るのはかなりの経済力が必要です。ここからも佐伯氏が有力な一族だったことがわかります。お寺があったのは現在の善通寺の東院と呼ばれるエリア。佐伯家の邸宅があったのは西院(誕生院)のエリアです。

地域の有力者で高い経済力を持つ佐伯氏と、中央で知識人としての地位を固めている阿刀氏。両方が合わさって空海が生まれたのです。

若いころの空海

空海は幼い頃から数々の伝説がある人物です。

真魚が産まれた頃にはすでにお寺があり佐伯氏は仏教を信仰していました。

母方の阿刀一族からも何人もの高僧が誕生しており一族はもともと仏教に熱心だったようです。

仏教に熱心な環境で育った真魚も自然に仏教に親しんだのでしょう。

真魚は幼い頃から言語の発達が早く、記憶力がよかったといいます。

延暦5年(786年)。13歳の真魚は讃岐の国学に通い始めました。国学とは役人の子弟が通う学校です。讃岐の国学生の定員は30人。地方役人の子は地方に作られた学校に通って儒教や律令などの法律を学びました。

入学して2年。地方の学校のレベルでは満足できなくなりました。

中央で役人を目指す

父の佐伯田公は頭のいい真魚をなんとか中央の役人にしようと考えたようです。

あるいは真魚を見込んだ阿刀大足から話をもちかけたのかもしれません。真魚の母方の叔父は学者として名高い阿刀宿禰大足。佐伯田公も真魚を中央の役人にしようとその気になったのでしょう。

延暦7年(788年)。15歳の時。平城京(奈良県奈良市)に上京しました。

真魚は佐伯院で暮らしはじめました。佐伯院は大和国(奈良県)佐伯宿禰氏の佐伯今毛人が建てた寺です。

中央の佐伯宿禰は地方の佐伯直を束ねる一族。讃岐佐伯氏とは直接血縁関係はありません。主従関係のようなものでした。その縁で宿泊することになったのでしょう。

真魚が寄宿していた佐伯院の近くには大安寺がありました。大安寺は中国大陸、朝鮮半島、インドからも僧が来る国際的な寺でした。大安寺は隋・唐への留学僧が多い寺でした。真魚はしばしば大安寺にも出入りし、国際色豊かな仏教に触れたようです。

784年に桓武天皇の命令で都は山背国の長岡京(京都府長岡京市)に移転しました。しかし長岡京の建設工事は789年ごろまでまだ続いており、真魚が平城京に来た頃は都としての機能はまだ残っていました。

叔父の阿刀大足は桓武天皇の三男・伊予親王の侍講(家庭教師)となり、長岡京で暮らすことになりました。

長岡京で受験勉強

延暦8年(789年)。真魚も阿刀大足に付き従い長岡京の阿刀家に世話になり大学寮に入るための受験勉強をはじめました。大足から漢籍(漢字で書かれた書籍)を学びました。

既に国学で基礎的な知識を身に着けていた真魚は大学で習うであろう高度な漢学を学びました。阿刀大足は皇子の教育を任されるほどの人物。

日本で一流の知識人の教えを受けたのです。

16歳の真魚が漢字の書き取りの練習をした記録が残っています。のちに日本三筆のひとりといわれ日本最高クラスの書道家といわれる空海。その裏には才能だけでなく若い頃の努力があったのです。

真魚が漢字の練習のお手本にした書には古代中国の著名人の書いたものもあります。そのような貴重な書物は阿刀大足がいたからこそ目にすることができたのでしょう。

真魚の才能に惚れ込んだ阿刀大足はできるだけの教育を受けさせたに違いありません。

大学で役人を目指すが

延暦10年(791年)。18歳。都の大学寮明経科に進学します。大学寮は当時の日本で最高の学校。地方役人の息子は地方に作られた学校に入りますが、都の学校に入るは異例です。

明法科は律令国家の法律を学び国の行政を行う役人を育てるところです。定員は300人でした。

入学資格は13~16歳。地方の国学に通ったあと受験勉強していた真魚は18歳になっていました。原則として身分にも規則はありました。しかし希望があれば入学は許されていました。真魚には阿刀大足の助けがあったのでしょう。無事入学することが出来たようです。

真魚は大学で儒教や中国の古典、歴史を学びます。25歳までに試験に合格すれば中央で役人になることが出来ます。

大学での授業は書物に書かれた意味を研究するのではなく、一言一字間違いなく暗記して、意味を理解するものです。暗記重視の教育でした。

試験も漢籍を丸暗記し、暗唱できたものが合格します。高い暗記力が必要とされる試験でした。

真魚は後にこのころは睡魔と戦いながら猛勉強したと回想しています。

仏教の修行に目覚める

大学寮に入った真魚でしたが既に高い漢学の知識を持っていた真魚には大学の授業は物足りなく、国学・大学寮で習った儒教にも違和感を覚えたようです。

真魚はもともと高い才能を持ち地方の学校でも持て余すほどの人物でした。さらに一流の知識人の教えを受けさらに高い知識を身に着けていました。

そんな真魚にとって儒教や漢字の書物を丸暗記して意味を理解するだけの授業は物足りなかったのかもしれません。

阿刀大足は真魚を国の役人にするため熱心に教育しました。しかしその熱意が仇になってしまったかのかもしれません。

また地方で育った真魚には都の貴族の子弟が出世のためだけに資格を取るという雰囲気に馴染めなかったともいいます。

また幼いころから親しんだ仏教が捨てきれなかったのでしょうか。

19歳をすぎたころから真魚はしだいに大学寮の授業にでなくなり、山に入って山岳僧の修行に参加するようになりました。

役人になることよりも仏教を目指すようになったのです。


http://rekishi.sseikatsu.net/kukai2/  【空海が仏教に目覚めて唐に渡るまで】

役人になるため都の大学に入った佐伯真魚だったが

父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)の希望と叔父・阿刀宿禰大足(あとのすくねおおたり)の進めで都の大学寮に入った佐伯真魚。大学寮は国の役人を育てる日本最高の学校です。ところが、幼い頃から親しんだ仏教をすてきれなかったのか、儒教と律令を学び役人になるのが嫌だったのか。大学寮に入学して1、2年ほどで山に入り山岳僧の修行に参加するようになりました。

そしてついには私度僧になってしまいました。私度僧とは国の認可をうけていない僧侶のことです。この時代は正式な僧侶になるには国の認可が必要でした。

真魚は大学寮の授業に出なくなり、ゆくえをくらましてしまいました。

その間、個人資格の僧侶になって修行していたようです。

当然、父の佐伯田公は激怒しました。中央の大学に入れ、将来は役人にするためにるために上京させたのです。それが学校に通わずに山に篭っていると聞けば普通の親なら怒るでしょう。

中央で出世して立派な役人になってほしいという父・佐伯田公やおじの阿刀大足の願いもむなしく、真魚は修行三昧の日々を送っていました。

聾瞽指帰は決別の書

延暦16(797年)。役人になれる期限のせまった24歳のとき。

父の怒りを知った空海は仏教を目指す理由を書きます。それが「聾瞽指帰」です。仏教と道教、儒教を比較して仏教の優れたところを論じた書でした。これがのちに改定されて「三教指帰」になります。聾瞽指帰の内容は儒教、道教の他に高い仏教の知識が必要とされます。

漢学を学んでいた真魚には儒教、道教の知識は既にあったでしょう。でも仏教の専門的な教育は受けていません。寺がある環境で育ったとはいっても僧としての教育は受けていなかったでしょう。修行期間中に奈良の寺院に出入りして教えて受けていたのではないかと思われます。

また、聾瞽指帰は大学寮の卒業論文ではないかという説もあります。

しかし律令国家の役人に必要な儒教を否定したことは役人になることを否定したも同じです。ある意味体制批判ともとられかねない書でした。

聾瞽指帰は高名な宗教家・弘法大師のイメージで捉えると、まだまだ荒削りなところがある書かもしれません。

聾瞽指帰は若さあふれる真魚が仏教の道に入るという熱意を語った宣言書でもあるのです。

空海は50歳をこえたころに「聾瞽指帰」の体制批判的な部分を改めて「三教指帰」を書き上げ朝廷に献上しています。「三教指帰」は仏教、儒教、道教の違いを知る参考書として貴族社会で読まれたそうです。

修行に没頭する空海

三教指帰には、四国や吉野の自然を渡り歩き修行したと書かれています。また既に仏教の深い知識が書かれており、修行期間のあいだ各地の寺を訪ねて経典を読み漁っていたと考えられます。

虚空蔵求聞持法で神秘体験

また、修行期間のあいだ空海は修行僧から「虚空蔵求聞持法」を教わり、室戸岬や四国の山中で実践したところ神秘体験をしたと書かれています。

虚空蔵求聞持法は虚空蔵菩薩の真言を唱える秘法。まだ真言宗は伝わってはいませんが、断片的に密教が伝わっていました。後に伝わる真言密教や天台密教と区別して「雑密」といいます。

虚空蔵求聞持法は大安寺や元興寺など奈良の僧の間で流行っていました。空海に虚空蔵求聞持法を教えたのは大安寺の戒明だともいわれています。戒明も讃岐国出身。唐への留学経験もあります。大安寺は真魚が寄宿していた佐伯院の近くにある寺です。修行僧となった空海は大安寺にも通っていたのでしょう。

空海は阿波の大瀧ゲ獄(徳島県太竜寺山)や土佐の室戸岬などで求聞持法を行いました。空海は著書で、求聞持法を実行すると真言を唱える声が谷中に響き、光り輝く星が近づいてくるのを見たと書いています。

飢餓状態で精神集中を行って神秘体験をしたと考えられますが、この体験は空海が密教にはまる大きなきっかけになったのかもしれません。

洞窟に篭った空海が目にしたのは「空」と「海」だけだった。だから空海という名前にしたといわれています。いつごろから空海と名乗りだしのかはよく分かっていません。修行時代

日本国内で密教を学ぶ

日本にも、天平年間には既に「大日経」という密教の経典が伝わっていました。修行中に大日経の存在を知った空海が経典のある奈良の寺に出入りして密教の勉強をしていたともいわれます。

真言宗に伝わる話では「大日経」と出会った空海がその内容について疑問を解くために唐に渡る決意をしたと伝えられています。

大安寺や唐招提寺には唐やインドの僧もいました。空海も南都(奈良)で唐の言葉や梵字も勉強していたようです。

ところが経典だけあっても真言の唱え方、印の結び方、曼荼羅の書き方は師匠から直接教わらないと実践できません。唐に留学経験のある僧や外国から来た僧から教わることはできたかもしれません。

でも、密教のすべてが日本に伝わっているわけではありません。密教を極めようとすれば唐に行くしかないのが当時の実情だったでしょう。

密教との出会いが唐に渡る決心をさせたのかもしれません。

唐に渡る

なぜ遣唐使になれたのか?

延暦23年(804年)。31歳のとき。遣唐使の一行に加わりました。費用は個人持ちの私費留学生の立場です。なぜ空海が遣唐使に加わることが出来たのかはよくわかりません。

叔父の阿刀大足や伊予親王の援助があったとか、藤原葛野麻呂が書記として採用したなどの説があります。空海と交流のあった高僧・勤操の働きかけもあったといわれます。

唐の役人に出した手紙に「たまたま人員が不足したので留学僧の末席に加わることができた」と書かれていますので。欠員ができたので遣唐使に割り込むことができたとも考えられます。

とはいえ希望すればだれにでも国の認可を受けた僧になり唐に渡れるものではありません。

人を動かすだけの人脈と才能を身に着けていたと考えられます。

急きょ正式な僧になる

しかし、私度僧のままでは遣唐使にはなれません。国から正式な僧と認められなくてはいけないのです。延暦22年か23年に東大寺で国から認可された官度僧となりました。

遣唐使にあわせるかのように急きょ官度僧となったことがわかります。官度僧は厳しい人数制限があり朝廷が管理していました。このころにには奈良の仏教界でも空海の才能が知られるようになり、官度僧として認められたと考えられます。

巨額の留学費用はどうやって調達した?

留学僧には国費で留学するものと私費で留学するものがいました。最澄のように既に知られた僧であれば国費留学生になれます。通訳もついています。

空海は既に奈良で唐の僧と交流して言葉を覚えたようなので、通訳を雇う必要はありません。問題は滞在費です。

空海は費用は自己負担。私費留学生にも国からある程度の餞別は出ます。でもそれでは足りません。滞在費用は自分で調達しなければなりません。

にもかかわらず唐側の記録では空海は豊富な資金を持っていたとされます。空海はその資金で唐で大量の経典・書物を書き写すための人手を雇い、仏教に必要ん様々な品を買い込みました。そのお金はどこから得たのでしょうか。

確かに実家の佐伯氏は有力な一族でした。しかし父・佐伯田公の期待を裏切って僧になりました。叔父の阿刀大足は空海の熱意を理解したようなので大足が田公を説得したのかもしれません。

佐伯家や阿刀家からはある程度のお金は出してもらえたでしょう。中央の佐伯氏や藤原氏にもスポンサーになってもらうため交渉したかもしれません。佐伯家や阿刀家の人脈が有効だったでしょう。

交流のあった奈良の大安寺・東大寺・興福寺・元興寺からも援助はあったかもしれません。

変わった説では水銀で稼いだという説もあります。

空海の就業した足跡をたどると「丹生」に関わる場所があることがわかります。丹生とは水銀の原料になる朱砂のことです。丹生は赤い顔料にもなります。水銀は金メッキにも使われました。金メッキは、仏像や自社建築には欠かせない技術です。丹生に関わる職人たちは金、銀、鉱物の採掘技術も持っていました。各地を放浪した空海はそうした人々とのつながりを持ち、高価な金属を手に入れ換金して資金を作ったのではないかという説もあります。

空海と水銀が関係しているのは確かです。でも留学前に既に水銀の鉱脈を掘り当てていたのかはわかりません。一つの説ですが可能性はあるかもしれません。

延暦23年(804年)。空海ら遣唐使は九州の肥前田浦を出港しました。このときの遣唐使には最澄や橘逸勢、霊仙などがいました。しかし既に著名だった彼らに対してこのときの空海は都ではまだ無名の存在でした。

http://tokyox.matrix.jp/forum/discussion/111/%E8%AE%83%E5%B2%90-%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E4%BD%90%E4%BC%AF%E7%9B%B4%E3%81%A8%E9%98%BF%E5%88%80%E6%B0%8F  【讃岐 空海、佐伯直と阿刀氏】


真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚

宝亀5年(774年)、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)で生まれた。

父は郡司・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母は阿刀氏

延暦8年(789年)、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ

24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰(ろうごしいき)』を著

求聞持法を空海に伝えた一沙門

現在では大安寺の戒明ではないかと云われている。戒明は空海と同じ讃岐の出身で、その後空海が重要視した『釈摩訶衍論』の請来者。

延暦23年(804年)、正規の遣唐使の留学僧(留学期間20年の予定)として唐に渡る。

永貞元年(延暦24年、805年)

密教の第七祖である唐長安青龍寺の恵果和尚を訪ね、以降約半年にわたって師事することになる。

6月13日に大悲胎蔵の学法灌頂、7月に金剛界の灌頂を受ける

8月10日には伝法阿闍梨位の灌頂を受け、「この世の一切を遍く照らす最上の者」を意味する遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂名を与えられた

同年12月15日、恵果和尚が60歳で入滅。元和元年(延暦25年、806年)1月17日、空海は全弟子を代表して和尚を顕彰する碑文を起草した。

中央伴造として佐伯部を率い、宮門警備や武力勢力として朝廷に仕えた。因みに警備を担当した宮門は、氏族名から「佐伯門」と名付けられたが、平安宮では唐風文化の影響から、「さへき」に音通する「藻壁(そうへき)門」と改められた。姓は初め「連」であったが、天武天皇13年(685年)に同族の大伴氏等とともに「宿禰」を賜姓された

円珍 智証大師

園城寺は「三井寺(みいでら)」と通称されるが、それは天智・天武・持統の三帝が誕生の際、御産湯に用いられたという霊泉が当地にあり、「御井の寺(みいのてら)」と呼ばれていたことに由来する。

後に智証大師・円珍(814‐891年。父は和気宅成。母は佐伯氏の娘で弘法大師・空海の姪。讃岐の人。義真に師事し、853年入唐、858年帰国。

三井寺の起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子の大友皇子(弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱で大友皇子と敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時にさかのぼる遺物はほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係も史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

物部氏系の史書である『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖神)の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)を祖とすると伝える。

佐伯直(さえきのあたい)氏は、古墳時代の中頃(五~六世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の各五ヶ国に設定された佐伯部(さえきべ)の国造(くにのみやっこ)である。

佐伯直(さえきのあたい)氏には古代豪族「大伴氏」から派生した伴氏とされる説が在る一方、景行大王(けいこうおおきみ/古事記・日本書紀で第十二代と記される天皇)の皇子・稲背入彦命(いなせいりびこのみこ)の末裔が臣籍降下して播磨国造(はりまくにのみやっこ)になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓と成った。

佐伯直(さえきのあたい)氏は、古墳時代の中頃(五~六世紀)に播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の各五ヶ国に設定された佐伯部(さえきべ)の国造(くにのみやっこ)である。

ま大伴旅人が歌った「賀陸奥出金詔書歌」でも、

「・・・大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立  人の子は 祖の名絶たず 大君に 奉仕ふものと 言ひ繼げる 言の職ぞ 梓弓 手に取り持ちて 劒大刀  腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守護 吾をおきて 又人はあらじと ・・」

と歌っている。佐伯宿禰は大伴 談(かたり)の子 歌(うたふ)が佐伯部の統轄という新しい職掌を得て大伴氏からわかれた家柄とも考えられている

佐伯直(さえきのあたい)氏には古代豪族「大伴氏」から派生した伴氏とされる説が在る一方、景行大王(けいこうおおきみ/古事記・日本書紀で第十二代と記される天皇)の皇子・稲背入彦命(いなせいりびこのみこ)の末裔が臣籍降下して播磨国造(はりまくにのみやっこ)になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓と成った。

この裔に讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)が居り、その直田公(あたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)との間に弘法大師(空海)は生まれた。

尚、弘法大師(空海)の父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)は別称が善通(よしみち)で、佐伯直善通(あたいのよしみち)とも申した。

この直善通(あたいのよしみち/佐伯直田公)の名・善通を採って四国真言宗善通寺派総本山・善通寺(香川県善通寺市/令制国・讃岐国)は真言宗開祖・弘法大師(空海)の父である佐伯善通を開基としている。

佐伯直豊雄らの系譜主張と伴善男

『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。

 すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫したという記事ですが、この賜姓にあたり、当時正三位中納言兼民部卿の地位にあったあった伴善男が、正六位下書博士佐伯直豊雄の系譜の主張を家記に照らして検討するに偽りではないと奏言したので、これに従った措置であると同書に記されております。

上記貞観三年の記事では、佐伯直豊雄らの系譜は、先祖を大伴健日連とし、この者が景行天皇の御世に倭武命に随行して東国平定に勲功があったことで讃岐国を賜り私宅としたが、その子孫の室屋大連の第一男御物宿祢の子孫の倭胡連が允恭天皇の御世に讃岐国造となったと主張し、同族の玄蕃頭真持等(讃岐佐伯直の本宗たる道長〔田公の兄〕の子・孫か)が既に京兆に貫し宿祢姓を賜っているので、この例にならい田公の子・孫も同様に改姓改居の待遇を求めたものと記されています。

『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。佐伯は針間のほか、安芸や阿波・讃岐・伊予の五国に分散して配置されたとあります

この裔に讃岐国(現在の香川県)の豪族・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)が居り、その直田公(あたいのたぎみ)と物部氏の分流と伝えられる阿刀(あと)氏の娘・玉依御前(たまよりごぜん)との間に弘法大師(空海)は生まれた。

尚、弘法大師(空海)の父・佐伯直田公(さえきあたいのたぎみ)は別称が善通(よしみち)で、佐伯は部民(べみん)としての称号であり小領として治めた地名、直(あたい)が姓、田公(たきみ)が名、善通(よしみち)は別称で、直善通(あたいのよしみち)とも申した。

この直善通(あたいのよしみち/佐伯直田公)の名・善通を採って四国真言宗善通寺派総本山・善通寺(香川県善通寺市/令制国・讃岐国)は真言宗開祖・弘法大師(空海)の父である佐伯善通を開基としている。

空海の母については、八世紀後半に伊予親王の侍講を務めた阿刀宿祢大足の姉妹といわれますが、このことは、『続日本後紀』の承和二年三月二三日条に空海の遷化記事に「舅従五位下阿刀宿祢大足」と見えます。後世の『元亨釈書』にも釈空海の父は佐伯氏の田公で、母は阿刀氏と見えます。上記空海関係系図では、真足の子に空海母をあげ、その弟に大足をあげますが、『百家系図』巻46所収の阿刀宿祢系図では、弓張の兄弟姉妹として大足・空海母をあげます。このように諸伝ありますが、年代や名前・職掌などから考えると、弓張の子が真足で、その下に空海母・大足をあげるのが妥当なようです。

阿刀大足の子孫は高野山の慈尊院政所中橋氏になったと伝え、中橋系図も『百家系図』巻47に所収されますが、ごく簡単なものです。

推古元年(593年)に、安芸国佐伯の有力豪族であった佐伯鞍職が社殿造営の神託を受け、勅許を得て御笠浜に社殿を創建したのが厳島神社の縁起である。文献にその名が初めて認められるのは弘仁2年(811年)となる。その後厳島神社の神主家は佐伯氏が世襲していた。平安時代の末期の神主家の当主であった佐伯景弘は、平氏一門に取り入り、厳島神社は平家の保護を受け、大変栄えた。

『古屋家家譜』甲斐一宮浅間神社宮司家で伴氏名族とされた古屋家の家譜である。

高皇産霊尊−安牟須比命−香都知命(紀国名草郡)−天雷命(名草郡)−天石門別安国玉主命(名草郡)−

天押日命−天押人命−天日咋命−刺田比古命(名草郡)又名大脊脛命−道臣命(名草郡)本名日臣命−味日命−推日命−大日命−角日命−豊日命−武日命−建持連公−室屋大連公−金村大連公−狭手彦−

佐伯宿禰・佐伯首 室屋大連公之後、佐伯日奉造・佐伯造 談(室屋の弟)之後

大伴連室屋(父;大伴武持 母;不明)–大伴連談–大伴歌(兄弟:金村)–

大伴連室屋の孫の倭胡は14允恭朝、讃岐国造

空海:佐伯真魚 大伴連談の子「歌」の9代孫。

歌の4代孫にあたる「大人又は大入」は、12景行天皇の末裔である「佐伯那賀児」の血筋からの入り婿である。よって空海は大伴系ではなく「皇別氏族」である。という説が現在も「空海」を中心に考える人々に強く支持されているようである。

大伴氏系を中心に考える人は、空海は大伴氏から分派した佐伯氏の末裔と主張している。

大伴連室屋(父;大伴武持 母;不明)–大伴連談–大伴歌(兄弟:金村)–佐伯平曾古–平彦–伊能–大人–木只都–男足–田公–空海

空海の母については、八世紀後半に伊予親王の侍講を務めた阿刀宿祢大足の姉妹といわれますが、このことは、『続日本後紀』の承和二年三月二三日条に空海の遷化記事に「舅従五位下阿刀宿祢大足」と見えます。後世の『元亨釈書』にも釈空海の父は佐伯氏の田公で、母は阿刀氏と見えます。上記空海関係系図では、真足の子に空海母をあげ、その弟に大足をあげますが、『百家系図』巻46所収の阿刀宿祢系図では、弓張の兄弟姉妹として大足・空海母をあげます。このように諸伝ありますが、年代や名前・職掌などから考えると、弓張の子が真足で、その下に空海母・大足をあげるのが妥当なようです。

佐伯今毛人(さえきのいまえみし、養老3年(719年) – 延暦9年10月3日(790年11月17日))は奈良時代の貴族。今蝦夷とも表記する。初名は若子。右衛士督佐伯人足の子。兄に佐伯真守。子に金山・三野がいる。正三位・参議。

佐伯今毛人

紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く異例の七階の特進をしている。

天平宝字7年(763年)今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。

宝亀6年(775年)、第16次の遣唐大使に任命される。宝亀8年(777年)4月、節刀を賜り再度(前年は大宰府から引き返している)出発したが羅城門までくると病になり渡航を断念し摂津に留まることとなった。なお、この16次遣唐使は今毛人に代わって大使の任務を代行した副使小野石根と唐使趙宝英が乗船していた第1船が帰路遭難し両名は死亡している

養老3年(719年) – 生誕。初名は若子

天平19年(747年) – 今毛人に改名

紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く、異例の七階の特進をしている。

天平宝字7年(763年)今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。

養老3年(719年) – 生誕。初名は若子。

天平12年(740年) – 舎人となり出仕。正八位下。

天平14年(742年) – 紫香楽宮造営司主典。

天平17年(745年) – 従七位下。

天平18年(746年) – 従七位上。

天平19年(747年) – 今毛人に改名。

天平20年(748年) – 造東大寺司次官。

天平勝宝元年(749年) – 大倭介兼任。七階特進し従五位下。

天平勝宝2年(750年) – 孝謙天皇東大寺へ行幸。正五位上。

天平勝宝7歳(755年) – 造東大寺長官。

天平宝字元年(757年) – 従四位下。

天平宝字3年(759年) – 摂津大夫。

天平宝字7年(763年) – 造東大寺長官に再任。同年藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと恵美押勝の暗殺を謀議し失敗したことにより解官。

天平宝字8年(764年) – 営城監に任じられ大宰府に赴任。同年肥前守兼任。

天平神護元年(765年) – 大宰大弐に補任。怡土城を築く専知官を兼ねる。

神護景雲元年(767年) – 大宰府より帰京。造西大寺長官。同年左大弁兼任。

神護景雲3年(769年) – 因幡守を兼任。同年、従四位上。

宝亀元年(770年) – 播磨守を兼ねる。同年、称徳天皇が崩御し天皇の寵愛深かった太政大臣禅師道鏡が失脚。今毛人は道鏡を下野国薬師寺別当へ進発せしめる。同年、三たび造東大寺長官を兼ねる。

宝亀2年(771年) – 正四位下。

宝亀6年(775年) – 遣唐大使に任命。

宝亀7年(776年) – 4月、大使として節刀を賜り大宰府に行く。11月になって大宰府から都へ還り節刀を返上する。

宝亀8年(777年)- 4月、今毛人は再び節刀を賜り出発するが病のため摂津に滞留。副使の小野石根が大使の任務を代行。今毛人は左大弁を辞して静養。

宝亀10年(779年) – 大宰大弐に補任され大宰府に赴任。

天応元年(781年) – 正四位上。

延暦元年(782年) – 帰京して左大弁に再任され大和守兼任。同年、従三位。

延暦2年(783年) – 皇后宮大夫兼任。

延暦3年(784年) – 桓武天皇は山城国長岡の地に遷都を計画。今毛人は同地を視察し、造長岡宮使に任じられる。同年、参議に補任。

延暦4年(785年) – 正三位。民部卿兼任。

延暦5年(786年) – 大宰帥兼任。

延暦8年(789年) – 致仕(官職を退き引退すること)を上表。

延暦9年(790年) – 薨去。享年72。

『日本書紀』では蘇我蝦夷、通称は豊浦大臣(とゆらのおおおみ)。『上宮聖徳法王帝説』では「蘇我豊浦毛人」。蝦夷の精強な印象を良いイメージとして借用した名前である(小野毛人や佐伯今毛人、鴨蝦夷らも「えみし」を名として使用している)。蝦夷は蔑称であり、毛人が本名との説があるが「蝦夷」も「毛人」も同じ対象を指す。

『姓氏録』右京皇別の佐伯直条の記事が参考になります。同書によると、景行天皇の皇子、稲背入彦命の後であり、「男・御諸別命」が稚足彦天皇(謚は成務)の御代に、針間(播磨)国を中ばに分けて給わったので、針間別と号づけられ、さらに「男・阿良都命(訓はアラツ。一名は伊許自別)」が、誉田(応神)天皇に命じられ日本武尊の東国平定の際に俘(とりこ)にした蝦夷の後裔(佐伯)の管掌者となって氏を針間別佐伯直と賜ったと記されます。

御諸別命は毛野一族の針間鴨国造の祖であって、この御諸別命と、稲背入彦命の男で針間国造の祖である阿良都命とが針間を中分したものではないかと思われます。阿良都命が『播磨国風土記』神前郡多駝里条に見える品太(応神)天皇のときの佐伯部らの始祖阿我乃古と同人とすれば、世代的に御諸別命を入れる必要もなく、こう考えたほうが文意が通ります。仁徳紀四十年条には、播磨佐伯直阿俄能古らが隼別皇子を討ったと見えますが、『古事記』は山部大楯連という別人の名をあげますから、仁徳紀の記事は疑問があります。「国造本紀」では、成務朝に稲背入彦命の「孫」伊許自別命が針間国造を賜るとあり、御穂別命(御諸別命に当たる)の児・市入別命が針間鴨国造を賜るとあります。

阿刀氏

また平安時代初期、弘仁6年(815年)の『新撰姓氏録』では以下の氏族が記載されている。

左京 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上同祖。

山城国 神別 天神 阿刀宿禰 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。

山城国 神別 天神 阿刀連 – 石上朝臣同祖。饒速日命の孫・味饒田命の後。

摂津国 神別 天神 阿刀連 – 神饒速日命の後。

和泉国 神別 天神 阿刀連 – 釆女臣同祖。

なお『太子伝玉林抄』所引の『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという[1]。

このように阿刀氏は物部氏(のち石上氏)と同祖伝承を有している。その氏名は物部守屋の別業があったと伝えられる阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づくとされる[1]。また、人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある。

社名「阿刀」に見えるように、当社は古代氏族・阿刀氏(あとうじ)の氏神社とされる。阿刀氏に関しては『新撰姓氏録』(815年)で山城国に「阿刀宿禰」「阿刀連」の記載があり、それぞれ石上朝臣(物部氏)の支族で、饒速日命の孫・味饒田命の後裔であるとしている。阿刀氏は河内国渋川郡跡部(現在の大阪府八尾市の跡部神社周辺)を本拠としたが、平安京への遷都による移住に伴い、祖神を当地に遷したという。

居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ[、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。

跡部神社 (大阪府八尾市) – 河内国渋川郡の式内社。阿刀氏の氏名発祥地とみられる。

阿刀神社 (京都府京都市右京区) – 山城国葛野郡の式内社。阿刀氏の氏神社とされる。

法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である阿刀大足。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。当時、宗教界においては圧倒的な勢力を誇る阿刀氏の出であり、天皇をはじめとする朝廷と、南都六宗で一番の勢力を持つ法相宗、双方の人脈に恵まれた空海は、国家の平和と皇室の大安を願いつつ、自ら立ち上がります。そして天皇の篤い信任を得て、それまで誰も手がけることができなかった難しいプロジェクトを朝廷より賜ることになります。

阿刀氏は安斗氏とも書き、物部氏の系列の氏族です。平安遷都の際に、阿刀氏の祖神は河内国渋川群(今日の東大阪近辺)より遷座され、京都市右京区嵯峨野の阿刀神社に祀られました。

明治3年に完成した神社覈録(かくろく)によると、その祖神とは阿刀宿禰祖神(あとのすくねおやがみ)であり、天照大神(アマテラスオオミカミ)から神宝を授かり、神武東征に先立って河内国に天下った饒速日命(ニギハヤヒノミコト)の孫、味饒田命(アジニギタノミコト)の子孫にあたります。平安初期に編纂(へんさん)された新撰姓氏録にも阿刀宿禰は饒速日命の孫である味饒田命の後裔であるという記述があり、同時期に書かれた「先代旧事本紀」第10巻、「国造本紀」にも饒速日命の五世孫にあたる大阿斗足尼(おおあとのすくね、阿刀宿禰)が国造を賜ったと書かれています。古文書の解釈は不透明な部分も多く、「先代旧事本紀」などは、その序文の内容からして偽書とみなされることもありますが、物部氏の祖神である饒速日命に関する記述については信憑性が高いと考えられます。その結果、明治15年ごろ、京都府により編纂された神社明細帳には、阿刀宿禰祖味饒田命が阿刀神社の祭神であると記載されることになりました。阿刀氏の出自が、国生みに直接深くかかわった饒速日命の直系であることは、大変重要な意味を持ちます。

さらに「先代旧事本紀」には、饒速日命と神宝との関わりについても多くの記述が含まれていることに注目です。その内容を日本書紀、古事記と照らし合わせて読むことにより、饒速日命の役目がより明確になります。まず日本書記によると、天照大神から統治権の証として神宝を授かった饒速日尊は、弟の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向の高千穂峰に降臨する前に、船で河内国に天下り、その後、大和に移ったとされています。「先代旧事本紀」によると、この神宝は天神御祖(アマツカミミオヤ)から授けられた2種の鏡、1種の剣、4種の玉、そして3種の比礼であり、「瑞宝十種(ミズノタカラトクサ)」であると具体的に記されています。その後、神武天皇が即位する際、饒速日命は瑞宝十種を譲渡し、天皇の臣下として即位の儀式を執り行い、天皇家に関わる各種の定めを決めることに貢献しました。

『先代旧事本紀』国造本紀

末羅(マツラ)国造(長崎県松浦)

物部氏の同族・穂積臣の同祖の大水口足尼の孫の矢田稲吉命

小市 (オイチ)国造(愛媛県越智)

物部連と同祖の大新川(オオニイカワ)命の孫の子致(コチ)命

熊野(クマノ)国造(和歌山県熊野地方)

饒速日命の五世孫の大阿斗足尼

阿刀宿禰大足 (あとのすくねおおたり)

空海の母方の叔父。

『続日本後紀』承和二年三月二十五日条に、空海は十五歳のとき讃岐国から上京し、大足のもとで学んだことが見える。従五位下だったという。

安都宿禰笠主 (あとのすくねかさぬし)

延暦十六年二月十七日、撰日本紀所への出仕により位二階を叙された。ときに太政官史生、従七位下。(日本後紀)

安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)

大和国佐保河畔の人。

『万葉集』巻第四に「安都宿禰年足が歌一首」がある。

安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)

神護景雲二年七月三十日、正六位上より外従五位下に叙せられた。(続紀)

称徳天皇に仕えた女官か。

安都宿禰豊永 (あとのすくねとよなが)

大同元年二月十五日、正六位上より外五位下へ叙された。(日本後紀)

安都宿禰長人 (あとのすくねながひと)

延暦十年正月七日、正六位上より外従五位下に叙せられ、同月二十八日、主税助に任ぜられた。

同年七月二十九日、右京亮に任ぜられた。(続紀)

阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)

安都宿禰真足。

宝亀二年十一月、正六位上より外従五位下に叙せられ、宝亀三年四月二十日、大学助に任ぜられた。

同五年三月五日、安芸介。

延暦元年六月二十日、再び大学助。

同二年十一月十二日、主計頭に任ぜられ、同三年正月七日、従五位下に任ぜられた。(続紀)

阿刀造子老 (あとのみやつここおゆ)

左京の人。

神護景雲三年七月十七日、阿刀宿禰の姓を賜った。(続紀)

安斗連阿加布 (あとのむらじあかふ)

天武元年六月、壬申の乱に際し、大海人皇子に従って東海道諸国の軍兵の徴発にあたった。(紀)

阿刀連粟麻呂 (あとのむらじあわまろ)

左京の人。

貞観六年八月八日、阿刀宿祢石成・阿刀連祢守・阿刀物部貞範らとともに、良階宿禰の姓を賜った。ときに玄蕃大允、正六位上。(三代実録)

阿刀連生羽 (あとのむらじいくは)

摂津国豊嶋郡の人・迹連継麻呂らの祖。

承和十年十二月四日条に従七位上と見える。天平年間、その子孫の乙浄の時、迹の一字を姓としたという。(続日本後紀)

→迹連継麻呂

迹連乙浄 (あとのむらじおときよ)

摂津国豊嶋郡の人・迹連継麻呂らの祖父。極位は従七位上。

『続日本後紀』承和十年十二月四日条に、乙浄はもと阿刀連だったが、天平年間に誤って迹の一字を以って姓としたので、このとき継麻呂ら同族七十人が訴え出て、庚午年籍によって検じ元の姓に復したとある。

→阿刀連生羽

阿刀連薬 (あとのむらじくすり)

朱鳥元年正月十四日、難波で火災があり宮室がことごとく焼けた。大蔵省での失火が原因であったが、阿刀連薬の家の失火を原因とする風聞もあったという。(紀)

安斗連智徳 (あとのむらじちとこ)

安斗は阿刀とも。

天武元年六月、壬申の乱に際し、大海人皇子に従って東国に赴いた舎人の一人。(紀)

和銅元年正月十一日、正六位上より従五位下に叙せられた。ときに姓は阿刀宿禰とある。(続紀)

『釈日本紀』十五にその日記が引かれ、壬申の乱に天皇が戦術を唐人に問うたことが見え、傍注に従五位下と見える。

迹連継麻呂 (あとのむらじつぐまろ)

摂津国豊嶋郡の人。

承和十年十二月四日、祖父の阿刀連乙浄が天平年間に誤って迹の一字を以って姓としていたため、同族七十人とともに阿刀連に復することを願い出た。庚午年籍によって検した結果、これを許されたという。ときに左衛門府の門部、正八位上。(続日本後紀)

→迹連乙浄

阿刀連人足 (あとのむらじひとたり)

養老三年五月十五日、宿禰の姓を賜った。(続紀)

阿刀物部貞範 (あともののべのさだのり)

摂津国西成郡の人。陰陽允。

貞観四年七月二十八日、本貫を左京に移す。

同六年八月八日、良階宿禰の姓を賜る。

同十一年正月七日、正六位上から外従五位下に叙せられた。(三代実録)

阿比太連 (あびたのむらじ)

弥加利(御狩)大連の後裔。阿比大連と読む説がある。

家の傍らに大俣の楊樹があり、巻向宮に聖徳太子が巡幸したときこれにちなんで、阿比太に大俣連の姓を与えた。大椋(おおくら)官に任じられていたという。(録)

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空海の時代

 佐伯今毛人は聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁・桓武といった歴代天皇に仕え、ことに建築や土木の分野では右に出る者のいない能吏であった(※5)。こうしたことから延暦三年(784)、彼は佐伯氏出身者としては先後に例のない参議の地位にまで昇り、かつ、翌年には門閥貴族出身者ではない者としては極めて異例な、正三位を授けた

 今毛人が参議になった頃、空海はまだ10歳であった。

愚説

「もう一つの伝説  若き日の空海に漢学を教えた伯父、阿刀大足

は、空海の母の兄であったと云われる、この阿刀氏の一族については、物部氏系説と渡来人の秦氏系説との説がある、京都市在住の阿刀氏の末裔は、渡来人説をとったといわれる。一方父方の佐伯直田公の家系は、有名な大伴氏に連なる名門で、かって日本武尊に従って東国に遠征し、その功績を認め、讃岐地方を賜ったという。しかし、実際には、田公の属する佐伯直は、大和朝廷の地方官、国造の系統であり、大伴氏を出口とする佐伯連とは別系統で、佐伯とは、大和朝廷によって囚われの身となり、隷民として播磨、讃岐などに配置された東国の民をさし、それを統轄していたのが佐伯直であった。

『三代実録』貞観三年十一月十一日条の記事です。

 すなわち、讃岐国多度郡人の故佐伯直田公(空海の父)の子や孫、故従五位下鈴伎麻呂・書博士豊雄らの故人を含む一族十一人に対し佐伯宿祢姓を賜り、左京に移貫したという記事

佐伯直豊雄らの系譜は、先祖を大伴健日連とし、この者が景行天皇の御世に倭武命に随行して東国平定に勲功があったことで讃岐国を賜り私宅としたが、その子孫の室屋大連の第一男御物宿祢の子孫の倭胡連が允恭天皇の御世に讃岐国造となったと主張し、同族の玄蕃頭真持等(讃岐佐伯直の本宗たる道長〔田公の兄〕の子・孫か)が既に京兆に貫し宿祢姓を賜っているので、この例にならい田公の子・孫も同様に改姓改居の待遇を求めたものと記されています。

しかし、大伴健日連が讃岐国を賜ったことは事実ではなく、室屋大連は允恭〜雄略・顕宗朝の重臣であり、その子の御物宿祢は佐伯連・林連の祖となったものの、讃岐の佐伯直とは無関係

送別 (八)

「私が唐に来たのは、あなたが生まれた頃でした。そして、あなたのご一族の佐伯の 今毛人が、遣唐使に任命されたのです。・・・・もう遠い昔になりました」

佐伯今毛人は、空海の父である佐伯の 田公のいとこに当たる。大使に任命されたけれども、実際には渡唐できなかった。

空海は幼時、渡航の風濤の物語をよく聞かされた。佐伯今毛人がその物語の主人公であったはいうまでもない。

一族の希望の星であった佐伯今毛人が、遣唐大使に任命されたのは、空海が生まれた翌年のことだった。永忠の乗った船は、その時唐にたどり着くことが出来たのである。

「昔ですねえ」

と、空海はうなずいた。

「私が入唐するすこし前に、不空三蔵が入滅されたのですよ」

「不空菩薩入滅の日に、私が生まれました」

「ほう。・・・・」

永忠は空海のおよその年齢を知っていたが、生年月日までは知らなかった。

「私が入唐して、あなたが唐を去って帰国なされる。・・・・縁でございますな」

「浅からぬ縁です。今日まで私が住んでいた部屋に、明日から空海さんがお入りになる。・・・・橘さんはその隣の部屋です。ご案内しましょう」

「お願いいたします」

空海と橘逸勢とは、永忠のうしろについて境内を歩いた。

「みごとな伽藍でありますなあ。・・・・」

橘逸勢はあたりを見まわして言った。

「天竺の祇園精舎を模した配置ですが、どうもきらびやかすぎるのではないかという気がします。たとえばあれなども・・・・」

永忠は南の方の壁を指した。

「なるほど、色がねえ・・・・」

と、空海は言った。

釈尊と脇侍菩薩ぼが一対いつつい 描かれているが、色彩が鮮やか過ぎて仏寺の壁画にしては深味がない。

唐末の美術評論家の張ちょう 彦遠げんえん も、この西門南壁の楊延光えがく壁画については、

── 色を成して損ず。

と、評している。色彩のために、雰囲気をこわしているというのだ。

「大安寺を思い出しました」

回廊に入ったところで、空海は振り返ってそう言った。

奈良の大安寺は、もとの百済くだら 大寺が天武天皇の時大官大寺となったが、天平時代に南都に移されるとき、唐から帰った道慈どうじ が造営をつかさどった。そのとき、長安のこの西明寺の図面に従ったといわれている。

『曼荼羅の人』 著: 陳 舜臣 発行所:毎日新聞

コメント

tokyoblog

April 2015

空海の出自である讃岐の「佐伯直氏」の出自に関しては古来色々言われてきた。

主なものは、古代豪族「大伴氏」から派生した氏族であるという説。例えば「佐伯今毛人」という有名人が、奈良時代後期から長岡京時代にかけて歴史上活躍した。これは佐伯宿禰姓である。(既稿「大伴氏考」参照)

これと同一氏族とする系譜が残されている。

一方12景行天皇の皇子「稲背入彦命」の流れは播磨国造になるが、その流れの分岐した讃岐国造となった佐伯氏が佐伯直姓となり、この裔に「佐伯直田公」がおり、この子供が「空海」だとする説がある。

tokyoblog

April 2015

空海は四国讃岐国の佐伯直氏の出身である。母の兄とも言われている「阿刀大足」が長岡京で桓武天皇の皇子である「伊予親王」の家庭教師をしていた縁で788年(諸説ある)15才の時上京してきた。ここで大学への受験勉強をして平城京の大学に入学したが、2年間ほどでそこを出奔、謎の10年間を過ごし、804年(31才)頃東大寺で受戒して留学僧に選ばれたとされている。そう簡単に留学僧に選ばれることはない。強力な支援者がいたことは間違いないとされている。

伯父の阿刀大足の縁で伊予親王が支援し、親王を寵愛していた桓武天皇が後押ししたという説が有力。

空海が何故和気氏の氏寺であった高雄山寺に京都に帰京した時入った。

これは、葛野麻呂が取り持ったものと思われる。空海ー葛野麻呂ー和気氏ー高雄山寺の関係である。

空海は何故「乙訓寺」の別当になったのか。

52嵯峨天皇の勅により別当になったとある。乙訓寺の寺伝によれば、創建は33推古天皇の勅により聖徳太子によって建立となっている(長岡京市教育委員会の調査では、白鳳期の瓦が発見された)。となると、上記太秦の広隆寺建立と近い関係にある。この乙訓寺付近には「乙訓社」と言われる賀茂氏に関係する古社がある。また26継体天皇の弟国宮(518年)もこの辺りだったという説も根強くある。多くの6-7世紀の古墳もある。この古墳の主は不明だが、その豪族の裔が乙訓寺を建立したとの説が通説になっている。

この付近には、6世紀ー7世紀にかけて賀茂族がいたことは間違いない。同時に秦氏もいた。当時秦氏の方が勢力があった氏族である。同じ長岡の地に渡来系の氏族「田辺史」氏の氏寺と推定されている「鞆岡廃寺跡」が発見されている。創建は、はっきりしないが、乙訓寺とほぼ同じ頃ではなかろうか。となると、乙訓にいた秦氏勢力が乙訓寺を朝廷の支援も受けて創建したと考えても妥当性はある。乙訓という郡名を冠しているので単なる私寺ではないであろうが。(中山修一もその著書の中で、乙訓寺について、向日市の宝菩提院廃寺とともに秦氏関係寺院と推定している)

そうなると、空海をここの別当に推薦したのは、秦氏ー和気氏ー葛野麻呂ー嵯峨天皇ー空海となったのではなかろうか。(葛野麻呂は52嵯峨天皇にも重用されている)

52嵯峨天皇が空海と特別な関係であったことは有名である。

空海は荒廃しかけていたこの寺の再建に取り組んだとされている。この目途がたったので

和気氏の寺、高雄山寺に812年に帰り本格的な真言密教の布教活動を開始。824年に前述の神願寺と高雄山寺を併合した形で、ついに定額寺「神護寺(正式名:高雄山神護国祚真言寺」)」とし、初代住職となったのである。

参考であるが太秦の「広隆寺」も空海の弟子が入り、平安時代から真言宗の寺となっている。秦氏と空海の関係はそれ以外にも伏見稲荷神社と東寺の関係からも尋常でないことが窺える。

和気氏の元祖「鐸石別命」は、河内国の高尾山に葬られたとある。この神護寺は、山背国高雄山にある。偶然の一致であろうか。

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April 2015

和気氏の氏寺は、京都高雄にある「神護寺」である。

この寺の境内に清麻呂を祀った霊廟がある。これが後年になって「護王神社」となり、さらに1886年に遷座して、京都御所の蛤御門の側にある「護王神社」となったのである。

780年に清麻呂は光仁天皇に神願寺の建立を申し出ている。781年桓武天皇はこれを許可したとされている。ところがこの寺の場所は未だ不明である。諸史料から間違いなく神願寺は建立されたようである。(河内国内説がある)

ところが802年に高雄山寺が和気氏の氏寺として、史料に出てくる。そして805年唐から帰国した最澄を和気広世がこの高雄山寺に招いて灌頂式を行っている。和気氏が最澄の強力なパトロンとなったのである。奈良仏教ではなく、全く新たな息吹のする仏教である。

次いで遣唐使として唐に渡り、最澄より遅れて806年に帰国してきた空海は、808年まで太宰府の観世音寺におり、809年52嵯峨天皇が即位すると、和泉国槇尾寺に入り、7月になって入京し、前述の高雄山寺に入った。

811-812年にかけて山背国乙訓郡長岡郷にあった「乙訓寺」(京都府乙訓地方で現存する最古の寺。文献上の初出は785年の藤原種継の変の時、早良親王が幽閉された寺である。)の別当をした後、812年高雄山寺に戻った。これを支援したのは、清麻呂の5男真綱・6男仲世兄弟だった。どうも長男はこのころは他界してたのではないかと思われる。空海はこの寺を拠点として真言密教の本格的な活動をした。

824年に高雄山寺は神願寺と合併した形で「神護寺」となり定額寺となった。初代住職が空海である。要するに和気氏は平安仏教の2大教祖である「最澄」「空海」をその非凡な才を見抜き育てたのである。

これに和気広世・真綱・仲世ら兄弟の妹が遣唐大使藤原葛野麻呂の妻となり、その縁で空海・最澄の支援に結びついたのであろう。

空海と葛野麻呂の縁は遣唐使船が同一で中国に漂着した時、空海が素晴らしい漢文を作成して「葛野麻呂」の窮地を救ったという話は有名である。

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April 2015

藤原葛野麻呂(755-818)

①父:小黒麻呂 母:太秦嶋麻呂女

②妻:和気清麻呂女(後妻?) 子供:氏宗 ・常嗣  妹:桓武天皇妃

③785年従五位下。

・784年藤原種継・父:小黒麻呂らが山背国乙訓郡長岡村の地を相す。

父小黒麻呂中納言となる。

・793年父小黒麻呂ら山背国葛野宇多村の地を相す。父造宮使長官(造宮大夫)となる。

葛野麻呂もこの時左少弁として造宮に関与しはじめている。

・794年父小黒麻呂(733-794)没。和気広世とともに造京判官となる。

・796年和気清麻呂造京大夫。

④801年遣唐大使任命される。804年渡唐。最澄・空海も一緒。

805年帰国。従三位。

⑤806年参議。式部卿。

⑥808年中納言。809年正三位。

⑦「弘仁格式」編纂

 

藤原氏宗(810-872)

①父:葛野麻呂 母:和気清麻呂女

②兄弟:常嗣(796-840)

③正三位右大臣。「貞観式」撰上。

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April 2015

和気広世

①父:和気清麻呂 母:不明

②長男?子供:家麿(養子?)宗世(守世)・貞臣・豊永

③延暦4(785)年「事に坐して禁錮」の記事。

③794年造京判官となる。この前後に菅野真道・藤原葛野麻呂と一緒に平安京の「造京式」作成の記事(従五位下)。

④799年広世奏して亡父の志をつぎ私墾田100町をもって和気郡以下八郡百姓の賑救田にあてた。

⑤広世の世話で最澄はじめて高雄山寺に法華会をひらく。

⑥805年天台法文を写す。

⑦宇佐使。式部大輔。大学頭。文章博士。正五位下。弘文院(一族の大学)を建てた。

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April 2015

1874年 神護寺の境内にあった清麻呂を祀った廟は「護王神社」と改称され別格官幣社となり

1886年明治天皇の勅命により、神護寺境内から京都御所蛤御門前に遷座した。

猪伝説

大隈国へ配流の際に宇佐神宮に参詣したおり、猪により難事が救われたとされている。護王神社・和気神社では狛犬ではなく狛猪がある。戦前の10円紙幣の表面に「和気清麻呂肖像」裏面に「猪」が描かれていた。

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May 2015

554

百済、中部木刕施徳文次、前部施徳曰佐分屋らを筑紫に遣して、内臣の佐伯連らに、救援軍の要請。佐伯連、1000人、100匹・船40隻で百済に詣る。

 

556

蘇我稲目、倭国の兵をつけ百済王子の恵を百済に護送

讃岐の秦氏からは、空海の弟子で太秦広隆寺の中興となった道昌や、東寺の長者や仁和寺の別当などを歴任し空海のために弘法大師の号を奏上した観賢が出ている(観賢は大伴氏という説もある)。

 

 

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May 2015

『以呂波字類抄』という古文献の「本朝事始」の項

倭武皇子(やまとたけるのみこ)が宇陀の阿貴山で漆の木をみつけ、漆を管理する官吏を置いたという記述があり、また倭武皇子が宇陀の山にきて木の枝を折ったところ手が黒く染まり、その木の汁を家来たちに集めさせ持参の品に塗ったところ美しく黒光りした。そこで漆の木が自生している宇陀郡曽爾郷(今の宇陀市曽爾村)に「漆部造(ぬりべのみやつこ)」を置いたという。これが日本最初の漆塗の伝えである。

 宇陀の地には紀伊に入った秦氏が古くから移り住んでいた。右の伝承の「漆部」(ぬりべ)とは漆器製作の職掌の品部であり漆部連(ぬりべのむらじ)や漆部造(ぬりべのみやつこ)が伴造(とものみやつこ)として支配した。伴造の主なものは渡来系氏族があるが、この宇陀の地では秦氏以外に考えられない。

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May 2015

藤原葛野麻呂(かどのまろ)

空海と藤原氏の親和関係を語るのにこの人を落とすわけにはいかない。

 葛野麻呂の父は北家の藤原小黒麻呂(おぐろまろ)で、母は秦氏系の(太)秦嶋麻呂(はたのしままろ)。小黒麻呂は、桓武天皇の信認厚く、側近として桓武政権を支え、大納言の地位まで上った人で、かれの妻の出自の秦氏が根拠地として展開する山背国葛野郡にほど近い乙訓郡長岡への遷都(長岡京)を強く推進した。

小黒麻呂とともに長岡京造営に奔走したのが式家一門の藤原種継(たねつぐ)であった。彼の母も、秦忌寸朝元(はたのいみきあさもと)の娘で、秦氏である。種継は、桓武から長岡京造営長官に任じられ、山背国葛野郡の秦足長(はたのたりなが)や大秦宅守(おおはたのたくもり)ら秦氏一族の協力をえて着々と遷都を進めていたが、延暦四年(七八五)、造営の監督中に矢で射られて殉死した。

 首謀者として、すでに死亡していた大伴家持が官籍から除名され、大伴氏・佐伯氏をはじめとする官人が多数斬首・配流された。しかし、それでは終わらず、南都の国家仏教勢力の力に嫌気した桓武が南都の仏教勢力から離れようと遷都を企てたのに対し、東大寺や大安寺などの仏教勢力や宮中の祭祀を司る大伴・佐伯といった遷都反対勢力に、桓武の実弟で皇太子である早良親王がそそのかされ謀反を画策したとして濡れ衣を着せられ、長岡の乙訓寺に幽閉されたのである。その乙訓寺こそ、後に空海が別当に任じられ、早良親王の怨霊が漂うまま荒廃していたのを復興した寺で、そこに比叡山の最澄がたずねてきて、(伝法)潅頂の受法を乞うた舞台である。

葛野麻呂

妹の上子(かみこ)が桓武の後宮に入っている。そのおかげでか栄進の道を進み、延暦23年には遣唐大使を命じられ、空海も乗った第十六次遣唐使船で唐に渡った。途中、東シナ海での遭難から長安に到着するまでの道中、かれは何度も空海に苦境をたすけてもらった。翌年無事帰国すると、参議・式部卿に任じられて天皇の近くで重用され、さらに中納言にもなった。

彼の妻は、最澄の兼務住寺である高雄山寺を氏寺にもつ朝廷氏族和気清麻呂(わけのきよまろ)の娘である。和気清麻呂が道鏡の宇佐八幡神託事件で配流の憂き目に会ったことは先に述べたが、その後は桓武朝に復活し、とくに平安京遷都を桓武に強く進言し、遷都にあたっては造営大夫として活躍した。配流の身から天皇の側近にまで栄進したのである。しかし、桓武に取り入り平城京廃都を押し進める清麻呂に対し、南都の仏教勢力はおもしろくなかった。

 空海が、大宰府観世音寺での滞留義務を解かれて、和泉の槇尾山寺を経て高雄山寺に入る時、住持だった最澄は空海の高雄山寺入山を快く認めて引き下がった。最澄を説得したのは、最澄の天台に反対する南都仏教勢力の勤操らだったというのだが、陰の主役は葛野麻呂ではなかったか。

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May 2015

 阿刀氏は学問を以てなる家柄だったらしく、大和国高市郡出身で元正・聖武両天皇の内裏に供奉した法相宗の義淵や、義淵の弟子で入唐留学経験をもつ法相の玄昉や、玄昉の弟子(実子だという説もある)で法相宗の六祖に数えられる著述家の善珠といった学問僧のほか、空海の叔父で桓武天皇の皇子伊予親王の侍講をつとめた大足(おおたり)や、『日本紀』『続日本紀』の編纂局「撰日本紀所」に出仕をしたといわれる安都宿禰笠主(あとのすくねかさぬし)や、『万葉集』に歌がある安都宿禰年足 (あとのすくねとしたり)や、大学助(だいがくのすけ、大学寮の教授)をつとめた阿刀宿禰真足 (あとのすくねまたり)らがいる。

 また朝廷の官人として「壬申の乱」の際大海人皇子のもとで活躍した安斗連智徳(あとのむらじちとこ)と安斗連阿加布(あとのむらじあかふ)や、称徳天皇に仕えた女官といわれる安都宿禰豊嶋 (あとのすくねとよしま)らが名を残している。

 秦氏の根拠地となった太秦を含む山背国葛野の地に、阿刀氏の祖神饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀る阿刀神社がある。平安京遷都にともない本拠地河内国渋川郡跡部郷から遷されたものである。秦氏と阿刀氏、同じ渡来系の氏族が、山背国葛野の地で共存することになったのである。

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May 2015

高野山造営にあたって、空海が協力要請の手紙を送った土地の有力者というのも、この紀伊丹生氏の当時の当主だったということが、最近研究者によって明らかにされた。その手紙とは、

古人の説によると、私の先祖太遣馬宿禰は、あなたの国(紀伊国)の祖である大名草彦の分かれであります。一度訪ねたいと久しく考えていますが、あれこれ妨げがあってなかなか志を遂げられず、申し訳なく思っています。今、密教の教えに基づいて修禅の一院を建立したいと考えてきました。その建立の場所として、あなたの国の高野の原が最適と考えます。そのようなわけで上表文をしたため、天皇に高野の地の下賜をお願い致しましたところ、早速慈悲の心をもって裁可の太政官符を下されました。そこでまず一・二の草庵を造立するため弟子の泰範・実恵らを高野に派遣いたします。ついては仏法の護持のために僧俗相共に高野山の開創に助力賜りたく存じます。私は来年の秋には必ず高野に参りたく考えています。

(『高野雑筆集』)

 ときに、空海が高野山に入山する時に、二匹の犬を連れ狩人の姿をした南山の犬飼いに出合ったという話があり、その犬飼いが狩場明神(高野明神・高野御子大神)だったという伝えもよく知られている

狩場明神とは、実際は空海と同じ時代の紀伊丹生氏の当主丹生家信という人で、家信の死後、空海が狩場明神として、今の伊都郡かつらぎ町宮本に祀った(丹生狩場神社)という説がある。

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May 2015

欽明十五年(554年)春正月、

皇子渟中倉太珠敷尊(後の敏達帝)立太子。

正月九日、百済、筑紫に遣使し、

内臣の佐伯連に対して、

「昨年11月百済からの使者に対して、

『来年の正月には援軍を派遣する』と言ったはずです。

いったいどうなっているのですか。

援軍は来るのですか、来ないのですか。

来るとしたら、兵の数は何名ですか。

その規模を聞いて予め軍の施設を準備させなくてはなりません。」

と言った。

更に改めて、

「私は天皇の詔によって、

内臣が筑紫に来て百済に賜う兵を見送る予定だと聞いています。

このことを聞いて喜んでいました。

今年の戦いは以前より厳しい状況です。

できれば正月中に派遣していただきたい。」

その要請を聞いて、

内臣(佐伯連)は天皇の勅を受けて返答した。

「援軍の兵数は1000人、馬を100匹、船を40艘送りましょう。」

この緊急時に天皇に約束の履行を迫るために、

百済は筑紫に遣使している。

内臣(佐伯連)は筑紫に滞在している。

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May 2015

587年6月  蘇我馬子宿禰らは炊屋姫尊を奉じて、詔を出し、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に命じ 穴穂部皇子と宅部皇子の誅殺させた (用明2年6月8日

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May 2015

景行天皇の皇子、稲背入彦皇子の後裔氏族で、成務天皇の時代に同皇子の子である御諸別命(みもろわけのみこと)が播磨国に封ぜられて以来、氏名を「針間別(はりまわけ)」とし、応神天皇が播磨国に行幸した時に、同国の佐伯部を御諸別命の子である伊許自別(いこじわけ)に伴造として管掌させるとともに、「針間別佐伯直」と改賜姓したが、天智天皇9年(670年)の庚午年籍作成に際して、「針間別」の3字を除いて「佐伯直」と称するようになったという

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May 2015

延暦7年(788年)、平城京に上る。上京後は、中央佐伯氏の佐伯今毛人が建てた氏寺の佐伯院に滞在した。(真魚は讃岐佐伯氏)

紫香楽宮造営司に主典として出向したのを皮切りに以後東大寺や西大寺の造営、長岡京遷都の任に当たるなど主に建築や造営の面で活躍した。特に東大寺造営における天皇の評価は高く、異例の七階の特進をしている。

天平宝字7年(763年)今毛人は藤原良継、石上宅嗣、大伴家持らと、当時、太師(太政大臣)となり専横を極めていた恵美押勝(藤原仲麻呂)の暗殺を謀議するが、密告により露見。藤原良継が罪を一人で被ったため、今毛人は解官のみで助けられる。恵美押勝は翌天平宝字8年(764年)に乱を起こして滅びている(藤原仲麻呂の乱)。

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May 2015

「空海は天才的な思想家であると同時に、天才的な布教者だと。そして彼はいろんなことが出来た。このいろんなことが出来たというのが、現代人にはちょっと抵抗があるんです。だから、昔はそういうある意味でいうと、万能の天才、ルネッサンス的というのは、空海を神として崇拝する理由になっていたんですけど、明治以後、そういうのはちょっといかがわしいんじゃないかというので、一つの、一筋に繋がる道元や親鸞の方がどうも本当の聖者じゃないかという風潮がある。だけど、私は、空海はやっぱり「密」という、やっぱり「事の中心」ですね。この世界の中心の理を把握して、把握すればいろんなことが可能になってくる。みんなその中心から、全部彼の仕事は出ているような気がしますね。だから片一方で、土木の監督が出来た。」梅原猛

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June 2015

佐伯ノ丹経手 (*)連・にふて。蘇我馬子の将。蘇我馬子の命で宅部皇子を襲撃。息に子麻呂。<孫・大目は天武天皇派。>

佐伯ノ東人 (*)山背大兄の側近。628年蘇我蝦夷と対立し、巨勢(許勢)大麻呂、紀塩手とともに山背大兄を擁立。

⇔佐伯ノ子麻呂 (*~666)連。佐伯丹経手の息。中大兄皇子に協力し殿中にて蘇我蝦夷を殺害する。息に大目。

⇔▽佐伯ノ大目 (*)連。蘇我入鹿を殺害した佐伯子麻呂の息。大海人皇子を擁立。

佐伯ノ石湯 (*)いわゆ。征越後蝦夷将軍。709年任官。出羽(荘内)柵築城。息に伊多智。

佐伯ノ児屋麻呂 (*~724)陸奥大掾。陸奥「蝦夷の反乱」により殺害される。

佐伯ノ全成 (*~757)宿禰・陸奥国介・陸奥守・陸奥鎮守副将軍・またなり。東大寺大仏製造用の黄金を献上。749年陸奥介に就任。752年百済王敬福の跡職を継承。753年大伴伯麻呂とともに久米舞の奉納。陸奥守就任。757年陸奥鎮守府将軍就任。橘ノ奈良麻呂から天皇廃位の計画に勧誘される。藤原仲麻呂を排斥する為の「橘ノ奈良麻呂の乱」に連座し失脚。<佐伯一門。>

佐伯ノ伊多智 (*)衛門少尉・宿禰・伊太智・イタチ。石湯の息。越前に入国し藤原ノ辛加知を討つ。越前入りする恵美軍を撃退。息に佐伯葛城。

佐伯ノ今毛人 (719~790)参議。佐伯人足の息。兄に真守。763年藤原良継、大伴家持、石上宅嗣とともに仲麻呂暗殺計画。発覚し失脚する。764年仲麻呂失脚により復帰。775年遣唐使。息に金山、三野。

佐伯ノ三野 (*~779)陸奥守・美濃・鎮守将軍(鎮守府将軍)・佐伯美濃。。764年「藤原仲麻呂」討伐に軍功。771年任官。鎮守将軍。

佐伯ノ久良麻呂 (*)宿禰・近江介・中衛中将・衛門督・久良万侶。鎮守権副将軍。紀ノ広純の援軍として派遣される。776年任官・陸奥鎮守権副将軍。777年出羽遠征。777年「志波邑の俘囚討伐」に軍功。

佐伯ノ人麻呂 (*)祖父は尾張守・佐伯大麻呂。息に清岑。

佐伯ノ清岑 (763~827)きよみね・常陸守・陸奥守。佐伯人麻呂の息。嵯峨天皇・淳和天皇に出仕。811年陸奥守。陸奥出羽按察使・文室綿麻呂と共に蝦夷の爾薩体、幣伊邑の攻略を上申。上野守、常陸守。国司の反感を買い、失政により召喚される。826年「親王任国」が開始される。息に鳥麻呂、鹿継。<皇子を東北に派遣するために、邪魔な貴族は左遷されたのでしょうか。>

佐伯ノ葛城 (*~789)陸奥介・鎮守副将軍・征東副使。787年任官。

⇔佐伯ノ耳麻呂 (*)宿禰・鎮守府将軍・征夷副将軍・陸奥守。809年鎮守府将軍。811年文室綿麻呂の補佐として征夷副将軍。812年陸奥守就任。

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July 2015

空海が紀伊国の有力者に宛てた手紙

「昔から胡の馬は北風の吹く方に向かって故国をしのび、越(えつ)から飛来してきた鳥は南の故郷をおもって、南の方角へ突き出た枝に巣をかまえるといわれえている。西に沈んだ太陽はふたたび東の空にかえって昇り、東に行ける雲はまた西にかえって空をゆく。ものにおいてもこのようであるのに、どうして人の心にもそうした道理がないといえましょう。

 昔の人から聞き及んでいるのに、私の先祖は太遣馬宿禰(たけまのすくね)はあなたの国の祖である大名草彦(おおなぐさのひこ)の末裔であるとのこと。この故に一度お目にかかりたいものだと、かねがね思っておりました。しかし、いろいろとさしつかえができて、その心の願を果たすことかなわず、残念です。

 

このたび、教えにもとずいて修禅の一院を建立しようと思います。あなたの国の高野というところが、その教えの趣旨に最もよくかなったところでございます。だから、上奏文を草してその旨を願い出ましたところ、早速に聖帝は慈恩をたれたまい、勅許の官符を下されました。そこで、まず一、二の草庵を造るために、弟子の僧俗あい助けて、開創に力をお貸しいただければ、幸でございます。私は来年の秋には必ず参上いたします。いまだ拝謁のいとまがありませんが、なにとぞ自重自愛されますように。」

この手紙で佐伯氏の遠祖の太遣馬宿禰が紀伊の国の祖、大名草彦の末裔である事を述べて、同族の故に高野山開創の支援を請うています。

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July 2015

空海が求聞持法の修行時代に

訪れた紀伊の国の高野山

弘仁七年(八一六)六月十九日に空海が嵯峨天皇に提出された上表文

空海、少年の日、好んで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日、更に西に向かって去ること両日程にして、平原の幽地あり。名付けて高野と曰う。計るに紀伊国伊都郡の南に当たれり。四面高嶺にして、人蹤、蹊道絶えたり。今思わく、上は国家の奉為に、下は諸々の修行者の為に、荒藪をかり夷げて、聊か修禅の一院を建立せん。

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July 2015

 『今昔物語集』によれば、

弘仁七年(八一六)六月ごろ、

適地を求めて遍歴中の空海は、大和国宇智郡で、南山(高野山)の犬飼と名乗る猟師から高野のことを聞き、その猟師の二匹の犬に導かれて高野山へと向かわれる。そしてこの猟師は、高野山の地主神、狩場明神だったという。

 次に空海は、紀伊国との境で出会った一人の山人に伴われ、高野の地に到着されたとき、その山人から高野の領地を譲り受けられた。この山人は高野の地主山王(丹生明神)の化身であったという

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July 2016

阿刀家は、司馬遼太郎が想像をするように、土着の家系ではなく讃岐国多度郡きっての長者であった佐伯家が学問の師家として奈良の都から招聘してまもない家だったかと思われる。その阿刀家の阿古屋と佐伯家の善通が結婚し、阿古屋の妹と善通の弟も結婚して重縁の関係にあった。両家がよほどの信頼で結ばれていたことを物語っている。

 真魚は、そうした環境のなかで両親や阿刀家の期待通りに育った。真魚がまだ幼少の頃から長じて都の大学寮で天才ぶりを発揮する時期まで、真魚の学力や言語力に指導的な役割を担ったのは父の実弟阿刀大足である。彼は中央の高級官僚であり漢学者だった。

 貧道、幼ニシテ、表舅ニ就ヒテ頗ル藻麗ヲ学ブ(『文鏡秘府論』)

 後年空海は、叔父の大足について文章と詩を勉強したと述懐している。15才で奈良の都に上り大学寮に入学するまでの3年間、真魚は大足の館や中央佐伯氏の氏寺佐伯院などに止宿しながら大足に漢籍・詩文を徹底して仕込まれた。

 司馬遼太郎は、阿刀家の屋敷跡の伝承が讃岐にはないというが、多度津町の仏母院を知らなかったのであろうか。この寺は今に残る立派な空海伝承の旧跡である。

 多度津町の市街地から西に約2.5㎞、県道21号線から(海岸寺)郵便局のところを左折して南に入り、細い道を少し行くと左にお寺らしいお堂の屋根と隣接する保育園の園舎が見えてくる。仏母院をめざしていくのでなければうっかり通り過ぎてしまいそうな、失礼ながら、閑寂なお寺である。

 車を止めて道の反対側に目を転ずると、小さな不動堂を中心に空海の母の史跡のそれらしい遺物や説明版や石碑がいくつか建っている。ここが阿刀家の屋敷跡で、空海の母阿古屋はこの土地の産土神である熊手八幡神社に子宝授与を祈願して「神の御子」空海を身ごもったという。ここでは、空海は母の実家であるこの場所で産まれたことになっている。

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July 2016

 仏母院は八幡山仏母院屏風ヶ浦三角寺と号す。八幡山とは童塚の近くにある山で、産土神の熊手八幡神社の分社を祀る山である。その草創は弘仁年間以後だといわれ、空海と親交のあった嵯峨天皇が空海の母の屋敷跡と聞き、自筆して贈ったという扁額が残っている。

 またここからずっと海べりに鎮座する熊手八幡神社本社のご神体である長鈎(熊手)が伝わっている。仏母院はもともと熊手八幡神社の別当寺であったという。

 『紀伊続風土記』の「熊手八幡縁起」に、

巡寺八幡宮ト奉ルハ、旧讃岐国多度郡屏風浦ニ御鎮座アリテ、弘法大師ノ産土神ナ    リ。

御神体ハ神功皇后征韓ノ日、用ヒ給フ所ノ御旗、長鈎ニシテ、皇后凱旋ノ時屏風浦ニ   

至リ、

殿ヲ造リテ是ヲ蔵メ・・・・

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July 2016

阿刀家

 空海の父は佐伯直田公善通、母は玉依姫(阿刀氏)。父の弟、大足(おお

たり)は玉依姫の妹と結婚し、阿刀家の養子となり家を継いだ。阿刀氏は代

々学者の家系で、幼い真魚(まお)-空海の幼名-は大足から教育を受けた。

大足は桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講をしており、空海の大学入学や

入唐に際し、大きな助力をしたことだろう。こうした大恩に対し、後に大足が失

脚した際、保護し、死ぬまで身辺におき、報いたのです。しかも、その子孫は

明治初年まで京都東寺の俗別当を代々つとめ、家系は現当主:阿刀弘文氏

に至っている。空海が阿刀家を千二百余年にわたり、庇護してきたといえない

だろうか。

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July 2016

 四国霊場八十八ヵ所の謎

 四国霊場八十八ヵ所巡拝がいつ頃始まったか、高弟の真済が空海入定後、

遺跡を慕って歩いたのが始まりといわれ、西行の《山家集》などにもみえ、古く

からおこなわれたことがわかる。

四国霊場をお参りする人を遍路という。何故人はお遍路さんになるのか・・・。

空海入定の時、

    『居ヲ高野ノ樹下二トシ  神ヲ兜率ノ雲上二遊ス 

     身ヲ百億二ワカチテ   諸所ノ遺跡二分身散影ス』

と述べている。

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July 2016

物部氏系の史書である『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖神)の孫・味饒田命(うましにぎたのみこと)を祖とすると伝える。

『太子伝玉林抄』所引の『新撰姓氏録』左京神別阿刀宿禰条逸文によれば、大和国城上郡椿市村(奈良県桜井市金屋)にも阿刀連があったという。

このように阿刀氏は物部氏(のち石上氏)と同祖伝承を有している。その氏名は物部守屋の別業があったと伝えられる阿都(のちの河内国渋川郡跡部郷、現在の大阪府八尾市跡部周辺)の地名に基づくとされる。

また、人物の初見が天武天皇元年(672年)であることから、その頃に物部氏から分派したという説がある。

居住地としては山背国愛宕郡(京都市東北部)、山背国相楽郡(京都府相楽郡)、摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市周辺)が知られ、上記の様に『新撰姓氏録』には左京、山城国、摂津国、和泉国に居住が見られる。

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July 2016 July 2016 編集されました

阿刀神社

右京区の丸太町通り広沢南野町交差点東の住宅街の中にあります。ご祭神は、天照皇大神、味饒田命(うましにぎたのみこと)。見落としてしまいそうな小さな神社ですが、式内社であり、明治初期までは大神宮社でした。味饒田命は、物部の祖とされる宇摩志麻遅命の息子です。つまり、饒速日命(天照国照彦天火明饒速日命)の孫にあたります。

阿刀氏の史書上の初見は天武元年、壬申の乱の時です。 大海人皇子(のちの天武天皇)が吉野に脱出した際につき従った舎人の一人。このときの功績で宿禰の姓となりました。また、物部守屋の別邸があったとされる地が河内の阿都です。

阿刀氏は、弘法大師=空海の母(阿古屋=玉依姫)の氏族でもあります。 空海の俗名は佐伯真魚(まお)です。父は佐伯善通。母は阿刀氏の出の阿古屋。空海の語学(漢詩・漢文)の師匠でもあった叔父の阿刀大足は佐伯善通の実弟で、阿古屋の妹と結婚して阿刀を継ぎました。阿刀大足は長岡京で桓武天皇の第三皇子伊予親王の侍講でした。

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July 2016

東寺の境内北の住宅地に小社の石上神社(いそのかみじんじゃ)があります。正式には石上布留社(いそのかみふるしゃ)というそうです。 祭神は本社に石上布留御魂(いそのかみふるのみたま)、相殿に阿刀大神(あとおおかみ)を祀っています。東寺の石上布留社の創建の詳細は不明。宰主は、阿刀家が務め、ここに祀るのは、空海の母の実弟、初代執行の阿刀大足以来の慣例によるものだということです。 末社に三輪、伊勢、賀茂、岩清水、二天夜刃、役小角、稲荷、弄鈴(なるこ)、王仁(わに)、空海大神が祀られています。

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July 2016

空海、故伊予親王追善供養の願文を草する

桓武天皇の皇子伊予親王は、大同2(807)年に母藤原吉子と共に大和飛鳥の川原寺(弘福寺)に謂れのない謀反の首謀者に仕立てられて幽閉され、毒を仰いで死んでしまいました。

伊予親王は嵯峨天皇の異母弟であり、空海の叔父の阿刀大足は伊予親王の家庭教師でもありました。

この非命に倒れた二人の幽魂を弔うための法会を営んだ時、空海は願文を草しました。

槇尾山寺に入った空海は、唐から持ち帰った経巻等を整理しつつ、金剛頂経系密教(金剛界)と大日経系密教(胎蔵界)の二つの密教思想を一つの体系に創り上げる(「両部不二」)という教義を発展させる作業をしていたと考えられています。

また、この時期、大学入学前の空海の家庭教師を勤めた叔父阿刀大足が空海の元に身を寄せることとなっていました。

藤原家の内紛に発する事件で、伊予親王が謀反人とされてしまい、伊予親王の侍講(家庭教師)であった阿刀大足も都を脱出したのでした。

とばっちりを受けた上に、政治犯に近い立場となった阿刀大足は行き場を失い、槇尾山寺の空海を訪ね、庇護されることとなったのです。

阿刀大足は830年(天長7年)に87歳で亡くなるまで、空海の側で俗別当(事務長)のような仕事をしていました。

その後、阿刀家は京都の東寺の俗別当を代々務めて、それは明治時代にまで到ったそうです。

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July 2016

阿刀氏は仏教界の指導者を輩出、

法相宗、善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いているこ

空海の活躍と同時期、奈良時代後期から平安初期にかけて法相宗を隆盛に導いた法相六祖の僧侶の一人、大和国出身の善珠に注目です。八世紀の終わり、南都六宗では経典暗誦よりもその解釈を極めることが重要視され、その結果、経典の釈義に長けていた法相宗が他宗を圧倒するようになりました。当時、法相宗のリーダー格であった善珠は、朝廷とも深い関わりを持ち、皇太子安殿親王の厚い信頼を受けていただけでなく、殉死した早良親王とも交流がありました。また、秋篠寺を開基し、そこでは後世において法相宗と真言宗が兼学されることになります。

この善珠こそ、法相宗法脈の頂点に立った玄昉の愛弟子であり、しかも玄昉が護身を勤めた藤原宮子との間にできた子とも言われています。そして善珠の卒伝には「法師俗姓安都宿禰」、玄昉も「玄昉姓阿刀氏」と書いていることから、ともに阿刀氏の出であることが伺えます。さらに「東大寺要録」を参照すると、玄昉の師である義淵(ぎえん)も阿刀氏なのです。つまり義淵から玄昉、そして善珠と引き継がれてきた法相宗の法脈は、まぎれもなく阿刀氏によって継承され、奈良から平安時代初期にかけて、その宗教政治力は頂点を極めました。

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July 2016

法相宗の流れをくむ学者の一人が、空海の母方の伯父である、阿刀大足です。彼は朝廷において桓武天皇の子である伊予親王の侍講を勤めただけでなく、空海にも教えていました。つまり伊予親王だけでなく、空海も阿刀大足を通じて法相宗の僧侶らと親交を深める機会があったと考えられます。それゆえ、空海は南都六宗のありかたを批判することはあっても、友好的な関係を保ち続け、後に高野山を開いた際も、穏やかに聖地を構えることができたのです。

以下略