Okinawa 沖縄の旅 Day 63 (3/10/19) 豊見城市 (5) Senaga Hamlet 瀬長集落
Senaga Hamlet 瀬長集落 (せなが、シナガ、アンジナ)
- Senaga Worship Place 瀬長拝所
- Senaga Hill Trench 瀬長丘陵 軍構築壕
- Akasachi Forest Trench 赤崎 (アカサチ) 森壕
- Umikajima Terrace ウミカジテラス
- Senaga Gusuku Castle Ruins 瀬長グスク
- Memorial Monument of 300th year Birth of Heshikiya Chobin 平敷屋朝敏生誕300年記念顕彰碑
- Ishi-iri 子宝岩
Ganaha Hamlet 我那覇集落 (がなは、ガナハ) - 2020年7月25日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 34 (25/07/20) 豊見城市 (19) Ganaha Hamlet 我那覇集落」に集約
Nakachi Hamlet 名嘉地集落 (なかち、ナカチ、ナーカチ) - 2020年7月25日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 34 (25/07/20) 豊見城市 (20) Nakachi Hamlet 名嘉地集落」に集約
Tagami Hamlet 田頭集落 (たがみ、タガミ)
Former Gushi Signal Fire Site 具志火立所跡 (那覇市)
今日 (10月3日) も豊見城市の各字の史跡を巡る。まずは我那覇に行き、名嘉地、田頭を見学して、瀬長まで行く。この日は4つもの集落を巡ったので見れた文化財は限られていた。その後、資料に目を通し、更に多くの文化財が残っていることを知った。2020年3月から沖縄に住み始めた後7月に、知り得たこれらの文化財を巡るために、この4つの集落を再訪した。10月3日のこの訪問記には瀬長集落の2019年10月3日と2020年7月25日の二回の訪問での記録を集約している。残りの3つの集落の訪問記はそれぞれ2回目に訪れた際の記録に集約している。
Senaga Hamlet 瀬長集落 (せなが、シナガ、アンジナ)
2019年末の人口は263人、世帯数は98世帯で、豊見城市では一番小さな字。平坦な地形なのでもっと人口は多いと思っていたが意外だった。丘陵地区の方が人口が多い。元々、瀬長集落は瀬長島内にあった。瀬長島は小さな島で、沖縄戦当時は、人口150人、35戸が北側平野部 (現 野球場一帯) に集落を構え、半農半漁の暮らしを行っていた。現在、住民はこの瀬長島には住んでおらず、沖縄本島の地域に集落がある。沖縄戦の後、島は米軍に接収され、立ち入りが禁止されていたので、本島側のアガサチ森辺りに住み始めたのだが、天災で大きな被害が出て、現在の集落がある場所に移ってきた。人口は他の字に比べて、極端に増加率が低い。沖縄戦当時の人口と比較してもあまり増えていない。沖縄戦当時でも瀬長集落は貧困に苦しんでいた集落で、集落内には瓦葺きの民家は一軒のみであった。人口が少ないのは、この場所は那覇飛行場に近いので、騒音が大きく住むには人気のないのかもしれない。世帯あたりの家族数は、他の字に比べて減少率が低く、この率は豊見城市では2番目に低い字。(世帯あたりの家族数が一番多いのが豊崎の3.0人でこれも意外だった。) 昔からの住民が残っているのだろう。
瀬長集落の始まりは、知念より来た人物との言い伝えがある。
現在集落のある地区はもともと人は住んでおらず、農耕地のみに使用されていた。瀬長島に住んでいる住民は、干潮時には島から本島に歩いて渡り日々の農作業を行い、終わると島に帰って行った。満潮時にはサバ二船で渡ったそうだ。ちなみにサバニは沖縄伝統の船。その後、我那覇部落より瀬長島で結構食えるからと移って来たそうだ。
Senaga Worship Place 瀬長拝所
瀬長島を目指して走り、海中道路の入り口付近に鳥居が見えたので昼食を兼ねて一休みとする。日本の神社とは異なる。明治以降、元々の民間信仰の御嶽や拝所に鳥居を設置し神社化しようとした政策であったが、沖縄人はたくましい。そんな事は御構い無しに、元々の信仰を続けている。これは沖縄の歴史や琉球人気質だ。ただ、この社殿は戦後、昭和50年 (1975) に建てられている。沖縄戦で信仰の島の瀬長島は米軍基地として接収され、島にあった多くの拝所をこの社殿隣にあったアカサチ森に安置したが老朽化の為に当拝所の建立となった。中央の神殿には琉球開闢の女神のアマミキヨ (阿摩美久) の子の豊見城最初の世主である天御人之御神が祀られている。中国風の祭壇には、三様御殿 (みさーやー)、按司御墓、御骨神の三神が祀られ、霊石を並べた火ぬ神、更に瀬長島に点在していた泉井 (ガー) を、拝所としてまとめている。(御月御井、知念御井、按司御井、前ヌ御井) 知念御井は瀬長集落の始祖 (知念から移って来た人物 に関係が深い。
しばらくすると、荷物を抱えた二人の婦人がやってきた。にこりと笑って挨拶をしてくれた。お詣りですか? そーだよーと言ってた持ってきたお供えを広げ、紙に書かれた何かを読み始めた。何かはちんぷんかんぷんだが、永遠と続く。邪魔をしてはいけないので、静かにそこをあとにした。時々拝所にお詣りをしている人を見かける。通りすがりに手を合わせる人も多い。
Senaga Hill Trench 瀬長丘陵 軍構築壕
瀬長拝所の前の道路の向こう側の丘陵にも旧日本軍の壕があったそうだ。日本軍歩兵第22連隊第 1大隊第 1中隊が配備されていた。実際にこの壕が使われていたのかは不明。沖縄戦の始まる前に、日本軍は米軍がここの海岸に上陸するのではないかの想定で、瀬長島や予根、糸満にも多くの軍事拠点を置いていた。結局、米軍上陸は本島の北谷になり、この地に駐屯していた日本軍は首里方面に移動していった。
Akasachi Forest Trench 赤崎 (アカサチ) 森壕
瀬長拝所ができる前に拝所になっていた赤崎 (アカサチ) 森にも歩兵第22連隊第一大隊によって構築された壕があったそうだ。森の中に入ったが、木が鬱蒼と茂り前に進む事が出来ず散策を断念。
インターネットに出ていた写真。現在は壕はコンクリートで塞がれて、進入不可となっている。
海中道路に入り、瀬長島に向かう。歩道も広く走りやすい。この記事の下に瀬長集落の変遷の地図を載せたのだが、その中で大正時代の地図 (左上) にはこの海中道路はなかったが、米軍が1945年に作成した地図 (右上) には既にこの海中道路が地図に現れている。終戦後間も無く造られたのだ。米軍にとって瀬長島が重要であったことがわかる。
この海中道路の向こうは那覇空港で、着陸機がこの海中道路の真上を降下してくる。那覇空港は自衛隊の航空基地にもなっており戦闘機も飛んでいる。
頻繁に民間機や戦闘機が離発着している。特に戦闘機の爆音は凄まじい。この地区に民家が少ないのはこのせいかもしれない。
真上を旅客機が飛んで行く
今度は自衛隊の戦闘機
Umikajima Terrace ウミカジテラス
瀬長島は観光地になっており、一周した限りでは民家は見当たらなかった。島の山頂にホテルがあり斜面がウミカジテラスというレストランや店舗が集まるモダンな場所になっていた。この瀬長島は、太古の時代、琉球の国を創ったアマミキヨの子、南海大神加那志 (ナンカイウフガミガナシ) が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥伝説が残っている。ウミカジテラスはこの南海大神加那志 (ナンカイウフガミガナシ) から名付けたのか?
海岸が綺麗だ
瀬長島は現在では若者向けの観光地になって洒落ているのだが、沖縄戦当時はここに日本軍の軍事拠点が置かれていた。島の南と北にそれぞれ海岸砲が一門づつ置かれ、丘陵地には高射砲が4門置かれていた。那覇の十・十空襲ではこの高射砲で米軍機に向けて応戦をしていた。島にこの様な軍事施設が置かれていたことにより、島の住民には退去命令が出されていた。集団での移動ではなく、各家族が本島の親戚などを頼り移っていっていた。徴兵で村の男たちが招集されたこともあり、村の管理機能は停止状態となっていた。このことが、疎開がうまくいかなかったことにつながる。住民の50名は山原に避難したが、まともな避難小屋には入れずに山間部奥地での生活となった。100名は南部糸満に避難。この南部に避難した住民の半数が犠牲となった。戦後、瀬長島は米軍那覇飛行場の施設の一部となり、米軍に接収され、収容所から解放された瀬長集落住民は故郷への帰参はできず、アガサチ森周辺の船無小原に米軍の廃材で住まいを作り生活を始めた。この瀬長集落の人々は戦争時から戦後も非常に苦しい生活を強いられ、沖縄でも非常に気の毒な集落だ。
Senaga Gusuku Castle Ruins 瀬長グスク
城跡は公園になっている。遺構のようなものは見つからなかった。この島は沖縄八景の一つに数えらていたが、沖縄戦の後、住民は島外退去させられ、米軍基地として接収され米海軍弾薬貯蔵基地となり、城跡などは殆ど破壊されてしまった。この地は太古の時代、琉球開闢の女神アマミキヨの子、南海大神加那志が最初にこの島に住み、そこから豊見城の世立てが始まったという豊見城発祥伝説が残っている。瀬長グスクは瀬長按司の居城で、三山時代の南山国に属していた。その後、瀬長按司は中山王に滅ぼされる。 地元では古くから島を別名アンジナと呼んでおり、按司のいる砂島がアジシナシマ (按司砂島) へ転訛し、それがアンジナになったと言われている。瀬長グスクの調査で遺物が多く見つかっており、年代が分かることと、浦添グスクや勝連グスク等大きなグスクで出土されている高麗瓦などが出土したことから、瀬長按司の地位も比較的高かったことが推測できる。
戦前はグスク跡にはその構造がわかるぐらい石積みなどが残っていたが、沖縄戦直後、米軍基地の建設でほとんどが破壊されて、現在では遺構は残っていない状態。グスク跡の南側斜面に波平井 (ハンジャガー) という拝所が残っている。
ここからも飛行機の着陸が間近で見れる。望遠レンズを付けた一眼レフカメラを下げた人が多くいる。この飛行機を目当てに来ているのだ。
Memorial Monument of 300th year Birth of Heshikiya Chobin 平敷屋朝敏生誕300年記念顕彰碑
公園内に平敷屋朝敏生誕300年記念顕彰碑がある。平敷屋朝敏 (へしきや ちょうびん) は尚敬王のとき蔡温が国政を牛耳っていた時代の平敷屋の脇地頭 (親雲上) であった。当時、首里王府の蔡温を批判した文を薩摩在番奉行に投げ入れ、捕らえられ、安謝港近くにて磔刑に処せられた。和歌や琉歌にすぐれ多くの著作を残している。男女の恋愛を題材とした組踊「手水の縁 (てみずのえん、ティミジヌイン)」の一幕も、瀬長島が舞台設定になっている。この縁でここに碑が建てられている。
Ishi-iri 子宝岩
子宝岩とは沖縄戦前までは島の南西海岸近くの海の中に立っていた岩で、子どもを授かりたい人が願掛けに訪れていた。地元ではイシイリーと呼ばれ、「石入れ」と書く。米軍が海中道路建設で撤去されていたが、平成26年 (2014) 写真などを元にして再現されている。岩には二つの穴があいており、その穴に向かって子宝祈願をする人が石を投げ、上の穴に入ったら男の子、下の穴に入ったら女の子が授かるといわれている。
ここからも飛行機が見える。スマートフォンで撮っても着陸用のタイヤがはっきりと見える。実際にはもっと大きく見えている。
ここでこんな看板があった。ハブに注意の看板は良く見かけるのだが、沖縄ではカニも危険なのか?!(毎年、自動車で多くのカニの死者が出ているのだろうか、カニでスリップ事故があるのだろうか)
瀬長島を後にして那覇への帰途に着く。まだ那覇でひとつだけ行っていない史跡がある。この近くなので寄ってみる。
10月3日にここを訪れた後、瀬長について色々と調べると、瀬長島の中に幾つも拝所があるという。もともとあったものなのか、米軍が撤退したのちに住民に再建されたのかは分からなかった。再度、訪問してこれらの拝所を見てみたい。
我那覇集落 (がなは、ガナハ)- 2020年7月25日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 34 (25/07/20) 豊見城市 (19) Ganaha Hamlet 我那覇集落」に集約
名嘉地集落 (なかち、ナカチ、ナーカチ) - 2020年7月25日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 34 (25/07/20) 豊見城市 (20) Nakachi Hamlet 名嘉地集落」に集約
田頭集落 (たがみ、タガミ)
これで瀬長集落の訪問は終了し、帰路につく。途中に那覇市の文化財跡があるので立ち寄る。
Former Gushi Signal Fire Site 具志火立所跡 (那覇市)
琉球王朝時代に船舶の帰航・来航を首里城に伝える烽火台跡。首里の標高170mの所に火立毛を以前に訪れていたので、てっきり、かなりの高台にあると思っていたら、ここは海岸線の平坦地にあった。
質問事項
- 字瀬長の人口は沖縄戦当時と比べてもそれほど増えていない。この理由は?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
- ぐすく 沖縄本島及び周辺離島1
豊見城村史
第8節 字瀨長
太平洋戦争後、瀬長部落は本島内字田頭の西方アカサチ森の東側に移動したが、戦前は瀬長島に部落はあった。 瀬長島は豊見城村 (間切) の世立ち初めにアマミキヨの子、南海大神加那志が住んだ所で、この人の骨は瀬長城の下穴に埋葬されていること、またその後に神世四代豊見城大神加那志の骨は瀬長城の上の穴に埋葬せられていることは既に述べたところである (第二章第一節豊見城村の開闢)。
その後は瀬長大神加那志が継いだようであるがそれ以後は不明である。この人は瀬長公芳の獄 (城内の獄) の上黒石の下に埋葬せられている。
瀬長島と港
瀬長島は面積1.23平方(0.08平方里)、周囲1,527米の小島であるため、漁業による生業では多くの人口は収容できないので、この島を足場にして本島に移住する所にしたのだろう。また瀬長島の西方の海は入江に なっていて、昔はりっぱな港であっただろうと思われます。それでこの港から日本本土中国等との貿易をしたと考えられ、また城を築いてここを守ったと思われる。 瀬長城の由来については城跡の所 (第十章第一節) に記載してあります。
鳥鳴かん島
瀬長島は昔は一名鶏鳴かん島 (といなかんしま) と称していた。鶏を飼うと必ずハブが鶏を食べに山 (城) から下りて来た。昔からハプの多い島であったので鶏を飼わなかった。したがって鶏のなかない島であったのである。これについては次のような伝説がある。
仲風節 平敷屋朝敏作詞
かたてくいれ こひわたら
うき世鳥なかなぬ しまのあらば
この歌は瀬長島をかけて歌ったものだという。平敷屋朝敏が渡地から垣花に渡るとき渡し舟の中にきれいな娘が数人同じく乗り合せていた。朝敏がどこの娘さん達かとたずねたら、娘達は鳥なかん島ですよと答えた。瀬長島は昔から美人が生れる島だといわれているのでこの娘達はよほど朝敏の目をひいたのであろう。それで仲風の歌詞が生れたといわれています。
瀬長島はまたアンジナとも称した。これは砂島の上に丘があり、そこに瀬長按司が城をかまえたので、按司のいる砂島から転じてアジシナジマ、それからアンジナになったのだろうと思われます。
注 明治三十六年前までは渡地と垣花を渡し舟で往復し、明治36年に南北明治橋が島尻郡16ヵ町村組合の手で架設された。
拝所
この島は昔から島に災難が起る場合は広さ300坪以上もある池の水が、常々は清水であるが黄色ににごり、これを見て部落民が村事 (むらごと) として各拝所の神々にお祈りすると、不思議に二、三日で元の清水にかえるといわれている程、神の島であり、信仰の島とされている。
この島には左のような多くの拝所がある。
- アマミキヨを祭った天御人 (アマミツ) のお神、一名上のアマミツともいう。
- 竜宮継宮 (リュウグチング) の神、一名下のアマミツともいうが、豊漁であるように祈る所である。
- お城の御神、一名公芳のお嶽ともいう。
- 按司墓のお神 一本松の下にあった。(城に上るところ)。
- 根屋の御神 部落の中央坪川小の前
- 三様御殿 (ミサマウドン)、島の南の方下側にある。これは三人の墓でその一人は祖氏、一人は首氏、一人は不明であるが、祖先宝鑑より姓(氏)を調査したら以下となっている。しかしこの三検御殿の由来については今のところ知られていない。なお他の洞穴には戦いで死んだ多数の死骨が積まれていた。
授氏 姓名頭字 親類
祖氏 並 宮平掟親雲上
祖氏 良 比嘉、小谷、松島、高嶺良延、祖慶筑親雲上良薦
首氏 不 明
井泉 (拝所としての)
- ウッシ 御井 (ウカー) 島の南水際 (ミズギワ) にある、水豊富
- アジ 御井 按司墓の下、城の登り口一本松の下
- 知念 御井 南側水際にある
- ハンザ 御井 南側水際にある
由来記中に瀬長の嶽が記録されているが前記のお獄の御神がこれである。我那覇祝女が祭りをしたのであった。 この島は昔から沖縄八景の一つに数えられ、また瀬長物参 (むぬめー) や子宝岩で知られ、各方面からの参拝者が多かったが、戦後は軍用地となり立入りを禁止されたため、瀬長の人は本島のアカサチ森の下に各拝所を一まとめにしてつくり、島に向ってお通しをしている。今でも参拝者は多いようである。
世立ちと地組
瀬長の世立ちについて、千草之巻には「知念より来る久手堅大屋子在所」としてある。祖先宝鑑にもこの人については記されてない。ただ知念御井に関連のある人であることは確実だろう。 地組始めは千草之巻によれば「豊見城御神加那志の御子宜保大神在所」となっている。祖先宝鑑にもこの人については記されていない。豊見城大神加那志の御子が世立ち始めで、知念より来た人は地組をした人であろうと思われる。
現在の瀬長部落の祖先は坪川小、仲増、東利の三戸であって、我那覇部落より瀬長島で結構食えるからと移って行ったといわれている。瀬長城が落城して後あまり人が住まなかったが後になって右の人達は移って行ったものと考え られる。
戦後において瀬長の字民は瀬長島の対岸本島の水門の近くに部落をつくっていたが、1951年のルース台風の時 は死者12名重軽傷者多数を出したため、海岸からは少し上の方の現在の位置に移動したのである。