「日曜小説」 マンホールの中で 第三章 5
「日曜小説」 マンホールの中で
第三章 5
相手に対して自分がとるべき判断。その判断はどのようにして行うのか。
人間はだいたいの場合、自分の主観で物事を決める。自分のことを決めるときにはその判断でよいのかもしれない。その結果が少なくとも第一に自分に戻ってくるからである。しかし、他人を助ける、つまりその結果が他人に向くときに、自分は「主観」だけで判断してよいのであろうか。それが本当に助けるということでよいのであろうか。
善之助は、助けるときに自分が目が見えないなど自分の条件を付けて、次善の策を選ぶと言ってしまった。しかし、その「次善の策」は、相手にとって「本当に助かっている」ということになるのであろうか。その時の判断はどのようなものなのであろうか。
善之助は、黙り込んでしまった。今までならばこのようになれば必ず次郎吉が話に入ってきてくれたはずだ。しかし、今回は次郎吉もずっと黙っている。何があったのであろうか。
マンホールの中では、先ほどから、地上の消火活動が終わったのか、流れるような水の音ではなく、雫が水の上に落ちるポチョン・ポチョンという音が、時を刻むように響いていた。その音が、なぜか善之助の心に響き何か焦りを感じる。
本来ならば、時を刻むメトロノームのように、一定の間隔を置いた音というのは、時間の経過を示すとともに、リズムを一滴に刻むことで落ち着きが増すはずである。しかし、今善之助が置かれているような環境の下で一定の間隔で音がすると、なぜかかえって心が焦りを感じる。それが人間の心理なのかもしれない。もう、「人助けをするときの基準」とか「主観と相手の差」ではなく、何かほかのことでもよいので、何かこの沈黙を切り裂かなければ、このまま何かに取り込まれてしまうかのような不安を感じる。雫の音が一段一段階段を下る音に聞こえ、そして引き返すことのできない闇の底に連れていかれてしまうかのような、そんなカウントダウンの音に聞こえてくるのである。
「次郎吉、何か話すことはないのか。」
思いつめたように、善之助は声を出した。
「何かって、何を」
「いや、何かずっと黙っていると何か変な感じがしないか」
「爺さんが何か考えごとしているみたいだから黙っていたんだが」
まさにそうなのである。次郎吉は、善之助が考えていると思って「わざわざ」黙っていてくれたのである。それは「答えを教える」というような話ではなく、どうこたえてよいかわからないということや、善之助がどこで考えをやめているのかわからないということもあって、気を遣って黙っていたのかもしれない。つまり、次郎吉から見た善之助への「次善の策」であったのかもしれない。しかし、善之助にとっては、悩んでいること、考えていることよりも、いつの間にか雫が落ちる音が気になり、そして、考えが集中せず全く違う話になっていった。そして、次郎吉が「善之助は考えているに違いない」というような予想とは全く異なり、いつの間にか不安になってきていて、考えることなどは全くしていなかったのである。
「いや、そうか。」
「爺さん、何を言っているんだ」
「いや、実はさっきまでどうやったら相手も求めているもので自分も相手のためになるのか、つまり、自分の主観で相手を助けたつもりが、相手にとって迷惑かどうか、その時の基準は何なのかということを考えていたんだ。」
「ああ、そうだよ。だから爺さんが考えていると思って、何も言わなかったんだ」
「そうだ。次郎吉さんは、私がそれを深く考えていると思っていてくれた。それは、次郎吉さんの主観でしかなく、今までの話の流れからはそのようなことを言えるが、実際は全く異なることを考えていた」
「そうか」
「ああ、実際はあの水の滴る音を聞いて、何か恐れを感じていたんだ。そして沈黙を破らなければならないと思っていた。そうでなければ、徐々に闇の中に入って行って戻ってこれないかのような感覚になっていたんだ」
「爺さん、あんたは目が見えないんだから、闇の中から出ることはできないんじゃないか。まあ、あざ笑ったりはしないが、例えとしてはあまり良くないような気がするが」
次郎吉は、少し笑ったようだ。実際に、目が見えないことを「光を失う」という。しかし、その表現は目が見える人が目が見えない人の感覚をそのように表現したものであろう。善之助は目が見えないが、実際位は目を開いていれば、光の濃度やなんとなくぼやけた像は見える。もちろん、人間を見てもそれが人間であるというような形に見えない状態だが、しかし、そこに何かがあるということはわかる。それだけに、光を失ったという表現を聞けば実際とは異なるしその表現を使うことで、改めて次郎吉が、目が見えるということ、それも、このマンホールの中で目が効くということがわかる。
いずれにせよ、話がそれている。実際には、次郎吉が考えて気を遣って黙っていたことが、実際は、善之助の希望しているものとは異なるということになるのだ。
「次郎吉さん。まあ、話を戻すと、主観というのは、あくまでも主観であって、相手が本当に考えていることと、こちらが見ている相手とは異なる場合があるということなんだ」
「まあ、そうだね」
「何かわかっていたかのような話ではないか」
落ち着きを払った次郎吉の話は、すでにそのようなことは当たり前であるかのような話になっている。
「わからなかったのか。まあ、普通に生きている人にはわからないのかもしれない。我々泥棒は、人様の大事なものを盗むのが仕事だ。もちろん、盗むということが良いことかどうかは別だ。当然に、通常が盗まれたら困るし、また盗まれたくないと思う。それが普通だ」
「ああ、そうだ」
「しかし、盗まれて感謝しているという人もいるんだよ」
「盗まれて感謝」
「ああ、信じられないだろ」
どちらかといえば呆れたというような声を出している。まあ、盗まれてうれしいものならば捨てればよい。それをわざわざ人様に盗んでもらって感謝するというのはおかしな話だ。
「全くわからない」
善之助はそういった。
「例えば、資産家のおじいさんが大事にしているものがある。それが資産価値のあるものではなく、また管理の手間とコストがかかるようなものだ。子供や孫にとってはそのおじいさんが大事にしているものの価値がわからない。その時に、俺がそのものを盗むと、おじいさん本人が悲しんでも、子供や孫には感謝されるということになるんだ」
「なるほど、それはおじいさんと子供や孫との間に価値観の相違があるということだね」
「正解。要するに、物の価値というのは個人差があるということになる。泥棒がそういうものを盗むときは、うまく子供や孫と友達になると、仕事が楽になることがある。一方、うまくやらなければ子供や孫がそのものの価値に気づいて、かえって仕事をしにくくなることがある。その時の内容は、その子供や孫が主観を変えずにこちらに協力するように仕向けるかどうかということになるんだ。」
このように論理的に話す次郎吉の言葉を耳にしていると、あまり難しいことではないような気がする。しかし、実際に相手の価値観や主観を変えずに、こちらの主観に気づかれることなく近づいて、無意識のうちに泥棒の協力をさせるというのは難しいはずだ。次郎吉はそのようなことをしてきているのである。
「なるほど、そのためにはどうしたらよいのだ」
「そんなものは難しくはない。まあ、おじいさんには悪いが、その大事なものの価値を低くし、そしてそれを大事にしているということを年寄りの偏屈というように定義すればよいのだ。まあ、もちろん具体的には様々なことをしなければならないが、泥棒でもないし、今後泥棒になるわけでもない爺さんに、教えることもなかろう」
「ああ、泥棒になることもないし、また具体的に話を聞いても意味がないな」
善之助は即答した。まあ、確かに目が見えない善之助にとって、泥棒をするというのは無理な話だ。
「だろ。そのような時に見てみれば、当然に、自分の主観と相手の主観がすれ違うということがある。さっき爺さんが考えていた、主観で助けることが次善の策になるのかということとは同じではないか。」
「うむ」
「つまり、こっちの主観は泥棒するとか、あるいは物を盗むとか逆に相手を助けるとか、そういうような感じで自分の主観と価値観をもとに考える。そしてそれは、自分の置かれた環境や、感覚の継続性、思考の継続から導き出される。さっきの爺さんと同じように、そのまま考えているはずだとこちらは思って、他のことを考えているなどとは知らずに、そのまま話しかけないという選択肢を使った。しかし、実際は、俺から見た爺さんの中では全く異なる心の動きが起きており、そのために俺の考えとは全く異なったことが起きた。泥棒でも同じ、何か雑誌とかテレビ何か見て、そのものの価値がわかってしまった場合、継続性で考えているこちらとは全く異なる主観が相手の中で生まれていることになるんだ。」
「なるほど」
全くその通りだ。主観は環境と継続性、そして自分の個性による感覚で形作られる。しかし、それらのものが全く同じであっても同じ感覚、同じ結論に完全に一致することは少ない。幼いころからの経験が異なるからだ。そのうえ、別な環境の変化があれば、当然に主観が変わってくる。
善之助は改めて次郎吉のすごさがわかったような気がした。